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JR徳島線を利用して城下の脇町「うだつの町並み」を訪う - 阿波藍のふるさと吉野川|四国・徳島県ひとり旅(4)

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前回:

 

目次:

 

徳島駅から脇町「うだつの町並み」へ

  • 列車に乗ってみる

 

「JR四国初の駅ビル」として、1993年に開業した徳島駅ビル。

 今年で開業30周年を迎えた。

 

 

 JR四国のコーポレートカラー(と、言うらしい)は明るい水色で、私はこれがとても好きだった。駅名の看板に使われているロゴや、車体を彩るラインにもしばしば使用されている、爽やかな色。

 詳細を調べれば「澄んだ空の青」のライトブルー、と出てきて深く納得するとともに、自分が抱いている印象の方はさらにその空を映した海の色や、風、大気の色の複合なのだとも思う。どれかひとつに留まらず……。高校生時代に四国を訪れた時と、これは全然変わらない。

 特定のものではなくその土地の印象自体に何らかの色を見出すのは、ある数字を眺めて、そこから色を連想するのと少しだけ似ている気がする。

 ちなみに日本列島47都道府県のうちで唯一、徳島県内の鉄道駅には「自動改札」が存在しないのだった。また、県内の全駅に占める無人駅の割合も非常に高く、2022年時点で1位の高知県(93.5%)に次ぎ、徳島県(81.6%)が全国2位となっていた。

 

 

 そもそもJR四国は独自のICカードを発行していない。

 先日香川県の高松を訪れた際に「IruCa(イルカ)」なる存在をちらりと見かけたが、これはJRではなく、私鉄の「高松琴平電気鉄道(ことでん)」が発行しているものになる。どちらかというと乗用車が生活の要となる地域では人口の減少に伴い、必然的に鉄道需要も少なくなり、さらにICカード対応の改札機を新規で設置するとなると1台あたりに多額の費用がかかるため実現が難しい。

 長年にわたり続く赤字(JR四国は昭和62年から一度も黒字になっていないらしい)とそれによる経費削減の影響は大きく、これだと老朽化した古い駅舎を眺めて何らかの趣を感じ無邪気に喜んでいられるのは、まったく私のような余所者の旅行客だけかもしれないではないか……といつも以上に思わされてちょっと気落ちした。先日はJR南小松島駅の「汲み取り式お手洗い設備」に関する報道もあり、どこも大変なのである。

 けれど、例えば東みよし町にあるJR徳島線、阿波加茂駅の駅舎(大正3年開業、昭和63年に改築)を取り壊す計画が持ち上がった際には、それに反対する846人分の署名が地元住民の声かけを中心に集められた。駅舎の建築に愛着を持ち、維持したいと思う人の数はわりと多い。2023年5月時点で取り壊しに関する町の方針は変わっていないが、今後の動向が気になっている。

 

 

 さて、意識を徳島駅に戻し、切符を改札口の駅員さんへ。

 ここから「脇町うだつの町並み」がある穴吹駅までは普通列車で約1時間と数分、特急列車の「剣山」を利用すれば43分程度で到着する。運行本数は少ないが、これなら徳島市内からかなり近い、と言えるのではないだろうか。運転免許非所持者でも、きちんと計画さえ立てれば旅行中に無理をせず足を延ばせる距離にある。

 今回は阿波池田行に乗車。

 車内の席には余裕があったけれど、初めて列車に乗る区域なので周辺の風景をめいっぱい楽しむため、フロント部分の片隅に陣取ってみた。あやしい乗り鉄(初心者)の客である……。プラットフォームから車両が離れていく数十秒間、できるだけ奇声を発しないように堪えながら、ときどきスマートフォンを取り出してカメラのシャッターを切った。

 あっ……「剣山」!

 特急列車「剣山」が対向車線からやって来た! 初めまして! ごきげんよう! 本日はお日柄も良く……うららかな空の下、あたたかい風が吹いており……。かわいいね……。

 

 

 ほどよく錯乱していたら目的の駅の看板が見えてきた。特急列車の登場により、変なチップを頭に刺されたみたいな数分間、多分何かしらの存在に意識を操作されていたのだと思う。

 1時間ちょっとの鉄道旅で、それにしてもあっという間に到着する。改めて地図を見返してみると、JR徳島線は徳島県の北部を、吉野川に沿うようにして東西に縦断しているのが分かった。そう、今回訪れる脇町はまさにこの吉野川の恩恵を受け、「阿波藍」の一大生産地として、18世紀頃~20世紀初頭にかけて最盛期を迎えていた場所。

