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彷徨する自由帖

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窓の適切な開け方 / 鞄の底は小銭だらけ

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 欠陥の多い人間の性質を、如実に反映する生活の一幕。

 

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窓の適切な開け方

 

 私が窓という建具の適切な扱い方、要するに正しい開け方(と表現しても差し支えないものか、どうか)を知ったのは、一体いつ頃のことだっただろうか。

 

 記憶を辿れるだけの期間さかのぼってみると、高校に入学してからはもうきちんと「できる」ようになっていた気がするので、遅くともそれよりは前の段階で、見るに見かねた周囲の誰かに教えられたのだろう、としておく。

 書いているうちにもなんとなく詳細を思い出してきた。まったく無自覚のまま演じていた奇行を指摘してくれたのは、そう、確かに親だったはずだ。

 

 そんな仰々しい、特殊な、あるいは旧式で扱いの難しい窓が私の家にはあるのかと訝しがられそうだが、違う。現代の住宅においてほとんどすべての家に使われているような、何の変哲もないガラスとアルミの引き戸である。

 枠と框(かまち)で構成された四角いサッシがあって、ぴたりと閉じれば左右どちらの空間も塞げるガラスの板があり、その向こうには片面のみの網戸がある。必要に応じてそれらを横に滑らせ、入れ替えて、蒸し暑い家の中に風を呼び込んだり、あるいは暖房の熱を逃がさないように閉め切ったりする。

 本当にごく普通の、普通を極めたような窓だ。

 

 私はそんな窓の適切な開け方を知らなかった。

 

 回想するその日は暴風とは呼べないまでも、ベランダから見下ろす隣の敷地の樹がしきりに体をよじる程度には荒れた天候に見舞われていた。

 今と同じ初夏でやけに気温と湿度が高く、強い風に雨が伴っていないのをさいわいとして、私は自室の窓を思い切り開けていたのだ。冷房をつけるほどではなかったから。片方の引き戸が縦框の突き当りにつかえるまでいっぱいに、もちろん、ベランダと部屋の境目は網戸で区切って。

 当然ながら、そんな日に窓を大きく開け放っておけば風がどっと吹き込む。軽量のものは倒れるし、紙は飛び、ストッパーをしていない扉がガタガタと音を立てる。

 しかしながら私は窓をそのままの状態にしておいた。なぜなら反対に窓を閉め切ってしまえば部屋がたちまち蒸し暑くなって、何もできなくなると思ったからだった。

 

 数刻後、帰宅した人間に、お前はどうしてこの風のなかで窓を全開にしているのかと驚かれる。

 

 そこで今日は暑かったからと答えると、なら、少しだけ開けておけば良かったでしょうと呆れられて、私はその言葉を耳から頭に入れて理解するまでのあいだ、しばらく時間を止めた。少しだけ、とは一体どんな意味だろう。

 窓を少しだけ開けておく。

 要するに、ガラスの引き戸をレールの終着点まで完全に滑らせるのではなく、半ばのどこかはっきりとしない場所で止めておけばいいということだろうか。20センチメートルとか、それくらいの隙間を作るように。

 

 なるほど、そうすれば吹き込んでくる過剰な空気の流れを抑制しつつ、密室状態になるのを避けて、ある程度は快適な室内の温度を維持できるんだ、と納得する。今までそう考えようとしたことなんてなかった。そもそも想像ができなかった。

 一般に「窓」と呼ばれる建具に当てはまる状態は、開け放たれているか閉め切られているか、の二択だと思っていたからだ。

 あとで、他の大半の人間は毎日の生活を通して、そういうことを自然に理解しているのだとわかった。

 

 成人した今でも、私は何かの中間とか、はっきりしない中途半端な概念を飲み込むのが異様に苦手なままである。

 たとえば「やる」と「やらない」の間にあるものの程度がよくわからない。だから部屋の掃除を始めると、きりのよい所でやめることができずに一日の時間をすべてそれに費やす。また予想を超える事態に対峙したとき、どこからどこまでの逸脱が「臨機応変」の範囲に収まる行動なのかがわからないから、いつも長く逡巡する。

 そして、いわゆる適量だとか、適切な程度、と表現される定義の曖昧な事柄に突き当たると、その場で静かに土に埋まるか、川を流れるかの選択を強いられたように、相当な窮地にでも陥った気分になってしまう。

 

 自分が難解だと思うものは誰かが明快だと言うし、誰かが難解だと言うことを、時に自分は明快だと思う。別段おかしくもない当然のことなのだけれど、一生かかっても周囲に溢れる不文律のすべてを把握するのは不可能だろうと想像すると、途方もなかった。

