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彷徨する自由帖

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随筆・創作

かつて花の蜜を吸っていたな、と思い出す

人間でも花の蜜を吸えるのだと教えてくれたのは祖母だった気がする。私は基本的にずっと預けられていて、たまにその後ろについて散歩に出掛けた。ちなみに、住んでいたのは「住所だけが都会」の結構な田舎である。かなり深い森があり、山があり、なんなら大…

夜にしか朝食を食べようと思えない

本を読んでいて、いかにも美味しそうだと思う食事の描写に出会うとき、作中の時間帯はだいたい朝なのだ。上で引用した「斜陽」の一場面もそう。満開の山桜が見える窓際に座り、かず子と母はスープと、海苔で包んだおむすびを食べている。そのスープというの…

路上で話しかけてくる怪異

振り返れば大学を辞める頃まで、国内にいても、国外にいても、よく宗教の勧誘をされた。記憶に残っている中で最も古いのは、高校生時代。某駅の改札前、広告の貼られた四角い柱のところで友人を待っていたら(多分このとき、制服を着ていたと思う)若い二人…

黄色い家(暖炉のある)

冬、暖炉のある場所でまとまった日数を過ごした経験は、過去に一度しかない。けれどその感覚がすっかり心身に刻まれてしまったのか、新しく季節が巡ってくるたびに、暖炉の存在しない冬はまるっきり嘘であるかのような錯覚をおぼえるから不思議。だから、己…

ガラスの山を飼っている

ガラスの山といえば、脳裏に浮かぶのは昔話である。それも、ヨーロッパの各地に残る類の。有名なのはグリム兄弟が収集した童話や、ノルウェーの童話に登場するものだと思うが、私にとっては子供の頃に買い与えられた偕成社の本(学年別・新おはなし文庫の一…

石像について / 石になった君を

緑の枠の窓を開けるとき、できれば忘れていたいのに、嫌でもそれが視界に入る。小さな家の中庭。石になった君を眺めて、すっかり枯れてしまった涙をふたたび飲み込んだ。喉の奥のところがひきつれてしびれたようになる。陽はこうして昇ったのに、その透明な…

「人生は自分の手で書き換えられる物語」という一種の信仰

人間が生まれてから死ぬまでの道程を書物や映画に見立てるのは、現在、それほど珍しい考え方ではなくなった。むしろ比較的よく使われる表現にもなっている。一体いつ頃から一般に受け入れられたのか定かでないが、どこかの地点で始まり、いつかは終わりを迎…

本館と新館が隣り合う、銀座アパートメント:奥野ビル

画室の外に出て玄関の扉を閉ざし、横を見れば、いま閉めたのと全く同じ色と形をした四角い扉があった。これをそっくりそのまま、密かに入れ替えてみても、きっと誰にも気が付かれないだろう。だからふと、まるで「自分の姿だけ映らない鏡」がそこに置いてあ…

あまりに貴族的な生活:台所に塩と砂糖と香辛料と茶葉がある

昔は塩が金に匹敵するほどの価値を持っていたのだと学んだとき、幼い私は理由を確かめる前に内心で深くうなずき、納得した。だって、こんなにも見た目が鉱石に似ている。小児科の待合室に置いてある図鑑で見た、あの石英の柱を、台所で唸り声を上げるミキサ…

オーレ・ルゲイエ兄弟との戯れ

// はてなブログ10周年特別お題「10年で変わったこと・変わらなかったこと」 むやみに抵抗するのをやめた。 その柔らかい、見えざる空気の手のような、ふとした瞬間に眉間と側頭部を撫でまわしてくる強い眠気に対して。 特に休みの日は少しも抗わない。ただ…

蜘蛛がだんだん大きくなる(ような気がする)/ 26歳の誕生日

何かに没頭すること、またはその様子を指して、慣用的に「時間を忘れる」と表現する場合がある。「集中していたら、いつの間にか時計の針が円を半周していた。すっかり時間を忘れていた」……のような具合に。けれどもしもほんとうに時間を忘れるなんてことが…

丘をふたつ越えて鉄道駅まで

一歩ずつ坂を上りながら、まるで深皿の底にあるような場所だな、と思う。普段自分の暮らしているところは。まあまあ高さのある丘に、四方を囲まれている。外へ出るにはそれを越えなくてはならない。丘のてっぺん、皿のふちに立って内側を見下ろすと、ちょう…

緑色の袖の君に焦がれて - 電話の保留音 グリーンスリーヴス

勤務中、一日に一度は必ず、言い知れぬ切なさと正体不明の愛情で、心をきつく締め付けられる羽目になる。自分には全く関係のない時代、関係のない場所の風景、そして関係のない「はず」の、誰かの姿がぼんやり浮かんで。これもすべて、ある歌のせいだ。緑色…

トナカイ肉の味が忘れられない

暑さがしぶとく居座る夏の終わり、アスファルトの隙間から生えた雑草の先が足に当たるほど伸びている時期には、不意にトナカイ肉の味を思い出す。服の下で汗が背中を伝う瞬間、とりわけ鮮明に。初めて食べたのは、ここからは遠い北方にある国だった。旅行中…

夢の日記:レストラン気仙沼

塗装がはげかけてくすんだ青色の看板に「レストラン気仙沼」と白く抜かれた文字がある。か細く寂しい感じのする文字の形、そのすぐ下に小さく、筆記体のアルファベットでRestaurant Kesen’numaとも書かれていた。温泉地の商店街にある喫茶店のような佇まいで…