 ちなみに江戸時代の慶応年間、狂乱のムーヴメント「ええじゃないか」が日本を席巻した際も、阿波(徳島)においてはその流行経路が海岸線に沿っていたものと、吉野川流域に沿って伝播したもの、ルートが大きく分けるとふたつある(参考:西垣晴次「ええじゃないか 民衆運動の系譜」講談社学術文庫)。

 川は物資を運び、人も運んで、時には新たな文化を異なる土地へと接続させる血管としての役割も担っていた。道路とも鉄道ともまた異なる、水の路で。

 

 

 降車したら、大正3年に開業した穴吹駅の改札を出る。

 ちなみに帰りの列車は、往路で乗ったものより明るい水色のラインが印象的だった。徳島線の別称「よしの川ブルーライン」を連想させる外観。電車ではないのでパンタグラフなどが付随せず、身ひとつで勇猛果敢に線路上を走る姿には、愛らしさすら覚えた。

 ディーゼルエンジンの仕様なのか、燃料燃焼時に発生する煤の影響で、車両の上部が黒くなっているのにも注目させられる。かわいいね。

 

  • 穴吹駅から

吉野川と穴吹渡し跡の橋

 

 日本三大暴れ川、というのは「板東太郎」の利根川、「筑紫二郎」の筑後川、それからこの旅で目の当たりにした「四国三郎」の吉野川とされている。

 陽の光が幅の広い水面を輝かせていて本当に綺麗だった。晴れた日はこんなにも穏やかに流れているのに、台風など荒天候時の氾濫においては警戒情報が発令され、周辺のダムから放流が行われる際にも注意喚起がなされる。また、上流に位置する早明浦ダムというのは西日本地域でも最大のものと言われていて、通常時であれば川の水位は適切に制御されているとのことだった。

 この穴吹に石碑が残っているものをはじめ、まだ川に橋が架かっていなかった頃は、舟に乗って対岸へと渡る「渡し」が人々の移動手段。

 吉野川にかつて存在していた渡し場の数は最も多い時でなんと117箇所にのぼるとされ、平成中期にはこれを復活させる催しも行われている。昔から地元住民はもちろんのこと、多くの旅行者やお遍路さんも、渡し船を利用して旅を続けていたに違いない。

 ちなみにこの渡し船のひとつを前身として、大正元年設立の阿波電気軌道が運航していた「鉄道連絡船」が、以前は阿波中原駅~富田橋を結んでいたという。大正11年頃までにはその航路が新町橋まで短縮され、昭和10年、ついに吉野川橋梁が完成して連絡船は役割を終えることになる。

 

 

 美馬市の穴吹でも、現在はふれあい橋が渡し舟の代わりとなって北岸と鉄道駅を結び、通勤通学のよすがとなっていた。歩いていると学生服の姿を最も多く見かけた。

 昔は穴吹橋のあった位置にふれあい橋が架けられたのは、平成4年。この橋の形式はどんなものかと調べてみたら「PCラーメン橋+PC桁橋」と書かれていた。PCラーメン橋とは一体……!? どう考えてもパーソナルコンピューター・塩ラーメンブリッジではない。絶対に、ない。

 てっきり食べ物の「拉麺(らーめん)」のことかと思ったけれど、実はドイツ語「Rahmen」が由来であるらしく、意味は「骨組み」なのだとか。橋の主桁と橋脚とが剛接合されているのがその特徴。また、上の場合の「PC」とはプレストコンクリートのこと。なんとなく渡る橋は、自分が普段あまり使うことのない単語と色々な技術の集積でできていた。建築畑で育った友達に今度会ったら詳しく聞いてみよう。

 

 

 上は橋に関して参考になりそうな徳島県のウェブサイト。眺めているだけで結構面白い。

 ここからしばらく川北街道を西の方角へと歩いてみて、やがて右手前方にあらわれる細い水の路、吉野川から大谷川へと続く流れを辿って行くと、見えてくるのがオデオン座。趣ある洋風の建物で、近くに植えられている柳にも風情がある。

 ちょうど建物の正面が、まるで見守るように町並み保存地区の方角を向いていて、ここから散策を始めるのにはうってつけの立地だと感じた。早速。

 

脇町劇場 オデオン座

 

 うす水色をした板張りの外観からしてもう興味をそそられる。

 入口と出口に挟まれる形で券売所のスペース(札場)が存在しており、左右の1階と2階にはそれぞれに上げ下げ窓と、ひし形の装飾が。軒下の半円部分には赤、黄、青などの板が嵌められていて、その色合いがたまに感じる「あの」不思議な懐かしさを演出しているのだった。駄菓子のパッケージみたいな組み合わせの可愛らしい3色だから、尚更そう思えるのかもしれない。

