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彷徨する自由帖

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台東区池之端「岩田邸」の洋館特別公開 - 改修工事前の様子と例の透明なドアノブ|大正期の文化住宅・東京都

 

 

 

 

 大正期に建造された洋館付きの日本家屋は、時に文化住宅と呼ばれる。近代の文明開化期において、「文化」という言葉が最新だとか、あるいは先進的だとかいう意味も兼ねて使われていた頃の影響で。

 東京は台東区上野、池之端の三段坂に面する岩田邸は、和館部分が明治末、洋館部分は大正9年の竣工と推定される個人宅。

 曲がり角に面した下見板張りの白い洋館外壁がまず目を引き、そこから1歩下がった灌木の奥に和館の方の玄関がある。正面から眺めてみると、それぞれ独立した建物のようにも見えるから興味深かった。

 また後述するが、内部を歩くとふたつの棟は驚くほど自然に繋がっている。風の通り道を作るように……複雑だけれど、必ずどこかがどこかに接続している空間。

 

 

 今回の特別公開は、この岩田邸が改修工事を控えていることを理由に行われたもの。3月下旬にもパネル展示が開催されてはいたものの、洋館部分の見学ができるのは今回のみであり、貴重な機会だった。

 弁護士事務所、のちに富山から上京してきた学生や、学者の住まいとして使われてきた個人邸。

 改修工事後は洋館が持ち主ご家族の主な住まいとなり、和館の方をイベント等で活用していくとのこと。同じ状態の建物は以後もう見ることができないと考えて、執拗に全体も細部も眺めた。

 はじめに洋館の2階へ上がったとき、視界に飛び込んできたものに心を囚われて、呼吸が止まったし叫びそうになった。当ブログでも旧近江八幡郵便局旧前田侯爵邸の記事で言及している、透明なドアノブがあったから。

 

 

 離れてみても良いし近付いてみてもいい。本当、まるで夢の中の家の扉に装着されているものみたいで。何でも好きなものをその結晶の中に閉じ込めたい。大正~昭和初期に竣工した建築物を訪問すると、たびたびこれに出会えることを実感し、これからも探し続けたくなる。

 簡素ながらもきちんとした格天井を誂えたこの部屋は、応接室だった。だから他のところにはない綺麗なドアノブで華やかさを演出しているのかもしれない。応接室内は4面の壁のうち2面に横幅の広い出窓が設けられ、明るい。

 特筆すべきなのは部屋の形である。鳥瞰図面を見ると、扉を開けてすぐの部分がへこんだようになっていて、隣室の押し入れ部分が張り出しているのだった。この内部の天井を確認すると同じ格天井で、応接間のものと地続きになっていることから、後から作られた空間なのだと推測できるそう。

 背の低い、落ち着きそうなベッドの置かれた隣の寝室の窓も、もとは出窓ではなかったらしい。竣工当初のままではなく、生活様式や用途に応じて変化してきた邸宅は、だから柔軟で居心地のよい感じがするのだろうか。

 

 

 

 

 洋館2階の廊下を先へ進むと倉庫がある。扉のガラスの色が深い青緑色で、蠱惑的だった。深い谷底を流れる河みたいな色。

 ここに置かれている火鉢や椅子などの家具は「お道具転生バザー」の商品として値札が付けられており、見学していて気になったものがあれば購入できる仕組み。どれも手ごろな値段で販売されていて魅力的だった。これまで大切に使われ、再び誰かの元に渡っていく品物には、蓄積された時間が宿っている。

 倉庫のさらに先はベランダ。外に向かって開いている空間だから、これ以上は進めないのに、不思議と行き止まりという感じはしない。家の全体を見るとそれなりに入り組んでいるのに閉ざされていない、流れの淀まないつくりが素敵だった。

 下見板張りの白いペンキを眺めてから、柵の下に目をやる。和館の屋根と庭がある。和室の一角で遊んでいる子供の声が、引き戸越しに響いていて微かに聞こえた。

 

 

 階段を下る。洋館1階部分の白眉は、Zの文字を反転させたような形の北廊下だと思う。斜めになった扉は脱衣所のものであり、開けると浴室に通じている。玄関やお手洗いの配置も好きだ。どうやらこの辺りは、1階寝室よりも後に増築されたのか反対なのか、未だ判断の分かれる部分らしい。

 初夏の晴れた日、建物内は本当に涼しかった。日陰になったスペースも、薄暗い、というよりは、反対に薄明るいと表現したくなる。販売されている古い棚がとても素敵。心がおばあちゃんになる。

 そして、近代建築の水回り大好き人間としてお手洗いを覗いたら、紐を引くタイプの木製タンクに出会えてこれまた嬉しかった。大声で叫ぶところだった。自由学園明日館の講堂で保存されたものを見て以来だから、かなり久しぶり。

 現役のものもまだ多く存在しているとは思うけれど、特に都市部だと、相当少なくなっているはず。壁の上部に固定され、奇妙な生き物の脊椎みたいに伸びる管を目でなぞるとゾクゾクした。何かの培養器を思わせて。

 

 

 

 

 北廊下と台所の間にある食堂は、かつての女中部屋だったそう。昔は畳が敷かれていた。現在は黄色とオレンジのパターンがあしらわれた塩化ビニールで覆われ、どこか昭和を感じさせる。

 そこから南廊下を通って曲がらず、大きな畳の間に出れば寝室だった。洋館の1階部分ではあるが和風のつくりで、見学時はバザーの家具が置かれていたため、応接間のような雰囲気に変わっている。燭台みたいな照明も販売されていたので気になった。自宅が広かったら確実にこれは買っている。

 縁の向こうには主庭。いわゆる豪奢な洋館ではなく、上京してきた研究者や学生たちが下宿し、後に個人邸となった、素朴で過ごしやすい家の香りが臓腑に染みわたってきた。

 次の間、上の間を抜けて寄付から廊下に向かうと茶室(旧図書室)があるのだが、そこで私は思わず足を止めた。前庭に面した窓、その格子の隙間から光と緑が漏れ出ている。左右に開け放たれた障子のガラス、透明な部分と半透明の部分……。

