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彷徨する自由帖

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洋燈の華、旧津島家新座敷「太宰治疎開の家」- 不可視の渡り廊下を歩いて|青森県・五所川原市の近代遺産

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 家へ帰って兄に、金木の景色もなかなかいい、思いをあらたにしました、と言ったら、兄は、としをとると自分の生れて育った土地の景色が、京都よりも奈良よりも、佳くはないか、と思われて来るものです、と答えた。

 

(新潮文庫「津軽」(2022) 太宰治 p.158) 

 

 この照明器具は後から見学展示室の方に取り付けられたものであって、別に昔からあるものではないのだけれど、佇まいが好きだった。

 燭台を象った光源部分をガラスの板が囲み、何かの儀式みたいな様相を見せている。全部で12枚、焚き火の周りに人が集っているような。そうして下からよく観察してみると、ひとつひとつの板の真ん中には星の意匠が施されていた。

 植物をモチーフにした6角形の土台。天井には、そこを中心とした影が放射状に伸びている。光を灯した時に見られる姿も、そうでない時の物体自体の姿も含めて、ひとつの照明器具なのだと思う。

 形状によってこれだけ「性格」が異なるのなら、設置箇所となる建物や部屋との相性を考えるだけでも一苦労で、だからこそ無個性な照明というのはつまらなくても役には立つのだろう。どこもかしこも時間をかけて、優美かつ洗練された空間に整えるというわけにもいかないので。閑話休題。

 奥に進む前にもう一度じっと見た。本当に素敵な照明器具である。

 

 

 以前は津島家住宅、斜陽館の離れとして敷地内に立てられていた新座敷。

 それを東方向に90メートル、現在ある位置に曳家(ひきや)で移動させ、かつてここに暮らし多くの作品を執筆した文豪の軌跡を辿る施設として、一般に公開されているのが「太宰治疎開の家」だった。

 そもそも曳家とはなんなのか、移築とはまた異なる方法なのだろうかと疑問に思っていたら、職員の方が説明してくれた。建物をほぼそのままの状態で枕木に乗せ、ゴロゴロと「曳」の文字通りに目的の場所まで牽引していったのだと。なんだかピラミッドやストーンヘンジの建造を思わせる。

 昔の新座敷は、渡り廊下で主屋と接続していたらしい。

 それなら、数刻前まで斜陽館の方にいた私が今ここに立っているのは、現在では存在しなくなった廊下を歩いて来たようなものだと考えることにする。実際は一度外に出て、道路を通って迂回してきた。でも、実体を持つ身体ではなくて思念の方なら、壁をすり抜けて来られただろうから。

 

 

 太宰治が実際に「パンドラの匣」「冬の花火」「トカトントン」など約23作品を執筆した書斎はここ。館内を歩いていると、他にも彼の作品から一部を抜粋した紙がそこかしこに貼られており、太宰の残したあんな言葉やこんな言葉に触れながら見学できる仕様になっている。

 私は「斜陽」が好きなので、直治の遺書からの引用があって特に嬉しかった。

 新座敷の上棟は1922(大正11)年10月30日。

 実は、2022年のその日こそが私の訪問した日であり、さらにちょうど100年目だった……という運命的な(別に運命ではない)ものだったのは、とても嬉しかった。そう、こんな風に、まったく意図していないところで楽しい事柄に出会えると心から嬉しくなる。綿密な計画は、不意に訪れる偶然の喜びには勝てない。

 そんな上棟100年記念日に、現地で限定50部配布の「アオモリ文藝 第2号」プレゼントも無事いただけた。赤い表紙の冊子。この表紙のイラストが可愛いなと思うのは、展示してある本物の家族写真を元にしつつ、大人になった太宰が左側に立って微笑む構図にしているところ……。

 

 

 

 

「離れ」と聞くとなんだか主屋のおまけのように感じられてしまうかもしれないが、新座敷の造りも佇まいも、確かにあの斜陽館を構成していたものだと来てみれば分かる。

 和室に挟まれた洋室、鴬張りの(=上を歩くと音が鳴る)廊下と繋がるサンルームに、寄木の床。派手ではないけれど細部まで意識され、こだわって建てられている数寄屋造りの一角。太宰の父・源右衛門はこういった建築物がわりと好きだったのだろうか。それともどちらかというと、家の威容を誇示する手段として建物を利用していたか。両方かもしれない。

 サンルームと洋室を隔てる壁の大部分はガラス窓で、特に換気のためかその上部は回転式となっており、お洒落な感じがした。この光の入り方はとても良い。多分、時間帯もそう感じた理由の一つなのだと思う。

 また、造り付けのソファの魅力といったら筆舌に尽くし難い。部屋の中に置くのではなく、あらかじめ壁を切り取って一段階奥に空間を作るように、座面を嵌め込んでいる。初めから意図していなければ作られない空間で、だからこそ遭遇できると気分が高揚するのだった。

 後からものを置くのとは全然違う。

 

 

 そして、同じ理由でこの洋燈が置かれた一角も大好きになり、設置された木の棚の細工も含めて雰囲気を存分に味わった。ここの壁が凹んでいるのは「なんとなく」ではなくて、このランプを置くために「わざわざ」空間を作っている。そういうところにこそ、惹かれる。

 しかしなんて可憐な花なんだろう。ふちを彩るくすんだ赤色も、萼の根本から伸びる茎の装飾的な曲線も。夜になったら明かりを灯し、それに反応して寄ってくる虫さながらこの部屋に集まり、延々となんでもないことをしていたい。眠くなるまで。

 旧津島家新座敷が「疎開の家」と呼ばれている所以は、太平洋戦争の折に太宰治が妻と子を連れて、金木の生家に疎開してきていたため。味方によっては、生家の斜陽館自体よりも、この離れで過ごした時間の方が遥かに濃密だったといえるかもしれない。

 彼はここで短編「トカトントン」を書いた。

『いざ何かやろうと思い立って熱中するも、ふとしたきっかけで、なぜかその全てがどうでもよくなって辞めてしまう』感覚を知っている人なら、頷ける箇所が多いのではないだろうか?

 

 なおも行進を見ているうちに、自分の行くべき一条の光りの路がいよいよ間違い無しに触知せられたような大歓喜の気分になり、(中略)死んでも忘れまいと思ったら、トカトントンと遠く幽かに聞えて、もうそれっきりになりました。

 いったい、あの音はなんでしょう。虚無(ニヒル)などと簡単に片づけられそうもないんです。あのトカトントンの幻聴は、虚無(ニヒル)をさえ打ちこわしてしまうのです。

 

太宰治「トカトントン」青空文庫

 

 ただし、この作品でもっとも重要なのは最後の部分であると察せられる。

 何もかもがどうでもよくなってしまう、その感覚の先に至りたいと欲する時、著者自身を意識したと思われる作家の言葉について考えてみるのには意義があると思う。面白い短編なのでおすすめ。

 太宰治の名前は知っていて、暗い感じの作風や作者像を思い浮かべはするけれど、きちんとその小説を読んだことのない人がもしもいるとしたら。

 五所川原市金木の「太宰治疎開の家」に立ち寄って、ぜひとも職員さんの分かりやすい(そして愛に満ちた)解説を聞いていただきたいし、先入観ではなく、実際の彼の文章に触れてみて自分の感想を抱いてほしい。