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【文学聖地&近代遺産】ごく個人的な物語を往来するための巡礼記録:2022年

※当ブログに投稿された一部の記事には、Amazonアソシエイトのリンクやアフィリエイト広告などのプロモーションが含まれています。

 

 高校に入学するまでは電車の切符もひとりでは買えなかったのに、国内外どこでも、それが可能なところになら自分で行けるようになった。

 多くの「会いたい」を胸に、移動しながら過ごした1年。

 

 

 

 

はてなブログ 特別お題「わたしの2022年・2023年にやりたいこと

 

目次:

 

はしがき

 これまで1度も歩いたことのなかった土地の数々へ、2022年も足を運んだ。「足を運んだ」というよりか「足を使って自分の身体をせっせと遠方へ運んだ」とも表現できる。各種公共交通機関の力を借りながら。

 まぁ別にどちらでも意味は変わらない。いつもの虚無感はそのまま、でも、知的好奇心を満たせるように動けたのは有意義だった。

 たまに自動車に乗せてくれ、運転を担当して下さった方々もいた。その節は大変お世話になりました。

 

 旅行が趣味なのは確かだと認めざるを得ないけれど、単純にそう断言してしまうのも違う、と訴える気持ちが胸の内にはあり、理由はきっと「好きだから旅行をする」と「何らかの感覚を求めて旅行をする」の間に無いようで在る、微妙な違いをきちんと意識しておきたい気持ちがあるからだった。

 私は間違いなく後者。

 旅、の行為自体を心底愛している人達との決定的な差異は、おそらくそこに起因する。私は狭義の「旅好き」ではない。

 

 では、なんなのか。

 

 私はいつも、実際の視界に幻想が重なる、特定の瞬間を探しているだけ。

 会いたい。

 知らないはずなのに、懐かしいと感じる何かに。

 

 具体的にどういった場所を訪れた時にそれを感じるかというと、一応傾向があるようで、

 

○ 好きな小説作品や文豪ゆかりの地

明治・大正・昭和期の近代建築、産業遺産

 

と、ふたつの大きな枠組みが見出せる。

 

 どちらにも共通しているのは、自分自身がまだ生まれていない時代に書かれた小説に登場する場所や、ちょうどその頃作られたものに対して、不思議なほど強烈な懐かしさを覚えるという事実。奇妙だと思う。過去に触れたことがないものに惹かれる感覚は、厳密には、郷愁と全然異なるもののはず。辞書的な意味で。

 けれど、確かに懐かしいと感じるのだ。

 まるで、何らかの理由で忘れてしまった事柄を、土地に宿った物語を辿るように、どうにかしてもう一度思い出そうとするみたいな行為……。

 

 そんな動機で行っている、いわば巡礼の記録。

 広義の推し活みたいなもの。

 

2022年の旅行と散策を振り返る

 すでにブログへ投稿したものも、まだ記事としてまとめられていないものも、一緒に掲載する。記事になっていないものは今後投稿し次第リンクを貼っていく予定。

 都道府県名別に北の方から。全体の85%くらいが一人旅。

 こうしてまとめてみたことで、今年はわりと本州の真ん中よりも北方へ出向いていることが可視化された。それもあり、来年は夢野久作にゆかりある九州・福岡あたりから回ってみよう、と思うなど。

 

1. 文学や文豪の聖地

北海道(三浦綾子、石川啄木)
  • 三浦綾子

《旭川・外国樹種見本林》

 ここが三浦氏のデビュー作「氷点」の舞台になった。

 明治31年に最初の木が植えられた、国有林。

 

 

「すばらしい所ねえ。美しく、静かで、しかも無気味なのね」

(中略)

 その時の印象が、あまりに強烈であったため、わたしは小説の筋が決まると、ためらわずにここを舞台に決めたのである。

 

(新潮文庫「この土の器をも」(1980) 三浦綾子 p.194)

 

《塩狩・塩狩峠記念館》

 小説「塩狩峠」の舞台であり、現在は著者の家がそこに移築され、記念館となっている。

 付近の駅にJR宗谷本線が通る。

 

 