 けれどもう、窓の適切な開け方は覚えた。

 風が強くて、けれども蒸し暑い、なおかつ冷房をつけるほどではない日がもしもあれば、網戸を引いたうえで、窓のガラス戸をレールの中途半端な位置で止めておけばいいのだと。

 

 

 

鞄の底は小銭だらけ

 

 この題がすべてを物語っているような気がする。

 

 普段の外出や旅行などから帰ってきて、いざ鞄の中身を整理しようとすると、数枚どころではない小銭が底から出てくる。上から覗き込むとすぐにわかる。何かの映像でたまに見る、海底に張りついている平べったい貝だとか、魚だとかを思わせる状態で。

 誰かが銭洗弁天よろしく硬貨を投げ込んできているわけでもなし、これは紛れもなく自分自身の仕業であるわけなのだけれど、どうにかならないものかとため息を禁じ得ない。

 そんな風に考えている時点で、この悪癖が改善される望みはかなり薄い。

 

 鞄に沈んでいる小銭の発生理由は主におつりである。

 買い物の際に受け取ったおつり、施設の入館料を払ったおつり、自販機から出てきたおつり。それらを財布にうまくしまえずに、そのまま鞄のなかに躍らせてしまっているのが問題の小銭。

 苦しい言い訳をするようだが、けっして毎回そんなことをしているわけではなく、おつりを手に取ったとき背後に人間の列があったり、誰かが私の会計を待ってくれたりしている状況でのみ、この現象は発生するみたいだ。

 

 自分の行動によって他人を待たせてしまっている状況に大きな罪悪感を感じるので、買い物の際などにレジが混んでいると、おつりをすぐに受け取って一刻も早くこの場所を立ち去らなければならないと思う。

 とりわけトレーの上に出された小銭に手を伸ばしている段階から間をつめてくる人がいたら、もう最悪だ。申し訳なさで一杯になる。

 また友達(家族や恋人ではない)と一緒に商業施設に来ていて、別行動をしているならまったく気にならないのだが一緒にいるとき、手に絡んでくるレシートをうまくあしらいながらおつりをしまうのに時間をかけていると、焦りを感じる。硬貨だけでなく紙幣の含まれるおつりならなおさら、かかる時間がまた少し伸びて、心が萎れるのがわかる。

 

 あとは、そもそも財布というものは長く人目に晒すものではない、と思っている節があるので、もとより会計時の状況そのものが不安の種となっている可能性もある。無防備すぎて恐ろしい。

 それに、たとえ地面の上に落ちていたものではなくても「指を使って小銭をひろう」という行為自体が乞食じみていて、とても嫌だ。なんだか恥ずかしい。

 とにかく、はやくお金と財布を誰の目にもつかない場所にしまいたい、願うのはこれだけ。

 

 実際にできるのはレシートごとすべての小銭をわし掴みにし、とりあえず鞄のなかに放り込んで、別の手で袋に入れた商品を連れていくことだけだ。単純に、家に帰ってからゆっくり財布にしまえばいい。そこでは自分を追い立てる存在などひとつもないのだから。

 そういうわけで鞄の底が小銭だらけになる。

 でも、他人がそんな事実を推察するのは限りなく不可能に近いので、指摘されたことや、だらしがないと後ろ指を指されたことは特にない。外からでも中身の分かる透明な鞄は所持していないから、今後も困らないだろう。

 

 これはあくまでも比喩だが、透明であったり、半分透けていたりする鞄を持って歩ける人はほんとうにすごいと思う。

 とても晒せないようなこととか、頑なに隠しておきたいことが少ないのは、社会に属している人間としてはるかに正しく見えた。私には無理だ。絶対に。立派でも善良でも几帳面でもない人間なので、きれいに皮をかぶって表を歩かなければ、きっとヒトとしてふさわしくないと糾弾されてしまう。石を投げられてしまう。

 この世界が恐ろしい。

 

 幸か不幸か、外面を取り繕うのは年々うまくなる。

 だから現実世界でしか会ったことのない誰かが私をニンゲンとして評価してくれると、相手の記憶をきれいに消し去って裸足で逃げ出したくなる。あとになってから瑕疵が表面化して、そこまでの価値がなかったとがっかりされるのは、もっと嫌なので。

 

 傍から見れば何の問題も抱えていなさそうなのに、ふたを開けてみれば数えきれないほどの欠陥がある、まさに己の存在を端的に再現したかのような鞄の底の小銭が、このどうしようもなさを眼前に容赦なく示してくるのだった。

 親しい人と一緒にいるのは大好きだ。けれどそれ以上に、真実の意味で安心できる場所というのは、きちんと鍵をかけた誰もいない自分の家や、部屋のなかにしかないのだと実感する。

 他人の目がある以上、そこに欠片も偽りのない自分を用意することなど、絶対にできないので。