随筆・創作
試みが全部裏目に出てうまくいかないことが多く、自分自身の未来や世の行く末に対して、希望などの明るい展望をこれといって見出せないでいるとき。暗い気分というより、まったくの空白、虚無。そういう、どちらかというと諦念を抱いて投げやりな意識を持っ…
いにしえの時代から仕舞いっぱなしのものと、比較的新しい世になってから仲間に加わった文房具の交々が、時には整然と、またある時には雑多に横たわり、私が手に取るまで黙って行儀よくまどろんでいる。いや、むしろ爆睡している。肩を掴んでゆすぶっても、…
布団や、洋服や、人間に共通する点といえば、どれも「洗って乾かしたばかりの状態がいちばん好ましい」というところだ。多分。洗濯物を乾かすには太陽が要る。別に好きではないけれど、あれが空にいてくれなければ濡れたものを干せず、満足のいくまで乾かせ…
中山道六十九次の宿場のひとつ、馬籠宿は坂の上にあって、中心はきれいな石畳の道に貫かれている。けれどその色は黄ではなく、陽を受けると明るく輝く灰白色だった。石畳をどこまで辿ってもエメラルドの都には辿り着かない。でも、忍耐強く歩を進めて妻籠宿…
公正世界誤謬。公正世界仮説、ともいう。正しい人が必ず報われる。だから報われなかった人は、すべからく正しくなかったのだ、という非常に特殊なはずの考え方。これが人間の集団においては、なぜか、いとも簡単に幅を利かせる。いっそ不気味なくらいに。常…
一方、反対側の崖に腰を下ろして緩慢に足をぶらぶらさせている私は、短い間に何度も背後を振り返って、その美しい光景を眺めるのだった。もちろん、心底彼らを羨みながら。あんな風に気にかけられ、存在を惜しまれることで、どれほどに満たされるだろうかと…
立派に葉の茂った大樹が描かれた看板。その根の下にじっと目を凝らしてみると、モック、というカタカナの文字を構成しているパーツも、実は丸太なのだとすぐに気が付いた。まず、それだけでどきどきして楽しくなってしまう。頭の中で呟く。文字が、丸太でで…
私の場合、港湾都市に生まれたので昔から海は身近にあった。けれどどちらかというと苦手な場所で、その理由は、海に対して感じるものの多くが「癒し」よりも「畏怖の念」に基づくからかもしれない。不用意に生身で近づきたくないのだ、どうしても、油断して…
上野の喫茶店、王城で提供されるメロンクリームソーダを構成する要素のうち、本体のソーダ水の部分……丸みを帯びたグラスの、輪郭の内側を見ていた。つるりとした曲線と色合いがカボションカットの翡翠を連想させるのだが、同時に水中で浮かぶいくつもの角ば…
食事みたいに、または運動みたいに、「直接身体に影響する行為である」という意味において本を読むのは肉体的な行為である。一般によく考えられている風に頭の中だけでは終わらないし、完結もさせてくれない。その内容が(無論、時には不完全に)消化され、…
「私がここに存在しなければならない正当な理由」は無い。私でなければできないことなど何もない。全てに代替がきく、本当によくできた世界だ。何があるのかではなく、観測する人間がそれをどう解釈するのかがすべて。生まれてくることや生きることの意味な…
その源流を辿ればメキシコに至ると推測される、現在はアメリカのテキサス州でよく食されている料理、チリコンカン。主に豆とひき肉とトマトで構成された、夏に食べても冬に食べても箸が……いいや、この場合は「匙」がすすむ、給食で出てくると嬉しい品目だっ…
言葉はいつも「本来であれば到底できるはずのないこと」を、いとも簡単に人にさせようとする。そして、結局できてしまう。なぜなら言葉の上でのことだから。残酷な話だ。だから私は毎日のように、言葉さえあれば、と、言葉さえなければ、の狭間でもがきなが…
個人的に、食事、宿泊、それから航空券や電車の切符などの交通費……つまり性質として体験に直結するものに対しては、買い物という言葉をあまり積極的に使わない。それゆえ人生を通して「一番高い買い物」を思い浮かべるとするなら、文字通りの物品から選ぶこ…
人や物、その他を好きになることは、程度はともかくその対象に対して膝を折ること。他の誰かがどこでどう定義していようと、私の世界の内ではそれが敗北であるのだと、はっきり認められている。でも、いとも自然に捧げてしまう。心を砕くなり、燃やすなりし…