 吉川の目に、ふじ子の姿と雪柳の白が、涙でうるんでひとつになった。と、胸を突き刺すようなふじ子の泣き声が吉川の耳を打った。

 塩狩峠は、雲ひとつない明るいまひるだった。

 

(新潮文庫「塩狩峠」(2009) 三浦綾子 p.440)

 

 

  • 石川啄木

《函館の町

 啄木が愛し愛された土地。

 明治40年5月5日から、わずかな間だが青柳町に暮らした。

 

 

予と函館との關係が予と如何なる土地との關係よりも温かであつた事、今猶ある事は、君も承認してくれるに違ひない。

 

(青空文庫 石川啄木「郁雨に與ふ」※パブリックドメイン より)

 

青森県(太宰治、高浜虚子)
  • 太宰治

《金木・斜陽館》

 明治40年に竣工した、太宰治の生家。

 現在は記念館として見学可能な見どころの多い建築。

 

 

金木の生家に着いて、まず仏間へ行き、嫂がついて来て仏間の扉を一ぱいに開いてくれて、私は仏壇の中の父母の写真をしばらく眺め、ていねいにお辞儀をした。

 

(新潮文庫「津軽」(2022) 太宰治 p.136)

 

《金木・旧津島家新座敷》

 大正11年10月に竣工し、当初は太宰の兄夫婦が暮らした津島家の離れ。「トカトントン」など多くの作品がここで執筆された。

「太宰治疎開の家」として一般公開。

 

 

昭和二十年の八月から約一年三箇月ほど、本州の北端の津軽の生家で、所謂疎開生活をしていたのであるが、そのあいだ私は、ほとんど家の中にばかりいて、旅行らしい旅行は、いちども、しなかった。

 

(青空文庫 太宰治「」※パブリックドメイン より)

 

  • 高浜虚子

《青森市・浅虫温泉》

 虚子の娘婿が日本銀行青森支店の支店長だった関係で、彼自身もたびたび、青森を訪れていた。

 この浅虫温泉で詠んだ句も残っている。

 

 

百尺の裸岩あり夏の海

高浜虚子

 

 

山形県(松尾芭蕉)
  • 松尾芭蕉

《山寺・宝珠山立石寺》

 尾花沢宿を出発し、河合曾良と共に訪れた松尾芭蕉が句を残した場所。

 参道に句碑がある。

 

 

閑かさや岩にしみ入る蝉の声

松尾芭蕉

 

 

群馬県(徳富蘆花、萩原朔太郎ほか)
  • 徳富蘆花

《渋川・伊香保温泉》

 蘆花が生涯を通して強い愛着を抱き、妻とも訪れていた温泉地。

 小説「不如帰」の物語は伊香保温泉の旅館から始まる。

 

 

上州伊香保千明の三階の障子開きて、夕景色をながむる婦人。年は十八九。品よき丸髷に結いて、草色の紐つけし小紋縮緬の被布を着たり。

 

(青空文庫 徳富蘆花「不如帰」※パブリックドメイン より)

 

 

  • 萩原朔太郎

《渋川・伊香保温泉》

 群馬県、前橋で生まれた朔太郎もたびたび伊香保に通っていた。

 随筆で「感じの落付いたおつとりした所」と記述している。

 

 

伊香保の特色は、だれも感ずる如く、その石段あがりの市街にある。

実際伊香保の町は、全部石垣で出来て居ると言つても好い。その石段の両側には、土産物の寄木細工を売る店や、かういふ町に適当な小綺麗の小間物屋や、舶来煙草を飾つた店や、中庭に廻廊のある二層三層の温泉旅館が、軒と軒とを重ね合せて、ごてごてと不規則に並んで居る。

 

(青空文庫 萩原朔太郎「石段上りの街」※パブリックドメイン より)

 

 

東京都(漱石、鷗外、永井荷風ほか)
  • 永井荷風

《台東区・浅草》

 いくつかの荷風の随筆には、特に浅草の地が鮮やかに描写されている。

 自分の今年を振り返ると、神谷伝兵衛の軌跡を辿る関連で浅草や「神谷バー」付近を歩いていた。

 

 

