緑の枠の窓を開けるとき、できれば忘れていたいのに、嫌でもそれが視界に入る。
小さな家の中庭。
石になった君を眺めて、すっかり枯れてしまった涙をふたたび飲み込んだ。
喉の奥のところがひきつれてしびれたようになる。陽はこうして昇ったのに、その透明な光と熱は奇妙になめらかな頬を包み込み、ただ撫で回して温めるだけで、元のように血の通った皮膚には戻してくれなかった。
けれど、こんなにも生命の感じに溢れているのだ。
君の表面に顔を近づけて、意識的に自分の瞼をひらくとわかる。瞳孔から伝わる。水の波紋のような大理石の紋様は、幾重にも絡み合う細い線と、その背景に重なり広がる絶妙な濃淡で構成されていて、何より人間の肌にそっくりだった。
雨の中、馬車の上で「疾く駆れ」と御者に叫んだ少女の頬を、「大理石脈に熱血跳る如くにて」と描写したのは森鴎外だったのを覚えている。石に例えられた少女は小説の中で確かに生きていたが、いま君はこうして石に変わって、果たして生きているのか死んでいるのかもわからない。
ずいぶんと、古い呪いの類なのだと聞いた。
丘の上に住む人たちにはよくある話だと一蹴され、湖のほとりに住む人たちからは、とても悲しい出来事だと慰められた。そして誰も、元に戻す方法を知らない。
実のところ、決して望んではいなかったのだとしても、私はこんな状況をよく思い浮かべていたものだ。
例えば誰かを好きになる。導き出した理由が、その人の表情や仕草、また、扱う言葉の種類に惹かれたから、であると仮定する。
それでは、何かの呪いでその人がすっかり石のようになってしまって、以前の表情や仕草が消えてしまったり、言葉を発したり綴ったりすることができなくなったら、どうなるのか。
一体、どうなるというのだろうか?
それをこうして実感させられている。本当に、欠片も望んでなどいないことを。
私という個体が別の——人間でも物でも、他の——存在を好ましく感じる時、あるいは嫌悪する時、ではその要因が一体何なのかを考えることが時折必要だった。正誤や善悪からは、ある程度きちんと切り離された場所で。
それでも自分が今いる場所に存在している以上、それらと完全には切り離せないことを認識しながらも。
私は、不意に表層へ浮かんでくる君の(いささかぎこちのない、人間を遠ざけるような)笑みや、靴紐を素早くむすぶ指先の器用さとか、気に入らないものをこき下ろすときの沈んだ声音や語彙の多さを、たぶんこよなく愛していた。
それらのすべてが失われたいま、では石になった君に対する思慕が溶けて消えてなくなってしまったのかと問われれば、答えは否だ。
だから、苦しい。
そうなると、愛すべき挙動をもはや見せなくなった石の塊を、私がこうして中庭に置いている理由が、単純に「回想の道具にするため」となってしまうからだ。
美しい記憶を喚起する装置として、そのためだけに保存されている石の塊。
私の愛した君というのは、きちんと生きて、動き、話す、そういう存在だったのだから、魂がその内側にあるかどうかもわからず、もはや君ではない石像に特別な感情を抱くとすれば、それはただ過去の幻影に心惹かれているにすぎない。
つまるところいまの私は君本人ではなく、君の形をした石でもなく、無機の石に刻まれた面影を通して蘇る「君の痕跡」をうっかり愛しかけているだけなのだ。持て余したその姿を中庭に放置して。
石に変わってしまった君というのは、すなわち元の君ではありえない。
ひとつの考えが頭に浮かぶ。そう、だからきっとこの呪いは解けないのだと思う。
一晩中眠れず、かつて君に惹かれた理由を追われるようにひたすら数え上げて、心の底から感じた。
明日にはきっと、その姿形によく似た石像を抱えて三階の書斎まで運び、在りし日は長椅子に並んで、共に午後の風を頬に受けた情景を胸に浮かべながら……幾度となく開け閉めした窓から……中庭へと放り投げることになるだろう。
そしてもう、粉々に砕けた石をいつかの君に戻せるかもしれないという可能性から解放されて、はじめて安らぎ、実に健全な忘却の中で——あらゆる忌憚のない無憂の眠りに落ちていく。
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はてなブログ 今週のお題「忘れたいこと」