前回:
JR深川駅の近くで拾ったバスを、妹背牛の停留所で降りた。その時は晴れていた。
やがて大粒の雨が降ってきたかと思えば、辛抱強くあたりの軒下に留まっていると、さほど長くかからずに止む。晴れ間が見え、地面にできた大きな水溜まりの数々が太陽の光に照らされて、深い青に輝くのが眩しい。でも、それらがすべて蒸発しきらないうちにふたたび雨が降る。かくいう具合で、とにかく妙な天候だった。
予報では1日を通して快晴だといわれていたのに。上空を見れば、強風の影響で雲の動きが早まっているらしく、今度は青天のまま雨を降らしてきた。この天気雨ならば、あとで虹が見えるかもしれない。
虹。この北海道の地では、アイヌ語でラヨチ(rayoci)と呼ばれるもの。神話や伝承において、単純に現象として語られることもあるが、時にはよくないことをもたらす忌まわしい魔物とされている場合もある。逃げても後を追ってくる、とか……。
それを知ると自然、足早になった。外よりも安全なように思える、どこかの建物の中に避難したい。できればこれから向かうところの。
拠点にしていた旭川駅から妹背牛町まで来たのは、この「郷土館」に寄るためだった。
茶色い板張りの壁、なめらかな緑色の屋根、そんな建物の入り口に掲げられているのは校章のような丸いもの。円と星に囲まれた「妹」の字は、妹背牛町をあらわす1文字なのだろう。
この辺りだけ、違う時代からそのまま切り取って移した空間が広がっているみたい。雨上がりの虹と同じで眼前に忽然と出現する。角を曲がって佇まいを目にした時は、存在を事前に知ってはいても、意外さに胸が高鳴った。郷土館のほかには、近代の洋風建築やそれを連想させるものは、特に周りには見当たらなかったため。
風が強いから、案内板の周りに絡んだ蔦の葉がしきりに揺れて音を立てていた。黄緑と赤錆色の2色が、早い紅葉の時期を思わせる。美しい自然の装飾。
この建物、はじめは学校かと思った。明治期の小学校にぴったりの建物に見える。けれど、実際には村役場だったらしい。
妹背牛村が深川村より分立したのが大正12(1923)年のことで、それから少し経過した昭和6(1931)年に建てられた。日本国内で官庁舎をはじめ、自治体の建築を洋風に設える流れのあった、明治期に取り入れられたフランス風の様式を受け継いでいる。
そして昭和60(1985)年、新しい庁舎ができたのをきっかけに建築当時の姿に復元され、こうして郷土館となり開館している。
まだ中に入っていないのに、自分がこの建物をどんどん好きになってしまうのが分かった。
なにしろ濃い茶色と緑色の組み合わせが、チョコミントを連想させるのだから堪らない。この外観だとチョコレート部分はビターチョコのはずだった。ミルクではない。食べた感想が真っ二つに分かれるチョコミント味の、とりわけアイスクリームは、私の好物。そう。ここは氷菓のような愛らしい見た目の洋館がある町なのだ……。
屋根には格子の入った板が平らに配されているだけでなく、蛙の目のまぶたのように半円のドーマー窓が突き出ていて、さらに愛らしさを添えていた。私はいつもまぶたと言うが、友人に言わせると熊の耳にも見えるらしい。なるほど丸いから。白色に塗られた扉や窓枠も、太陽の光に明るく映えていて良かった。
正面に立った時、もと村役場だった郷土館の建物は、左右に事務室と議事堂を配したつくりになっているのが見える。これも、最初に学校という施設を連想させられた要因かもしれない。外からでは、生徒が集まる講堂か何かがあるように思えたのだった。
今度は裏側に回ってみると、蔦で覆われた重厚な石造りの蔵。
蔦の妖怪みたい。他の部分が板張りなので、かなり目立つ。質感の違いが面白かった。
郷土館は入館無料だが、常に解放されているわけではない。月曜日を休館日として、午前10時から午後4時までの間、隣にある町民会館に申し出れば鍵を開けてもらえる。受付に行って「郷土館の見学」と言えば伝わるはず。
私が足を運んだ時は他に誰もおらず、実質貸し切り状態で内部の見学ができたのが僥倖で、とても稀有な体験だった。そもそも施設の存在を発見したのが偶然だった点でも自分には特別に感じる。こういう予想外の興味深い邂逅が、人生の中にできるだけあってほしい。思いもかけないようなところでばったり会う事の良さが……。
引き戸を開ける瞬間のときめき。贅沢な静けさ。
