尊敬する人とは別の時代に生まれてしまったり、とても大切な人と疎遠になったりしたことのない人間には、絶対に理解できないであろう感覚のこと。
読み終わった本を閉じて、表紙の著者名をじっと見る。
さながら漢字の一画一画を、瞳孔から伸ばした細い筆で注意深くなぞるように。印刷された数文字の形をきちんと網膜の表面に刻みつけるまで。
それだけでたとえようもない敬慕の念が絶え間なく胸に打ち寄せ、渦を巻いて込み上げてきて、喉のあたりがぐっと苦しくなった。……どうしてなのだろう。
過不足なく冷房の効いた部屋の、ぴっちり閉ざされた窓ガラスの向こうから、かすかに工事の音が聴こえる。クレーン、ハンマー、ドリルなど。3階から外を眺めてみても、立ち並ぶ家々の陰になっているからか、実際の現場は見つけられない。音の響く感じからして、比較的すぐ近くにあるはずなのに。
指は再びページを手繰って、視線は巻末に記載されている年表の最後に戻った。
大正5年没と。紛れもなく、過去の元号だ。
それでは本当に、真実、あなたはもうこの世界にはいないのですね、と心のなかで呟く。勿論はじめから理解していたことだった。だからといって、その事実を少しも悲しく思わないわけでは、決してない。
もしもあなたが生きていてくれたのならば、ただそれだけで、私はどれほど慰められたか分からない。あるいは一般に言われる希望というものすら持てたかもしれない。
けれどここにあるのは、いま自分が生きている場所にはいるべき人がおらず、あるべきものもない世界である、という実感だ。だから本に綴じられ、著作として残された言葉をひたすら咀嚼して、ずっと精神の飢えをしのいでいる。
その意味が、分からない。
上のように特定の偉人に限った話ではない。
これまでの人生を通して、本当に仲が良く頻繁に言葉を交わしていたのに、また長らく側にいたのに、なぜかいつのまにか疎遠になってしまった人たち。特筆すべき諍いはなく、だから決別もなかったのにもかかわらず。
あなたと、あなたと、あなた。それから、あなたも。あなたたち皆。
違う顔をいくつでも脳裏に浮かべることができる。
長い旅行から帰ってきて、あるいは新聞のとある面を読んでいて。
ねぇ、君はこれってどう思う? と気軽に尋ねたい人が自分の近くにいない事実に気が付き、唖然とする瞬間がある。反射的に嘘だと思う。ベランダに飛び出して発狂したくなる。顔を上げたら、あれだけ満開だった花瓶の花が、すべて忽然と消えていたみたいな気持ちになって。
一体どうしてなのだろう。あなた(たち)が今どこにいるのか知らないし、果たして何をしているのかも、一切知らない。会えもしない。要するに、死んでしまったのとまったく同じということだ。
でも、そんなのは間違っている。そうでしょう。
互いが実際に立っている場所は大きく異なれど、その心が、精神が、適切な距離をもって寄り添っていた状況こそが、私たちの「正解」だったでしょう。だから、この世界の側が間違っている。
あなたはどう感じているのですか?
それを直接、尋ねたい。以前のように。
昇降口の脇で放課後に、あるいは部活の休憩中に周囲の目を盗んで、また休日には最寄りから数駅離れた映画館までわざわざ出掛け、帰りにどんなことでも好きなだけ語り合ったように。ふたりともしばらく別の、遠く離れた国で暮らしていた数年間の思い出を、机の上いっぱいに並べてみた時みたいに。
現在とは違い、あるべきものが、きちんとあるべき場所に存在していた頃。
他でもないあなたの意見だからそれを耳に入れたいのに、私の人生には絶対に必要な存在なのに、どうしてここにいないんですか。一体、どこに行ってしまったのですかと聞きたい。
時折、あなた(たち)の存在する世界とそうではない世界をみんな横一列に並べて、見比べてみる。何度でも飽かずに繰り返して。
精彩を欠いたと判断したものから順番に割っていく。必要なものの揃っていない世界、ゆえに間違っている世界、最後に残るのが自分のいる場所で、そこにだけはどう頑張っても外側から触れられないのだった。ばらばらの破片が足元へと無為に散らばるばかり。
それを、徒労という。
いま、私があなたのいない世界で生きているということは、つまりあなたの方も私のいない世界で生きている、ということだ。
こんにちは。
もう何年もお会いしていませんし、声も聞けていませんね。
最近の調子はいかがですか?
形をとどめなくなった破片に向かって問いかける。君は、私のいる世界よりも、いない世界の方が好きですか。そこで以前と変わらず、楽しくやっていけていますか。そうですか。
私は、努力すればするほどに退屈です。
なぜなら、愛するあなた(たち)が皆、ここにいないから。