渡り鳥みたいに移動する遊園地・ロンドン

数々のお話に出てくるサーカスや芝居小屋は、決まって怪しく魅力的だった。すべての興行が終われば忽然といなくなる。開催期間のあいだだけ、そこにいる。街の片隅に発生した蜃気楼みたいな性質も、そんな一時的かつ限定的な存在のおもしろさを強調している…

方丈記、夏目漱石、テムズ川:都に暮らす

寝台に横たわったまま耳を澄ました。雨の音も、風の音も聞こえない。それでいて休講日である。首だけを動かしてカーテンのわずかな隙間から外をうかがい、どうやらよく晴れているらしいと天候を把握した瞬間、嬉しさでにわかに働き出した心が身体に外出の支…

瞬間が保存されて永遠になる - 人生最大のトラウマを言語化する試み

「あなたはこの世界に必要な人だと思う」と言われたことがある。次の瞬間、思考も感覚もすべてが真っ白になった。固く握りしめた拳……いや、そんなに生やさしいものじゃない。まるで鉄製のハンマーのようなもので、薄く透明なガラスに覆われた時計の文字盤を…

誰かそこにいますか?

おそらく接触する人間の9割には「こいつが何を言っているのかも、何を言いたいのかもぜんぜん分からない」と思われているだろう。けっしてあからさまではなくても、相手から言外にそう示されればきちんと伝わってくるし、その実感は年齢を重ねるごとにますま…

あなた(たち)のいない世界はつまらない

// 尊敬する人とは別の時代に生まれてしまったり、とても大切な人と疎遠になったりしたことのない人間には、絶対に理解できないであろう感覚のこと。 読み終わった本を閉じて、表紙の著者名をじっと見る。 さながら漢字の一画一画を、瞳孔から伸ばした細い筆…

喫茶店随想(2) 万全なプリンアラモード

銀色のものと透明なガラスのもの、素材はどちらでも構わないけれど、その形は必ずカヌーを思わせる横長であってほしい。また中央下部から脚が一本伸びて、机の面よりも幾分か高い位置に積載物がくるとなおよい。これでこそ、という感じがする。プリンアラモ…

喫茶店随想(1) ゆで卵の殻をむく

旅行先で、早朝に大きな駅の地下道を歩いていると、まったく異なる二つの時間が同じ空間に流れているようでおもしろい。このときは、友達と名古屋の「メイチカ」にいた。出勤か出張なのかは定かでないが、急ぎ足とは言わないまでも左右交互によどみなく足を…

エンドロールの後に用意されたおまけの映像、さらにその先の先、みたいな日々を過ごす不思議な感覚

このお話はもう完結して、きちんと区切りがついた。だというのに一体いつから、また、どこから新しい流れが始まっていたのかが、全然分からない。そんな感覚をおぼえる時がある。「お話」が指しているものが、他ならぬ己の人生であるのにもかかわらず。いや…

夜のコーヒーゼリー

// 江崎グリコ株式会社から販売されている、「カフェゼリー」という商品名のコーヒーゼリー。 昭和54(1979)年にはじめて登場し、その後2015年にリニューアルされてからも生産が続いている、40年以上のロングセラーらしい。私は偶然にも冷蔵庫を覗いたらこれ…

「特別」

私達はかつて、毎朝のように闇市を開いていた。上から許可されていない、語義通りのブラックなマーケットだ。具体的には「シール交換」という。幼稚園の送迎バスの座席に座り、平たい鞄のふたの裏に貼り付けたそれらを互いに見定め、いつも声を低くして交渉…

窓の適切な開け方 / 鞄の底は小銭だらけ

欠陥の多い人間の性質を、如実に反映する生活の一幕。私が窓という建具の適切な扱い方、要するに正しい開け方(と表現しても差し支えないものか、どうか)を知ったのは、一体いつ頃のことだっただろうか。記憶を辿れるだけの期間さかのぼってみると、高校に…

必要以上に残酷な気持ちになるとき

机に頬杖をついて、瞼を閉じ、足先から床へと沈み込んでいきそうな感覚に溺れながら心中で呟く。私は別に、あなた個人のことが嫌いなのではなく、どうしてもこの世界を好きになれないだけなのだと。だから時折、ひどく残酷な気持ちになる。傷つけたいとも思…

人工的なフルーツの味と色に惹かれてやまない

胸に強烈なノスタルジアを喚起するものとして、各種ソーダ水とか、駄菓子屋によく置いてあった四角いくだものグミとか、そういった色とりどりの飲み物やお菓子が挙げられる。まず目を引くのは彼らの外見だろう。思い浮かべるのは、よく喫茶店のガラス棚の隅…

旅行とビジネスホテルと私

「予約している○○と申しますけれども」「はい、お待ちしておりました」……このやり取りが懐かしく、恋しい。知らない土地、あるいは知らない国。ひとりの知己もおらず、まったく馴染みのない場所で、私は正しく途方に暮れている。目的は、たぶんある。現地で…

酒入りの洋菓子、あるいはキス / 気難しい相棒としての万年筆

雨は地面に潤いをもたらすかたわら、私からは色々なものを奪っていくようだ。外出先で突然降られた時などは特に。冷たい水滴が叩く頭髪や顔、徐々に湿って重たくなる上着……そうして増えた質量のぶんだけ、体温と一緒に何かが失われていく気がしてならない。…