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彷徨する自由帖

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「人生は自分の手で書き換えられる物語」という一種の信仰

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 人間が生まれてから死ぬまでの道程を書物や映画に見立てるのは、現在、それほど珍しい考え方ではなくなった。むしろ比較的よく使われる表現にもなっている。

 

 一体いつ頃から一般に受け入れられたのか定かでないが、どこかの地点で始まり、いつかは終わりを迎える生の軌跡をひとつの物語のようだと捉えるのは、別段奇妙なことでも何でもないだろう。

 自他の人生に対してそういった考えを抱く行為、それ自体にはさしたる問題も見つからないと個人的に思う。もちろん、外部に無理やり押し付けないかぎりは。

 私も特に昔は、己の行動次第でこの先の展開を変えられるのだ、という思想に染まることが、日々前を向くためのよすがになっていた時期もあった。まだ幼い頃の話だ。

 

 留意しておきたいのは、ではいざ実際にある物語を作るとなると、かなりの準備と試行錯誤が不可欠な部分である。しかし人生にはそれが、ない。己の意思ではなく、何者かによって突然誕生させられ、舞台上に立たされ、生存の実践を余儀なくされる。

 このことの是非については今記事で言及するつもりはないため、単純に事実として述べておくにとどめる。

 また、一切の構想なしに執筆や製作が行われ、それでも物語として成立する性質を持った優れた作品もあるが、それらをここでは除外する。例えを分かりやすくするために、便宜上その形式は「一冊の本」だとしておきたい。

 

 人生。その真っ白なページへ半ば自動的に投げ込まれる要素を、どうにかして選別したり、あるいは自らが必要だと判断したものをすかさず上から書き込んだりと、執筆作業はかなりの重労働だ。

 確かに、この手が筋書きに少なからず影響を与えることができるのは、時に興味深く面白いかもしれない。たとえ全てが思い通りになるわけではないとしても。

 想定する理想の物語を編み上げるのに、与えられた材料が不足していようと、ペンに補充されたインクの残量がひとりずつ異なっていようと。書き続けることに意味があるのだという信仰を胸に抱くことができれば、艱難辛苦は些事に変わる。

 自分の行動は何らかの良い変化を未来にもたらすことができていると、どこまでも強く思い込めれば。

 

 しかし厄介なのは、そこに「書き損じたページに関してはどう処理すればいいのか」という永劫に解決できない問題が横たわっている事実。

 

 忘れてしまわないよう繰り返すが、今記事では「人生をひとつの物語として捉え、その展開には自分の手で変更を加えることができる」と信じる意識について書いている。

 誤って妙なものを書き散らしてしまったページ、インクを垂らしてシミにしてしまったページ、後で読み返したら整合性に欠けるページ。それらは物語にとって不要なものだ。放置しておくと作品として成立しなくなり、完成度にも影響する。

 もしも人生が一冊の本ならば。

 だが、過去は決して取り除けない。

 間違った行動も、晒した醜態も、束ねられた紙束から引き抜いて破り捨ててしまうのは不可能なのである。たとえ宝刀を引き抜くように揚々と「過去から学ぶ」を実行して、先に広がる展開をある程度操作できたとしても、「過去を消して書き直す」ことはできない。

 

 それに気が付いたとき、著しい無力感と不快感をおぼえる。

 生まれてからというもの、絶えず筆を走らせているこの未完成の(しかもひどく汚れている)本は何だろうと思い、マッチのひと磨りで全編を荼毘に付してしまいたくなる。

 何度でも練り直し、書き換えられるのが物語を綴る面白さの一端であるはずなのに、実際は未来にあたる部分を馬鹿みたいに単純に書き足していくしかないとは……。

 

 上記を踏まえたうえで認めなくてはならないのは、当然ながら生身の人間の人生は、作品としての一冊の本にはなり得ないということだ。

 それでは具体的に何なのかという問いに明確な答えを出すのは誰にもできないが、とにかく人生は人生であり、何らかの物語ではなさそうだと言うことしかできない。どうしても分からないのだから。

 するとさらなる疑念が胸に湧く。

 人生は物語ではない。ならば、なぜ「人生をある種の筋書きに見立てたとき、展開は自分の働き次第でいくらでも書き換えられる」というかなり独特の思想は、一般の人々にひろく受け入れられているのだろうか。

 昔の自分にも聞いてみたい。この考え方が好き? あるいは信じられる? きちんと考えればそれは無理なのだとはっきり理解できる言い分を、全ての疑問を捨てて「信仰」できるのか——?

 

 本当に人生が一冊の本ならば、どれほど良かったか。私は自分の出生日から命日に至るまで、全ての要素を意に沿うように整え、日々の中で経験する物事やそれによって形成される人格を決定したい。

 まずは大まかな物語の骨組みを作るだろう。そして、必要のありそうな資料を集める。そこから少しずつ理想の人間を描き出し、歩む道程の最適な地点で最適な出来事を発生させ、いつ読み返してもわくわくして満足できる、また納得できるお話を作ろうと試みる。

 不必要な要素はひとつも入れない。

 いちど書いた事柄でも、後に蛇足だと判断できれば綺麗に削る。忘れるのではなく、根本から存在しなかったことにする。だって、自分の人生だ。できるだけ望み通りにしたいのだ。それに喜びを感じる。

 もしもこれが他人の人生ならば、普段他人の創作物に対面するのと同じように、ただ黙ってページをめくるだろう。

 

 現実はそうではない。

 それゆえ毎日、起床した瞬間から一種の倦怠を感じる。人生というものの絶妙なつまらなさ。いくら楽しいことに身を投じていても、素晴らしい友人たちと会っていても、根源的な虚しさには特に影響を及ぼさない。

 生まれる。生きる。死ぬ。終わり。

 その合間合間で薬でも吸うようにして夢中になれるものを探し、意識をそこから逸らし、生き物という存在がどうして誕生するに至ったのか考えるのを止めようとする。しかし考えることを止めたら、止めてしまったら、果たして何が人間を人間たらしめることができるというのか。それほど価値を見出せない行為も他になかった。

 物事を考えないのならば死んだ方がましであろう。

 

 仮に「人生は一冊の本であり、自分の努力次第で書き換えられるのだ」と本当に本心から、曇りのない確信をもって思い込むことができたならば、きっと平たく言うところの幸福になれる。

 もちろん、盲目になるのと引き換えにして、だが。