chinorandom

彷徨する自由帖

MENU

山形日帰り一人旅(1) 思い立ったが吉日、まずは時間に燻された旧山寺ホテル(やまがたレトロ館)へ

※当ブログに投稿された記事には、一部、Amazonアソシエイトのリンクやアフィリエイト広告などのプロモーションが含まれている場合があります。

 

 

 

 

 日帰りで、山形県の山寺、という場所に行ってきた。

 

 

 実は一緒に行こうと話していた友人がいたのだが、急遽、かなり面白い理由で当分先の予定まで隙間なく埋まってしまったとのことなので、いつも一人旅ばかりしている私は今回も変わらず、単独で目的地に足を延ばしたのだった。

 面白い理由……というのは、その子が某3次元アイドルの深い沼に突然(本当に突然)落ちたこと。供給され続ける情報の収集や、ライブチケットを取るのにも難儀する超人気のグループらしく、結果として時間と金銭の双方がすべてそちらへ吸い込まれているらしい。俗にいう推し活を楽しめているようでなにより。

 他人事のような気がするけれど、私の方も何かのボタンが押されると血眼で好きな作家の本を読み漁ったり、感想を書き散らしながらずっとそのことを考えたりしているので、突き詰めてみればやっている行為は大して変わらないと思う。何かに夢中になるってそういうことだ。しかも一点集中型なので、一度に一つのことしかできない。そのうち、ちょっと飽きてくるまで。

 

 普段は不定休、シフト制の会社で勤務しており、友人に上の連絡を貰った次の日の平日が休みだったから、しばらく考えた。明日にでも山形に行けるかどうか。

 もちろん行けることには行けるだろう。しかし周辺にあるものを色々見てみるなどして、さらに夜には帰宅することが、可能なのか。所要時間を調べてみると自分の気力と体力次第で可能に思えた。それで、早々に布団に入って眠った。

 日帰り旅行は荷造りが要らない点がいちばん好き。お財布と携帯電話と、文庫本と水筒。無いと困ってしまうのはこれらだけ。鞄一つで飛び出して、途中でも、無理になったら適当に戻ってくればいい。そこに電車やバスが通っているなら、時間がかかっても必ず帰ってはこられる。

 

 日付が変わって起きたら、身支度をして朝4時頃に家を出る。少々早いがこれには理由があった。

 自宅の最寄り駅から始発の電車に乗りたい。しかし……住所は首都圏だが実際のところ森のような場所に住んでおり、いずれの鉄道駅も家から遠く、始発に間に合う時間帯にバスが運行していることもめったにないので、その場合は1時間程度を費やして駅まで徒歩で行くのが常だった。

 それ自体は構わない。歩くのは良い。車とも、電車とも、飛行機とも違う移動手段。何かが私を運ぶのではなくて、身体を操縦することで、自分が自分をそこへ連れて行く。足を動かしているとたまに意識の方が「いま、ここ」を遠く離れ、まったく別の場所を彷徨っているときがあるのも、不思議だし面白い。散歩は思索を捗らせるのに効果があるとの科学的な研究もあり、私は実感としてそうだろうなと思っている。

 

目次:

 

東京駅から山寺駅へ

 

 始発に乗って、今度は乗り換えて、東京駅に到着してすぐみどりの券売機に張りついた。眼球がすばやく動き、その軌跡を辿るようにパネルの上を指が走る。間違えて変なところを押さないように。

 10分後にホームを出発する便に乗りたい。東北新幹線で仙台まで出て、そこからJR仙山線を使い、山寺の駅まで向かう算段だった。より目的地に近くて便利そうな山形新幹線の方は、本数が少ないので希望の出発時間に合うものがなかったのだ。ところで前の日の夜、仙山線は鹿か何かの動物の影響で夜間に運休していたらしいけれど、もうきちんと動いているみたい。ほっとした。

 そういえば3年前に北海道の札幌へ行ったときも、新千歳空港から市街地へ向かう電車が途中で、鹿の飛び出しに急ブレーキをかけていた……。自然豊かな場所を走行する電車は毎日大変なのだろう。動物だけじゃない。悪天候による山間部の土砂崩れ、倒木、それはもう日々の懸念が多いはず。閑話休題。

 

 思えば、一人で新幹線に乗る際、今までは必ず事前に予約をしていた。他人と一緒にいるときしかこれほど直前に席を確保したことはない。そう、まあまあな心配性なのだった。

 案の定、座席の大半は埋まっていたので、いつもと気分を変えて空いているグリーン車を選択してみることにした。実は初めて利用する車両。よく知らないなりに静かそうでいいな、と以前から感じていて、果たしてその実態は期待通りだった。

 グリーン車は照明が少し落とされているのだろうか、ぼんやり橙色に感じられる周囲の空気には、眠気を誘われる。座席もしっかり、なおかつゆったりとした感触が背中から伝わる。

 なるほど快適さを標榜するのは伊達ではない、と、考えながらグリーン車の特徴を改めて調べてみたところ、「乗車口が階段の位置に近くなっている」と書いてあったのに目を見開いた。なるほど、確かにそうだったはずだ。券売機で切符を買って、急ぎ足でホーム階に上がってから、ほとんど歩かずに目的の車両へ辿り着いた。