 

 

 実際に見学して感じる事柄以外にも、旧岩田邸の変遷についてはまだ検証されていない箇所や、持ち主だった方々の証言でその存在が明らかになった箇所などが少なからずある。

 石炭でお風呂を沸かしていた時代の様子もそのうちのひとつで、現在は脱衣所と浴室を隔てる部分に壁があるのだが、以前はそれが存在せず、お手洗いの側にあった焚口で湯を用意していたようだった。

 これから改装が行われ、時代の変遷で著しく不便になった部分は新しい設備に置き換えられていくのだろうが、邸宅を愛しながらそこに住み続ける人たちがいる限り「家」の本質は変わらないのだと思わされる。改めて、工事が入る前の貴重な洋館公開、たまたま告知を見かけて足を運んだのは正解だったと頷いた。

 そのまま引き続き活用される予定の和館へも、また来られるのを楽しみにしている。

 

 

 

 

 

喫茶まりも - 新丸子駅にあるレトロ喫茶店|神奈川県・川崎市

 

 

 

 

 新丸子駅東口から徒歩1分、友達と雑談するのに利用した喫茶店。

 建物は大きな窓の外側に鯉の泳ぐ細い池があって、交差点に面した角の部分には煙草販売コーナーもある。少し古い感じの趣がそれらしくて癒し。お約束のようなかわいい食品サンプルの棚の横、扉から入店する。

 天井に実った果実を思わせるガラスの照明と、光の広がり方が魅力的。ゆったりとした臙脂色のソファはおさまりが良く座りやすかった。

 この新丸子にある喫茶まりもは、昭和38(1963)年に創業した店舗。

 実はかつて日吉に存在した同名の喫茶店と繋がりがあり、そちらは残念ながら2017年の12月に閉店してしまったそうだ。色々な事情があると思うが、古い喫茶店ができるだけ長く存続してくれることを願ってやまない。

 

 

 注文したのはソーダー水とドライカレー。お腹が空いていた。

 シンプルなグラスに注がれた鮮やかな緑色の水の爽やかさ。こういうものを求めて喫茶店に来てしまう。ドライカレーはしょっぱすぎず、辛すぎずで、素朴ながらも思わず箸が進んでしまう味。いくらでも食べられそう。

 そして、料理類を注文するとお味噌汁が付いてくるらしく、その点での満足感も大きい。珈琲や紅茶はもちろん、しっかり食事をとりたい時にもおすすめできる場所だった。

 ちなみにアルコール類の提供もある。それゆえ、呼称が純喫茶ではない。

 

 基本的に無休で、通常は曜日にかかわらず朝10時から夜9時(食事類の提供は夜6時が最終)まで営業している。情勢の影響は不透明なので詳細は要確認。休日のお昼頃は忙しそうで、かなり席が埋まっている印象だった。

 店舗内は全面禁煙。

 

 

 

 

 

 

【宿泊記録】憧憬を抱いて横手館 本館西棟客室「あららぎ」へ - 大正浪漫の趣ある木造旅館|群馬・伊香保温泉

 

 

 

 

 

 伊香保温泉の石段街。

 最下段に位置するアルウィン公園からまっすぐ上へ歩いて7分ほど、斜面に立ち並ぶ店々の側面を一望できる高さに来たら、和風のカフェがある通りを左折する。そうすると見えてきた。コの字型の空間、少し奥まった場所にある入口。

 4階建ての佇まいには圧倒された。表から見える部分はほぼ全面がガラス窓で構成されており、外に突き出た各階の細い庇を化粧垂木が支えていて、梯子か神様の通り道みたい。

 周囲が暗い夜に前を通りかかると、内側からぼんやり、橙色に発光しているようにも見えるのだった。でも今は静かに息をひそめている。

 

 

 ここは、古式ゆかしき名湯之宿、横手館。

 平成28(2016)年に国の登録有形文化財として認定された、大正時代の佇まいをほとんどそのまま残す木造旅館建築であり、実際に宿泊することのできる近代遺産でもある。

 今回は運良く、以前から入ってみたいと渇望していた客室、本館西棟の「あららぎ」に滞在することができた。横手館内でも最も格調高いとされている美しい部屋。値段は他の西棟の客室と特に変わらないため、偶然にも割り当てられたら、建物好きとしては実に嬉しい。

 いつも追いかけている近代の建築の魅力、しかし今回は洋館や官庁舎などとはまた違う、旅館の和室の魅力を隅から隅まで味わった。

 

公式サイト:

 

目次:

 

横手館 伊香保温泉

  • 概要・本館西棟

 

 横手館には大きく分けて3つの棟がある。

 それぞれ「本館西棟」「本館東棟」「別館 常磐苑」と呼ばれ、今回宿泊したのが本館西棟。客室内部が全面的に改装された東棟とは違い、西棟のみどころは、大正時代の趣が損なわれず保たれている部分。もとは2階建てで、昭和にかけて3階と4階が増築された。現在は国の登録有形文化財。

 ちなみに明治44(1911)年から旅館営業していた建物が現在の姿になったきっかけは、大正9(1920)年の大火事。その後、東棟と西棟が順に完成した。どちらも総桧造りである。

 本館西棟の部屋は全部で14室あり、宿泊人数やプランによって割り当てられる部屋は異なっている。到着したら台帳に氏名や住所を記入して、案内とともに客室へ向かう。その際にホールとロビーを少し見た。

 

 

 ホールの吹き抜け空間に揺れるシャンデリアや柱の装飾、ロビーのステンドグラスなどが洋風で、和風の木造旅館の中にそういった意匠が混在するところなどまさに大正ロマン。楽しくなってしまう。

 朝、ここに下りてくるとセルフサービスのコーヒーが用意されている。3月末はまだ外が寒く、太陽が雲に隠れると上着を着ていても身震いするくらいだったが、早い時間からストーブが焚かれていたので助かった。後述するが客室も十分に暖かい。