方角をかえて雷門の辺では神谷バーの曲角。広い道路を越して南千住行の電車停留場の辺り。川沿の公園の真暗な入口あたりから吾妻橋の橋だもと。電車通でありながら早くから店の戸を閉める鼻緒屋の立ちつづく軒下。

 

(青空文庫 永井荷風「吾妻橋」※パブリックドメイン より)

 

  • 漱石、鷗外など

《谷中・根津・千駄木》

 後述する島薗家住宅を見学するついでに歩いてみたエリア。

 夏目漱石や森鴎外が実際に住んでいたり、かつて根津には遊廓や私娼窟があったりと、歴史的に興味深いところだった。

 

 

 なんともいえないレトロ感、味わいもある。

 

神奈川県(大佛次郎)
  • 大佛次郎

《ホテルニューグランド》

 昭和初期に大佛が執筆のため、よく利用していた近代遺産のホテル。

 現在も318号室が「鞍馬天狗の部屋」として親しまれている。

 

 

 

静岡県(尾崎紅葉)
  • 尾崎紅葉

《熱海》

  熱海の浜は小説「金色夜叉」で、貫一とお宮の2人があまりに印象的な会話を繰り広げた場所。

 また、近代遺産の項で後述する起雲閣には多くの文豪が集った。

 

 

熱海は東京に比して温きこと十余度なれば、今日漸く一月の半を過ぎぬるに、梅林の花は二千本の梢に咲乱れて、日に映へる光は玲瓏として人の面を照し、路を埋むる幾斗の清香は凝りて掬ぶに堪へたり。

 

(新潮文庫「金色夜叉」(1992) 尾崎紅葉 p.53)

 

 

岐阜県(島崎藤村)
  • 島崎藤村

《中津川・馬籠宿》

 中山道の宿場、馬籠宿本陣は島崎藤村の生家。そこは現在彼の文学記念館になっている。

 起伏の多い坂道に並ぶ、伝統的建造物で構成された町並みが印象的。

 

 

宿場らしい高札の立つところを中心に、本陣、問屋、年寄、伝馬役、定歩行役、水役、七里役(飛脚)などより成る百軒ばかりの家々が主な部分で、まだその他に宿内の控えとなっている小名の家数を加えると六十軒ばかりの民家を数える。

 

(新潮文庫「夜明け前 第一部(上)」(2018) 島崎藤村 p.6-7)

 

 

長野県(島崎藤村の母)
  • 島崎藤村の母

《南木曽町・妻籠宿》

 妻籠宿本陣、島崎家は藤村の母の生家だった。

 本陣の制度は明治時代に廃止。現在は、南木曽町博物館の一部として建物の内部が公開されている。

 

 

隣村の妻籠には、お前達の祖母さんの生まれたお家がありました。妻籠の祖父さんといふ人もまだ達者な時分で、父さん達たちをよろこんで迎へて呉れました。

 

(青空文庫 島崎藤村「ふるさと」※パブリックドメイン より)

 

 上の文章では藤村が子どもたちに向けた文章のため、孫から見た自身の母のことを指して「お祖母さん」と言っている。

 

 

 

 

 

2. 近代建築・産業遺産系

北海道(旭川、深川、妹背牛、函館)
  • 旭川

《旧旭川偕行社》

 旧陸軍第七師団の旭川設営に合わせて、明治35(1902)年に竣工した木造の疑洋風建築。

 すぐそばに、同じ明治時代の建造物「竹村病院六角堂」もあり。

 

 

 

《旧神居古潭駅舎》

 神居古潭駅は明治34(1901)年、北海道官設鉄道の簡易停車場(貫井停車場)として始まった。数年後に停車場へ、そして明治44(1911)年には一般駅に昇格して、貨物の取り扱いも開始される。

 平成元(1989)年に復元。

 

 

 

  • 深川

《プラザ深川》

 旧北海道拓殖銀行深川支店の建物。

 昭和12(1937)年ごろの建築で、北海道拓殖銀行は平成9(1997)年11月に経営破綻していた。現在は市民交流センター(プラザ深川)として、集会場やバスの待合室などに活用されている。

 

 

 

