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彷徨する自由帖

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黄色い家(暖炉のある)

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 冬、暖炉のある場所でまとまった日数を過ごした経験は、過去に一度しかない。けれどその感覚がすっかり心身に刻まれてしまったのか、新しく季節が巡ってくるたびに、暖炉の存在しない冬はまるっきり嘘であるかのような錯覚をおぼえるから不思議。

 だから、己の心象の図鑑や辞書に載っている「冬」の項目と、実際に肌で感じている冬とが見事に一致しないのだ。

 

 今いる此処よりも幾分か緯度の高い、寒い海に浮かぶ国。頭の中の私はその片田舎の黄色い家に入りたがっていて、本当に残念だけれど、春が来る前にころりと死ぬ。

 

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 ねえ、ただいま。帰ってきたよ。

 だから家に入れてよ。

 もしもこれが芝居であったなら次の台詞はきちんと決まっている。君は格子窓をこじ開けて、涙を流しながら私に「入っておいで」って言うんだ。20年分の万感を込めてね。

 前に貸した小説は、もう全部読んだかな?

 きちんとそういう流れになっていたでしょう?

 

 魔は、招待されなければ他人の家の敷居を勝手に跨げない。明確な意思とともに扉や窓がそっと開けられ、隙間からどうぞ、と言葉を囁かれないかぎり。家がどんなに無防備な状態でも、ひとつも鍵がかかっていなくても関係なく。

 それゆえ巧みに弁舌を振るって、壁の内側から投げかけられる「どうぞ」を、是が非でも住人から引き出さなくてはならない。

 石の積まれた壁の内側、暖炉の火がぱちぱちと弾けている部屋に入りたければ。

 

 雪の薄く積もる玄関ポーチに立って口を開く。半径数メートル以内に響く他の音は、すっかり鳴りを潜めてしまった。

 まるで、こちらの動向を陰から伺いながら、耳をそばだてているみたいだった。

 

 ねえ、私を家に入れなかったら、きっとすごく悪いことが起きるけれど、それでもいいの?

 眠っている間に屋根が落ちてきちゃうかもしれないよ。金色の小さなバケツを持って、一晩中このおうちの上に、周りから掬ってきた雪をかぶせ続けたって私は構わないんだよ。

 それか、私を家に入れればとても良いことがあるかもしれないのに、扉を閉ざしているつもり?

 鶏を丸焼きにするとき中に詰めるパースニップ、市場で買ってきたけど要らないのかな。もう、この寒空の下を買い物になんて出たくないでしょ。上げてくれるんだったら、いくらでも分けてあげるよ。

 暖かいおうちの中に入れてよ。「どうぞ」って言いなよ。

 扉を開けてよ。

 

 それでもいいの? は魔法の言葉だ。いい、を選んでも、よくない、を選んでも、相手の発言に一種の責任を生じさせる卑怯で便利な道具。

 休まず玄関先で騙り続ける途中、あの狼が子山羊の家の前でそうしたように、声を高くしたり低くしたりしてみた。合わせて話し方も変えて。それが相手の知っている誰かの声に似ていれば、思わず扉を開けて、親切に招き入れたい気分になるかもしれなかったから。

 喋りながらしばらくのあいだ、木と鉄でできた玄関扉ではなくて、脇の黄色い壁をじっと見ていた。この内側で美しく炎は燃えているはずだ。

 黄色い家というのはすなわち実現しない理想の生活の象徴なのだと、近代美術史に少なからず触れた者なら、誰でも知っている。

 

 今年の冬も駄目だった。

 朝が訪れ、骨まで冷たくなって玄関先に転がっているのを見ると、もう一人の自分とはいえなんだか可哀想になってくる。

 だから「また、入れてもらえなかったね。死んでないで帰るよ」って声を掛けに行くのだけれど、そうすると昔の私の方もむくりと起き上がって「まだ薪割りをしてないし、オーブンで鶏も焼いてない」と懲りずに主張してくるのだ。

 本当、いい加減にしてほしい。いらいらしたから、力を込めた拳で一発、殴った。

 死体の相手をするのも楽じゃない。

 

 速足で大通りを歩いているととにかく人が多くて、私は一人で(もう一人の自分と並んで一緒にいる、ややこしいが要するに一人であるということだ)、勝手に攻撃されたような気分になって、途方に暮れていた。自分で自分を殴るからそういうことになる。

 逃げ込んだ先の、見学可能な古い邸宅には偽物の食事とティーセット、蝋燭、寝台にチェンバロまで置いてあって、あまりの完璧さに眼が眩む。

 素晴らしい夢みたいだ、と思うし、それだけ現実の側が悪い夢に似ているのだと実感して、振り返った。こんなにも簡単に敷居を跨げてしまって、何もかもが馬鹿馬鹿しい。特段人には招かれておらず、けれどただ扉が開いていた、それだけのことで。

 でも、私は暖炉のある黄色い家に帰りたいのだった。