 チェックイン前でも荷物を預かってもらえるため、おすすめなのはお昼頃に伊香保に来て横手館に大きな鞄を置き、石段街を散策したりご飯を食べたりする動き方。玉こんにゃくやお饅頭のほか、各種カフェも充実しているので身軽になっていろいろ回ると面白かった。

 そのあとは客室まであらかじめ荷物を持って行ってくれるので、自分で運ぶ必要はない。

 

  • 客室 - あららぎ

 

 3階まで上がると部屋名の表札にときめかされた。観察していて気が付いたのだが、宿泊者がいる部屋だけが発光し、誰も滞在していない部屋は光っていないみたい。なるほど分かりやすかった。

 私達が宿泊したのは客室「あららぎ」。

 フロアの角、例のコの字になった建物入口部分の内側に位置し、外から見上げるとガラス越しに回廊が視認できるタイプの部屋となっている。回廊、広縁、副室を除いても10畳とゆったりしていて、2名くらいで泊まるのにはちょうどいい。古い木造建築の窓など元からあるものはそのまま、内側に新しい引き戸が重なるようにして、防寒仕様になっていた。

 そのため暖房から吐き出される温風は外に漏れ出ることなく、きちんと客室を過ごしやすくしてくれる。ちなみに本館西棟の客室にクーラー設備は存在しないため、夏場の滞在に関しては様子を見て判断するのが吉。

 私のような人間は近代建築に泊まれるのなら何も気にしないが……。

 

 

 鍵を開けて入室するとすぐ待ち構えているこの空間。びっくりした。構造的に、まるで部屋の中にもう一つの部屋があるみたいだったから。あまりに素晴らしかったため、しばし言葉を失う。手前に置いてある灯籠のような明かりも良い。

 木造建築にあるガラスの扉らしく、カラコロ音が鳴る引き戸を開けた地点から、突き当たりを曲がったところの広縁まで、まさか美しい「回廊」が伸びているなんて普通は夢にも思わない。でも、確かに目の前に存在していた。本当のことだった。

 いつも夜な夜な、一体何がここを通るのだろう。温泉にゆかりある神様とか、近くの森の動物とかだと、とても心惹かれる。

 スリッパを脱いで、そのまま広縁まで行ってもいいし、畳の敷かれた副室の方から中に入ってもいい。魅惑の選択肢である。延々とここを行ったり来たりしていたいくらいには。抜け出せなくなりそう。

 

 

 黄緑と碧のいいとこ取りをしている色合いの壁はざらついた質感が魅力的だった。時間帯によっては翠色の風合いも感じる壁、この部屋自体、完成当時から今までずっと残っているもの。そこに、組子細工の施された障子の紙で濾過された光が染み込んできて、風が吹くと竹林の中の四阿を思わせる。

 床の間横の細工の意匠は魚をとる網と、川や海の底に仕掛ける罠を模った図……なんだろうか。本当に繊細。欄間の透かしにも魂を囚われてしまってだめだ。妖怪になって棲みついても良いか……?

 外が暗くなってから部屋の明かりを灯すと、襖の方の意匠の扇形(うち一つだけが菱形)の影が、浮かび上がるようにして空間を飾る。なんとなく眺めていて、ありもしない箏の弦が遠くで爪弾かれるのを耳にした気がした。もといた場所から違うところに迷い込んでしまい、初めて開けた扉が繋がる異空間みたい。

 反対に朝、外から光が入るとこれまた雰囲気が変わる。

 

 

 

 

 なんだか明るくなっても完全には消えない夢のなごりを思わせる光景だった。ほんの少しの間だけ宿り、談笑の声が潰えればあっさり通り過ぎていく夜の袖を掴まず、淡々と出掛ける支度をする寂寥も温泉の醍醐味なのかもしれない。どこに行っても慣れないけど。

 そうして再び欄間と広縁に囚われる。備え付けのお茶を淹れて、お菓子の「こんにゃく絹餅」を食べた。群馬はこんにゃくが名物なのだ。

 これは余談なのだが、普通に布団で寝ていたら夜中にいきなり目が覚めて、枕元の時計を確認したところ、なぜか3時ぴったりだった。文字通りにぴったり00分。うーん、怖い、と思いつつ、2時みたいなもっと怖い時間帯じゃなくて良かったことに安堵し、うす暗い館内をふらふら散歩してみた。

 この稀有な感じ、レトロな字体が実に素敵。

 

 

 静かにぐるぐる歩いて、また部屋まで戻ってくる。そして寝て起きたのだった。

 私達の泊まった部屋の名前になっていた植物「あららぎ」は、別名「イチイ(一位)」とも呼ばれており、そこからも特別な意味合いが伝わってくる。改めて空間を見回した。職人たちが工夫を凝らした魔性の客室、仮に別の場所にある部屋を全く同じ設えにしても決して複製のできない、何かがある。

 近代の、少し古い旅館ってよいものだ。瑕疵のほとんどない最新の宿泊施設よりも個人的に好き。

 そうそう、書き忘れていたのだが、本館西棟の客室ごとに用意されていないものは冷房のほか、個々のバス・トイレ。これらは部屋の外に出た廊下の先にある。都度部屋から表に行かないといけないのは多少面倒だが、洗面所やお手洗い自体はかなり清潔なので、利用しやすかった。これが嫌な人は東棟や別館へ泊まろう。

 

 

 新しさをとるか、雰囲気をとるか、それは宿泊客の好み次第。

 上で述べたような空調や洗面台など、設備の関係で、面白いことに全客室の中でも本館西棟にあるのが最も手軽なお値段の部屋であること、建物好きとしてはこれ以上ないほどにお得だと感じるのだった。だって最新のものが趣味なら、わざわざ横手館に来ることもないだろうから。

 他では見られない建物である要素を考えると、伊香保温泉の中で、朝食と夕食をつけたとしてもかなり素敵な価格帯の宿だと判断できるのである。

 

  • 夕食と朝食

 