  • 妹背牛

《妹背牛郷土館》

 妹背牛村が深川村より分立したのが大正12(1923)年で、少し後の昭和6(1931)年に建てられた村役場。

 そして昭和60(1985)年、新しい庁舎ができたのをきっかけに建築当時の姿に復元され、郷土館となり開館している。

 

 

 

  • 函館

《青函連絡船記念館 摩周丸》

 昭和40(1965)年に建造され、昭和63(1988)年に終航した青函連絡船のうち1隻。この「摩周丸」は2代目だった。

 現在は記念館として公開され、青森にある八甲田丸と対になる存在。

 

 

《旧函館区公会堂》

 明治43(1910)年に竣工した、コロニアル様式の大規模な洋風木造建築。

 住民の集会場や商業会議所として建てられ、その後も講演会場、病院など役割は変遷する。昭和49(1974)年に国の重要文化財に指定され、昭和57(1982)年の復元後、一般に公開されるようになった。

 

 

《旧イギリス領事館》

 安政6(1859)年に領事館が設置されてから幾度かの火災による焼失を経験し、現在の場所に建物が再建された。今見られる建物は大正2(1913)年のもの。

 館内では「ティールーム ヴィクトリアンローズ」が営業中。

 

 

《北方民族博物館》

 日本銀行技師の平松浅一により設計された、日本銀行函館支店の「3代目」の建物を利用した資料館。大正15(1926)年竣工、古典様式のデザインが取り入れられ、昭和29(1954)年に増改築が行われている。

 館内に透明なガラスのドアノブが存在していた。

 

 

《函館市地域交流まちづくりセンター》

 大正12(1923)年に竣工した、旧丸井今井百貨店の建物を利用した施設。

 昭和5(1930)年には増築で5階建ての棟ができ、そこには日本の東北以北に設置された中で現存する最古の手動エレベーターがある。また、階段などの意匠にも見どころが多い。

 

 

《市立函館博物館郷土資料館》

 旧金森洋物店の建物を利用した資料館。

 もとは初代渡邉熊四郎が明治2(1869)年に開業した店で、船にまつわる道具や、輸入雑貨などを販売していた。

 

 

《金森赤レンガ倉庫》

 上の金森洋物店を開業した初代渡邉熊四郎が、明治20年(1887年)に営業倉庫業に着手。当時の海運需要の高まりに応え、多くの預かり荷物を受け入れてきた。

 現在あるのは明治40(1907)年の大火の後、明治42年(1909年)5月に再建されたもの。

 

 

青森県(青森市、五所川原)
  • 青森市

《メモリアルシップ八甲田丸》

 昭和39(1964)年7月31日に神戸で竣工した、青函連絡船の八甲田丸。その内部が博物館として公開されている。

 グリーン船室には乗船椅子の展示があり、寝台室、船長室、事務長室ほか、鉄道車両を搭載する空間も実際に歩きながら見学することができる。

 

 

  • 五所川原

《芦野公園駅舎》

 津軽鉄道線における金木の次の駅。

 昭和5(1930)年に竣工した木造の洋風駅舎が今でも使われており、太宰も小説「津軽」の中で言及した。喫茶店として営業中。

 

 

 

秋田県(秋田市、田沢湖)
  • 秋田市

《赤れんが郷土館》

 旧秋田銀行本店本館、明治45(1912)年に完成した建物で国の重要文化財に指定されている。1階部分は白い磁器タイル張り、2階は赤レンガの外観。円塔部分が良い。

 屋根や階段、壁の一部などには東北地方で産出された石材が多く使われている。

 

 

  • 田沢湖

《思い出の潟分校》

 旧田沢湖町立生保内小学校潟分校。潟分校が巡回授業所として創立したのは明治15(1882)年。現在みられる校舎の竣工は大正12(1923)年、そして、体育館は少し後の昭和2(1927)となっている。

 やがて昭和49(1974)年に廃校となった小学校校舎をそのまま保存・修復し、一般に公開。

 

 

山形県(山寺)
  • 山寺

《旧山寺ホテル》

 旧山寺ホテルはJR仙山線の開通にあわせて大正5(1916)年頃に建てられた旅館。平成19(2007)年の閉館まで、現役で営業していた。見学無料。

 市民ギャラリーや各種会場としても利用されている。

 

