会社へ行くのに歩道を歩いている。
暑さがしぶとく居座る夏の終わり、アスファルトの隙間から生えた雑草の先が足に当たるほど伸びている時期には、不意にトナカイ肉の味を思い出す。
服の下で汗が背中を伝う瞬間、とりわけ鮮明に。
初めて食べたのは、ここからは遠い北方にある国だった。
旅行中に立ち寄った、大聖堂のそばのテラス席で(そのお店にも大聖堂という名前がついていて)、外はとても日差しが強かった。
脳裏に浮かぶ、黒いトレイの上に整然と並べられた深皿、小皿、そして付け合わせになる野菜の配置。給仕がテーブルを離れてから、向かいに座った友達と同時に、好奇心を抑えられない目で運ばれてきた料理を覗き込んだ。
トナカイの肉を使ったシチュー。私たちにとっては珍しいものだ。
調理され、丁寧に加工されて提供に至る料理は——もとの材料が何であれ、どんな形をしていたのかを巧みに忘れさせるようで——心地がいい。安心を誘われる。
よく煮込まれた肉は想像以上に柔らかく、味が染みており、歯を立てたときには喜ばしい驚きが胸を占めた。いわゆる脂身が少なく締まった感じだけれど、けっして硬くない。
それでいて、牛や豚、鶏など慣れた動物の肉以外から受けがちなくせのある印象、一種の違和感も、ほとんどなかった。どこか爽やかなこくがあって。
横に添えられていた真っ赤なペーストは、リンゴンベリーのジャム。
日本ではコケモモと呼ばれる果物を使って作られたもの。この北の国では肉料理と一緒に食べるのが一般的らしく、口に入れればほどよい酸味と甘みが、トナカイ肉の繊維をにわかにほぐしていくようだった。
その、ジャムの状態になっても丸い実の形を完全には失わない果肉を見ていると、際立つ明瞭な赤が、想定外な生々しさと結びつく。
たとえば血液、肉体。有機物全般。
この料理が、かつては寒い森を駆けていた動物だったという当然の事実が、不必要に食事中の頭に浮かんで小川のように流れグルグルと回り始める。
記憶の中の私は、銀色のフォークを掴んでいた手をぴたりと止めた。
そうすると、記憶を覗き見ていた側の私の「意識」は歩みを止めずに、突然道を逸れて、身体とは全く別の方向へ勢いよく走り出した。靴も重い鞄も捨てて。低い鉄柵を超えた歩道の片側には、想像以上に深遠な木立が広がっていた。
探しに行きたいのだ。口の中にじわじわ唾液が溢れるのがわかる。
トナカイ肉の味が、忘れられないから。
実体のない意識だけの、心のみの状態で走る。
夏のはずなのに、周囲は薄暗く涼しかった。ここはまるで北の国の森みたいだ。たくさん針葉樹の生えた、乾いた空気の。樹木の表面の苔が凍り付いた霜のようにも見えた。
雄も雌も、ひとしく頭に大きな角を持つと聞く、四本脚の彼らを視界に探して地面を蹴る。もっと視界の開けたところ、そして、高いところへ向かわなくてはならない気がするのだ。より速く、音を立てずに、気付かれる前に。
その先に、本当に彼らの姿を見つけることができるのか。もしも見つけられたとして、私はどうするのだろうか。
わからないまま木々のあいだを駆け抜ける。
つめたい雪片を頬に受けて、目の前が急にひらけた。
一面に草が生え、ところどころに白いものが残る丘の上だ。遠くには、金属の板めいた鈍色の湖も見える。舞台がある。だからそれを借景として手前に、自分の想像の中に、大きな一頭のトナカイを描き出した。はやる気持ちで。そうして出現した存在と対峙する。
やがてもう一度踏み込んで跳躍し、蹄のひとつも動かそうとしない、その喉笛に嚙みついた。
仮に心だけになっても、手や足、頭、それから歯などは、もとの身体と同じように揃っているものらしい。顎に力を込めると、トナカイから温かな血が湧き出る。口の中に満ちていく違う味、その下の違う柔らかさ。
求めている思い出の中のあれとは全く異なる、文字通りに幻の肉——。
こういうことを考えながら外を歩いていると、あっという間に目的地に着いている。
そのころ身体の方はといえば、大通りに出たところで遭遇した信号に阻まれ、しばらく足を止めていた。向かいのビルが会社の所在地だ。
夏の終わりには、トナカイ肉の味を不意に思い出す。
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