 食事にもいろいろ選択肢があって、今回は「上州特選会席 ダイニングプラン」を試してみることに。本館一階の食事会場にて提供されるのだが、夜6時ごろに下りていくと私達のほかには誰もおらず、情勢に対する懸念もあってかなり得した気分になる。他に、基本プランだと部屋食も選べるので都度要確認。

 お酒のメニューが置いてあるので食事中に何か好きなものを飲める。私は谷川岳のとび辛というものを頼んでみた。お会計は、チェックアウトの際の支払いと一緒に。

 地元、群馬県でとれた食材と、季節・旬のものを中心に構成されているのが特徴。肝心の味の方はふつうにおいしい。

 品目はこんな感じだった。

 

【梅見月 山の会席】

・食前酒 いちご酢酒

・先付  うるい、ふき、ゆば有馬煮

・前菜  こんにゃく旨煮

     山菜天ぷら

     筍土佐煮

     鳥松風

     公魚かわり揚げ

     三食団子

     天豆蜜煮

・御椀  沢煮椀

    (牛蒡、牛肉、独活、人参、芹)

・造里  紅鱒土佐〆花仕立て

・焼物  武尊サーモンホイル焼き

・煮物  もち豚角煮、芽キャベツ、里芋

・鍋物  雪見上州路

・食事  鶏めし、香の物、赤だし

・水菓子 抹茶ぜんざい風

 

 それから、朝食。

 焼き鮭と大粒の黒豆納豆がメインで、席で熱したあたたかいお味噌汁の芋がおいしい。

 ここでは提供される卵の調理方法が選べ、私は温泉卵、友人は卵焼きに。サラダの野菜も地元産なのだが、そこに四角い野菜チップスのようなものが混ざっていて面白かった。上からドレッシングをかける。

 

 

 私達以外のお客さんは7時半以降の朝食時間を選択されていたのか、ダイニングはガランとしていた。食べ終わる頃に人が入ってきた感じで。

 朝ご飯を食べてからでも食べた後でも、チェックアウトの時間まで温泉に入ったり、あるいは惰眠を貪ったりとゆっくりできる。またチェックアウト後に街をしばらく散策したい場合も荷物を預かってもらえるので、お土産を物色するか最後の最後まで食べ歩きをするかしても楽しい。

 広縁に座って身支度をしていると人の少ない表通りが見えて、温泉街独特の午前の静けさが心地よかった。建物の隙間から、ずっと遠くの方に山が見える。

 

  • 温泉の特徴

 

 この写真、実は館内に3つある貸切風呂の入口のひとつである。引き戸を擁した砂色の壁の、えも言われぬ絶妙なくり抜かれ方……まさかこんなに魅力的な形をしているなんて。

 横手館にはこういう、思わず「あ」と呟いてしまうような意匠が各所に点在しており、本当にちょっと徘徊するだけでも面白かった。貸切風呂に関しては別途の料金なども特にかからず、他の利用客との兼ね合いで、空いている時間ならいつでも利用が可能。

 そして大浴場には2種類あり、それぞれ折鶴の湯、月光の湯と呼ばれている。男女入れ替え制。

 提供されているお湯は伊香保温泉の「黄金の湯」で、これは硫酸塩泉であるそうだ。茶褐色の湯色と、そこに浮かぶ湯の花が特徴であり、鉄の成分を含有するため香りも金属らしい独特のもの。横手館の湯は源泉かけ流しで加温のみが行われている。

 ちなみに入浴後、白いタオルで体を拭くと布がちょっと黄色くなる……!

 

 

 近代の木造旅館が好きなら、その雰囲気と伊香保温泉、両方を楽しむのに適した場所だと思う。サービスも行き届いているので余計なことを考えずに過ごせる。

 私はもう一度くらいここに泊まりたい気がした。今度は「若竹」や「白梅」など、本館西棟にある別の客室も見てみたい……。当ブログ以外だと貸切温泉どっとこむさんのページでもこれらの部屋が紹介されていて、俄然行きたくなってしまった。組子細工も良いし、壁の色とかも最高。

 伊香保石段街散策については追ってまた記録を掲載する予定なので、ご興味のある方はお楽しみに。

 

 

 

 

 

パインツリー(PINE TREE) - 熱海銀座の商店街にあるレトロ喫茶店|静岡県・熱海市

 

 

 

 

 むかし友達に連れられて行ってから、何度か訪れている喫茶店。

 以下でプリンアラモードの感想を書いている。

 

 

 純喫茶パインツリーは、JR東海道線の熱海駅を出てからしばらく歩いて、銀座町の商店街に着いたらアーケードの中程に見つけられる。ガラスケースに並んだ魅力的なサンプルと、お店の正面上部にある緑色のリボンが目印。

 入口左側にはレトロなおもちゃを販売しているショップ。何かひとつ欲しい。

 昭和34(1959)年の創業で、観光案内サイトを見ると「テレフォン喫茶(電話喫茶、テレフォンカフェともいう)として開業」とある。テレフォン喫茶は各席に電話と交換台が用意された喫茶店で、各家庭に電話が普及しておらず、また携帯電話も身近でなかった時代に利用されていたのだとか。呼称がネットカフェみたいな響き。

 先日の訪問時にはフルーツジュースとツナサンドを注文した。

 

 

 フルーツジュースは注文後にミキサーで絞って作られ、グラスの氷で冷やされている。ストロー付き。

 自然な感じの甘さでおいしかった。ゆっくり味わうとどこか果物の青さもあり、ときどき果肉の粒も顔を覗かせる、素朴な印象。とりわけ朝ご飯と一緒に飲みたいやつ。だからなのか尚更、トーストされたツナサンドとの組み合わせが引き立つような気がした。

 ツナサンドのパンはサクっとした、比較的しっかり焼かれているタイプ。両脇に食パンの耳もあり。

 刻まれたきゅうりの歯ごたえと爽やかさ、それがツナとマヨネーズソースに絡んでパンの香ばしさと調和し、食べた後に堅実な満足感を残していく。けれど不思議と満腹になってしまわないのはどうしてなのだろう。脂っこいところがないからなのか、昼食後のおやつ代わりにでも気軽に食べやすい(筆者が食いしん坊なだけでは?)。