 便利だな。グリーン車、こういう感じならまた利用してみよう。

 

 よほど陽射しが強いのでもなければ、私はいつも、首が痛くなっても構わず、新幹線では窓の外をずっと見続ける。

 すると今回は東京駅を出てしばらく、宇都宮駅を越えたあたりから、比較的大きな家の屋根が気になってくる。いわゆる箱棟のような形になった、屋根の上の帯を思わせる装飾の表面に、特徴的なひし形の意匠が施されているものの数が増えてくる。やがて、特定の区画を通り過ぎるとほとんど見られなくなるから、そこに地域性を感じた。

 官庁建築や豪邸ではなく、民家に顕著な特徴というのは本などにまとめられていたりいなかったりするので、それがどういう理由で施されているものなのかを調べるのは結構骨が折れる。旅行先のみならず、自分の暮らしている周辺地域の家々も観察してみたら、意外と変わった特徴がたくさん出てくるかもしれない。

 見慣れていて、当たり前にどこにでもあると思っていた形が、実はそこにしかないものだったら面白い。

 

 ……さあ、仙台に到着した。ここからはJR仙山線に乗る。

 地図を見るからに結構な山のあわいを走る路線で、すごそうだな、と予想していた通りに車窓から見られる風景はすごかった。気分は聖書の出エジプト記で海を割ったといわれるモーセ。両脇から迫りくる緑の葉を揺らし、快速は結構なスピードで、そこにもう線路しかない場所を走行する。特に作並駅を過ぎてからは、この風景のすさまじさが顕著で驚いた。草、木、森、山。おまけみたいな空……もう、それしかないのだから。

 進行方向側の先頭車両に乗るとガラス越しに前方を確かめられるので、気になるならそこに立ってみると興味深い景色が楽しめるかもしれない。

 畳みかけるようにやってきたもう一つの驚きは、とあるトンネルの長さ。

 それこそが昭和12年に開通した仙山トンネル(隧道)で、開通当初は日本国内でも片手の指に入るほどの長さを誇っていた。別名、面白山トンネルとも呼ばれており、そのまま付近にある山の名前に由来する。延々と続く暗闇のほか、トンネル走行中に鳴る相当な大きさの音も特徴的で、何も知らなかった私は本当にびっくりしたのだ。怪獣の鳴き声と錯覚するくらい、鋭い音が鼓膜を圧迫する。

 電車が何者かに襲撃されたのかと勘違いしてしまう。現代における敵襲、恐ろしい。

 

 でも、ここまでくればもう山寺駅は目と鼻の先。

 

 

 さっきまでの暗闇と轟音が幻だったかのようにぽっかりと空間が開け、静かに停車した車両の扉からホームに降りて、太陽の照り付ける地面を踏みしめた。山形県。山寺駅。生まれて始めて訪れた場所、こうして一人で。

 いつもみたいにわくわくしてきた!

 また私の五感は、これまで知らなかった土地を、改めて知る。匂いや音も含めて。

 

 実はこれから見学しようと思う近代建築、旧山寺ホテルも、たったいま降車した仙山線とかなり縁が深い。仙山線があったからこそ誕生した宿泊施設で、それゆえもしここに鉄道を通す話が持ち上がらなければ、こんな風に建てられていなかったかもしれない。

 駅の出口から、徒歩数分で辿り着く。

 

 

 

 

旧山寺ホテル(やまがたレトロ館)

 

 この唐破風の佇まい。いいなぁ。銭湯なんかもたまにこういう外観を採用しているところがあって、それも好き。何が自分の琴線に触れるのか考える。このゆるやかな曲線なのか、装飾の感じなのか。瓦の端っこに施された丸い部分のリズム感とか。もちろん、全部の視覚的要素が、複合的に魅力を放っているのだとは思う。

 旧山寺ホテルの場合は玄関の、四角い箱かお豆腐みたいな看板に記された文字の佇まいがたまらず、上の唐破風屋根との組み合わせでしっかり鑑賞者の心を掴みにきていた。かつては夜間、これを内側からぼんやり、電気で光らせるなどしていたはず。その様子……通りの向かいから、静かに眺めてみたかった。

 白いお豆腐型の看板。これは旅館やスナックの看板などにもたまに見られ、それらに類似のデザインには、個人的に惹かれるものがある。

 こちらの施設の見学は無料なので、とりあえず引き戸を開けて中に入った。名簿に名前を記入して、まずは1階の奥、順路に従って執拗に見ていく。改装というほど内部がいじられた痕跡はなく、それゆえ確かに大分くたびれた感じはあるのだが、おかげでほとんど当時のまま残っている部分を直接味わえるのだとも言えそう。

 

 

 旧山寺ホテルはもともと、JR仙山線の開通にあわせて大正5年頃に建てられた旅館だった。平成19年の閉館までは現役で営業していたそうなので、それなら結構最近だ、と驚く。私が生まれてからもしばらくはやっていたということだ。今は館内の一部が一般公開されており、大きく傷んだ部分の補修のため、玄関に募金箱の設置がされているようだった。

