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彷徨する自由帖

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福沢桃介記念館 - 大正時代の洋館で暮らした「電力王」桃介と「女優」貞奴の面影|長野県・木曽郡南木曽町(3)

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 私がコンビで推している歴史上の人物、ふたりが暮らした大正時代の洋館見学。

 

 以下2記事の続き:

 

 水色に塗られた木の柱が交差する点を飾る、錆びた金属の持ち送り。組み合わされた図形のうち、円の部分をじっと見て、それが等間隔に並んでいるのを眺めていた。

 前の記事で述べた山の歴史館からこの渡り廊下を使って移動すると、そのまま大正8年に竣工した、福沢桃介の別荘へと入ることができる。彼に関しては過去、名古屋にある文化のみち二葉館を訪れた際の記事でも言及しているので、興味のある方はそちらも参照されたい。

 別荘であるこの洋館の2階部分は、実は昭和35年4月に発生した火災により焼失してしまった。それゆえ現在は平成9年の復元後に整備された状態のものが一般公開されており、桃介橋の建造や付近の開発にまつわる資料や、貴重な写真、年表などを展示する空間になっている。

 2階は近年の復元とはいえ、基礎部分も1階部分もほとんど竣工当初から現役で使われていた頃の状態のまま、往時の雰囲気をよく伝えている。外観をじっくりと眺めてみた。

 

 

 モルタル造りの洋館、上品な灰色をした壁の表面には凹凸がある。

 ざらついた質感と、付近の木曽川の流れのそばに転がっている岩のような形をした突起が風景とよく馴染み、さらに建物下の部分に設置された大きな岩石とも形態が呼応しているようだった。この大岩も、他ならぬ桃介自身が好んでここに置いたもの。サンルーム側の柱が、その上から直接生えている部分などはどきどきするような均衡。

 これを建物のデザインに取り入れる際、安全設計上いろいろな懸念も生じたらしいのだが、それでもどうにか希望の外観を実現できるように図った部分に彼の性格も滲み出ている気がした。

 特筆すべきなのは窓の面積の広さ。通りに面した側も、これから探索する反対側も、明治大正期以降の建物において特に重要だった素材、ガラスの板がずらりと並んでいる。

 

 

 渡り廊下から繋がる扉は本来客用のものではなかったので、いきなりバスルーム近くの空間に辿り着いたとしても、別段驚くには値しない。風呂のすぐ横にサンルームが設けてあるあたり、どこか熱海の起雲閣も思い出させる佇まいだった。ここで山を眺めながら涼むのは、たいそう気分がいいだろう。

 床に開いているパイプの穴はお手洗いの痕跡。大正中期の別荘で、きちんと水洗トイレを備えていた建物の例としても興味深い。

 白くひんやりとしたタイルは安心を誘う。つるつるした素材が洋館や和館の水回りを覆っているのは、いつ見ても良いものだった。大理石などの板でももちろん構わない、何かなめらかでつめたいものであれば。

 しかし、それにしても随分と風呂釜が小さいのでないか……と感じてしまうのは私の側の問題なのだろうか。膝を折らないと身体を沈められない狭さの方が、入浴時に安心できたのかもしれない。全然わからない。

 

 

 

 

 ここで少し福沢桃介の話をしよう。彼の旧姓は岩崎であり、ゆえに若い頃は岩崎桃介、だった。生涯を通しての肩書きとしては、投資家であり実業家といえる。

 けっして裕福とは言えない家で育ったが、学問好きで、やがては慶應義塾大学に入学するに至った桃介。その慶應義塾の運動会で福沢諭吉夫婦の目に留まり、彼らの次女、房(ふさ)の結婚相手として彼が相応しいのではないか、と候補に入れられたのだが……それが人生の大きな転機となる。

 彼はかねてより洋行を志していた。そして、福沢家が桃介に対して提示したのは、福沢家に養子として婿入りする代わり、アメリカで学ぶ際にかかる費用を捻出してやる、というもので。表面上は渡りに船ともいえる状況だが、彼の内心の葛藤はいかほどのものだっただろう。

 留学費用と引き換えの婿入り。要するに身売りのような条件を前にして桃介は熟慮し、結果、それをのむことにしたのだった。

 

