太宰治の小説「斜陽」の中で、かず子は自分の母にこう言われる。
「かず子は、まだ、駄目なのね。朝御飯が一番おいしくなるようにならなければ」
(太宰治「斜陽」(2003) 新潮文庫 p.10)
朝に食事をするのを大義に感じている彼女に似て、私も起床してしばらくは、より正確には午前中いっぱい、ものを積極的に食べようという気にならない。
そもそも早くから何をする意欲も湧かない。
飽かず幾度もここに書いているように、朝、というものが苦手だった。
昔から、家では徹底的に早寝早起きの習慣を叩き込まれたのに、どういうわけか陽が落ちてからの方があらゆる活動に身が入る。
その確かな実感だけが生まれる前から内臓に刻まれているみたいで、いつも夕方になると、宵闇の訪れを待っていたとばかりに急速に頭が働き出す。
本を読んでいて、いかにも美味しそうだと思う食事の描写に出会うとき、作中の時間帯はだいたい朝なのだ。
上で引用した「斜陽」の一場面もそう。
満開の山桜が見える窓際に座り、かず子と母はスープと、海苔で包んだおむすびを食べている。そのスープというのが、米国からの配給で手に入れた、缶詰めのグリーンピースを裏ごしして作ったとろみのあるポタージュ。
ひらりひらり、と形容される軽やかな仕草でスプーンを操り、唇の間にスープを滑り込ませる母の描写が美しい。そこから、薄く塩味のついているであろう液体の、なめらかで少しざらついた舌触りまでもが克明に想像できてしまう。
そうしてお腹が空く。朝食の場面が描かれた文章を読んでいるだけで。
妙なことに、たとえば朝の通勤電車内でこれを読んでみても、特に食欲は刺激されない。決まって夜に、部屋でゆっくりページをめくっている時にだけ、朝食にこのスープを頂きたいと思う。
おかしな話だ。夜に、朝食を食べたいと思っている。
言い換えれば、夜にしか朝食を食べようと思えない。
もちろん、それはもはや、本来の意味での「朝食」ではないのかもしれないが……。
トンカツ・コロッケ・ライスカレーが3大洋食だと称された1922年頃から、急速に進んだ食生活の欧風化。白飯や五穀米にお味噌汁、お漬物はもちろん好きだけれど、私は幼少期からわりかし西洋料理にも心を惹かれるたちだった。
実際、ヨーロッパの島国に暮らしていた時期はしきりに日本のカレーやお寿司を食べたがり、こうして帰ってきた今は、現地ならではのローストビーフやシェパーズパイに対して食べたい思いを強く募らせている。
移り気で、なんとも都合の良い胃袋なのである。
閑話休題。
海の向こうのお話に出てくる朝食で好きなのは、例として挙げるなら、ほんのりパセリの香りがする半熟のスクランブルエッグや、縁に歯を立てると、サクサク硬い音がするくらいにしっかり焼かれたベーコン。
それから、惜しみなく良質なバターを練り込んで焼き上げたクロワッサンとか、アボカドのペーストにポーチドエッグを乗せて、オリーブオイルで風味を加え、胡椒を少し振りかけたトーストとか。
うん、全部とっても美味しそう。
たまに、この世界ではない場所が舞台となっている物語に触れると、架空の国や地域ならではの食材を使っている描写も出てきて、ますます楽しい。
飲み物の選択肢も多岐にわたる。
オレンジジュースやアップルジュースなら、朝食の席でグラスやカップに注がれるからこそ鼻まで届く、あの芳醇で爽やかな果実の香りが恋しくなる。
温かいコーヒー、あるいはカフェラテと、濃い目に煮出した紅茶にたっぷりの新鮮な牛乳を注ぐのもいい。
今、とってもお腹が空いている。
これを書いている夜中。そう、夜だ。
だから、朝ご飯を食べたい。今。
そして朝、いつものように起きて支度をし、出勤するのに家から駅までスタスタ歩いていても、絶対に朝食を取ろうなどという考えは私の頭に浮かばない。
朝はお腹が空かない。
時計の針が正午を過ぎるまで、何も食べたくないし、何もしたくない、とぼんやり思いながら、対人用(対社会用)とも呼べる方の人格に身体の制御を預けて、核となる「私」の側は、うとうとしながら太陽が傾くのを辛抱強く待っている。
うす暗い火点し頃になったら、ようやく自分の目がすっかり覚める時。