 その現状もあってか、あーっ、ここ、ものすごく気になるから近寄ってじっくり見たい、と思わされる場所には残念ながらほとんど入れない。しかしこれも、建物の修繕資金が集まればいずれ見学できるようになりそうで、こういった近代建築を愛好する人間としては応援したかった。特に2階以上の建物は耐震設備などにも懸念があって、おいそれと公開するわけにはいかないのだろう。たとえば鎌倉文学館もそう。

 味があるし、市民ギャラリーや各種会場としても利用できるようだし、できるだけ長く残ってほしいな。

 部屋を通り抜けて中庭の方面に出ると、立石寺、通称山寺を擁する山の姿がはっきりと見える。夏の盛り、快晴、東北地方といえど山形県の8月、例年と同じく猛暑だった。冬は寒さが厳しく、夏も暑くて大変だろう。ただ風に関しては、関東地方よりも幾分か乾燥しているような気がするのは、錯覚だろうか。蒸し暑いというよりは、どちらかというと陽射しに容赦なく焼かれたのが印象的な感覚だった。

 

 

 階段の付近。こういうのはとても好みの装飾のひとつだから、そのまま持って帰りたくなるのだ。壁が何かの形にくり抜かれていて、そこに透かしのごとく木の格子をはめ込み、少し向こう側が見えるようにしている。完全に区切られるのではなく抜ける空間ができることで、壁として機能しながらも人に閉塞感を与えない。

 ときめきを司る魔が棲みつく場所。私も不可視の妖怪となってここにしばらく滞在したいし、夕刻になったら訪問者をちょっとだけ驚かせて遊びたい。

 ある地点でふと呼ばれた気がして廊下の上を見たら、何かがあった。赤いガラスのボトル。巻かれている紙のラベルはくすんだ色をしていて名前が視認しにくく、目を凝らしてみると、どうやらガラス瓶の消化器みたい。そう、瓶に入った消火液!

 こういうものの類で、ラベルに「消火彈」ではなく「消化器」と書かれたものは初めて見るかもしれない。調べてみるとよく出てくるのは前者なのだが。瓶の消火液は使い方も面白くて、有事の際には火の元に直接投げつけたり、あるいは中身を振りかけたりして使うみたいだった。うーん、面白い。

 その形態は火炎瓶に似ているけれど、用途は逆なのだ。

 

 

 旅館、その広縁に相当する空間に関しては、もはや何が良いのかに言及する必要などほとんどない。そうでしょう。ここが何か、人間を惹きつけるものを宿した聖域であるのだとは、ほとんど誰もが知っている。春夏秋冬いつでも関係なく座っていられる、と思う理由の一つは、窓からの風景も含めて腰掛けの周辺が構成されるようになっているからだろうか。緑なら緑、雪なら雪で、外の状態次第で勝手に「絵」が完成する。

 置いてある椅子の天鵞絨っぽい質感、そして廊下の隅っこにある細い階段そばの火鉢は、今の旧山寺ホテルの展示ならではの見どころだった。雰囲気によく合っていて。

 広縁の反対側の空間は、大広間。結城泰作のペン画作品が並べられ、展示されている。全体を見回したときに欄間の、横線で表現されたたなびく雲のような意匠が目に付いたのと、あとは組子障子のところにも視線が行った。これといって華やかではなく、そこまで重厚でもない。がっしりしたり入り組んだりした、迫力のある装飾とは違い、もっと肩の力を抜いて寝転がれそうな印象を受けた。

 合宿などで雑魚寝利用したら楽しいだろう。でも、枕を投げてはいけない。

 障子から文様が透けて美しい丸窓は、外から見るのもまた風情があって実によいもの。空白に渡された木の枝、その曲がり方が何とも言えず趣深くてずっと眺めてしまう。こういう絶妙な枝を探してくるのも、建物の側に合わせて素材を加工するのも骨が折れそうだ。職人の技の見せ所。

 

 

 ああ、楽しかった。勢いで家を飛び出してきたけれど、こんな素敵な近代建築にこの山寺駅で邂逅できるとは予想していなかった。日頃の行いが良いおかげかもしれない、やはり、善や徳は積み重ねておくに限る……。早朝に出発したのでまだお昼にもならない。他の場所も回ってみて、夕方には余裕を持って帰宅できそうだった。

 ところで、そもそも今回一緒に来れなくなった友人と共に足を運ぶ予定だったのは、この旧山寺ホテルからは少し離れたところにある、「垂水遺跡」という場所。雰囲気と歴史に惹かれて、そのうち行ってみようと話していた。多分、その子もきっと今度日を改めて近いうちに来るだろう。

 旧山寺ホテルの見学を終えたから、さっそく垂水遺跡へ向かってみることにした。太陽がじりじり元気なので、顔を逸らすようにして、頭に帽子をかぶる。

 

 

 続きは次の記事(2)へ。