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神居古潭 (Kamuykotan)
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神居古潭の風景と伝承
道路側から神居大橋を目指して歩いていくと、手前でパラモイ(Paramoy)——広い湾、と呼ばれたほど川幅のある地点に辿り着く。
曲がりくねる水の流れ。地図上だとカーブの外側が大きく膨らんでいて、そこからまるで何かをきつく紐で束ねたかのように、形が細く絞られたところへ一本の橋が架かっているのだった。
実際には相当な急流であるのにもかかわらず、石狩川は流れているのではなく、ほとんど静止しているようにも見えた。水面のぬめりを感じる。前日も今日も降ったり止んだりを繰り返していた軽雨の影響か、普段から緑がかった水には灰色が混じっていて、眺める側に重苦しい印象を与えてくる。濁っているため、目視ではどのくらい底が深いのか伺えない。
舟で移動する際の交通の難所として知られ、カムイコタンと名付けられたこの地は、神の世に繋がる場所としても「魔界」としても認識されてきた。
アイヌ語の単語kamuyは良いものを表す場合と、邪悪だったり危険だったりするものを表す場合、両方がある。ここでの地名は後者の方に解釈されるのが通常らしかった。勇ましく櫂を操り、細心の注意を払って舟が転覆しないように努め、彼ら自身や物資を運ぶために神居古潭を通った人間たちの姿を想像する。
橋のたもとの南山商店では、きれいな紅い色の飲み物が売られている。これは紫蘇(しそ)のジュースで、ボトル入りのものが取り扱われているほか、紙コップにも1杯100円で注いでもらえるのだった。
酸味と甘みがあり、水のようにさらさらとしていて喉に引っかからないから飲みやすい。きちんと紫蘇の風味がある。白いご飯を彩る、あの「ゆかり」のふりかけの香りを思い出した。どういうわけか自宅では食べなかったもの。私の家でこれが使われるのは、必ず遠足や運動会に持っていくお弁当においてのみだったから。それゆえ、「ゆかり」は学校行事の味がする。
ベンチから立ち上がって神居大橋の前に行ってみれば、湧き上がるのは、もしかしたら紫蘇ジュースを飲まなければ、私はここを渡れなかったのかもしれないという思い。
冥府、黄泉の国へ追放されるときに忽然と現れる橋かと思った。ぱっきりと白く塗られた欄干も含めて、そう言ってもあながち誇張にならないくらいの佇まいで。なにしろこの先にある旧駅舎の復元もまた絶妙な位置に建っており、対岸の木立の中に赤い屋根と、傾いた架線の柱が見えるから、一層その感が増す。
ここはアイヌの伝承(ユーカラ、yukar)に登場する土地であり、川。境界を越えたところに足を踏み入れるのなら、人間の側も相応の手順に則らなくては進めない。ひとまず、私は神居古潭で売られているものを飲んだ。確かに。だからコップ1杯の色鮮やかな液体の分だけ、呼吸をずっと止めていなくても、こちらの何かに見咎められることはないはずだと考えた。
もちろんあまりにも長居すると、帰ってこられなくなるような気がする。対岸へ渡る橋も無くなってしまうかもしれない。ここでは奇妙な形をした川べりの岩陰が、他のどの世界に通じているとも限らない。
岩といえば、神居古潭には奇岩と呼ばれる変わった形の岩が非常に多い。
大半が大陸プレートと海洋プレートの動きにより、長い時間をかけて形成された中には、魔神の頭や魔神の胴体、魔神の足跡と呼ばれるようになった岩もある。特に後者は水のある場所ならではだ。岩盤のくぼみに落ちた小石が水流によって周囲を削り、やがて円筒状に穴が残ったものを、甌穴(おうけつ)というのだった。
神居古潭甌穴群は旭川市の文化財に指定されている。
ところで、そんな神居古潭における「魔神」とは何を指すのだろう。この地に足跡を残し、どういうわけか胴体や、頭までもを落としていった存在とは。
魔神はその名をニッネカムイ(nitnekamuy)といった。色々と悪い事柄に手を染めていた神だとされ、ついには上川地方のアイヌたちを滅ぼそうとした折に、英雄神(国造りの神とも)であるサマイクル(Samayekur)があらわれて彼らを助ける。戦闘になり、魔神ニッネカムイはサマイクルに刀で切り伏せられた。その痕跡とばらばらになった身体こそが、各所に残る岩石の形の由来とされているのであった。
神居古潭の地は漫画「ゴールデンカムイ」の10巻92話、93話にも登場する。
変装した土方が白石に手渡した豆菓子(旭豆)の袋、その裏側には「カムイコタン 吊橋」と書かれていた。まだ、神居大橋が現在のものよりも粗末(巻橋)だった時代。検索すると当時の写真の絵葉書が出てくるが、文字通りに木の棒と板が縄で繋がれているばかりで、漫画に描かれているよりも相当恐ろしいものに思えた。あれを渡る勇気は私にはない。
加えて、92話ではキロランケが「イペタム(人食い刀)」の伝承にも言及した。夜な夜な人を襲う刀があって、箱詰めにしても抜け出していたそれを神居古潭の底なし沼に沈めたところ、もう戻ってこなくなったとか。
