昔は塩が金に匹敵するほどの価値を持っていたのだと学んだとき、幼い私は理由を確かめる前に内心で深くうなずき、納得した。
だって、こんなにも見た目が鉱石に似ている。小児科の待合室に置いてある図鑑で見た、あの石英の柱を、台所で唸り声を上げるミキサーにかけて細かく砕いたみたいじゃないかといつも思っていたから。塩だけではなく、砂糖も同じように。
微細な粒は半透明で、きらきらと徒(いたずら)に光を反射していて、さじで掬うとなんとも言えない繊細な音を立てる。おまけにお湯に溶かすと一瞬で姿を消してしまう。在り方からして高貴な、どこか現実離れした存在。決して安いものであるはずがない——。
彼らが取引されていた背景や、食材の味を調える以外の用法について知るよりも先に私は、洞窟の奥に秘された宝物のような塩や砂糖を眺めては、自分の尺度で価値を付与していた。
それこそ、金と同じくらいに貴重なものであるのだと。
今ではきちんと理解している。
塩が特に古代から近世にかけて世界で重宝されてたのは、べつに見た目が儚く美しいからではなく、食材からよい味と香りを引き出すほか、腐敗を防ぎ保存を助ける面において役立ったのが大きな要因であること。
また、塩や砂糖といった調味料、それから胡椒をはじめとした香辛料類はかつて限られた場所でしか産出や栽培ができなかったため、入手できるのは一種の力の象徴であったからこそ、大航海時代には諸国が貿易でこぞって帆船を水上に走らせたのだという事実を。
1キログラム、約300円。
食塩を例として挙げるなら——もちろん商品の種類によって驚くほどに差があるが——2021年現在の日本で手頃なものを買おうと思えば、この程度の値段で手に入る。
台所に立つと眩暈がする。
かつてはごく限られた層の裕福な人間にしか贅沢に使えなかった代物が、近代以降こうして一般家庭のほとんどに普及しただけでなく、ときおり新聞などには「塩分の摂りすぎ」が生活習慣病を引き起こしているとの見出しが載るくらいなのだ。まったく、貴族的な生活だと思う。
訪問者が瞠目するような豪華絢爛な調度品も、手の込んだ整形庭園も私の家にはないし、使用人を抱えているわけでもない。しかしながらこれは、確かにむかしの書物に描かれていた、どこか遠い国の王様の暮らしにだって匹敵していると嘯きたくもなる。
金や象牙の玉座ではなく、ビニールレザー素材の回転椅子に座って快哉を叫ぶのだ。ここには塩だけじゃない、砂糖も胡椒も唐辛子も、ナツメグも、シナモンだってある!
17世紀にポルトガルの王女がイギリス王室に輿入れしたとき、彼女の持参したもののなかには砂糖があった。
いつか人々が喉から手が出るほど欲しがっていた物品を、私は何の苦もなく所有して、ためらわずに使うことができる……その僥倖の象徴こそが、自宅における調味料と香辛料である。
たとえ、陶器やガラスのきれいな容器に移し替えられていても、いなくても。
スーパーで買ったときのパッケージのままでも。
古来より貴重な薬として、あるいは贅沢品として扱われていたのは茶葉も同じ。
中国茶、緑茶、最近では紅茶好きが高じて産地ごとの茶葉の特徴を熱心に調べるうち、その歴史の木立により深く分け入る機会を得た。
時には、誰もが学校の授業で習うボストン茶会事件や、ある香水のテーマにもなった船の名なども通して紅茶の辿った道筋を追ってきたが、やはりそこには想像以上に権力と財が絡んでくる。国際関係もだ。
ふと古代、不老長寿の妙薬として、王侯貴族にしか飲むことを許されなかった未発酵の茶の味を空想した。大きな樹木の下、白い湯気の向こうに皇帝の顔がかすむ。
近世以降は茶葉を巡る権利のために戦乱が引き起こされたほか、インドの茶園事情は現在でも、イギリスによる植民地支配の時代と決して切り離せない。
調味料、香辛料、茶葉。
それらのすべてが今では簡単に手に入る事実がとても信じられない気持ちで、棚に数ある金属の缶のうちひとつを開け、しばらく台所に立ち尽くす。そうしてほのかに漂ってくる紅茶の香りが狭い空間を見たせば、やはり壁に寄りかかって、音にはせず虚空へ静かに叫びたくなるのだった。
この、あまりにも貴族的な生活!
いつか息を引き取る瞬間まで、最後まで、私はこれらに囲まれていたい。明日も起きたら一杯のおいしい紅茶を飲むことができると保証されている空間で、眠りたい。
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はてなブログ 今週のお題「叫びたい!」