 

 

福島県(猪苗代)
  • 猪苗代

《天鏡閣》

 李白の詩句から名前を拝借し「天鏡閣」と名付けられた皇族の別荘。明治41(1908)年8月に竣工した。

 現在国の重要文化財に指定されている。 

 

 

茨城県(牛久)
  • 牛久

《牛久シャトー》

 神谷伝兵衛が東京・浅草で「みかはや銘酒店(現・神谷バー)」を開業し、かねてより計画していた醸造場を完成させたのが明治36(1903)年。

 旧醗酵室は「神谷伝兵衛記念館」として展示が行われており、地上2階から地階を無料で自由に見学することができる。

 

 

 

群馬県(渋川)
  • 渋川

《横手館》

 平成28(2016)年に国の登録有形文化財として認定された、大正時代の佇まいをほとんどそのまま残す木造旅館建築。実際に宿泊することのできる近代遺産でもある。

 明治44(1911)年から旅館営業していた建物が現在の姿になったきっかけは、大正9(1920)年の大火事。その後、東棟と西棟が順に完成した。どちらも総桧造り。

 

 

 

東京都(多数)
  • 葛飾区

《山本亭》

 合資会社山本工場を創立し、カメラの部品を製造していた山本栄之助という人物により建てられた邸宅。基本は大正時代末期の建築で、以前は台東区浅草にあったが関東大震災を期に柴又に移転した。

 大正15(1926)年から昭和8(1933)年頃に至るまで、都度新しい要素を取り入れて増改築を重ねた建物。

 

 

 

  • 港区

《旧公衆衛生院》

 昭和13(1938)年に竣工した鉄筋コンクリート造りの建物。

 設計はかつて東京大学(旧帝国大学)の総長を務めたこともある内田祥三で、東大本郷キャンパスに存在する大講堂、安田講堂も手掛けている。作品のうちいくつかは「内田ゴシック」の通称で呼ばれ、独自の様式の特徴を持っているのだった。

 

 

 

  • 目黒区

《百段階段》

 ホテル雅叙園の「百段階段」は昭和10(1935)年に完成した、敷地内に現存する中では最も古い唯一の木造建築。正式にはホテルの前身である「目黒雅叙園3号館」のことを指す。

 料亭の明朗会計を売りにした雅叙園は、細川力蔵とその相棒、酒井久五郎が築き上げた。

 

 

 

  • 新宿区

《小笠原伯爵邸》

 小笠原伯爵邸が竣工したのは昭和2(1927)年の頃。

 設計を行ったのは曾禰達蔵・中條精一郎の二者が経営していた「曾禰中條建築事務所」であり、大正14(1925)年9月時点の図面にもその名前が刻まれていた。彼らはかねてより長幹伯爵と親交があり、縁あって彼の邸宅を手掛けるに至った。

 

 

 

  • 文京区

《島薗家》

 島薗家住宅は昭和7(1932)年に竣工した個人邸。

 設計は一部が名古屋明治村に移築されている川崎銀行本店や、川崎貯蓄銀行福島出張所を手掛けた矢部又吉によるもので、彼は工手学校(現工学院大学)を卒業してからドイツでも学んだ人物。その影響もあり、島薗家住宅にはドイツ建築風の意匠も見ることができる。

 

 

 

  • 台東区

《岩田邸》

 東京・台東区上野、池之端の三段坂に面する岩田邸は、和館部分が明治末、洋館部分は大正9(1920)年の竣工と推定される個人宅。弁護士事務所、のちに富山から上京してきた学生や、学者の住まいとして使われてきた。

 改修工事後は洋館が持ち主ご家族の主な住まいとなり、和館の方をイベント等で活用していくとのこと。

 

 

 

  • 品川区

《島津家本邸》

 大正4(1915)年に竣工、その2年後の同6(1917)年に内装も含めて落成した、旧島津家本邸。現在の清泉女子大学本館。年に数回のツアーによって内部を見学できる。

 当時のお雇い外国人ジョサイア・コンドルの設計。

 

