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揚輝荘北園に建つ《伴華楼》の再訪記録 - 設計・鈴木禎次は夏目漱石と相婿の関係にあたる|名古屋の近代建築

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 前に来たときと同じく季節は冬。けれど、当時の名古屋は雨だった。

 確か小雨で、歩きながら傘は差していなかったような気がする。そこかしこに小さな屋根はあっても全身が湿るから、広い庭園に長居するのは憚られて、早々に南園の聴松閣内部へ避難してしまっていたのを思い出した。だから、こうして気の済むまで伴華楼の周囲をうろうろしていられたのは新鮮。1月下旬のとある日はよく晴れていた。

 伴華楼(ばんがろう/bungalow)は、揚輝荘の敷地内にある建物のひとつ。大正15年に起工し、昭和4年に完成した。

 現存しているのはこれと「聴松閣」「座敷(聴松閣横)」「白雲橋」また敷地内に最初に建造された茶室である「三賞亭」など、有形文化財に登録された5棟くらい。でも、最も栄えていた頃には驚くことに30棟を超える建物が敷地内に存在していた。多くが失われた理由は戦災や、老朽化や、開発による土地の減少。

 公式サイトには昭和14年時点の地図が載っていて、それを現在のものと比べてみると、特に新しいマンションをはじめとした建造物の有無でどれだけ様子が変化したかが分かりやすい。例えば、姫池通に面している辺りには昔、弓道場があったのだな……とか。

 

 

 変化してきた敷地。その現在「北園」と呼ばれている方に位置する伴華楼は、いわゆる迎賓館だった。

 かつて尾張徳川家(大曽根邸)から移築されてきた平屋に、洋風の遊戯室や応接室などを新築し組み合わせた、和洋折衷の様式。アール・デコを基調としていると説明にあるけれど、個性が強く独自の趣を感じさせるようになっている。石や金属ではなく木を用いた部分が多いのもその要因な気がした。

 こぶ板や節目板など、木材そのものが持つ表情をおもてに出し、無二の微妙な味わいを楽しめるようになっていて、それがどちらかといえば幾何学的な意匠の魅力を際立たせるアール・デコと出会い、他にはない「らしさ」の演出がなされている。

 ガイドを伴うツアー以外だと1階部分を外からこうして眺めるのが見学の方法となるため、首を長く長く長ーく伸ばして内側の方に目を走らせた。とても良い。ちなみに2階も外側に面している部分ならわずかに視認できるところはあって、なかでも欄間に花のステンドグラスが施されている箇所は穴が開くほどに見つめた。

 

 

 表面が平滑ではなくじわじわした加工のガラスは、大正~昭和初期の香り。こういった建物だけでなく茶箪笥や棚の扉にもときどき使われているのを見かける。

 伴華楼を設計した鈴木禎次は明治3年の生まれで、私の好きな夏目漱石とは「相婿」の関係にあたるらしい。つまり妻同士が姉妹である、ということ。漱石の妻・鏡子さん(旧姓は中根)がお姉さんで、妹の時子さんの方が、鈴木禎次の妻。

 漱石はかつて一度だけ建築家を目指そうと思ったことがある(生活に必要な職業に魅力を感じ、かつ「美術的」な建築を手掛けたいと思った)が、落第をめぐる紆余曲折の末に同級となった友人、米山保三郎に諭され、文学の道を改めて志している。建築に関心を持つ者同士で、鈴木禎次とはそれなりに馬が合ったのではないか。

 鈴木はもと静岡出身だが、名古屋高等工業学校(現在の名古屋工業大学)の建築科で教授として勤め、その後名古屋に建築事務所を構えた縁もあってか、伴華楼など揚輝荘での仕事も含めて愛知県内に多くの作品を残している。

 

 

 市松模様の煙突があり、特に外壁が山小屋を思わせる一角。

 この模様は使われ方によって和風とも洋風とも受け取れるところが面白いと感じた。単純だけれど心地よい視覚的な音楽。煙突の根本の小さな扉からきっと炭や灰などを出し入れしていたのであろう、手入れの仕事をされていた人の様子を想像でき、さらにそこでパンやピザなどは焼けないものかとも色々考える。もちろんこれは窯ではないので無理だと思うけれど。

 柱も壁も、地面に近いところだけゴツゴツした石を用いた意匠がおしゃれ。応接間の方の柱には「兎が餅をついている」レリーフが施されているらしくて、内部から細部をじっと観察できないことに歯噛みした。でも、ガイドツアーの開催時にまた来てみればいいのだと頷く、なにせ新横浜から名古屋までは、新幹線を使えば最短ひと駅なのだから。

 兎がいるところからも想像できるように、ここが月見の名所で、昼間はそれが見られないのは残念なこと……と思いつつ、伴華楼から白雲橋の脇を歩いて、三賞亭の方に移動したらなんと丸い月が「あった」。建物の中に。

 

 

 茶室の窓。

 外の方が明るいから、玄関の側から窓に目を向けるとぼんやりと発光して見える。障子紙で半分輪郭がぼやけていて。

 揚輝荘に設けられた最初の建物がこの三賞亭なのは冒頭で述べた。これはもともと、揚輝荘の持ち主である伊藤二郎左衛門祐民(松坂屋の初代社長)が住んでいた、茶屋町(現在の中区丸の内2丁目)の本宅から移築されたものだった。

 池のほとりにあり、ここで煎茶の席に招かれた客人たちが庭園を一望できるような配置になっていた。周囲を見回すと茂みの向こう側、樹々と葉の隙間に背の高いマンションなどが透けて見えるのも、むしろ面白いと思えてくる。時代を経て長くここに存在しているからこそこういう光景になるのだと。