 受付の窓口の上にポツンと灯っている電灯が鬼火だった。そういう魔の一種で、自分の意思とは関係なく魅力に引き寄せられ、絶対に中を見学しなければならないと思う。

 昭和9年に完成したオデオン座は、芝居小屋。建設計画や資金調達に関わったのは地元住民と町内の事業家の方々のよう。戦後も映画館として使われていたが平成7年に一度閉館し、老朽化による取り壊しも視野に入れられていたところ、平成10年に美馬市の指定有形文化財となる。こうして価値が認められたので、今後も長く残るであろうことが予想できるのは嬉しい。

 

 

 脇町のオデオン座が注目を集めたきっかけは、山田洋次監督の映画「虹をつかむ男」のロケ地として使用されたことだった。一般公開にあたっては、美馬市の有形文化財指定後に大規模な修復が行われ、当時の姿を楽しめるようになっている。このように建物を見るだけではなくて実際に何かの演目が上映されるときもある。

 入館料は大人200円。

 ちなみに愛媛には内子座、香川には金丸座、という施設が残っているらしく、この徳島のオデオン座を含めた3つが四国で現存する貴重な芝居小屋なのだそう。他のふたつも訪れてみたくなる。

 2階建ての内部は花道やうずら桟橋、奈落に回り舞台も備わっている本格的なもので、西洋風の外観との対比がまた趣深い。入って来るときと出て行くときで印象が変わり、自分はさっきと違うところに立っていたのではないかという錯覚を抱かせる。そうして内部を歩き回り、舞台の上を仰げばおなじみのぶどう棚が……あのがっしりと組まれた格子越しに花吹雪が降ってくる、そう思って目のところに手をかざすけれど、誰もいないから別に何も起きない。

 今は無人の劇場だった。足下の板からどんな音がするものか、ごく軽く飛び跳ねてみる。役者が舞台上で立てる音には空気を変容させる力があって、それが建物の空間と呼応して、観客の五感に訴えるのが面白い。

 

 

 館内はほどよく暗くて、提灯を模した明かりが点っている。

 控室と勝手口に続く通路の脇、なんということはないキッチンも可愛らしく感じられてしばらく眺めていた。簡易的な厨房の設備からはいつもお茶や軽食などの「気配」がする。手の込んだものではないけれど、疲れた時などに提供されると、芯から安心させられるものたちの存在。水を出してお湯を沸かしたり、食材に熱を加えたりできる基本に必要な仕組みが揃っている良さ。

 振り返れば最近はお芝居や演奏会から足が遠のいており、もしかしたら自分の生活に足りていないものは、劇や音楽なのかもしれない。かといって猛暑の中積極的に外出する気にもあまりなれず、だいたい家か会社にいる。冷房の効いた空間にいないと命にかかわる予感がするし……。

 オンラインで配信されている演目のチケットを買って視聴するか、涼しくなったら実際の劇場へまた足を運んでみるか。来ていく服を選んだり現地の付近で何か食べたりするのも楽しいんだよねえ、と思い出す。

 この旅行の時期はまだ涼しくて、オデオン座から橋を経由し川を越えて町並み保存地区へ向かう道すがら、風を感じられて快適だった。少し曇っていたのもちょうどよく。

 

 

 

 

  • 美馬市・脇町うだつの町並み

よく知られた「うだつ」に出会う

 

 うだつは「うだつが上がらない」という言い回しによって人口に膾炙している存在。

 その語源が建築物に付随する「梲(卯建や宇立とも、古くはウダチと発音か)」であることも既にわりと広く知られていて、けれど日常的に実物を目にする機会がある人の数……といえば、そこまで多くはないと思われる。桃山時代以降、特に江戸時代頃に建造された商家が立ち並ぶ地域でないとなかなか残っていないもので、現物を間近で観察できる場所があれば貴重かも。

 本来は主に防火や防風の目的で設けられていたものだが、やがて装飾のために設置されることも多くなり、その資金の関係で「家が栄えていなければ取り付けられなかった」背景から「うだつが上がらない」は「出世できない・頭角をあらわさない」ことを意味するようになったのだった。

 徳島県美馬市、脇町の突抜町・町南エリアはいわゆる「重伝建保存地区」に指定されており、これは以前に足を運んだ長野県・南木曽町にある「妻籠宿」との共通点。妻籠宿は中山道の宿場町だったが、この脇町はかつて存在した、脇城という城の城下町だった。

