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彷徨する自由帖

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旧島津家本邸 - 見学ツアーでのみ内部を歩ける大正時代の洋館|東京都・品川区の重要文化財

 

 

 

 

 長崎や熱海には坂が多く、住宅地における斜面の割合も高いことはよく知られているが、では東京は……といえば「坂のつく地名」で溢れている。

 旧島津家本邸のある清泉女子大学、そこへ品川駅から向かう際も、高輪口から伸びる柘榴坂をまず通ることになった。グランドプリンスホテル新高輪の脇を抜ける緩やかな傾斜で、二本榎通りと交わる、カトリック高輪教会のところで左折する。しばらく住宅地を歩いていると大学方面へ下りられる階段が現れ、今度はそこが「まぼろし坂」に道が接する場所だった。

 どんな坂なのかは実際に行ってみるとすぐ分かる。付近に立っている標識によれば、どうやら都内でも最大の勾配を持つとされるところらしい。確かに急だった。これでも、人以外に自転車の通行する余地があるのには驚く。

 清泉女子大学正門で見学者用の札を受け取った後、敷地内で旧島津家本邸の建つ地点へ行くにも、階段か坂を上る。今は島津山とも称される高台はかつて「袖ヶ崎」と呼ばれ、海の望める景勝地として知られていたのだった。現在ではここから海は見えない。だから、想像する。この2階のベランダに出ていた、当時の人々の視界を。

 

 

 大正4(1915)年に竣工、その2年後の同6(1917)年に内装も含めて落成した、旧島津家本邸。現在の清泉女子大学本館。年に数回のツアーによって内部を見学でき、この時も現役の学生の方が丁寧に案内して下さった。

 お雇い外国人ジョサイア・コンドルの設計した建物は、彼がその少し前に手掛けていた三重の旧諸戸清六邸(東諸戸邸)、六華苑の洋館部分にも佇まいが似ているような気がする。ただし東諸戸邸の方はヴィクトリア朝住宅の様式を採用しており、こちらの島津家に関しては、イタリア・ルネサンス様式となっている。

 真四角ではなく、テラスとベランダがわずかに湾曲し、外へ張り出した形が第一に目についた。整然と柱が並んでいて。1階の柱はトスカーナ様式、2階の柱はイオニア様式で、柱頭の装飾が異なる。

 その曲線部分の1階には末広がりの階段が設けられており、芝の地面に下りられるのだった。邸宅の正面玄関は別の場所にあるのに、ここが公式の入り口のように錯覚してしまうのは、左右対称の建物の真ん中から人が出入りする図に何か整ったものを感じるからだろう。もしも全体像を絵に描くならそのあたりがいい。

 

 

 階段といえば、旧島津家本邸の最大の見どころのひとつが、中央ホールの大階段。

 コンドル設計の建物で現存するものの数は意外に少なく、すでにその姿を消してしまった中にはあの鹿鳴館もあった。案内によれば、鹿鳴館と島津家の階段には共通点があると言われており、おそらくそれは手すりの部分に見られる特徴なのではないかと思う。検索してみると、装飾の豪華さでは前者に及ばないが、こぶのような球形の意匠は確かにふたつの繋がりを感じさせた。

 踊り場を照らす窓からの明かりはステンドグラスに濾過されている。もろく繊細な素材であるガラス部分も竣工当時のまま、震災や戦災を経ても大きな損傷がなく、こうして残されているとは驚きだ。

 大正12年に関東大震災が発生した際も、煉瓦造りで地上2階、地下1階の洋館は軽微な被害を受けるだけで済み、当時の島津家の人々は損傷の激しかった永田町の邸宅からこの袖ヶ崎へと移り住んだのだった。白タイル張りの外壁の家へと。

 

 

 館内のステンドグラスが美しいのは、玄関もそう。

 玄関扉の上部にあしらわれた丸に十の字の紋は、他ならぬ島津家の家紋だった。全体的に透明のガラスが占める面積が多く、その要所に色ガラスの嵌め込まれたデザインのため、派手な感じや威圧感とは無縁の雰囲気を醸し出していた。格調高く、地上階は応接や迎賓の空間も兼ねてはいたが、あくまでも全体は家族の生活の間。個人の邸宅。きちんと過ごしやすさを重視されていたという気がした。

