近代遺産
日本三大河川の一つに数えられる美しい長良川は、毎年5月から10月頃にかけて、伝統的な鵜飼(うかい)の行事が行われる舞台でもある。その静かな流れと深い青緑色には用が無くても足を止めざるを得ない。豪雨が降れば水位は増し、古来から災害を恐れてきた人…
// 没落した元華族のとある家庭と、そこにいた母、娘、息子それぞれの軌跡を描いた小説に「斜陽」がある。 終わるひとつの時代に、かず子の恋と革命と、直治の遺書。 昭和22(1947)年に新潮社から出版された。 これにちなんで太宰治の生家——旧津島家住宅は斜…
……リンリン、リリリン……リンリン、リリリン……リンリン、リリリリリリリリ……。電話という道具、通信の手段は、100年前に比べれば随分と身近になった。電波の届く場所でならほとんど、いつでも誰とでも会話できる便利な状況が、むしろ煩わしく感じられる程度に…
千葉県千葉市稲毛区、旧神谷伝兵衛稲毛別荘から歩いて数分のところに、旧武見家住宅がある。見学は無料で、所定の休館日を除けば年間を通して公開されている施設。現在は「千葉市ゆかりの家・いなげ」という名称で市に管理されている地域文化財。大正2(1913)…
令和5年現在、天鏡閣は年末年始であろうと関係なく「無休」で公開されているのがかなり意外だった。本当に年中無休。ここは会津若松に隣接する地域で、寒いとすっかり雪に閉ざされてしまう地域の印象があったため……。それでも、辿り着ける人は辿り着くのだろ…
これまで1度も歩いたことのなかった土地の数々へ、2022年も足を運んだ。「足を運んだ」というよりか「足を使って自分の身体をせっせと遠方へ運んだ」とも表現できる。各種公共交通機関や、乗用車の力を借りながら。まぁ別にどちらでも意味は変わらない。いつ…
外箱を裏返してこのお菓子の来歴を読んだ。どうやら、明治に開通した留萌(るもい)線がウロコダンゴの誕生する契機となったらしい。残念ながら赤字により、今後2023年から2026年にかけての段階的な廃線が決定している留萌本線だが、その始まりは明治43(1910…
あるとき東京上野を適当に散策していて、それは面白い洋館の前を通りかかった。黒っぽい下見板張りの外壁、欄干がある古風な上げ下げ窓の白く塗られた窓枠、破風のところにあるもうひとつの気になる窓。屋根裏部屋でもあるのだろうか。そして入口上部、まる…
津軽五所川原から津軽中里までは、乗用車以外の貴重な移動手段として、津軽鉄道線が走っている。その芦野公園の駅舎に、昭和5(1930)年開業当時から残る貴重な建物が今でも使われているのだった。2014(平成26)年12月には国の有形文化財にも登録されるに至る。…
寒冷な土地に行くほどそこに住む恒温動物の体が大きくなる傾向、ベルクマンの法則と、餌の豊富な熱帯地方でのびのび育った色鮮やかな虫たちのことなど、いまいち方向性の定まらない考え事をしながら眠ったら、あるときとんでもなく奇怪な夢を見てしまった。…
ブレーメンを目指した動物達のうち、ロバが覗き込んだ強盗の家を思い出す。外と内の差異を、他の時期よりもずっと強く意識する。冬はとても寒いので。自分がヨーロッパの隅で過ごした幾度かのクリスマスも脳裏に浮かんだ。だいたいは家族のいる場所に帰って…
大きなお屋敷の脇や裏を通る細い道では、きちんと黒猫の気持ちになって歩くのが通行の際のルール。背筋を伸ばし、心持ち爪先の方に体重をかけて、できるだけ軽やかに……まがりなりにも黒猫なのだから、決してよろめいたりはしないものだ。たとえ途中で、小さ…
飴玉。氷。寒天。それらに似ていて食欲をそそる、異常に美味しそうなもの。食欲というか「触欲」かもしれない。触りたくもなるので。国内に残る大正~昭和初期に建てられた邸宅などの建築物を巡っていて、ときどき出会うガラスのドアノブは、だいたい透明だ…
神居古潭駅は明治34(1901)年、北海道官設鉄道の簡易停車場(貫井停車場)として始まった。数年後に停車場へ、そして明治44(1911)年には一般駅に昇格して、貨物の取り扱いも開始される。やがて昭和44(1969)年9月に営業が終了するまで、無数の機関車がそのプラ…
この建物は旧旭川偕行社のもの。現在も偕行社という組織は存在するし、設立当時から地続きのものではあるが、第二次世界大戦以前と以後で性質は少々異なっている。「偕行」の語は、中国の古い詩篇「詩経」に登場する一節が由来とされているようだった。旧陸…
