ストームグラスは、気候の変化に応じて内容液の様子が変わるとされる物品だ。
これが天気を予報する道具として使われていた時代はすでに遠い過去だが、今でもインテリアとしての人気が高く、雑貨店や文具店で売られている。実際に外で何度か見かけたことがある。私の机の上にあるものは、いつか、多分家族の誰かからもらったものだった。
その中心には山岳を模した形状の突起がある。
凍り付いたシャボン玉ふうに丸くうすいガラスの膜の内側、ほとんど透明な液体に浸かり、麓から裾野にかけて白い結晶をまとわせている山が。
結晶を雲に見立てると角の取れた山頂がそこから顔を出しているように思え、次に、積雪に見立てれば、激しい吹雪の渦中にあって不動を貫く(けれど堂々としているというよりかは、孤独で心細そうな)山の佇まいが印象に刻まれた。どうやら個人的には後者の想像が好きらしい。その山が、時間に取り残されているように目に映るからかもしれない。
どうにも寂しくて、きれいだ。美しいと言ってしまうには儚すぎる。
ガラスの山といえば、脳裏に浮かぶのは昔話である。それも、ヨーロッパの各地に残る類の。
有名なのはグリム兄弟が収集した童話や、ノルウェーの童話に登場するものだと思うが、私にとっては子供の頃に買い与えられた偕成社の本(学年別・新おはなし文庫の一冊)に掲載されていたポーランドの童話……「ガラスの山 (Szklanna Góra)」が、最も印象に残っているのだった。
これは、アールネ・トンプソンのタイプ分類(昔話の類型)では530番の「ガラスの山のお姫様」という項目に振り分けられている。すなわち世界中に似たような物語があるということだ。
あらすじは以下のようなもの。
頂上に黄金の林檎のなる樹が生えたガラスの山。
その果実をもいだ者だけが、魔法で閉じ込められた姫君のいる、黄金の城に入ることができる。多くの騎士が登頂に試みては失敗し、山の周囲には彼らの骨が積み上がって、死屍累々としたありさまだった。
あるとき黄金の甲冑の騎士が来て、ガラスの山を半分まで登り、静かに落ちた。その次の日も彼は挑み、あわや頂上まで辿り着くかというところでワシに襲われ、連れていた馬もろとも落下して死んだ。
そこにひとりの少年があらわれる。
彼は殺したヤマネコの爪を自分の手足に装着して、つるつると滑るガラスの表面に切先を食い込ませながら登り、疲れたら斜面の上でそのまま休んだ。動かずにいる状態の少年を死体だと思ったワシは、彼をねらって急降下する。
少年はあえてワシに自分の身体をつかませ、浮き上がり……山頂、黄金の林檎の樹の上に差し掛かったところでその両足を切り落とし、無事に着地した。林檎の皮をむいて貼ると、ワシにつかまれたときの傷はみるみる癒えたという。
城へと踏み入ると姫君がいて、少年は彼女と結婚した。
そして、切り落としたワシの足から流れる血を振りかけると、ガラスの山の登頂に失敗し、その周囲を埋め尽くしていた死人たちは、みな蘇生したのだとか。
「ガラスの山 (Szklanna Góra)」は概ねこのような物語である。
自室の机の上のガラスの山は水底に沈んでいる。
ちなみにグリム童話「七羽のカラス」に出てくるのは(どうでもいいけど日本語のガラスとカラスって音が似ているな……)、どこか死後の世界を象徴しているかのようなガラスの山で、少女はそこに閉じ込められた兄たちを救いだすために、切り落とした自らの指の骨を用いる必要があった。
ふとしたときに思い出すのはポーランドの童話だが、目の前のストームグラスを眺めていると、その印象に近いのは「七羽のカラス」の方であるような気がする。
特にさっき見てみたら、数日前までは澄みきっていた液体の下半分以上が細かな結晶で埋め尽くされ、本当に山の先端部分しか視認できないような状態になっていて、硬質で透明な山肌の内に秘されたものへの想像を掻き立てられた。
天気予報にこの道具が使われていたころ、ストームグラスの液体の濁りである白い結晶は、近い嵐の到来を人々に告げるものだと考えられていた。
現在、それは私にはむしろ反対に、眠り続ける姫君の城を覆った茨のように、何かを隠したり守ったりするため発生しているものだと感じられてならない。
特に音の出ない、光りもしない、置き物だ。しかし確かに動いてはいる。
刻一刻と変化していて、私には関係のない時間を生きながら、私にはあずかり知らぬ何かを黙って守り続けているみたい。そんな存在をつかまえてうすい膜の中に閉じ込め、並べて雑貨屋で売ると、外見がストームグラスの形に変化するという次第でいま私の部屋にある。
その内側を覗くためには、少女が指の骨を捧げたように、決して小さくない代償を払わなければならないのだろう。だからいつも、あまりしつこくは触れずにそっとしておいている。
全く違う目的や理屈で動いていると錯覚できる存在が部屋の片隅に居てくれるのは心地よい。
それゆえインテリアというよりは、ある種の動物を飼うような感覚でストームグラスを机に設置している、というと、必ず奇異な目を向けられてしまう。