 

 

 ここではうだつの他にも虫籠窓、蔀戸、出格子など、商家の特徴的な建築をたくさん目にすることができる。お店などが開く前の時間帯から足を運ぶのが個人的に好きで、静かに歩いているだけで人間のいない世界に迷い込んだような気分が味わえるのだった。そこは地図のどこにも載っていない、「似ているけれど違う場所」かもしれない。

 2階部分の虫籠窓から何か人ならざるものがこちらを見てはいないか、神経をとがらせてみる。いたとしても気が付けないだろうけれど。足元の地面はごく細かい石が固められたような舗装の仕方で、どんなにそっと歩いていても必ずじゃりじゃり音が鳴る。

 保存地区の区間はわずか数百メートル、しかし立ち止まりながら色々な部分に目を向けたり、少し大通りを外れてみたりすると発見が多くて退屈しない。魅惑の三叉路があったり、松屋小路と呼ばれる、昔は呉服商が暖簾を掲げていた細い通りがあったり。上の写真がその小路を写したもの。

 現地にあった説明文を引用する。

 

吉野川の水はかれても松屋はびくともしないほどの呉服商が小路の東側にあった。
この松屋の名をとって松屋小路とした。

 

 

 植物の鉢を表に出していたり、蔦の這っている壁があったりと、全体的にうす緑色の空気が漂っていてとても良い。大通りに繋がっているのに雰囲気は全然異なっている。

 以前はここに大きな服屋さんがあり、たいそう繁盛していて、人々がその前を行き交っていた。現在、その様子は街の影の方に記録されているみたいだった。光の側には出てきていない。年月が経つとあらゆる出来事が溶けて影になる、地層のように堆積したり、木の梁が煙で燻されるのに近い形で焼き付いたりして、「今」の流れから決して切り離されずに存在し続ける。

 全然関係ないのだけれど、今いちばん読みたいと思っているファンタジー小説はP・A・マキリップの「影のオンブリア (Ombria in Shadow)」。試し読みで、そういう影と隣り合う世界の情景描写に相当な魅力を感じたのと、同著者の「妖女サイベルの呼び声」(原著・英語版)がとても面白かったので。

 

阿波藍が町の繫栄の鍵

 

 この脇町南町が隆盛を誇った大きな要因は、16世紀半ばから阿波藩主の蜂須賀家政と、家老の稲田植元により積極的に「阿波藍」の生産が推し進められたことにある。

 気候に恵まれただけでなく、吉野川の恩恵——本来であれば稲作や農業に害をなす洪水の影響を受けて、肥沃な土地での連作が可能になっていた、原材料のタデアイ(小上粉など、品種はさまざま)。これを多量に収穫できる環境を整え、また品質を向上させるために技術の改良が行われたという。

 江戸から明治にかけて阿波藍の需要が大幅に増加したのには、近隣の大都市、当時の大阪(大坂)における綿の栽培量が増えていた背景もあった。収穫した綿で作られた布製品を染める染料として、ということだ。藍は絹にも綿にもよく色づいた。やがて明治36年には藍栽培の面積が1億5千万ヘクタールにまで広がり、ピークを迎えるが、その後減少する。

 

 

 上の時点ですでに、阿波藍の生産量は国内の需要に追い付かず、安価な輸入藍(沈殿藍、合成藍)によって部分的に賄われていた。

 つまり、それだけの面積で作っても必要な染料の量に間に合わなかったことが示されている。

 

 一口に「藍染料」と言っても色々な種類があって、まず大きく

・天然藍

・合成藍

 のふたつに分類することができ、阿波藍は前者の天然藍に属する技法。

 

 さらに、天然藍は

・生葉染め

・すくも(蒅)

・ウォード

・沈殿藍

 など、藍の加工方法やそれを使った染色方法によっても違いが出る。

 

 阿波藍はこのうち「すくも(蒅)」を用いる染色法に属し、葉藍の塊を砕き発酵させて作る点で希少なやり方(同じ天然藍の中でも、沈殿藍の方は色素を水で抽出するのでまた異なる)が採用されているのだった。

 藍産業振興協会のサイトに概要が載っている。

 

 

 私は付近にあった「道の駅 藍ランドうだつ」でお土産用に藍染めのハンカチを何枚か、それから自分用に「徳島・脇町 うだつがあがるせっけん」をひとつ買った。藍の成分と植物保湿成分(シンビジウムエキス)が配合されているらしい。シンビジウムというのは蘭(ラン)の一種で、藍といい蘭といい、どうやら草花の持つ効能が詰め込まれているみたいだった。

