昨日の夢より。久しぶりに、悪夢以外のものを寝ている間に見た。
塗装がはげかけてくすんだ青色の看板に「レストラン気仙沼」と白く抜かれた文字がある。
か細く寂しい感じのする文字の形、そのすぐ下に小さく、筆記体のアルファベットでRestaurant Kesen’numaとも書かれていた。
温泉地の商店街にある喫茶店のような佇まいで、上のふたつの角が丸くなっている木の扉と、脇に設けられたおなじみのサンプルが並ぶガラス棚が印象的だった。カレーライスからエビフライにハンバーグ、パフェなど、メニューは一般的な範囲を網羅しているようす。
レストランは、車や人の往来は少ないがまあまあ幅の広い道路に面しており、そこから数十メートル歩を進めたところに今度は「ホテル気仙沼」なるものが建っている。
看板の表記は、HOTEL気仙沼。
ホテルというよりも古いアパートか建築会社の事務所のような、斜めの細い階段を上って、建物横のドアから中に入る無愛想な造りだ。外観は薄水色で、巨大なコンテナじみている。
こちらはその半分が普請中らしく、該当箇所のみ壁が覆いで隠されていた。起床してからこうして振り返ると、森鴎外の短編「普請中」を思い出さずにはいられない。もちろん、あの作品で描写されていた普請中の店は精養軒だったから、全くの別物だけれど。
夢の中では、旅行に来ていた私と古い友人がホテル気仙沼に宿泊する予定で、チェックイン後に荷物を置いてから適当に夕食をとろうとしていたのだと思う。レストランとホテルは提携していたので、フロントで渡されたカードキーを見せると、そのまま席に案内された。
なぜか、テーブルクロスの中央にバーコードの印刷されたレシートがぽつんと描かれている。
店名に気仙沼とついているが、私達は別に宮城県の都市を訪れていたわけではなかったのでひどく妙だ。けれど得てして夢とはそういうもの、とにかく私にもよく分からない要素を前提として、よく分からない何かが勝手に進行していく。
自分の夢なのに、自分はあまり影響を及ぼせないこの感覚。
向かい合って席についた私と友人の間に流れていた空気は淀んでいた。
現実の側では疎遠になっている関係性なのだから無理もなく、こうして夢で一緒に旅行に来てはいるものの、現地に到着するまでの道中で何を話していたのかも知らない。
乗用車を降りたところから場面が始まっていたので、車に乗ってきたのは確からしい。私は免許を持っていないから、運転を担当したのはどう考えても友人の方だ。この人はいつの間に免許を取得していたのだろう、大学在学中だろうか、あるいはその後だろうか、と無言のうちに推察する。
高校生までは連絡を取り合っていたので、大学に進学したことは知っている。むしろ、その程度しか把握していない。
私は自分の些細な言動が相手の不興を買わないかひどく怯えていて、運ばれてきた料理(玉ねぎのスープのようなもの)を口に運びながら、どうにかして目の前の相手に笑ってもらえる方法はないものか、と思考を巡らせていた。
試しにいろいろと話の種を蒔いてみたような気もする。でも残念ながら、その努力は実を結ばなかった。
ここから同行者の存在は急速に希薄になっていく。
食事の途中から夢の場面が飛んで、レストラン気仙沼を出たところから歩道を伝い、やがてY字路に出た。2本の道に挟まれた場所に建つ、灰色のビルのような建物は上の看板に「一般通行可」とある。
入口から足を踏み入れると特に郵便受けや扉のようなものは見当たらず、長い通路の先に階段があって、なんだか四角い洞窟みたいだった。部屋の集積としてのビルではなく、文字通り本当に「通行するためだけ」に周囲を壁で囲ったもののような。
窓もないので、地上にあっても地下道と印象は変わらない。
階段を上り切った先で私は目を瞠る。
さっきまで通路の両脇は無機質なコンクリートの壁だったのに、そこには何かの店の廂がずらりと並んでいた。暗闇でも形や色彩の異なる看板がはっきりと視認できるのは、ぼんやり発光しているからだ。
不意に写真を撮らなくてはならない気分に襲われて、右のポケットから赤いデジタルカメラを取り出し、何度かシャッターを押す。
フラッシュがまたたくたび、白く照らされる眼前の風景は、わずかに変化していくようだった。
具体的に何が変わっているのかと聞かれると説明が難しいが、私以外にも複数の人間が実際そこにいて、彼らの不可視の姿が少しずつ明瞭になっていくような、夜の闇に慣れた目がものの形を見分けられるようになっていくときのような、日常の中でもおぼえのある感覚が確かに生まれていた。
一緒に旅行に来たはずの友人はもういない。
先に、あのホテル気仙沼の部屋へと戻ったのかもしれなかった。あるいはまだ席について、何かを食べているのかもしれない。
起きてから調べてみたけれど、やっぱり青い看板の「レストラン気仙沼」なんて施設は現実世界のどこにも存在しておらず、安心した。