 内装を担当したのは著名な日本の洋画家、黒田清輝。残念ながら絨毯や壁紙をはじめとした家具調度は失われて久しいものの、反対にそれ以外はよく保存されている。

 現在では清泉女子大学の本館となっている島津家本邸が、この学院の所有となるまでには紆余曲折があった。そもそも清泉女子はスペイン系の修道会を母体とする組織で、かつて修道女たちと親交の深かった吉田雪子氏(吉田茂元総理大臣の妻)がこの建物をぜひにと希望していたという。昭和18年当時、太平洋戦争の影響で現コクドに売却、後に日本銀行へ権利の移った建物は、長い時を経て昭和36年に清泉女子大学の所有となる。

 

 

 今でも在校生たちは旧島津家本邸の建物を各用途のため使用しており、建物は動態保存されている。1階の応接室はそのまま学校関係者の応接室として使われていた。

 この部屋の面白い部分は窓と、そこから見えるテラスとの関係にある。正面が窓にあたるソファに腰掛けてみると、ちょうど窓枠で視界が遮られる部分に外の柱が重なり、まるで何の隔てもなく庭の風景が広がっているように見えるのだ。これはもちろん、訪問者が外を眺めるとき柱が邪魔にならないようにという、設計者コンドルの仕掛け。

 もうひとつの応接室である現「泉の間」には、たいそう立派な白い大理石のマントルピースがあって、玄関のステンドグラスと同じく丸に十の字の家紋が小さいながらも刻まれている。

 私の頭の中では、つるりと膨らんだ卵みたいな装飾を指の腹で撫でたり、手の甲でそっとさすったりしたら、ひんやりして気分が落ち着くんだろうなという想像が巡っていた。もう見るからにして「ここを触ってみてください」と促されている感じがする。そんな石のご厚意にすかさず甘えたくなる。これ以外にも、2階の暖炉の石の薔薇もよかった。

 

 

 

 

 大広間や応接室ではない部屋に配されたシンプルな暖炉も、それぞれ四角いタイルの色が異なっており、きちんと差がある。大きく目立ちはしないけれど確かなこだわりを感じる部分。淡い色合いは優しさを帯びている。

 他にタイル関係で、竣工当時から現在まで損なわれず残されている箇所といえば、2階のベランダ。その白黒のチェッカー柄になるよう配された床、これが特筆すべきもののひとつだった。経年による損傷の大きくなりがちな部分だが、実は大正4年から全て、1枚も欠けることなく受け継がれてきておりかなり貴重。

 公爵夫妻の旧寝室に面した空間、彼らの暮らしの中にあった模様そのままだということ……。

 これとほとんど同じ様子を島津家の人々は見ていたんだろう。整然と並んだタイル、そして石の欄干と柱の向こうに、庭を。書斎や寝室で息の詰まる雨の日、ここで肘をついて、長く灰色の空と(当時はここから望めたはずの)海に視線をやって過ごしていたい。今日は何もしなくていいと言われたら。

 

 

 前述したように家具調度のたぐいは残っていないのだが、新しく学院によって設置された椅子やソファ類は今の内装にもよく合い、不自然な印象は抱かなかった。

 応接室、2階の大階段の脇、そのまた近くの席、いずれのソファも実に座り心地が良さそうで本当に恐ろしい。何かの間違いで腰掛けてしまったら最後、再び立ち上がることはできないはず。背もたれに背が触れた途端、瞬時に意識を失い、夜が明けても昼になっても目覚められない。やがて体もソファと一体化する、巧妙な罠。

 旧島津家本邸、見学ツアーの日程や抽選の詳細は公式サイトに都度掲載されるので、そちらを参照されたい。

 また、現地へ足を運ぶ以外にもバーチャルツアーにより、1階と2階のかなり広範囲のエリアが画面上で確認できる。遠方の方はそれで館内を覗いてみるのはどうだろうか。建物の雰囲気、その魅力の一端なら、これでも十分に味わえるはず。

 

 

 上のこれは、鍵穴隠し。