 

 

 ちなみに、お皿や紙ナフキンに刻印されているPINE TREEのロゴと女の人のアイコンは、従業員のエプロンにもプリントされているのだと店員さんが教えてくれた。かわいい。

 営業時間は通常朝の9時からとなっているものの、私達が前回訪れた際は情勢の影響か、10時からに変わっていた。早朝から熱海散策をはじめて立ち寄りたい場合はそれを念頭に置いておくのが良いかもしれない。不定休なので臨時休業される場合もあるだろう。

 いつ行っても気分の落ち着く雰囲気の喫茶店なので大好き。

 

 

 

 

 

 

純喫茶マイアミ - 箱根湯本駅にあるレトロ喫茶店|神奈川県・足柄下郡

 

 

 

 

 塔ノ沢で日帰り温泉に浸かった帰り、午後に利用した喫茶店。箱根湯本駅の改札を出てから歩道橋を渡って、階段を下りるとすぐの場所にある。

 表に出ている看板の上部に大きなコーヒーカップ(MIAMIと書かれている)のレプリカが載っており、中から白い湯気がもくもくと湧いている仕掛けが可愛らしかった。遊園地みたい。

 調べると昭和26(1951)年の創業だそうで長い歴史があり、湯本付近では最も古い喫茶店のひとつと言われている。店内は十分に明るいけれども雰囲気が落ち着いていて、まっ白いテーブルに、ベロア風の素材で背もたれのところが波打った形状の赤いソファが魅力的。

 そこに観葉植物の緑が彩りを添え、全体的な色の均衡がとれた感じになっている。天井中央の照明器具もよい。

 

 

 注文したアイスティーとコーヒーゼリー。ガラスの器の表面に並んだ、丸いへこみに心惹かれた。

 個人的にコーヒーゼリーは喫茶店の個性がもっとも顕著にあらわれるメニューのうちのひとつだと思う。風味はどうか、食感はどうか、またそこに何が添えられているのか……。

 マイアミのコーヒーゼリーはほろ苦く、本体に甘さがない。それゆえ別途でシロップが付けられていて、好みに合わせて調節できる。生クリームに負けない濃く深みのある味わい。そして、弾力のある硬さを持っている。ぷるぷるだ。

 一方、さくらんぼは柔らかくて甘い。ダージリン系のアイスティーの方もきりっとしていて美味しかったし、はじめにストレートで飲んで、残りの半分くらいはミルクを注いで味を変えると二度楽しめる。

 

 

 おでんのもち巾着みたいに上部分がきゅっと絞られた照明は、黄色い花のあしらわれたステンドグラスで、これもまた視覚的に嬉しかった。

 大きな窓からぼんやり外を眺めるのもよし、奥まった場所にある席でぽつねんとするのもよし、箱根湯本で気軽に休憩できるところ。

 不定休で通常は朝8時半から夜6時まで営業している(詳細は都度要確認)。

 

 

 

 

 

旧公衆衛生院(港区郷土歴史館)- 円形の吹き抜けホールに心も吸い上げられる、昭和初期の「内田ゴシック」建築|ゆかしの杜

 

 

 

 

公式サイト:

港区立郷土歴史館

 

 名建築である旧朝香宮邸(東京都庭園美術館)の入口から、歩いてものの十分と少し。

 何度も訪れている地域だが、私がこの旧公衆衛生院の存在に気が付いたのはつい先日のことであり、こんなところに随分と大きな近代建築があったものだ、と感心して東側から正面入口の方に回った。

 昭和13年に竣工した鉄筋コンクリート造りの建物。

 設計は、かつて東京大学(旧帝国大学)の総長を務めたこともある内田祥三で、東大本郷キャンパスに存在する大講堂(安田講堂)も手掛けている。作品のうちいくつかは「内田ゴシック」の通称で呼ばれ、独自の様式の特徴を持っているのだった。

 

 

 建物の正面側に立つと、両脇を固められている印象が強くなる。その建物の特徴的な形ゆえに。カタカナの「ヨ」の字の真ん中の棒をごく短くし、さらに上下の直角を平らに削り取ったような姿が、それをした地図上では顕著にわかる。

 左右に翼を広げて、少し丸めて、入退館する人々を囲い込む風にして佇んでいる。

 2002年に国立公衆衛生院が国立保健医療科学院として改組され、本拠地を和光市に移して以来、この建物はしばらく廃墟状態になっていたのだという。その後、2018年に複合施設「ゆかしの杜」として整備され、港区郷土歴史館を内包して一般公開されるに至った。

 日常的な手洗いなどを普及させ、国民の公衆衛生意識と生活水準を向上させるための研究が進められていた施設。それゆえ、館内の各部屋には必ずと言っていいほど洗面台が設けられていて、職員がどこでも流水を使って手指を清潔に保てるようになっている。

 

 

 この建物に存在する大きな見どころのうちのひとつは、内部に足を踏み入れてすぐに現れた。

 格調高く、光沢のある石の素材が壁や床などそこかしこに使われ、照明の明かりと窓からの光を受けて反射する中央ホール。研究施設ではなく舞踏会場かと見紛う空間を歩けば靴音が響き、大階段も相まって城にでも迷い込んだ気分になった。

 瞠目したのはそんなホールの吹き抜けと、頭上の円周に配されたレリーフの意匠。近代建築物のフリをした大きな宇宙船みたい。

 ビスケットか額縁を連想させる図形は何とも言えず子供部屋のようで、まったく異なる設えであるのにもかかわらず、氷川丸の一等児童室を思い出した。あの部屋は天井の電灯が円形に配されていた。

 

 

 実際に館内を歩いてみるとかなり面白い感覚を抱くことになる。

 前述したように、角ばって弧を描く形をした建物は、内部の廊下が折れ曲がりながら横に長く伸びている。突き当りには大きめの空間。

 見学可能な1階から6階までがほとんど同じ構造をしているため、一体いま自分がどの階の、どの場所に居るのかを容易に見失ってしまう。同じところを2度も通ってしまったり、両脇に部屋が並んでいるせいで廊下自体には窓がないから、外が見えずに時間の感覚が狂ったり。