小さな窓口にもこの上ないときめきを感じる、と思いつつ見学を続けていたら、突然意識が過去に飛んだ。思い出したのは、通っていた公立小学校の理科室の椅子。それがまさに写真のような四角い木の椅子で、古くて脚がガタガタするやつは人気がないから、誰も座りたがらなかったのを思い出す。
放課後掃除の時に、写真のように上にあげた状態にするのだ。
隅に置いてある古い金庫には「東京伊藤製作所 鳳凰金庫」とある。古民家などに昔の金庫が残っていると、やはりどこが作ったのかが気になるもの。ちなみに日本最古のものは竹内金庫だといわれている。
そして昔の町長室。さっき鍵を開けてもらったばかりだから当然、中には誰もいなかったはずなのに、この町長の席にはつい数分前まで人が座っていたような趣があって震えた。もしくは布の下に人が……いや、それでは江戸川乱歩の「人間椅子」になってしまうのでまずい。
閑話休題。
郷土館の展示は明治26(1893)年以降、この土地で人々が本格的に開拓を始めた時期の記録から、当時使われていた農具、住居、また本州とは違った気候や土壌により困難を極めた米作りまで、幅広い物品を通してその軌跡を窺い知ることができるものだった。
かつて、天明元(1781)年の頃までには、北海道の地で稲作を行うのはほとんど無謀だという結論が出されていたという。しかしながら、民間での地道な研究と農業指導者らの尽力により、新しい品種の開発や栽培方法の工夫で、稲穂を実らせることに成功する。
入植当初の人々が暮らしていた粗末な「拝み小屋」も、徐々にふつうの家らしいものへと変化していった。
展示の目玉はきっとこれ。建物の中に建てられたもうひとつの建物、大正時代の妹背牛の暮らしを想像する助けになる、家の模型。
明治大正期といえば、文化住宅をはじめとしたモダンな住居を頭に浮かべる人が多いかもしれないが、もちろん全ての人々がそういう場所で暮らしていたわけではない。米櫃や水桶を使い、囲炉裏を囲むのも、近代日本における生活様式のひとつ。茅葺き屋根の家の窓に、ガラスが嵌まっているのも大正時代らしくて興味深かった。
外には郵便制度に欠かせなかったポストと、四角い……これは消化ポンプ。明治時代に使われていた龍吐水よりも、一段階新しい形。
現在、妹背牛町には高校がない。
かつては妹背牛商業高等学校が存在していたが、過疎化、生徒数の減少により平成21(2009)年に閉校。往時の女子バレーボール部は全国大会での優勝経験があり、北海道内でも強豪として知られていて、卒業生にはJTマーヴェラス女子チームの監督に就任した吉原知子氏などがいる。
郷土館内にはその校章(稲の穂があしらわれている)のほか、学校関係の資料も保存展示してあった。現在ある小中学校も、歴史の中で形を変えながら存続してきたのが説明から分かる。
そもそも妹背牛町における教育は、明治31(1898)年に空家を利用して授業を行ったのが、その起源だったとか。
後で調べてみると、妹背牛町の人口は私の暮らしている町とほぼ同じだった。
しかし異なるのがその面積と人口密度で、なんと、100倍もの差がある。妹背牛町の方が広く、人口は少ない。だからか、と私は思った。深川からのバスを降り、付近を散策していた際、車も人もほとんど見かけなかったわけだ。混雑や喧騒とは無縁の、ゆったりとしている地域……。
郷土館の見学が終わったら入り口脇のインターフォンを使って申し出ると、町民会館の方がまた施錠しに来てくれる。扉を閉めたらそのまま辞去して大丈夫。
旭川駅から足を延ばしたところに、こんなに興味深い場所があるなんて予想もしなかった。おかげで、日頃から何となく地図を眺めているだけでもときどき面白いものが見つかると分かったのが大きな収穫。
今後も目的地と併せて、実際の旅行中に行けるかどうか定かでなくても、少し離れた場所の様子は事前に詳しく探っておこう、と思うなど。
次回:
- 旭川から妹背牛町郷土館へのアクセス
⑴旭川駅からJR函館本線に乗り、妹背牛駅へ行く方法。
下車後、北へ向かって徒歩約10分。
⑵電車とバスを組み合わせて行く方法。
まず、旭川駅から深川駅まで出る(数種類の電車あり)。
その後、バス停「深川十字街」から空知中央バス「深滝線:雨竜経由(滝川駅前行)」に乗車。
※深川十字街のバス停は2カ所にあるので注意! 空知中央バスが停車する方で待つ。
妹背牛町民会館入口で下車、徒歩約3分。
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