 

 そんな福沢桃介が、南木曽の別荘で書斎として使っていたのがこの部屋である。

 彼は洋行から紆余曲折を経て、やがては当時の電気事業に触手を伸ばし、木曽川の電源開発を推し進めるに至る。資材を運ぶための桃介橋の建造、さらにそこから付近の大井や読書に水力発電所を建てており、この洋館に関しては外国人の技師や政界の実力者らを招いて宴を催す迎賓館でもあった。

 そして、桃介を公私ともに支え、彼の事業における社交や接待など人間に関係する面でなくてはならない存在となっていたのが、川上貞奴という女性。旧姓は小山。実家の没落により幼少期に芸妓の置屋に売られ、それから研鑽を積んで女優として、時には会社の経営者としても活動していた人物だった。

 川上貞奴と福沢桃介の間には確かな縁がある。その発端は桃介が洋行へ赴く前にまでさかのぼり、彼は慶應義塾に通っていた学生時代に貞奴と出会い(きっかけは野犬に追われていた彼女を助けたこと、とされている)交流を重ねていた。

 

 

 桃介が留学費用のために婿養子となり、アメリカへ渡る前、資料によれば貞奴はこう言っている。「歩む人生は別々でも、あなたはあなた、私は私の道で、必ずや成功しましょう」と……。

 貞奴は川上音二郎と結婚、桃介は福沢房と結婚し、彼らはその言葉どおりに異なる道程を歩んでいく。ちなみに貞奴と音二郎が住んでいた家がかつて茅ヶ崎にあり、現在では井戸のみだが、一応痕跡が残っている。そのすぐ横に原安三郎の別邸遺構もあるので興味があれば覗いてみてほしい。

 音二郎との死別後に、貞奴は桃介の事業の数々を手伝った。この別荘でも長い時間を共に過ごしている。滞在中、大井ダムの工事にあたっては物怖じせず彼に付き従い、時にはインディアンと呼ばれる赤いバイクにも跨って、勇敢に地を駆けていたとの証言も残っていて、眩しいと思った。誰かの側にいることでそんなにも生き生きと過ごせること、その姿の美しさ、眩しさ。

 桃介も彼女の持てる社交力を抜きにしては、これほどの成功を手にすることはできなかっただろう。そんな彼らは揃いの着物に互いのシンボルマークを染め抜き、普段から身に着けていたという。記念館内にその欠片が残されている。もみじ(楓の葉)の紋は名古屋の二葉館でも見ることができた。

 

 

 花形の照明が目に留まる暖炉の部屋が、応接間。全体に開放的な印象を与え、くつろぐのに適した雰囲気の別荘のなかで、どちらかというと重厚で人を迎えるための佇まいになっている。

 私はずっとこの場所に来たかった。

 2019年に二葉館を訪れて彼らのことを知って以来、その軌跡を追うのが楽しくて、ついにこの別荘にも足を踏み入れるに至った。12月から3月までの冬季は休館、わりと温かい季節にしか開館していない記念館は、新幹線と在来線の特急を使ってもそれなりに時間のかかる距離にある。けれど、けっして行くの自体は難しくない。

 案内の方が、建物の周囲に植わっている木の種類について少しお話してくれた。ドイツのミュンヘンから桃介が持ち帰って育てたハナモモに、ミツバツツジの灌木など。

 

 

 私が足を運んだ時期のように初夏なら、透けるような緑に。葉の色づく時期に赴けば、炎のような赤が別荘の周囲を囲み、館内のどこにいてもガラスの窓からそれらが見える。さながら自動的に図柄の変わる不思議な壁紙で、そもそも、窓というものの機能の一端はそこにあるのではなかったかと考えた。

 福沢桃介と川上貞奴。

 波乱が多く、時には意に沿わない境遇にその身を置きながらも志を持って野望(とあえて呼びたい)を追い、欲しいもののために懸命に歩み続けた彼らの生きた記録が、社会から消されずにこうして残っていることが私は本当に嬉しいのだった。

 決して幸福なだけでなく、すべてが理想的に運ばなかった人生であっても、その途中で何か尊くかけがえのないものを見出すのは可能なのだと、心底そう思わされる。思わせて、くれる。