想像していた以上に沢山の鳥がいる。
カモの仲間、オナガガモに見えた。慣れていて人を怖がらない。きっと、エサか何かを待っているのだろう。
寒くなればシベリアから白鳥が渡ってくるところだと事前に聞いていたけれど、この時は邂逅できなかったので、時期尚早だったらしい。かと思えば実は白鳥というのが「カモ科」に属する鳥なのだと後で教えられ、では彼らも似たようなもの、鳥だしほとんど同じ……「カモはだいたい白鳥」なのだ、と呟いて一人で勝手に頷いた。
きちんと写真を見ると、別にあまり似ていない。首の長さとか、羽の質感なども。
体長が数十メートル以上にもなる巨大な「はくちょう」と、巨大な「かめ」が猪苗代湖には生息していて、一時期は絶滅が危ぶまれたがどうにか持ち直したらしい。今でも毎日、元気に悠々と湖面を泳ぐ姿が見られる。嘘ではないので調べてみてほしい。
種族の名前は「遊覧船」といって、私が訪れた時にも大きな体躯を桟橋に横付けしていた。まったく身じろぎもせず。日本国内では4番目に大きいとされる湖の、縁に立てば果ての対岸が霞む広さをもってしても、彼らの存在感はまったく薄れない。表情は硬質で凛としていた。
そんな猪苗代湖の湖畔に皇族が建てた別荘、天鏡閣が別荘として使われなくなってからのことは、人間よりも彼らがよく知っている。
明治41年竣工、昭和27年には福島県に下賜されて引き続き使われていた洋館。その数十年後には老朽化により利用が中止され、修復工事の完了後、改めて一般公開されるようになった。
令和5年現在、天鏡閣は年末年始であろうと関係なく「無休」で公開されているのがかなり意外だった。本当に年中無休。ここは会津若松に隣接する地域で、寒いとすっかり雪に閉ざされてしまう地域の印象があったため……。それでも、辿り着ける人は辿り着くのだろう。
ちなみに館内に暖房設備はない(玄関口に石油ストーブがあるだけ)ので、冬季の訪問には上着が欠かせない。
建物に近寄りながら抱いていたのは、別荘ではなくてむしろ何かの観測施設に見える、という印象だった。天文台みたいな。多分、望遠鏡を設置して星を見るのに良さそうな8角形の塔屋部分が、それらしい雰囲気を醸し出している。
塔屋に加えて気が付いた。下見板張りの白い外壁は、百葉箱にそっくり。外気温を計る温度計などを納めていた箱。だからなおさら、この建物に観測施設の面影を投影してしまう。靴を脱いで、あの見張り台に上っていきたい。上、空に近い方。
緑色のカーペットが敷かれた階段は、人間が横に並ぶと通れなくなるくらい細かった。どこか万人に開かれていない感じが心を躍らせる。玄関ホールに面していない類の階段は場所が分かりにくく、さらに足をかけにくいほど、何らかの「秘密」を抱いているようで人間を楽しい気分にさせる性質を持つ。
上りきった先が8角形の部屋だった。
望遠鏡はないけれど、眺望はある。空の下に屋根が、屋根の上には煙突があって、黒に近い灰色のスレート板を見ていたら形の違いに気が付いた。四角いものと角が取れたもの、2種類ある。後者は神戸の、旧ハリヤー邸の壁を飾っていたうろこ状の重なりによく似ていた。どうして天鏡閣の屋根の意匠が部分的に違うのかは分からない。
それにしても明るい建物だ。確かに、表から見てもずいぶん窓が多いと思ってはいた。一定の狭い間隔を開けて並ぶ、縦長の上げ下げ窓。明治の頃からこれだけガラスを使っていて実に豪華なもの。おかげで、天鏡閣ではどの空間にいても柔らかな光に包まれる。
そう、お手洗いだって明るい。
右手に窓、正面にも窓。フロスト加工されたような白いガラスが光だけを濾過して個室内に通している。全体的に、他の部屋と同じくカーペットや壁が淡い色合いで、そういえばここはいわゆる別荘であったのだなと再度思わされた。余暇の息抜きで来るような場所に不要な緊張感はふさわしくない。柔らかく、穏やかで、清廉な空気、それがいる。だからそういう造りになる。
あんまりお手洗いが明るくても困るような気がするが……かえって暗すぎるのも良くないという感覚はまあ、ある。お化けが出そうでは困ると。でも休暇の滞在に選ばれるのが幽霊屋敷だったら、物語としては最適なのではないだろうか。ところでこのトイレのハイタンク、自由学園明日館や、台東区の岩田邸で出会ったものに似ている。
流し台の石鹸を置くのであろう場所が、貝殻のような花のような意匠で嬉しくなった。資生堂の「ホネケーキ」シリーズを置きたくなる。それか、何の変哲もない乳白色のハンドソープ。種類はなんでもいい。
天鏡閣の暖炉はどこも人間の心を魅了し、しっかり捕らえて離さないように設計されていて、訪問者の魂を封じるのに重要な役割を果たしているひとつがタイルなのだった。
