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彷徨する自由帖

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「どのドアもがっしりした木の、ノブはカットグラスだった」田辺聖子《夜あけのさよなら》より|近代建築に恋する曲がり角

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どのドアもがっしりした木の、ノブはカットグラスだった。
しずかにまわすと、どの部屋も、ドラキュラ城のように、荘重に、神秘的にギイ……と開いた。


(新潮文庫「夜あけのさよなら」(1977) 田辺聖子 p.142-143)

 

 思いがけない出来事やものに、まったく思いもかけない場所で邂逅するのは、大好きだ。それが心ときめくような、素敵なものであればなおさら。

 数日前に古本屋で買った小説のうち一冊に、田辺聖子の「夜あけのさよなら」があった。今から45年以上前に刊行し文庫化された本。そしてその途中、上の引用にあるような、カットグラスのドアノブが颯爽と登場したのである。まるでどこかの角を勢いよく曲がって衝突するみたいな、あまりに突然の出会いだった。開いたページを前にしばらく唖然としてしまったくらい。

 だって、これは建築の本じゃないし。裏表紙のあらすじに「バラ屋敷」と書いてはあったけど、特段、その描写を期待して読み進めていたわけでもない。

 なのに、常日頃から求めてやまない存在が、いきなり目の前にあらわれた。別のもののことが書いてあるのを勘違いしたんじゃないか、とも考え直したけれど、やっぱりそれは私が想像しているものと同じだった。

 

 カットグラスの美しいドアノブ。

 私は初めてそれを見た場所で「透明なクリスタルのドアノブ」と表記してあったのに影響され、クリスタルのドアノブと言ったり、あるいは単純に透明なドアノブ、と呼んだりしていることが多い。眺めているだけで、心までその核に閉じ込められてしまいそうな氷の塊。そっと、なめたりかじったりしたくなる。

 これまでに私が国内で、自力でそれらを発見した建物は今のところ6カ所。

 いずれも大正後期から昭和初期にかけて竣工したものであるのが共通点で、すべてが同じところで調達されているとはもちろん限らないが、当時のアメリカの店で取り扱われていた商品を輸入していた可能性はわりと高い。

 

①駒場公園の旧前田家本邸。

 

 

②成城みつ池緑地の旧山田家住宅。

 

 

③近江八幡の旧八幡郵便局。

 

 

④横浜の山手89-6番館、現えの木てい。

 

 

⑤池之端の岩田家住宅。

 

 

⑤函館市の北方民族資料館(旧日本銀行函館支店)。

 

 

 以上のどの建築にも、透明なドアノブがあるという事前知識なしに訪れ、現地で突然の邂逅をした。そのたび見事に恋に落ちている。

 そして田辺聖子の小説「夜あけのさよなら」作中に登場するお屋敷は、兵庫県・明石市の設定となっていた。淡路島の望める須磨公園の山手、青々とした蔦に覆われた、もの寂びた古い洋館なのだと本文中に記載してある。付近にある実在の洋館だと思い浮かぶのは旧西尾邸(今はレストラン神戸迎賓館)で、もしかしたらモデルはそこかもしれない。

 訪れてみたい近代建築がまた増えた。

 

 ちなみに小説は、物語の内容の方も興味深いものであった。

 描かれている時代背景はこの令和と大きく異なるけれど、若年層の人間が経験する普遍的な感情の変化、機微や、タイトルに象徴されるような切なさが、くどくない程度に丁寧に紡がれていて。

 

わたしは初めて、向うの男もイキモノで、勝手にうごくことができ、婚約しようと結婚しようと彼の都合しだいで、わたしは何の文句もいう権利もないのだと気付いて愕然とした。
(中略)
べつにどうでも笠井くんと結婚したい、なんて思っていないわたしなのに、この、ガックリきた気持はどう表現すればよかろう?

 

(新潮文庫「夜あけのさよなら」(1977) 田辺聖子 p.28)

 

 特に恋愛感情などは向けていないのに、ある人間が誰かと交際しているのを見て、なぜだかがっかりしたような気分になってしまう経験。意外と多くの人が、この感じを知っているのではないだろうか。

 例えば、好きな著名人の婚約発表などに揺れるファンの心理も根幹は同じだと思う。自分が本人と付き合いたいと思っているわけではない。けれど、特別に心を寄せている存在であることには疑いがなく、その誰かが別の誰かを一番に大切にしている、というのはやっぱり切ないことなのだ。

 ままならないし、切ない。だからといってどうすることもできないのだから仕方がなく、だからこそ、こんな風に小説に描かれた架空の事例を読むことで、人は時に慰められたように思うのかもしれない。