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彷徨する自由帖

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山の歴史館 - 明治時代の木造洋風建築、御料局妻籠出張所庁舎|長野県・木曽郡南木曽町(2)

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  前回の記事:

 

 壮麗な桃介橋の架かる場所、木曽川の西岸部分から徒歩にして約数分。

 そこでは、橋を建造させた本人である福沢桃介の別荘「福沢桃介記念館」と、この土地と山林のかかわりについて理解を深められる「山の歴史館」が、共同の見学施設として門戸を開いている。受付があるのは歴史館の方で、両館併せて大人ひとりの入場が500円。

 空いていれば、職員の方がとても分かりやすく、かつ愛に溢れる館内の解説を行ってくださるので、ガイドをつけるか聞かれたらお願いするのがおすすめ。追加料金なども特にかからない。

 ちなみに冬季は休館しているのだが、確かにこの場所には春か夏に来るべきなのだと、足を運んでみて理解した。

 もちろん実際には雪など、気候の影響が最も大きい要因のはず。けれどあまりに美しいみどりが周辺に影を落としていて、こんな風に色の鮮やかな季節に訪れるのが正解なのだ、と言われている気すらした。

 

 今回は山の歴史館側の記録。

 

山の歴史館

 

 山の歴史館の外では、使われなくなった「森林鉄道」の車両が保存され、展示されていた。森林鉄道。これまで幾度となく面白い、と言及してきた登山鉄道とも共通点を持つが、異なる点も多くある。

 日本で初めての森林鉄道といわれているのは、この南木曽と同じ長野県内、阿寺渓谷で運行していた阿寺軽便鉄道で、明治34年に誕生した。こちらは主に、森で働く人々の生活必需品を運ぶために動いていたらしい。一方、木材を輸送するのを主な目的としたものだと青森県、津軽森林鉄道がその先駆けとされている。

 展示してある車両が使われていたのは、昭和2年から42年までの間。場所は南木曽町の国有林。

 南木曽の森林鉄道は3本の主路線、さらにそこから4支路線が枝分かれし、木材や生活物資の輸送手段がトラックなど自動車になり代わるまで、長く地域山村の暮らしに寄り添っていたのだそう。愛称は「林鉄(りんてつ)」とのことだった。

 

 先に進むと、下見板張りの壁、欄間の下に素晴らしい木の扉がある。

 木の色自体が美しい。

 

 

 

 

 これが「山の歴史館」の建物。

 もとは1900(明治33)年に建てられた木造建築で、当時は御料局(ごりょうきょく)妻籠出張所庁舎、といった。御料局とは明治18(1885)年に宮内庁に設置された、皇室の領地を管轄するための部署のこと。のちに帝室林野管理局、また帝室林野局……と二度の改称を経て、現在では廃止されて存在していない。

 かつては妻籠宿の旧本陣跡地に建っていたものを移築し、こうして山の歴史館として一般公開されている(妻籠宿散策の情報は後日更新します)。

 上の玄関部分の写真、柱のところを見てほしい。

 柱頭に施された飾り、ギリシア神殿におけるコリント式の装飾を連想させる、アカンサスの葉の意匠の部分はなんと木を彫って造られている。石ではない。細かで立体的な細工を施すのが非常に難しい素材であるのにもかかわらず、明治の頃あのようなデザインが採用され、現在も美しい状態のまま残されているのには感嘆の息を吐いた。

 

 

 歴史館内の展示は木曽の林政に関する資料で、全体がいくつかの部に分かれている。主なものだと「江戸時代の林政改革」や、「御料林事件」など。

 展示物を見ながら解説を聞いていて、まず、山間部の暮らしとそれ以外の土地では具体的にどう暮らしが異なるのか、これまで無頓着だった事柄を新しく知って瞠目するばかりだった。本当に自分が住んでいるところか、そこに類似した場所の生活しか、私は知らない。全然。

 例えば、これまでほとんど関心を払ってこなかったもののひとつに、地域ごとの年貢の種類の違いがある。

 自分の生まれ育った地域では、年貢といえば米だ。貨幣が人々の生活により浸透するようになってからは、銭納も。けれど木曽地域のようにそれを「木」で納めていた場所があったとは……そう、寡聞にして聞いたことがなかったのである。山では耕作に使える土地が少ないため、木を年貢として納めて、そのかわりに米が支給される仕組みがあったのだ。

 

 

 そして、かなり深く印象に残ったのが御料林事件。この山の歴史館内に、どういうわけか「留置場」なんて裁判所じみた設備が備え付けてあるのにも、きちんと関係している史実だった。

 元を辿れば、江戸幕府が良質な檜の産地として注目した木曽谷近隣の森林で「乱伐」が起こったため、尾張藩がそれを保護しようと敷いた施策に伐木の制限があった。これはかなり厳しく、盗伐により下される罰は「木一本首一つ、枝一本腕一つ」とも言われ、木年貢も廃止して徹底したルールのもと森林の保護が行われていたそう。

 ただしこの頃は、そのような厳罰に処された者の数はそこまで多くなかったという。木曽五木や停止木(ヒノキ・サワラ・ネズコ・コウヤマキ・ケヤキ・アスヒ)など貴重な木以外であれば、周辺住民も従来とさほど変わらない量の木材を山から得て、生活の糧にすることができた。

 事態がより複雑化するのは、その先の時代の話。

 

 

 幕末から明治期にかけては、前述した「御料林事件」が木曽の歴史に刻まれている。

 これにまつわる出来事を描写している小説で代表的なのが、島崎藤村の「夜明け前」という小説。無論小説であるから、内容は史実をもとにしたフィクションであるわけなのだが、そこに描かれている住民と政府との確執、また一連の騒動の着想となった事件は実際に起こったことだ。

 

 

 御料林事件において懸命に奔走したのが、島崎藤村の兄、島崎広助。

 明治時代、尾張藩の管轄していた森林が官林へと移行したことで、いよいよ民衆は雑木の伐採だけでなく山へ立ち入るのすら難しくなる。それによって生活の糧が大きく欠乏することを危惧した広助は粘り強い交渉を続け、都度記録を残し、今度は官林が御料林(天皇の所領)となってからもあきらめることはなかった。

 最終的に御料林への編入は避けられなかったものの、明治38年には宮内庁から、これより24年の間は毎年1万円の御下賜金を交付する、との通達がなされる。

 編入の撤回は叶わなかったものの、木曽に住む人々の暮らしを懸命に守ろうとしていた人間がいて、そうした処置が下されたことが、展示資料を通して伝わってきた。

 

 こういった、木曽における近代の山林の歴史を学ぶことができるのが、山の歴史館。

 そこから渡り廊下で繋がっている、福沢桃介記念館については次の記事に記載する。ちなみに島崎広助と福沢桃介の二人にも、木曽川における権利関係を巡る、切っても切れない関係があるのだった。

 

 

 おまけ。

 この館内展示物の置かれ方……「互いのことあんまりよく知らないんだけど、同じ班に入れられたからとりあえず距離を保って様子を伺ってる」みたいな感じ好き。ど真ん中にいる火鉢は警戒心が強いけど堂々としていて、隅の木箱は、所在ないからおさまりの良い角に陣取ってる。

 行灯は気遣い上手でちょっと心細そうだった。