これら、絵柄の施されたタイルが「マジョリカタイル」と呼ばれるようになった経緯を知るには、19世紀まで時代を遡ってみる必要がある。イタリアからマヨリカ焼(錫の配合された釉薬を用いた陶器)の技術が伝わり、それを受けてイギリスの各陶磁器メーカーが製造して輸出したヴィクトリアン・マジョリカ陶器のタイルが、現在マジョリカタイルと称されているものの元。
後に日本でもそれを模して「和製マジョリカタイル」が作られるようになり、明治・大正期に竣工した洋館内の暖炉などに、実際に使われた痕跡を見ることができる。でも、この天鏡閣の装飾タイルは輸入されたイギリス製のものだった。きっと高価だ。
至近距離で観察すると、表面に線として白く盛り上がった畝の輪郭線があり、その枠に色が流し込まれていると分かる。色数が多く凝ったものの方が目立つかと思いきや、個人的に惹かれたのは単色のものが持つ深み。
たった1色、それだけが巧みに作り出す濃淡の味わいは格別だった。地となる白色の部分と、起伏のある表面を最も効果的に活かしているのは、実は単色のマジョリカタイルなのではないだろうか。そこに驚くほど奥行きがあって。
こんな暖炉のタイル以外にも、凝った意匠の細部を楽しめる場所は天鏡閣に複数ある。
2階の居間に見られた鏡付きの家具、扉がある棚のようなものの、下のところに施された繊細な寄木細工は最たるものだった。はじめは単純に彩色されているのか、と思ったけれど、やはりよく見ると寄木。花芯の部分が灰白色に光っているのがおそらく貝殻で、そこだけは螺鈿なのかもしれない。表面がつるつるなせいで指先で撫でたくなる。
また、1階の撞球室にある椅子の背もたれも素通りできない。なんと装飾が「竪琴」の形をしていた。琴の弦の部分だけがきちんと金属製で、手間のかかった椅子だと感心するなどした。私は他で見たことがない。
椅子の近くに置いてあるビリヤードの玉突台を照らすのは、これまた特殊な形状の照明だった。光に角度がつくと球にも斜めの影が落ち、それが遊戯に影響するために、上から垂直に台を照らせるようになっているのだとか。どこか、ラボで植物を栽培したり、卵を孵化させたりする機械の光熱源を連想させられる。あるいは緑色のスカートを。
ちなみに、玉突台の脚はライオン脚の形。現地に行ったら見てみよう。脚だけが動物を象っているなんて、人間がいない夜中に屋敷の中を駆け廻る風習があるのではないか、と邪推してしまう。軽やか、かつ静かに別邸内を移動するビリヤード台の姿は、相当に恐怖を煽るはず……。
竪琴の椅子のほか、隣の客間を通り抜けた先にある、食堂の長テーブルを囲んでいる方の椅子の背もたれにも分かりやすい特徴があった。縦に細長く、ごつごつした彫刻が施されている。こういったハイ・バック・チェアは私にとって、身近なお話の中に出てくる家具の筆頭であり、ぼんやりした景色の向こうでそこに座っているのはいつも知らない人だった。
あなたは誰なのか。確実なのは、もともと天鏡閣に出入りしていた人たちとは、全く関係のない人物であるということだけ。いいや、人間であるかどうかも分からない。
客間、球戯室、居室、お手洗いなどの他にも、はっきりとした用途が分からない部屋もあるらしかった。便宜上「付属室」と呼ばれているところ。マジョリカタイルのない簡素な暖炉と、魅力的な楕円形の3面鏡が何かを囁きかけてくるので注意して、なるべく近付かない。惹かれてしまうからこそ。
本来の使い方は推測できるようだけれど、普通なら目的があって建てられる建築物の中に、無目的な部屋があるのは面白いし好きだった。それゆえ分からないままでいてほしいとも思う、与えられた役割意外に部屋固有の意思を持たせておくみたいに。
建築物の一部が勝手に増殖して、元の建物とは独立した何かを形成していく話を大昔に書いたことがあり、私にとって家も別荘も等しく本来は「そういう」存在であると判断している時がある。
この話をするには「人間の住む建物は身体の延長である」とする自分の考えの根幹を述べなくてはいけなくなるので、今記事では別にやらない。
天鏡閣の名前の由来となった李白の詩の句。
これは「巴陵開元寺の西閣に登り、衡岳の僧方外に贈る」という詩の一部分、その最後の2行で展開されている場面で、以下のようなものだった。
明湖落天鏡。香閣凌銀關。
登眺餐惠風。新花期啓發。
明湖、天鏡に落ち、香閣、銀關を凌ぐ。
登眺、惠風に餐し、新花、啓發を期す。
洞庭の一湖は、天の鏡と見まがい、香閣は高く聳えて、天上の銀關を凌ぐかと疑われる。
ここに登って、あたりを眺めると、新しい春の花が追追咲き出でんとして居る。
(国民文庫刊行会「国訳漢文大成 続 文学部第10冊」国民文庫刊行会 編 位置No.34 p.270)
方外という僧のもとへ道を問いに赴いた在朝の大臣が、そこ(西閣)で高所から周囲を眺めた際、目に認めた風景が描かれている。
これ、天鏡閣の公式サイトにも、元になった詩の説明をきちんと掲載しておいて欲しい……。
調べるのに時間がかかってしまったので。