飴玉。氷。寒天。
それらに似ていて食欲をそそる、異常に美味しそうなもの。
食欲というか「触欲」かもしれない。口に入れたくなるだけでなく、触りたくもなるので。
ざるを片手に、砂金や翡翠を探して川辺をうろつくようなものだった。きれいな、ガラスの塊でできたドアノブがここにも使われてはいないかと、近代建築の内部で目を光らせる行為は……。
透明か半透明でうすく色が付いているものも、あるいは乳白色で、内部が透けていないものもある。いずれにせよ一般的な握り玉の大きさに形成されたガラスはつややかで、ひんやりとしていて、用がなくてもしきりに撫でまわしたくなる魅力を持っている。もちろん、ドアノブはドアの開閉に際して人間が手で掴むためのものなので、そう思わされるのも当然かもしれなかった。
国内に残る大正~昭和初期に建てられた邸宅などの建築物を巡っていて、ときどき出会うガラスのドアノブは、だいたい透明だった。その形状は多様だが、宝石のカットに例えるとファセットが6か、8か、12の切子面になっていたり、オーバルのように角がなくなめらかな円形か楕円形をしていたりするものもある。前者が多く、後者は結構稀な気がした。
以前から気になっていたのは、それらが果たしてどこから来たのか? という疑問について。色々な近代の建物を巡っていて、だいたい昭和初期の頃に竣工したか、増築されたかした洋館の内部で、比較的よく見かけるのは分かった。
だが、そもそも、ドアノブという場所にガラスを使用しようと最初に思いついたのは一体誰だったのか。それか、他の木や金属といった素材ではなく、ガラスを用いたドアノブが製造されるに至った背景は、当時の家の施主や生産者の個人的な趣味以外にもあるのだろうか。知りたいのはそこだった。
私が個人的に遭遇した、あるいは実際に行けなくても調べてみた中で印象的だったのは、国内ではあのウィリアム・メレル・ヴォーリズの手がけた建物に使われていたもの。例を挙げると、旧八幡郵便局や旧パーミリー邸など。
ヴォーリズは明治38(1905)年、初めてアメリカから日本にやってきた建築家で、特に自らの設計する建物に関しては外観よりも内装の方ににこだわりを持っていた。関連する名言も残っている。
「建築物の品格は人間の人格の如く。その外観よりもむしろ内容にある」
——William Merrell Vories(一柳米来留)
おそらく上の理念もガラスのドアノブの使用に繋がってくるのであろうが、当時、肝心のそれを日本で入手するのは難しかったため、ヴォーリズ自身が母国から実際に持ち込むか輸入するかしていたという。つまり、ガラスのドアノブの生産地は元々アメリカであった可能性が高い。
歴史や由来を日本語で解説しているサイトは見つけられなかった。そこで "Glass Door Knobs" のワードで検索をかけてみると、参考になる記事がいろいろ見つかった。覗いてみよう。
建材としては木や石よりも新しい素材、ガラス。1826年頃には、熱で溶かしたものを型に注ぎ込んで形成する技法が確立された。
そのガラスを使ったドアノブが生産量を増やすに至った大きなきっかけは、どうやら第一次世界大戦下におけるアメリカ国内の「金属不足」であったらしい。1917年の参戦以降、真鍮や青銅、鉄などは航空機や弾薬を製造するために集められ、必然的にアメリカの住居では金属類を用いた建具が少なくなる。
そこで、金属よりも潤沢に存在していた砂からガラスを取り出し、ドアノブの握り玉部分を作った。
特に製造が盛んになったのは1920年で、これはちょうどアール・デコの運動と作品がヨーロッパやアメリカを席巻していた時期でもある。そんな時代の潮流にうまく乗ったのも大きく人気の出た要因だっただろう。表面が多角形にカットされた、最もよく目にするクリスタルのドアノブは比較的初期のもので、楕円形などは後から登場したのだとか。
そして1929年の世界恐慌以降、1930~40年代は特に、透明なものの他により安価な色付きのガラスで作られたドアノブが生産数を増やしたとされる。
日本に残る、大正~昭和初期に竣工した近代建築の内部で保存されている透明なドアノブも、当時からある古いものなら上の流れを汲んで誕生したということだ。その背景を知ったので、また探しに行って見つけた際、より楽しく鑑賞できそうである。