 配ったお土産のハンカチは好評で、せっけんも先日無事に使い切る。きちんと泡立つし、素朴な香りがして良かった。

 せっけんの製造販売元「株式会社河野メリクロン」は脇町に本社を置く企業で、長野県の小諸には試験場がある。シンビジウムをはじめとした洋ラン栽培、品種改良と、それに関連製品を主に取り扱っているよう。

 

 これらのお土産を買った「道の駅 藍ランドうだつ」は、旧吉田家住宅の裏手にかつてあった舟着場跡に繋がっていた。

 

旧吉田家住宅

 

 阿波藍を扱う商家はすなわち藍商で、この脇町にある中でもひときわ隆盛を誇った家が、吉田家であった。屋号を「佐直」という。おそらく、「佐川屋直兵衛」の屋敷であったことに由来するのだろう。寛政4年頃の建築物が今でも残り、内部を見学できるようになっていた。

 大人の入館料は510円。

 この旧吉田家は町でも最大の敷地面積を誇っているだけでなく、その上に建った家屋の構造自体もかなり魅力的で、2階や厨や中庭に至るまで見どころ満載だったのが嬉しい驚き。少ししてそれが、むしろ商家らしい特徴なのだと思い直す。うだつと虫籠窓、出格子など典型的な外観はわりと簡素に見える分、内装の方にこそ力を入れているところは。

 昔は障子戸を引けばすぐ吉野川を望むことができ、大きな門の外、積まれた石垣のすぐ近くにまで水が来ていたとか。それを利用して船を使い物資を運搬していた。荷物を積んだり、降ろしたり、働く人々が行き来していた石畳が私の靴の下にもあるということ。

 

 

 箪笥の中に展示してある「箱膳」は食器のセット。食事ごとに出したりしまったり、毎回水洗いすることはなく、布巾などで拭いてまた使っていたらしい。

 2階にある板の間は倉庫として利用されていたほか、場合によって奉公人たちの寝床になったかもしれない旨の記載がある。同じように寝転がることはできないけれど、あまりに夏が暑いのでつやつやした床にはペタっと張り付いてみたくなる。格好が不審になるのでやらない。

 その横には「阿波の労働事情」なるパネルもあって、藍の生産には多大な労働力を必要としたことと、それにより職にあぶれる心配は少なく、他の地方でしばしば見られた「人身売買」の例も少なかったかもしれない……という説明があった。

 確かに丁稚奉公などと言えば聞こえはいいものの、金や米と引き換えに子供をどこかへやってしまうことは口減らしでもあるし、対価が発生している点で人身売買なのである。身近に仕事があれば、遠くの町で「人質状態」になることは避けられるが、その労働と共にある生活は果たしてどのくらい快適で、どのくらい過酷なものだっただろうか?

 国内の藍のほとんどが阿波で産出されたもので賄われていた時代、令和の世界に暮らす身で想像することは難しいので、こうして町に残された痕跡から推察・空想を膨らませるしかない。歌が聞こえてきたり、戸を開け閉めする音が響いてきたりする。

 

 

 見学していて面白いのは、一応、全体を回りやすいように定められた順路に従って動いてみてはいるものの、ある階段を上って別の階段から下りてくることですぐに感覚が狂うところ。しかも、それが幾度となく繰り返されると本格的に空間把握が難しくなる。

 建物は外から眺めるよりも、内側から探った時の方がずっと広く感じられる。

 もう人の住んでいない家が管理されていると「擬態」を感じるのと同じで、建築物の外観はそれ自体が空間の擬態の結果というか、そこに内包しているすべての時間と事物、人物の痕跡を風呂敷のように包み隠しているのだと思わずにはいられなかった。だとするならば建物が立ち並んでいる地上の一区画というのは、ひとつの陳列棚であり仮面舞踏会の会場でもあるらしい。

 こう考えると「町並み保存地区」という場所が帯びている性質、重層的な在り方がさらに興味深くなり、そこが単に古い景観を保持しているだけの領域ではないことがよく分かるのだった。

 

 

 最後、これより先に進んだら重伝建保存エリアが終わっちゃうんだけど……という地点で自分に内蔵されたある種のセンサーが反応しまくり、首を傾げつつも信じて進んでいったら自働電話をひとつゲットした。この直感は信頼できる……。

 箱が末広がりではない、ストンと垂直に立った六角形タイプで、凛々しくも可愛らしい佇まいだった。小豆の色で。

 今日は脇町の周辺で1泊する。

 

 

記録は(5)へ続く……。

 

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