 人の少ない時間帯を選んで行くとなおさら自分の足音が耳につき、それがだんだんずれて二人分、三人分に増えていくのではないかと不安になる。

 建物が整備されてこういった施設になる前の様子をぼんやり想像した。研究員ら職員が館内から消えて久しく、もう誰も立ち入らなくなった廊下に不意に響く話し声や水音。それを観測する者が誰もいないから、そこには長らく人っ子ひとりいなかったことになっているだけ。

 

 

 

 

 廊下の先で両開きの扉がふたつ並び、開け放たれていた。やっぱり生き物の口みたいだし、同時に罠みたい。心奪われる危険がわかっていてももちろん進む。

 旧公衆衛生院、公開されている部分でおそらく最大の広さを誇る空間が、4階の旧講堂であると思う。階段状の床に340の座席が配され、木の格子と太い梁の上には天井板が載り、特徴的な円盤状の照明器具が張り付く。中央ホールの吹き抜けに吸い上げられた魂はきっと自動的にここへ送られるのだろう。

 声が聞こえる。深いビリジアンの黒板の前、壇上に誰かが立っている。さっきまでは誰も座っていなかった座席の列に無数の後頭部が並び、視界が晴れるように雲から顔を出した太陽の光が窓から差し込んできた瞬間、それらはすべて消えてしまった。

 黒板の両脇上部に飾られている丸いレリーフは、明治30年に山形で生まれた彫刻家、新海竹蔵のもの。大正元年に上京し、数々の作品を残した人物。

 

 

 

 3階に下っていく。すると旧講堂のような迫力はないものの堅実な重厚さを持つ部屋、旧院長室が旧次長室の向かいにあるのだとわかる。

 空間を構成する大部分の素材はベニヤ、床には寄せ木で文様が描かれていた。大きなラジエーターの上には中央ホールにあるのと同じデザインの時計が壁にかけてある。

 格式ある印象の中でも抑圧を感じさせないのは、きっと壁の二面が窓となって開放的な要素を取り入れているためで、差し込んでくる光は実際に美しかった。

 他にも旧公衆衛生院内部には心躍る地点が多数存在していて、それらは小さなものであっても確実にこの建物の経てきた歴史を証明するものだった。例えば古いエレベーターのボタンや、その上に存在する漢字カタカナ交じりの表記、大理石の床に残るお手洗いの痕跡など……。

 痕跡はとても好きだ。もうないものの影が、そこに焼き付いているみたいで。みたいというか文字通り実際にそうなのだろう。

 

 

 1階というとはじめに降り立った中央ホールの場所だと思ってしまいがちだが、実はあのフロアは2階である。そういう造りもどこか訪問者の感覚を惑わせる一因のはず。

 本当の地上階には、階段を下ったところに採光窓が設けられていた。タイルのようにお行儀よく敷き詰められたプリズムガラスのブロック、これは建設当時まだ心許なかった地階の照明を補助する目的で、ここに据えられたもの。

 ガラスブロックはつい積み上げたくなるから大好きだ。

 この裏側から天井を俯瞰したら、どんな光景が目に飛び込んでくるだろう。ガラス越しに注がれる光は、おそらくその上の近くを誰かが通るたびにわずか揺らぎ、まるで水中にもぐって水面を眺めるような、魚か何かになったような気分を人に抱かせるに違いない。

 今はそこまで降りていくことはできないけれど、私も十分に回遊魚の気分を味わった。何層にも重なって繰り返される、幾度となく折れ曲がった研究施設の廊下を歩いて。

 

 

 例の吹き抜けに吸い込まれてからふたたび吐き出され、佇んでいると不思議な音に気が付いた。定期的にどこかで、カシャカシャいう。

 黙って耳を澄ましていたら視界の端に動くものがあり、首を向けた先、そこには時計があったのだった。分針が動くたびに空気が震えて鼓膜に届く。カメラのシャッター音をごく軽くした感じ……と表現したくなる音だった。

 旧公衆衛生院の建物は無料で見学することができる。

 郷土歴史館の展示は300円で観覧することができ、地域の歴史の概略を掴めるので、そちらも良かったと記しておく。

 

 

 

 

 

【宿泊記録】ホテルニューグランド本館ロビーと客室、ルームサービスの美味しい氷菓子|昭和初期の近代化産業遺産・横浜市

 

 

 

 おこがましく聞こえるとわかっていてあえて言うが、どこかの土地で宿泊するのに旅館やホテルを選んだとき、自分が滞在する部屋はつまり「私の部屋」……と表現することができる。もちろん、私に割り当てられた部屋、という意味の範囲内でだけれど。

 そういった部屋で過ごす行為には、すべてを好きなようにできる自宅にいるときとはまた違った種類の、自由と楽しみとが伴う。

 通常の旅行の際も、必要に迫られて逗留する際も、私はそれらを享受する。

 先日泊まってみたのは横浜、道路を挟んだ先に山下公園と氷川丸を望む、ホテルニューグランド。陽が落ちると白く輝く HOTEL NEW GRAND の電気灯が胸を躍らせた。角に面した部分が丸みを帯び、カフェへの入口が設けられている。

 


 そもそも横浜市に暮らしていて頻繁に前を通るのに、アフタヌーンティーでロビーを利用するくらいで、実際には一度も宿泊したことがなかった。近代遺産好きとしても気になっていたけれど、地元だからこそ、わざわざ理由を設けなければ自宅の目と鼻の先で泊まる機会も訪れず。

 今回は「泊まるために泊まる」という究極の贅沢を決行するに至ったのだった。

 ふだん旅行先では外で散策をする方が目的で、元来あまり宿泊施設には頓着しない傾向が強かったため、個人的には新鮮な試みである。そういう点でもかなりおもしろかったし、すっかり味を占めたので、別の場所でもきっとまた実行する……。