一説には、神居古潭では石狩川の水深が最大、70メートルにも及ぶとされている。
この場所に橋がかけられ、人々がそれを渡らなければならなかった理由は、対岸に作られた鉄道駅の存在にあった。
日本国有鉄道、函館本線の神居古潭駅。
昔は付近にも集落があり、鉄道に用のあった人々は橋を経由して駅へと向かった。舟で移動するのも困難な地だが、断崖に線路が通っていたため、昭和7(1932)年には岩盤の崩落による蒸気機関車の脱線・転落事故も起こっている。
害をなす魔神が伝承に語られた時代が遠くなったとしても、自然が持つ魔的な要素、その性質は変わらない。
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旧神居古潭駅舎の復元
神居古潭駅は明治34(1901)年、北海道官設鉄道の簡易停車場(貫井停車場)として始まった。
数年後に停車場へ、そして明治44(1911)年には一般駅に昇格して、貨物の取り扱いも開始される。やがて昭和44(1969)年9月に営業が終了するまで、無数の機関車がそのプラットフォームに停車し、ふたたび旭川方面や滝川方面へと出発する光景が見られた。
現在、プラットフォームの片方は安全上の理由で立ち入りができないが、案内板のある反対側には実際に立つことができ、延々と来ない機関車を待つこともできる。いいや、本当に来ないのかどうかは、朝から晩までここで待ち続けてみないと分からない。無論、人間には乗車ができない車両かもしれないが。
現在はサイクリングロードの休憩所となっている旧駅舎。自転車でも虫の羽音でも、木々のざわめきでもない音、汽笛のような何かが鼓膜を震わせたら、もう線路ではなくなった道の向こうに目を向けてみよう。
平成元(1989)年に復元された駅舎の佇まいは、美しかった。
下見板張りの柔らかな緑の外壁に、少し色味の異なる別の緑で塗られた柱を合わせ、そこに落ち着いた赤色の屋根を載せている。木造の疑洋風建築。柱の上の持ち送りみたいな装飾が良い。
周辺が鬱蒼と樹々で覆われているため、駅舎の建物は周囲に溶け込んで見える。けれど補色の屋根だけが、はっきりと浮かび上がってその位置を示すのだった。これが対岸からでも分かる。神居大橋を渡り切ったらまた振り返ってみると、確かにさっきまでいた場所、緑の向こうにうっすらと駅舎の屋根が見えると気付く。
明治に建てられた駅舎は大正時代~昭和初期にかけて2回程度の改築を経験しているらしく、当時から元の様式を保持したまま、建材がすっかり入れ替わっても同じ姿で受け継がれているのは興味深いことだった。
よく思考実験でテセウスの船が引き合いに出されることがあるけれど、現代の都市部に住んでいる人間には船よりも他の建築物の方が例として理解が深まりそうに思える。壁や柱や屋根を少しずつ修復していって、やがて全ての部分に手が入れられ、竣工当時から残っている部分がごくわずかになっても、それを元の建物と同じ名前で呼ぶことはできるだろうか……という仮定。
横にはお手洗いがあって、こちらも同じ色、同じ様式で統一されていて可愛らしい印象を抱いた。小型の駅舎みたいで。実際に利用したり中を覗いてみたりはしなかったけれど……。
格子状に線が交差した屋根の模様にもう一度目を向けて、もしも雪がそこに積もったら、と考えた。白く重たい塊の下、端の方からわずかに屋根の赤い面が覗いて、さぞかしきれいだろう。相当に寒そうで想像するだけで凍える。でも、昔は駅舎の中でも薪ストーブか何かを焚いていたはずだ。
電車を待つ人たちが襟巻きに顔を埋めながら、機関車が到着する直前にぞろぞろと入口から出てくる。吐く息が白く漂い、駅舎の扉を開けると、外気温との差で曇っていた室内のガラス窓に結露の粒が伝った。みんなここから移動する。ところで私も一緒に行かなければと思う。乗ろう。旭川から来たから、今度は滝川方面に向かって。
切符を片手に蒸気機関車へ。
そうして気が付いたら、神居古潭のバス停にいた。
機関車はもうどこにも走っていない。紫蘇ジュースの効果は紙コップ1杯分、きちんと発揮されていたようだった。対岸に戻ってくることができた。
実のところ自分がいつから、何をきっかけにしてこの場所を訪れてみたいと思ったのか、初めにそう思ったときの記憶はないのだった。しかし実際に来たということは何か惹かれるものがあったのだろう。近代建築に興味があるから駅舎を見学できたのは嬉しかったし、単純に景勝地という以上の雰囲気を醸し出す川や、アイヌの伝承の一端に触れられたのも良かった。
それからバスで深川方面に向かって、乗り換えて妹背牛まで行った。
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旭川駅から神居古潭への行き方
⑴旭川駅からバスを利用する方法。
駅前の8番乗り場から「56-留萌線 留萌十字街」行きに乗車する。
約28分で到着。運賃520円。
⑵旭川駅周辺から車で行く方法。
約24分で到着。神居古潭に駐車場あり。