万全なプリンアラモード
銀色のものと透明なガラスのもの、素材はどちらでも構わないけれど、その形は必ずカヌーを思わせる横長であってほしい。また中央下部から脚が一本伸びて、机の面よりも幾分か高い位置に積載物がくるとなおよい。これでこそ、という感じがする。
プリンアラモードの器の話だ。
一般には、コルトンディッシュと呼ばれているらしい。
うさぎの耳を模して皮を残した林檎、薄い輪切りのキウイとバナナ、半月型の桃、ひとつずつ分けられた蜜柑のふさ。
色々な種類の果物が適切な大きさに整えられて、しかも一つの場所にきちんと揃っていると、私は安心する。すべてが万全の状態で用意されていることによる喜悦が胸を満たす。おそらくは、目の前に多様な選択肢があるという状態が理想なのだと思う。
個人的な印象を語るならば、プリンアラモードは実に献身的、かつ奉仕の精神に溢れた涙ぐましい食べ物だ。利己的なところがひとつもない。運ばれてきた器を前にして、細やかに問いかけられているような気分にすらなる。
まずこれはいかがですか。次は、こちらもどうですか。
この中から、どれか一つでもお気に召すものを見つけられるよう、たくさんの品物を少しずつ集めてきたんですよ。まずは一口、それに飽きたらまた別の部分をどうぞ。
……と、そんな具合に。
器の中央では王冠を連想させる生クリームと、そこにあしらわれた赤い宝石のようなサクランボに付随する茎が、天に伸びてささやかに存在を主張している。根元にあるカスタードプディングを示唆して。
柔らかなプディングの身体にスプーンを差し入れる際は、あっという間に消えてしまう小ささが儚い印象に拍車をかけて、いつも摂食への静かな高揚に包まれる。かすかに後を引くのは茶色いカラメルのほろ苦さばかり。
そうして空になった器の上に最後に残されるのが、たいていはサクランボの茎一本のみであるというのも気分がよく、やはり完成されていると思うのだ。
いつかの夏に、熱海銀座の「パインツリー」という喫茶店を訪れた。
緑色の保護カバーがかけられた古い椅子に腰掛け、連れ立った友達とたくさん個人的な話をした。ほどよく照明の落とされた店内では、ごく近い距離で向き合っているのにもかかわらず、相手の表情の細部が暗くぼかされていてとても落ち着く。その話題に適した光量というものがきっとあるのだろう。
他の客の声と、皿に食器が触れ合うたび立てる高い金属音、そして古いインベーダーゲームの機械から奏でられる独特のメロディが絡み合って、この場面のBGMになる。
私はメロンクリームソーダ、向かいに座った友達はプリンアラモードを所望した。
そのとき彼女が店員につけた注文が、「バナナを抜いてください」というものである。
なるほど、メニューに目を凝らせば、そこには典型的なスタイルを踏襲したプリンアラモードの写真が掲載されていて、確かにバナナの姿もあった。薄い三切れほどの果肉が重ねられ、器の端っこに寄せられている。
実際に運ばれてきたものからは彼女の要望通り、きちんとバナナが取り除かれていた。何の違和感もなく、そもそもこのメニューには最初から付属していないものであったかのように。
やっぱりプリンアラモードは献身的な食べ物だな、と私は嘆息する。利他的……とも表現するべきか。その有りようが、性質が、実のところ目の前の友人に被って見えて仕方がない。
まずこれはいかがですか。次は、こちらもどうですか。
たくさん用意しました。この中に、お気に召すものがあればいいんですけれど。まずは一口、それに飽きたらまた別の部分をどうぞ。
そんな風にきちんと先回りし、多様な選択肢を想定しておくことで、相手とのコミュニケーションを円滑にしている印象が彼女そっくりで。持ち合わせた性格というのもあるのだろうけれど、それでも常に気遣いを怠らず、準備を整えて過ごすのは疲れるだろう。
上で述べたように、私は万全の状態で用意されているプリンアラモードが好きである。
しかし目の前の友人は言うまでもなく親しい人間であるからして、たとえばコルトンディッシュではない謎の器にかたよった種類の果物ばかりが載せられ、生クリームもなく、プディングに至っては崩れているものを「プリンアラモードです」と言って雑に出されたとしても、普段は一向に差し支えないと思うようにしたいのだ。
もちろん限度というものはあるけれど、その範囲の内側では。
飲食店で注文をするのと、誰かと親交を深めるのとでは、意味も性質も天と地ほどに異なるわけなのだから。