 静岡県・伊東のレトロなハトヤホテルに続き、宿泊できるタイプの近代遺産は見学のみにとどまらず、自分自身で滞在する、というのも新しい探訪の指針としてこれから持っておくことにした。

 

公式サイト:

 

目次:

 

ホテルニューグランド

  • 概要・本館ロビー

 

 本館、正面入口から伸びる大階段。青いカーペットをできるだけ優しく踏んで上った先には、エレベーターの扉と、盤面の周囲に美しい石の彫刻が施された時計がある。壁の画は「天女奏楽之図」で、川島甚兵衛が製作した綴織だった。

 時計、といわれて私が真っ先に思い浮かべるのは銀座の旧服部時計店だが、実はこの建物もそれと同じ設計者の手によるもの。彼の名は渡辺仁という。ほかにも旧原邦造邸(原美術館)などすぐれた建築物を生み出しており、現在、その作品は全国でも半数ほどしか現存していないのが残念。

 ホテルニューグランドが開業したのは昭和2(1927)年のことだった。

 大正12(1923)年の関東大震災を経て、復興事業の一環として瓦礫を用い埋め立てられた土地、山下公園の目の前に、今も95年前と変わらぬ姿で建っている。

 

 

 階段の手すりはどこかスクラッチタイルを思わせる風合いで、これは昭和初期に竣工した建物にはよく見られるものであることから、当時のモダンな意匠を積極的に取り入れていたのだとわかる。

 2007(平成19)年、本館の建物は経済産業省によって「近代化産業遺産」に認定された。

 関東大震災後、はじめ外国人向けのホテルとして開業したニューグランドを牽引したのは東洋汽船のサンフランシスコ支店長、土井慶吉であったといわれる。ホテル全体の形式や設備、サービス、料理などには欧州視察で培った経験を活かし、宿泊客が何を求めているのかという視点を常に持って、その発展を支えた。

 ……本館のロビーは、夕方以降か早朝に訪れると静謐な雰囲気を感じられるのが好きだった。陽が落ちると窓の外が青く見え、夜明けを迎えると、フロアに並ぶ笠のランプが篝火のなごりのようで。

 

 

 全体的にヨーロッパの雰囲気が漂うが、釣り灯籠風の照明や壁画など細部に目を凝らすとわかるとおり、東洋の意匠もふんだんに取り入れられている。それが独特の華やかさと居心地の良さを生んでいるのだろう。梁に施された文様の良さ。

 ところで、このホテルを愛していた近代の著名人のひとりには、小説「霧笛」などを著した大佛次郎がいる。横浜生まれ横浜育ちの作家である。

 彼は本館のダブルルーム318号室(彼の作品にちなんで「天狗の間」と呼ばれるに至った)を気に入ってよく逗留し、そこで執筆に勤しんだほか、付近を散策したりホテル内のバーに出向いたりもしていたという。キャロットグラッセやグジョネットソールなどの料理に、ピコンソーダというカクテルを好んでいた。

 318号室には一般の利用客も実際に滞在でき、彼の軌跡にちなんだ宿泊プランもあるようだ。

 

 

 ロビーを見学してみてから、チェックイン後に客室へ移動する際にはエレベーターを使う。脇の階段は原則非常用らしかったので、少しだけ覗いてみた。

 この感じがなかなかたまらない。

 天井に残っている装飾とか、角ばらずに丸みを帯びたフロアの輪郭、大階段のものとはまた違った重厚さを持つタイルなど、経てきた歴史を滲ませる雰囲気には感嘆の息を吐くほかなかった。

 ニューグランドには近年になって完成したぴかぴかの「タワー館」もあり、より新しい客室や設備に囲まれて過ごしたいならそちらを選ぶのが良いのだろうけど、やはり近代建築好きとしてはどうしても本館の方に泊まりたいものだと改めて思う。

 

 

 

 

  • 客室 - 本館・シングルバス

 

 今回は中庭に面した344号室が私の部屋だった。

 1人部屋でありながら空間は広く(18.3~20.0m2とのこと)、ベッドも大きくて、その贅沢さに喜ぶ。横には書き物に適している机と椅子、それとは別にお茶などを置けそうなテーブルとソファが置いてあり、テレビ台横の引き出しの中には寝間着が入っていた。白い木の扉を開けるとそこがクローゼット。

 無料のペットボトルの水と、湯沸かしポットとティーバッグ(緑茶×2とほうじ茶×2)が備え付けてあるので好きなときに淹れて飲める。ちなみにコンセントだが、この部屋の場合は書き物机の下にあったので、机の引き出しの中の延長コードを利用して充電器を接続することに。

 ほかには情勢の影響か、携帯サイズのアルコールスプレーが用意されていた。これは持ち帰ることができ、例えばここから旅行や出張などに向かう際にも外で使えてありがたい。

 

 

 そして、玄関にかけてある姿見の隣、扉を開けるとバスルームが出現する。洗面台の横に各種アメニティとドライヤー、フェイスタオル。歴史のある建物と部屋だけれど、水回り関連はとてもきれいだった。特に変な匂いもしない。

 せっかくバスタブのある仕様なので、お湯を溜めて長い時間くつろいだ。

 アメニティのボディソープやシャンプーはゆずの香り?  と思って公式サイトを見ると当たりだったようで、爽やかで温かみのある、どこか懐かしいような芳香がニューグランドの建物らしいとなんとなく考えた。

 海辺の街には柑橘系の果物がよく似合う気がする。理由はわからない……。

 

 

 ホテルの部屋に何を求めるかは人それぞれだと思うが、空調や騒音問題なども特になく、私は大いに満足。

 チェックイン・チェックアウト時のスタッフもこころよい感じだった。決して派手ではないが、堅実で安心できるサービスを提供している印象がある。

 

  • ルームサービスを利用する

 さて、このニューグランドに宿泊するにあたり、実はどうしても食べたかったものがある。ホテル内のカフェであっても通常は不定期に提供される期間限定のメニューとなっていて、1年中いつでも賞味できるのはルームサービスのみ……という、伝統的なデザート。

