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彷徨する自由帖

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「特別」

 

 

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 私達はかつて、毎朝のように闇市を開いていた。上から許可されていない、語義通りのブラックなマーケットだ。

 

 具体的には「シール交換」という。

 

 幼稚園の送迎バスの座席に座り、平たい鞄のふたの裏に貼り付けたそれらを互いに見定め、いつも声を低くして交渉をすすめた。

 まるで密売人にでもなった気分で……と表現したいところなのだが、仮に当時の自分がその言葉自体を知っていたとしても、正しい意味まではきっと理解していなかっただろうから、回想に使うのは正しくない。

 

 健全な幼稚園生活の妨げになったり、生徒間に不平等感が生まれたりすることへの懸念からか、先生には発見され次第止められた。

 だが、ほとんどは人目につかない場所ですばやく行われていたから、その習慣は私が卒園するまで園児たちのあいだで続いていたし、おそらくはそれからも消えずに残っていたのではないだろうか。

 

 バス内闇市においてシールは商品であり通貨だった。

 

 なかでもとりわけ価値が高いとみなされたのは、表面が綿にも似てふわふわした手触りのものと、宝石みたいに加工された半透明のタイル風のもの。また、特殊ではない単なる薄ぺらのシールでも、絵柄の種類や精巧さによってはそれら以上に重宝されることがあった。

 私は交渉でタイル風シールを手に入れて、異なる角度から眺めるのが好きだった。何か特別なものだ、という気がしたからだ。

 祖母の小物入れに眠る、硬質な本物の宝石よりもずっと安価で軽くて柔らかい、ありふれた合成樹脂の欠片に、どうしてそれほどの愛着を持てたのだろうか。そう成人した「大人」の私自身が不思議に思うと同時に、実のところ今でもその感覚はよく理解できる。心底、わかってしまう。

 

 当時それは、物語に登場する黄金のコインや、古い剣の柄にはまった大きな貴石の持つ輝きに等しかった。視線の先でささやかにきらきらと光を放つもの、それこそが「特別」の定義だった。

 

 集めたシールの数々は連絡帳や筆記用具に貼ったり、半立体的なものは剥がしてから箱に入れたりして保存していたが、一欠片のタイルシールは小学校に入学してからもしばらくは筆箱に入れていた。なんとなく、特別なものがそばにあるとどこにいても楽しくなったから。

 そんなある日、私はまったく異なる「特別」の概念に出会うことになる。

 

 

 

 通っていた小学校の1年次には、国際理解という授業の枠があった。

 世界各国、日本とは地理も文化も違う場所で生まれ育った先生を一人ずつ呼んで、お話を聞いたり、その国の遊びや観光名所を教えてもらったりするものだ。

 何度目かに来ていただいた先生はモンゴル出身の方で、その時の主なトピックは伝統的な占いだった。

 

 あとで調べて正式な名称を知ったが、シャガイ、というらしい。

 小ぶりな羊のくるぶしの骨を四つ用い、まとめて両手のなかで転がして、優しく机の上にばらまく。骨にはサイコロと同じように面があり、数字の代わりに家畜の名前が付けられていて、出た目の種類によっていろいろなことを占えるというわけだ。

 クラスの端から一人ずつ順番にそれを試していった。

 

 やがて私の番が来た。手渡されるのは、外観のわりにずしりと重さのある骨。

 祈るように手の椀を合わせ、わずかに緊張しながら出した目をじっと見て、モンゴルから来たその先生は穏やかに笑った。子細な事柄までは覚えていないが、結果が非常に良かった旨を告げられたのと、その際に使われた例の言葉だけは鮮明に記憶に残っている。

 これは特別です、と。

 確かにそう言ったのだ。よく考えてみると興味深い。他に、占いの結果の良さを伝える表現などいくらでもあっただろう。しかし偶然、選ばれたのはそれだったのだ。

 

 特別。

 

 机の上に散らばった骨を眺めた。私にはどの面がどの面なのか判別できないし、出目の種類も読み方も知らない。けれど、これはどうやら「特別」らしかった。

 ぜんぜん分からない。その特別が、今まで自分が抱いていた特別の概念とはあまりにもかけ離れていたために。とくべつ、とくべつ、ただその四文字と音だけがぐるぐる頭を廻り続ける。

 そしてもういちど目の前のものを見る。

 半透明でもない、きらめいてもいない、こんな形をした「特別」というのもこの世界には存在するのだと、本の文字を眼球で執拗に追うのではなく、肌からの実感として学んだ出来事だった。7歳の頃。

 

 授業の最後に先生は、占いで特別な目を出した特典として私に小さな丸いシールをくれた。よくある学校事務用の、単色で柄のない、黒板によく似た深い緑のシールだった。

 プラスチックの筆箱に貼って、いつのまにか失くしたそれの姿が「特別」の証のように、瞼の裏にうっすらと焼き付いていつまでも離れない。

 

 

 

 それから経験した15年以上の月日を通して、幾度となく私は「特別」について考えさせられ、判断を迫られてきた。占いとは違い、自分の中で何かを特別だと定義する行為は、それ以外を「特別ではないもの」として区別することにほかならない。

 

 大切と特別はかなり似ている。しかし、同義ではない。

「大切」は往々にして生存と生活にかかわり、本来であれば何にも優先して守るべきものであるのだが、「特別」は時に、いとも簡単にそれを凌駕する。動物としての、生物としての衝動を恐るべき力で抑え込み、反対に己の魂を桎梏から解き放とうとするのがわかる。

 この世界で本当に美しいものや本当に価値のあるものは、必ずしも人の身に喜びをもたらす存在ではなく、想像以上に深い悲しみや嘆きの元となる場合もある。その上で、生まれてきたことに対する何らかの意義を、どれほど強く拒んでも胸に、繰り返し刻み付けようとしてくるものは、それら以外にはありえなかった。

 特別。

 

 

 私は何かに触れたとき、いかなる判断理由で対象を「特別」の枠のなかに入れられるのだろうか?

 それは特別? それとも、特別じゃない?

 

 

 目の前で私に話しかけている誰かの頬や顎、肩のあたりへ順に視線をやりながら、たまに黙々と考えている。この人は自分にとって、あるいは相手にとって自分は、いったい何なのだろう。特別? それとも、特別じゃない?

 頭で考えられてしまう時点で答えは出ているようなものだ。

 気がついたら心に刻まれているもの。判断するまでもなく、そうだと納得させられてしまうもの。必要だから失いたくないのではなく、仮に失えば、魂が欠損するほどの思いをするのだとなぜだか理解できてしまうもの。

 

 それだけが、私の