拠点にしていた旭川駅から妹背牛町まで来たのは、この「郷土館」に寄るためだった。茶色い板張りの壁、なめらかな緑色の屋根、そんな建物の入り口に掲げられているのは校章のような丸いもの。円と星に囲まれた「妹」の字は、妹背牛町をあらわす1文字なのだろ…
日帰りで、山形県の山寺、という場所に行ってきた。実は一緒に行こうと話していた友人がいたのだが、急遽、かなり面白い理由で当分先の予定まで隙間なく埋まってしまったとのことなので、いつも一人旅ばかりしている私は今回も変わらず、単独で目的地に足を…
大正4(1915)年に竣工、その2年後の同6(1917)年に内装も含めて落成した、旧島津家本邸。現在の清泉女子大学本館。年に数回のツアーによって内部を見学でき、この時も現役の学生の方が丁寧に案内して下さった。ジョサイア・コンドルの設計した建物は、彼がその…
ふたつの記事の続き。朝早く起床して、旅館の部屋から外に意識を向ければ、それはもう見事としか言いようのない美しい空模様。昨日のものとは大違いで、まさに「こういうやつ」が見たかったのだと頷いた。あの感じはあの感じでまた違った良さと風情ある雰囲…
数日前に古本屋で買った小説のうち一冊に、田辺聖子の「夜あけのさよなら」があった。今から45年以上前に刊行し文庫化された本。そしてその途中、上の引用にあるような、カットグラスのドアノブが颯爽と登場したのである。まるでどこかの角を勢いよく曲がっ…
水色に塗られた木の柱が交差する点を飾る、錆びた金属の持ち送り。組み合わされた図形のうち、円の部分をじっと見て、それが等間隔に並んでいるのを眺めていた。前の記事で述べた山の歴史館からこの渡り廊下を使って移動すると、そのまま大正8年に竣工した、…
これが「山の歴史館」の建物。もとは1900(明治33)年に建てられた木造建築で、御料局(ごりょうきょく)妻籠出張所庁舎、といった。御料局とは明治18(1885)年に宮内庁に設置された、皇室の領地を管轄するための部署のこと。のちに帝室林野管理局、また帝室林…
整っている。あまりにも、顔が良い。これが第一の感想。そもそも南木曽に来た理由の筆頭は、付近にある福沢桃介記念館を訪問することであり、この橋の方はそのおまけくらいに考えていた。ところがどっこい。桃介橋、素晴らしいじゃん。こん……っなに造形が整…
目黒にある東京都庭園美術館では、毎年「建物公開展」が開催されている。美術館と名付けられ、通常は展示物を引き立てる空間として機能しているこの旧朝香宮邸の、建築様式や内装といった建物自体に着目するための企画。作品保護のために閉め切られていた窓…
東海館は昭和3(1928)年、稲葉安太郎という人物によって創業された温泉旅館であった。彼は伊東の材木商。それもあってか、館内の各所に使われている木やその加工には確かなこだわりを感じるし、増築時にはわざわざ各階の意匠を評判のよい棟梁へ依頼しているよ…
目黒駅より徒歩数分。ホテル雅叙園の「百段階段」は昭和10(1935)年に完成した、敷地内に現存する中では最も古い、唯一の木造建築。正式には、ホテルの前身である「目黒雅叙園3号館」のことを指す。料亭の明朗会計を売りにした雅叙園は、細川力蔵とその相棒、…
大正期に建造された洋館付きの日本家屋は、時に文化住宅と呼ばれる。近代の文明開化期において、「文化」という言葉が最新だとか、あるいは先進的だとかいう意味も兼ねて使われていた頃の影響で。東京は台東区上野、池之端の三段坂に面する岩田邸は、和館部…
えの木ていは近代の西洋館を利用した洋菓子店で、予約すれば2階の個室を貸し切りにでき、何にも気兼ねすることのない空間でアフタヌーンティーが楽しめる稀有な場所。ふつうに西洋館の一角でティータイムを、というのももちろん良いが、部屋自体を貸し切ると…
今回は運良く、以前から入ってみたいと渇望していた客室、本館西棟の「あららぎ」に滞在することができた。横手館内でも最も格調高いとされている美しい部屋。値段は他の西棟の客室と特に変わらないため、偶然にも割り当てられたら、建物好きとしては実に嬉…
宮本百合子、高村光太郎、森鴎外。他にも数々の文化人にゆかりある千駄木の土地には、戦前に建てられ、空襲被害や倒壊を免れて今でも建っている住宅が多くある。そのうち島薗家住宅は昭和7(1932)年に竣工した個人邸であり、先の5月1日はその一部、和館の部分…