 

 

神奈川県(横浜)
  • 横浜

《えの木てい》

 昭和2(1927)年の建物で、設計は建築家の朝香吉蔵。現在は洋菓子店兼カフェ。

 ちなみに彼は隣に立つ山手234番館の設計も手掛けており、ふたつの間に立って煙突側面を比べてみると、形が似ていて共通の雰囲気が感じられる。

 

 

 

千葉県(稲毛)
  • 稲毛

《千葉市ゆかりの家・いなげ》

 大正末期の完成と推測される、旧武見家住宅。

 旧武見家は昭和12(1937)年に、清朝最後の皇帝、愛新覚羅溥儀の弟・溥傑が伴侶の浩とともに半年程暮らした場所としても有名。

 

 

《旧神谷伝兵衛稲毛別荘》

 シャトーカミヤを建造した神谷伝兵衛の別邸。

 コンクリート造りの建物は大正7(1918)年に竣工、関東大震災を経験しても倒壊しなかったことで、その丈夫さが際立つ。アール・ヌーヴォーやゼツェシオン(セセッション)の影響も受けている。

 

 

 

静岡県(伊東、熱海)
  • 伊東

《ハトヤホテル》

 昭和の前半、ハトヤホテルの起こりはニューアカオと少し似ていて、小さな旅館から始まったらしい。あるときハトヤの創業者がその建物を所有者から譲り受けたとか。

 当時の建物はもう違う場所に移築されているため、現在のハトヤホテルとはまた別になる。

 

 

 

《東海館》

 東海館は昭和3(1928)年、稲葉安太郎という人物によって創業された温泉旅館であった。彼は伊東の材木商。

 それもあってか、館内の各所に使われている木やその加工にはこだわりを感じられ、増築の際にはわざわざ各階の意匠を評判のよい棟梁へ依頼していたようだった。

 

 

 

  • 熱海

《起雲閣 喫茶室》

 過去に訪れていた起雲閣の再訪で、はじめて喫茶室に入った記録。

 内田信也の別邸として大正8(1919)年に竣工、その後、根津嘉一郎の手に渡ってから大幅な増築が行われた和洋折衷の館は昭和22(1947)年に旅館となり、太宰治や谷崎潤一郎など数々の文豪に愛された。

 

 

 

岐阜県(中津川)
  • 中津川

《但馬屋》

 馬籠宿における明治28年の大火のあと、同30年に再建された建物の旅館。

 入ってすぐに迎えられるのが囲炉裏のある場所で、受付の脇には昔の電話、奥の壁の方には振り子のついた時計も掛けられていた。

 

 

 

長野県(南木曽)
  • 南木曽

《桃介橋》

 大正10(1921)~11(1922)年の間に建造された、主塔部分が鉄筋コンクリート造りの木造吊橋。橋長は247.762mと、国内に現存する木橋のなかでもかなり大きなもので、老朽化によって使用取りやめ後の平成5(1993)年に復元された。

 近代化遺産として国の重要文化財に指定。

 

 

 

《福沢桃介記念館》

 大正8(1919)年に竣工した、福沢桃介の別荘。

 洋館の2階部分は、昭和35(1960)年4月に発生した火災により焼失。それゆえ現在は平成9(1997)年の復元後に整備された状態のものが一般公開されているが、基礎部分や1階部分はほとんど竣工当初から現役で使われていた頃のまま。

 

 

 

《山の歴史館》

 もとは明治33(1900)年に妻籠宿で建てられた木造建築で、当時は御料局(ごりょうきょく)妻籠出張所庁舎だった。

 御料局とは明治18(1885)年に宮内庁に設置された、皇室の領地を管轄するための部署のこと。のちに帝室林野管理局、また帝室林野局……と二度の改称を経て、現在では廃止されて存在していない。

 

 

☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆

 

 上の1と2の枠組みに当てはまらなかった目的地の記録も、そのうちどこかで。

 以上が2022年の旅行と散策の振り返り。

 

 2023年になると、当ブログは開設から5周年を迎える。

 今後も私は飽きるまで「ごく個人的な物語を追うための巡礼」を続けているはず。