私達はよく「お姫様ごっこ」をしていた。登場人物はお姫様、王子様、城の兵隊(複数人いてよい)、そしておばあさん。それぞれに割り当てられる役はじゃんけんで決められる。だいたい勝った人間から順にお姫様、王子様、兵隊……と決まっていき、最後に残った…
他に陸の影などひとつも見えない沖で、摩訶不思議な島を見た。航海の最中、驚くほど大きな魚に飲み込まれて、けれども帰還できた。日頃から正直にそう語っているのに、誰にも信じてもらえない旅人の気持ちで歩いているような気がする。もちろん信じてくれと…
あなたのために。あなただけのために。そういった言葉がすっかり形骸化して久しい今、お子様ランチというものは本当に素晴らしい存在だな、とさっきから考えていた。子供だけが実際に注文し、子供だけが食べることのできるメニュー。それが体現する料理。ま…
番人じみた門柱に目を留めたらその奥にいたライオンにたぶらかされて、足がもつれ、はじめは行こうと思っていなかった場所に引っ張り込まれた。坂の中腹にある平坦な煉瓦敷きの道。脇の家は旧フリューガ邸とあるが、石像横にある肝心の玄関は固く閉ざされて…
適切な薄さの白いティーカップを手のひらで撫でまわし、じっと眺めては、陶器に傷などひとつもない方がよいと考える。わずかなひびでも生じてしまったら最後、にわかに存在自体を受け入れがたくなるのが目に見えているし、食器棚にしまっておくだけでなく視…
雪原はあれほど恐ろしいのに人を惹きつける様相を見せるからいけない。しきりに誘惑されている、と感じる。昔から、よく考えていた。雪に埋まって眠りにつくことを。疲れた足を永劫に休める場所として雪原を選ぶことを。なにしろ、かの雪の女王がおわすのは…
明治24年、民俗学者の柳田国男が自費で出版した説話集「遠野物語」。そこに収録されている異聞怪談、なかでもマヨヒガと題された2編の話は、私が昔から特定の建物に対して抱いていた曖昧極まりない感覚にいくつかの支柱を与えた。すなわち、人が不在のはずの…
ふと、質実剛健な木こりのことを考える。いろいろな物語に登場する彼ら。その人たちは別に、ここで私が言うところの規則正しい生活を熱望しているわけではないだろう。単純に、それが最も理に適っているからそうしているだけで。こちらからすると、その精神…
当時からおもしろかったのは、何の施設でもない一般の家のはずなのに、ずいぶんと特別な雰囲気を醸し出す建物が教会のはす向かいに鎮座していたこと。2階建てで壁は蒼白く、正面から見たつくりは左右対称、中央に位置する玄関の上には半円に突き出したバルコ…
綴られる言葉を前にして、共感に似た思いを抱き頷いているときの私は、すっかり影が希薄になる。彼女がこうだと言ったものに半ば身をゆだねて、わかる、という感覚にあらゆる情動を押し込めて、しばし口をつぐんでいる。言葉を奪われたような気がする、とい…
先日某所に足を運んで、自分の子どもを本好きにしたい、と思う人間の数はそれなりに多いらしいと気が付いた。幼少期からこの絵本でひたすら文字に触れさせ、何歳になったらこれを読ませ、さらに就学したらこれを順に読ませる……云々と書かれた商品ポップ。現…
私は父の顔や名前を思い出すことができない。特に名前の方は思い出す以前に、そもそも知っていたかどうかすらもわからない。彼とともに時間を過ごした数少ない記憶(と呼ぶのも気が引ける、あのボタンを押して絵を変えるおもちゃのフィルムじみた、静止画に…
いわゆる「湖水地方」として知られている、イングランド北方の国立公園。その一帯の地図をはじめて眼前に広げてみたとき、果たしてどこに湖があるのやら、私にはさっぱりわからなかった。視認できる名前はスカーフェル・パイク、ヘルヴェリン、それにフェア…
大通りにも路地にも人っ子一人歩いていない。「静かに。隠れていて」「悪いひとが来るよ、怖いものも来るよ」村の家という家がそう人々に囁いて、門や戸口の奥に、すべてを鎖し籠めているみたいだった。クリスマスリースの形をした扉の護符とともに。あれは…
自分が自分をじっ……と見ている。四六時中、いつでも。たまに、何もしないでぼんやり過ごすのがわりと好きだった。文字通りに何もしないこと。例えば休日の昼ごろ、遅い時間に目が覚めても布団から出ないで、カーテンの隙間から外の明るさを感じつつ、枕に頭…