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彷徨する自由帖

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ラインの館(旧ドレウェル邸)- 燐寸の火と硝子の向こうの家|神戸北野異人館 日帰り一人旅

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 階段の踊り場にツリーがある。

 金属的な光沢をもつ球形のオーナメントには、周囲の光景が湾曲して映り込んでいて、まるで世界ひとつが小さな飾りの玉に封じ込められているみたいだった。すべてが金色や、赤色でできた世界。はっきり見えるものもぼやけて見えるものもある。

 たまに近くを通りかかる人が映ると、それらの球の中で動いているようにも見えた。

 あるお話に登場する塔の姫君が、長い髪に編み込んでいた真珠のアクセサリー(糸で粒どうしを繋ぎ合わせたものを、髪の毛に絡ませて使う)を知っている。モミの木を飾るオーナメントも、どこかそういうものに似ていた。

 

 

 生活文化的に、クリスマスはだいぶ自分から縁の遠い行事である。

 けれど、それにまつわる音楽会などの催しが、広い街のどこかで行われていると考えるのは楽しいことでもあった。それが旅行先など、自宅から離れた場所であるなら尚更かもしれない。生活から遠いところにあるものは、身近なものに比べて容易に好きになれる。もちろん、その反対もまた然り、なのだが。

 同時にこの時期の往来を歩いていると、道路に面した窓の、ガラスの内側の温かさを連想して寂しく思う。

 透明な板の向こうに広がる情景は完璧な形で保存されている。暖炉に燃える火、食卓のごちそう、ささやかな談笑……実際に中を伺ったわけではないから、単なる幻なのかもしれないけれど。

 

「ああ、あたしも、いっしょに連れていって!

 だって、マッチの火が消えちゃえば、おばあさんは行っちゃうんでしょ。さっきの、あったかいストーブや、おいしそうな焼きガチョウや、それから、あの大きくて、すてきなクリスマスツリーみたいに!」

 そう言って、少女は、たばの中にのこっているマッチを、大いそぎで、みんな、すりました。

 

(青空文庫「マッチ売りの少女」H・C・アンデルセン 訳:矢崎源九郎)

 

 あとはブレーメンを目指した動物達のうち、ロバが覗き込んだ強盗の家も思い出す。外と内の差異を、他の時期よりもずっと強く意識する。冬は、とても寒いので。

 自分がヨーロッパの隅で過ごした幾度かのクリスマスも脳裏に浮かんだ。

 だいたいは家族のいる場所に帰ってその夜を過ごすのが習わしだから、人が出払ってがらんとした寮は実に静かなものだった。自分以外にも残っている何人かの学生と集まって、食べるものを作ったり、談話室で映画を鑑賞したりしたのは面白い時間だった。

 

 

 ラインの館(旧ドレウェル邸)は開館していれば誰でも自由に出入りできる異人館であり、展示内容に関しても、周辺エリアの紹介や歴史について、また1995年の阪神淡路大震災の被害についても詳細がわかる施設となっている。異人館街の所謂エントランスを兼ねてるのだろうと思う。

 以前行われた耐震・防火のための工事を経て公開されていて、ガラスケースの中には当時のレンガや、換気口部分の鋳物も並べられていた。

 大正4(1915)年に竣工した木造2階建ての洋館。ラインという呼称は歴代の居住者のひとり、オバーライン氏の故郷であったドイツに流れるライン川を意識すると同時に、オイルペンキの塗られた、下見板張りの外壁を横に走る直線も相まって選ばれたものらしかった。

 何より気になったのは、照明器具。

 

 

 

 

 天井のものも、壁に取り付けられたものも、どうしてこんなに魅惑的なんだろう。

 そのあたりを漂っていた無害な光る存在を、巧みにガラスの壺で捕まえて、そのまま吊るしているのではないかと思わされる照明。あるいは施されているのが葡萄の葉や実をモチーフにした柄だから、もしかしたら、葡萄畑から直接光を連れてきたのかもしれない。食べ物か何かで誘って。

 果実のひとつひとつに宿っていた光の精霊……クリスマスツリーを飾る、あの赤と黄色の、きらきらしたオーナメントの同類。

 最近は「葡萄の意匠」の魅力を再確認する機会が多い。少し前、果物を盛る盆のような皿の支柱の部分に、金属のツタが絡んでいた食器などを他の洋館で見て、好きになった。ここでないところだと千葉の旧神谷伝兵衛稲毛別荘にも、心惹かれる葡萄の透かし彫りやレリーフがある。

 

 

 それから、この電燈の笠部分は氷砂糖だなと思って眺めていたのを思い出す。

 表面にフロストしたような模様があって、さらさらしている。氷砂糖でなければモナカの表面を連想する。薄くて、軽やかで、指先で端をつまんだらぱきりと割れてしまいそうだった。口に含んだらほのかに甘いかもしれない。こういうものだけを食べて存在する生き物になれたら、さぞかし気分が良いだろう。

 どうして照明器具に惹かれるのか。本当のところは分からないけれど、それは自分が夜を愛好していることと決して無関係ではない気がする。

 穏やかな暗闇に身を浸していると仮定して、ふと目を開けたときに遠くの方で揺れる明かりを見つけたら警戒する。警戒と同時に、好奇心もおぼえるだろう。炎か他の光か判別できないそれはまたかすかに揺れる。この島の鬼火も、遠い西方の島に現れるウィル・オー・ウィスプも変わらず、人間を惑わせるものには違いない。

 

 

 異人館街の半分を見渡せる2階に来た。

 こうして壁の3面が窓になったサンルームは実に素晴らしい空間で、白昼の空を眺めながらお茶を飲むのに適した場所に、これほど適している場所も珍しい。庭や丘の上、屋外に出て行うピクニックでは欲求を確実に満たせない場合がある。ガラスに隔てられていることが、何かを受容する際に必須の条件になっているとき。

 水を濾過するのと似ていて、光も濾過されるとより磨かれるような気がする。

 近代以降に作られた照明器具の多くは光源がむき出しになっておらず、囲いや覆いなどで炎や電球を守られているが、それには部屋など照明の周囲の空間をより効果的に美しく照らすための役割もあるわけだ。直接ではなく、隔てられているから良いのだと。

 

 

 今度は外側に回って2階を見上げてみると、青く晴れ間の見える空が窓に反射していて、静かな水面のようだった。

 あの向こう側にもきっと、今自分のいる場所とはまた別の世界があるのだろう。

 かじかむ手を温めるマッチの火を覗き込めば、その一端が覗けるかもしれない。もうすぐクリスマスがやってくるようだから。とはいえ、この散策記録は昨年のものなのだが。