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太宰治生家「斜陽館」旧津島家住宅の迷宮じみた邸内、欅の大階段 - 作家が故郷に抱く複雑な思い|青森県・五所川原市の近代遺産

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 没落した元華族のとある家庭と、そこにいた母、娘、息子それぞれの軌跡を描いた小説に「斜陽」がある。

 終わるひとつの時代に、かず子の恋と革命と、直治の遺書。

 昭和22(1947)年に新潮社から出版された。

 

 

 これにちなんで太宰治の生家——旧津島家住宅は斜陽館と呼ばれている。かつては旅館だった時期もあるが、経営悪化後に売却されてからは自治体に所有権が移り、NPO法人の運営で文学記念館として一般公開されるようになった。

 太宰は太平洋戦争の折、昭和20(1945)年に東京からここへ疎開して新座敷の方に住まい、後に書かれる「斜陽」の着想元であったチェーホフの戯曲「桜の園」をたびたび脳裏に浮かべていたという。

 近代文学への興味だけでなく建物好きとして、斜陽館を訪れるのは私の念願のひとつであり、昨年の秋にそれが叶って僥倖だった。神奈川の自宅から青森県、五所川原市の金木町へ。

 

 

 玄関が大通りに面し、見上げるほど高い煉瓦塀に囲まれた現在の敷地。

 その上に建つ2階建ての和風住宅には迫力がある。単純な階数というだけなら埼玉・川口元郷にあった3階建ての旧田中家住宅の方を思い出すが、斜陽館の破風とその下に広がる軒の形などを見ていると、これもまた違った威容を感じさせるものだと頷ける。

 入口上にあった庇の飾りは見逃せない。ハート型に似た、おそらくは「猪目(いのめ)」と渦巻きが合わさった意匠の文様がある。魔を祓い、福を呼ぶもの。

 見学する対象としての「大邸宅」は規模の大きさ自体がかなり魅力的な存在であり、さらに時代を跨いで長く存在しているほど、そこに暮らしていた人々の世代が幅広くなって趣深いような気がする。特に短期間のうちに文化や生活習慣が変化した、近代(明治大正期)の建物は。

 

 

 見学者として壁の内側に入り込む。味のあるうねった手延べガラスの向こう側に、庭が見えた。

 家はそこに住む人間に特定の動きをさせる箱に似ているが、居住者の側からも確かに影響を受ける点で、単なる箱とは表現しづらい。増改築に関しても、あくまで人間の側が行っているはずなのに、まるで建物の方が勝手に育って増殖しているかのような錯覚をおぼえる瞬間がある。不思議なことに……。

 だから豪邸というのは迷宮に似ている。人を迷わせる意図がそこになくても、足を踏み入れた者が勝手に迷ってしまうのだ。

 広大な敷地内に佇む旧津島家住宅は明治40(1907)年に竣工。太宰治の父である津島源右衛門が、棟梁の堀江佐吉に設計を依頼したものだった。実はこの建物は住居であると同時に、もうひとつ重要な特徴を持っている。

 

 

 それは「店舗」の要素。

 一体何の店だったのかというと、いわゆる金融業で、津島源右衛門が明治30(1897)年に合名会社として創業し経営していた「金木銀行」の窓口がここにあった。斜陽館に入ってすぐ左手に目をやれば、現在は閉ざされている扉のすぐ裏が受付のカウンター状になっているのが分かるだろう。全体が洋風に設えられた一角で、実際に中に回って見てみるとその様子が伺える。

 天井から電燈が下がり、その根本や壁の上部には植物のレリーフ。ここだけ見ると建物の外観からは予想できないくらいに明治の洋館然としている。壁に埋め込まれているのは金庫だ(片側が空白のスペースになっているのは、かつて別の金庫も埋まっていた名残だろう)。

 津島家はもともと大地主であり、さらに金木銀行の成功もあって、源右衛門の代に大きな財を成した家だった。

 太宰治はそんな父の稼業——金を貸与し利子を徴収して儲ける商売の形や、地元における実家の存在感・影響力も含めて――には嫌悪にも似た感情を抱いていたのが著作からは読み取れるが、同時に幼少期を過ごした場所に対する、純粋な愛惜の念も確かにあったと分かるのが複雑である。

 

 

 そう、現在の斜陽館の通りを挟んだ向かいに銀行が存在しているのも、津島家と決して無縁ではないのだった。

 上の写真に写った1階の前座敷は、隣接する小座敷、茶の間、仏間とを隔てる襖を取り払うとその全体を大広間として利用でき、面積は63畳にもなる。奥には囲炉裏付きで吹き抜けの空間が美しい板の間があって、それらの脇に横たわっているのが土間。地主だった津島家の土間には、秋払い(農業において、収穫を見越して先に金を貸すシステム)や年貢納入の時期になると小作人たちが訪れ、太宰はその様子を見るのも苦痛だったとか。

 自分の生活が何によって成り立っているのかをきちんと実感するのは確かにつらいことだ。津島家の抱えた小作人は最も多い時で300戸近くにもなった。

 実のところ、当時の津軽では小作人による争議が少なくない頻度で発生しており、この記事のはじめに言及した高い煉瓦の塀もその対策の一環として設けられていた。土間と、広間や板の間との間にある物理的な高さも、越えられなかった身分の壁の具現。

 公式サイトの解説に目を通すと「太宰ですら足を掛けることの許されない段差があった」旨の記載が目に入り、私はいやはや恐るべし......と震えるばかり。

 

