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彷徨する自由帖

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エンドロールの後に用意されたおまけの映像、さらにその先の先、みたいな日々を過ごす不思議な感覚

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 このお話はもう完結して、きちんと区切りがついた。

 

 だというのに一体いつから、また、どこから新しい流れが始まっていたのかが、全然分からない。そんな感覚をおぼえる時がある。

「お話」が指しているものが、他ならぬ己の人生であるのにもかかわらず。

 いや、むしろそうであるからこそ、なのだろうか。

 

 

 広いスクリーン上で展開する紆余曲折。

 

 そこには人間の喜怒哀楽が詰まっているだけでなく、多くの学びがあり、胸躍る冒険もある。実際に頭からつま先まで没入してみて、とても良いシナリオだと思った。単純に好きだった。

 主役が順風満帆な時期も、視界を遮られる嵐の時期も交互に経験し、なかなかの盛り上がりを見せて幕を閉じた映画。

 

 上映終了後に劇場が明るくなって家路につき、にわかに忘れ物を思い出して座席に戻ったら、どういうわけかスクリーンにはその続きが流れている。

 エンドロール後に展開される場面はポストクレジットシーンとも呼ばれるらしいが、私はそれも含め、すべてを確かに見届けたはずなのに。

 

 これは何?

 現在、自分が送っている毎日に対する自身の感情は、おそらくそんな風に表現できる。

 本当に何なんだろう、これ。

 

 エンドロールの先にあった後日談の映像、加えて実はさらにその先がある、みたいな人生について考えなければならないのは、正直頭痛がする。眩暈も。ついでに動悸も。あと吐き気を付け加えたっていい。

 だって、なにそれ。いわゆる「蛇足」というものではないだろうか。完結した物語を続けるなんて、例の漢字二文字をそのまま体現したかのような引き延ばしだ。上映時間はとうに終わり、最高潮の盛り上がりも遠い昔に過ぎ去ったのだから。

 ひとつのお話を開始し、展開させ、終わらせるための要素はきちんと揃っていた。だからこそ不必要にぐだぐだとせず、比較的すっきりとまとめることができたのではないかと思う。

 

 決して短くはない月日のあいだ、あらゆる面において充実した、非常に美しい時間を過ごしていた。それが再現不可能な、かけがえのない物語。

 もちろん苦しい思い出も含めて。

 

 

  それは特別なもの。

 

 

 だから、わざわざ引き延ばす理由なんてない。

 ポストクレジットシーンもその先もいらない。

 

 にもかかわらず、この期に及んでまだ続きをやらなくてはいけないのか。続編が素晴らしいシナリオでないのなら、ぜんぜん面白くも楽しくもないのに。では、そんなものに一体何の意味や価値がある?

 ただの徒労ではないか。

 朝目覚めるたび、そう内心で呟いている。

 しかし、それがごく(本当にごく)稀に面白いと思えてしまうのも事実。

 

 私がここ数年ずっと抱いている感覚というのは、まさに何らかの作品を鑑賞した直後に映画館を出て、付近の通りをフラフラ散歩しているようなもので、思考のほとんどが回想に費やされているのもそれにそっくりだ。

 そう、回想。

 

 

 相似な図形みたいに、大きさだけを変えて比率はそのまま。

 

 もっと噛み砕いてみれば、いわば「人生そのものの燃え尽き症候群」とでも表現できるだろうか。思った以上にたくさんのことをやりきったな、という虚脱感。

 たぶん、あまりにも密度の高い数年間を過ごしすぎた。

 歓喜も悲嘆も、これでもかというほど詰め込んだ箱を毎年、毎日、毎分毎秒に開封し続けるみたいな時期が確かにあったから。しばらくの間。



 今後の諸々に対して、何もかも心底どうでもいいと思えてしまう時があるのは、人生を通して本当にあらゆることが素晴らしかった時期を過ごした経験があるからこそ。

 

 

 これから生き続けても、それ以上のものを見つけられる期待や展望、確信を、欠片も持てないのが原因なんだろう。

 心から求めていた時間のなかに身を置いて、これこそが探していた価値のあるものだ、と感じられる「最上」を知ってしまったがために。あとは下降していくだけという諦念のような。

 

 今後に希望を持とうとすれば、その「もう過去にしか存在しないもの」を眼前に描き続けなければならなくなり、新手の地獄が人生に付随してくる。

 

 最高だと思えるものを知らない状態だといくらでも未来に求められるけど、もうすでに完璧を知ってしまった後では結晶化した過去こそが正解、尊いもの、かけがえのないものになるので、それ以上の概念に出会うことはこれから先できなくなる。

 あまりにも完成された完璧の枠を、木端微塵に壊すくらいの衝撃に邂逅しない限りは。


 もう一度でいいからそういうものに出会いたいと、おそらく、私は心の底で願っている。とんだ無駄骨かもしれないのに。見つけられる保証なんて無いのに。でも、どうしても人生をやめることができないのだ。

 それがあまりにも馬鹿馬鹿しくて滑稽だし、また、悲しいとも思う。