 小説「斜陽」において描かれた直治の気持ちには、確かに太宰治自身の経験が反映されているのだと実感した。

 文学作品の考察を深める意味でもこの旅行は良いものだった。

 

 

 さて、ここにはもう彼らが生きていた頃のしきたりは存在しない。入場料を支払った見学者は土間の奥まで進み、さらに脱いだ靴をビニール袋に入れて、自由に好きなだけ館内を歩き回ることができる。階段もいくらだって昇降できるから、気分は大地主。もちろん単なる幻想であるけれど。

 私はずっと斜陽館にある欅(けやき)の大階段を見てみたいと思っていたし、このホールが一体どんな造りになっているのか、現地で確かめたいとも感じていた。実際に自分の足で歩いてみて、やはりこの佇まいは面白い、と気分が高揚する。

 前座敷と銀行店舗部分を隔てる細い廊下から階段を上ると、やがて踊り場に出て、その先で2階の居住空間に繋がる階段をふたつ……応接室に繋がる方と、和室側の回廊に繋がるものを見つけることになる。さらに、おそらくは使用人が利用したのであろうごく細い階段も壁の向こうに。

 小さなステアケースなのに天井へ視線を向けると寄木の繊細な細工が施されていて、高級感が溢れ、なんだか格式を誇示されているような印象も受ける。

 

 

 

 

 せっかくなので幅の広い方の階段を上がり、2階は洋間の方から見ていこう。

銀行店舗の横からすぐ上に辿り着けるようになっているので、かつては上客や賓客が訪れた際、玄関からここへ案内したのだろうと推察される。理に適った造りだ。背後のホールを振り返れば、手すりの柵の向こうに斜陽館正面にあたる箇所の戸が目に入って、このように二重の構造になっているため外からは和風建築にしか見えないのだと分かった。似た造りは他の近代建築でも確認できるけれど、これほどの規模のものは決して多くはない。

 広々とした空間の中央に机と椅子が置かれた洋間(応接室)は幾分か簡素なようでいて、天井部分に華やかさが凝縮されているようだった。植物モチーフの柄の内装は絢爛な輝きを放つ。

 ここも含めた2階のすべての部屋は同じひと続きの廊下に面しており、見学者は全部を見ようと思うとぐるぐる廻る必要に迫られる。洋間の横の控室では、カーペットの上を通って横切ったり、その先で主人室の脇にある細い階段(板の間へと繋がっている)に心躍らせたり……。

 

 

 なかでも主人室の隣、階段を挟んだ位置にある和室(夫人室)の欄間の装飾は好きだった。歯車のような、花のような意匠が美しい。近くで見るとこれもかなり厚みがあるのだと分かる。

 夫人といえば、太宰治は母のタネが昭和17(1942)年に亡くなるまで、この金木の生家から勘当を言い渡されていたことが脳裏に浮かんだ。家名を損なうような外聞の悪い行動が原因だったという。それから2年後の昭和19(1944)年、彼は小説「津軽」の執筆のために、斜陽館を含めた津軽地方の各地を訪問し取材を行っている。

 勘当されていた家を再び訪ねるのは、果たしてどのような気分なのだろうか。

 私には想像が難しいが、「津軽」内の記述を読むことでその雰囲気だけはわずかに味わえるような気がする。もちろんこれは小説であり、太宰自身の体験に着想を得てはいるものの、小説という構築されたフィクションであることは忘れてはならない。

 

金木の生家では、気疲れがする。
また、私は後で、こうして書くからいけないのだ。肉親を書いて、そうしてその原稿を売らなければ生きて行けないという悪い宿業を脊負っている男は、神様から、そのふるさとを取り上げられる。
所詮、私は、東京のあばらやで仮寝して、生家のなつかしい夢を見て慕い、あちこちうろつき、そうして死ぬのかもしれない。

 

(新潮文庫「津軽」(2022) 太宰治 p.140) 

 

「津軽」に書かれている太宰と兄達の距離感は面白い。よそよそしいような、あるいは多少なりと気心の知れた、切っても切れない関係を思わせるやり取りがあったり、そもそもあまり正面から言葉を交わしていなかったり。

 しかし肉親とのコミュニケーションは何らの禍根がなくてもそうなりがちな部分はある。家庭、家族、というのは本当に奇妙なもの。

 色々と考えつつ斜陽館の館内を周遊して1階に戻ってきてから、改めて興味深く眺めたものがあった。お手洗いである。

 そもそも近代建築の水回りというのはかなり見学していて楽しい存在なのに加えて、この津島家のようにたまに賓客を迎える家では、身内用と客用の洗面所(厠)が分かれている場合が多い。実際に比べてみて、あまりの様子の違いに笑いが漏れた。綺麗にタイルが敷いてある方、敷かれていない方、その格の差を感じる。

 

 

 ちなみに写真撮影ができないエリアでは、文庫蔵にあった太宰の書簡の展示が非常に良かったことを思い出した。

 本人の直筆が見られるのもさることながら、その手紙の長さや内容を改めて実物大の紙面から読んでみると、太宰の癖というか性格というか、印刷された文章からではなかなか感じられないものまで読み取れるのが貴重だと思う。内容的にも興味深いものが多くて(金銭の無心、また文学賞を与えるよう審査員に促すなど)鑑賞を楽しんだ。

 この生家自体に対しては複雑な心情を抱いていた彼にとって、太平洋戦争時に疎開してきた際、滞在していた新座敷(離れ)への親しみというのはより大きかったはず。

 次の記事で、斜陽館から少し離れた場所に移築された新座敷を訪問した感想を残す予定。