 その名も「クープニューグランド」で、このホテルが発祥の氷菓子である。

 

 

 構造としてはバニラアイスの上に洋梨の果肉を敷き、それをなめらかな舌触りのチョコレートソースで覆って、さらに生クリームとアーモンド、ミントをあしらったものになる。

 ガラスの器が円盤のような銀の容器に入れられて運ばれてくるが、この中には氷がぎっしりと詰まっていて、少し時間を置いてもアイスクリームが溶けてしまわないようになっていた。それゆえ、もったいないからとのんびりゆっくり食べても大丈夫。

 せっかくなので注文時に紅茶も一緒に頼んでみた。これの風味はごく普通。

 パティシエの方のお話によれば、クープニューグランドは戦後の接収時代、ここに滞在していた米国人将校たちの妻から、洋梨の缶詰で何か作れないかとリクエストされたことによって生まれたものなのだとか。「クープ」とは、もともとクープグラス(容器)の名前だった。

 

 

 魅惑の断面。

 実際に口に運んでみるまで全く味の予想ができず、どきどきしていた。果物系のパフェなども普段あまり食べないから、チョコレートソースと洋梨がどう調和するのかもわからなくて、おそるおそるスプーンを本体に沈める。

 味わってみて、つめたく柔らかい洋梨というのはこんなに美味しかっただろうか、と最初に瞠目した。たとえば常温の果実を切り、器に盛ったものとは当然違う。缶詰の梨に独特のほどよい甘さと酸味がある。

 チョコレートソースは粘性がなくあっさりとしているので、バニラアイスと洋梨とを合わせても口の中がうるさくならず、まとまりがあり、最後は散らされたアーモンドとミントの葉で味が完成した。この素朴な感じのデザートをまた食べたい。

 

 建物自体から部屋での滞在に至るまで、全体的に楽しい滞在だった。

 

 

 

 

 

 

はてなブログ 今週のお題「わたしの部屋」

アール・ヌーヴォーの運動と時代背景 - 洋館長屋 / 仏蘭西館(旧ボシー邸)内を歩きつつ|神戸北野異人館 日帰り一人旅

 

 

 

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参考サイト・書籍:

洋館長屋(仏蘭西館)(公式サイト)

世界の美術〈19〉アール・ヌーヴォーとガウディ(週刊朝日百科〈139号〉) 

増補新装 カラー版 西洋美術史(著・高階秀爾 / 美術出版社)

 

 

 木造2階建てに下見板張りの白い壁。明治41(1908)年に竣工、それから細部は変化しつつも同じ場所に存在している、かつて集合住宅だった建物。

 北野通りに面し、英国館(旧フデセック邸)とベンの家(旧フェレ邸)に挟まれて建つ横長の異人館が「仏蘭西館(旧ボシー邸)」だった。一般には洋館長屋と呼ばれており、本記事中でもそのように表記する。

 

 洋館長屋で見ることができる家具類や工芸品の目玉は、アール・ヌーヴォー(Art nouveau)の流れを汲んで19~20世紀に制作されたものの数々。

 アール・ヌーヴォーは表面的に言うと、多くの機械工業的製品とは対照的な、植物や生き物を思わせる造形と、そこから醸し出される妖しい雰囲気が魅力的な様式である。

 視覚的に愛でるだけでも十分に楽しいものだが、もう少し踏み込んでその面白さを考えてみたい。見学した洋館長屋内部の写真と一緒に。

 

目次:

 

概要・名前の由来

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 アール・ヌーヴォー(Art nouveau)……

 19世紀末に興ったこの芸術工芸運動の名はフランス語で「新しい芸術」を意味し、はじめは1880年代にL'Art Moderneという雑誌の中で、特定の作品群を評するのに使われた言葉だった。まだ、様式を指すまでには至っていない。

 これを一躍有名にしたのがハンブルク生まれの美術商、サミュエル・ビング。

 彼は1895年、アメリカのシカゴ万博に立ち寄り、建築家のルイス・サリヴァンやティファニーのガラス細工に新しい芸術の潮流を見た。

 

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 そして同年の12月、ビングはパリの一角に開いた自身の美術店の名を「アール・ヌーヴォー」とすることに。

 店の内装は画家から工芸家に転身したアンリ・ヴェルデに依頼をし、絵画を展示するかたわら、ガレやラリックの宝飾品を扱い、アメリカで見聞きした事柄に関する書籍も出版したという。

 1900年、パリ万博でアール・ヌーヴォーのパビリオンが成功を収める頃には、その名前はすでに人口に膾炙していた。

 

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 アール・ヌーヴォーの思想の根幹には、このブログでも過去に言及したイギリス人ウィリアム・モリスと、彼が中心となったアーツ・アンド・クラフツ(美術工芸)運動の影響がある。

 画一的で無味乾燥な意匠、時に性質も粗悪な、産業革命以後の大量生産商品。

 それらが世を席巻するのを憂えたモリスは、生活にかかわる物品の製作について「手仕事(craft)」の精神と時代に立ち返ることを提唱する。日用品や住まいをはじめとした領域に、より民衆の生活に近い芸術を、と……。

 後にアール・ヌーヴォーはそこから離れて、皮肉にも様式を模倣するような様式と単なる装飾趣味の坩堝に陥り、衰退の一途を辿るのであるが、20世紀の後半に再びその価値が注目されるに至った。

 

 

 

 

 

特徴など

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 エミール・ガレの手による花形のランプが洋館長屋の1階に。

 アール・ヌーヴォーの様式に属する作品群の多くは、曲線的なぬるっとした造形要素を持ち、入り組んでいるという意味で奥行きを持つ意匠のものが多い。そのような視覚的な意味でも、機械工業ではなくより自然へ回帰する思想の点でも、植物はよくモチーフとして選ばれた。

 ほかに古代ギリシア、北欧、日本で用いられてきた伝統的なデザインに影響を受け、それらを広く取り入れていたところも特徴として挙げられる。

 

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 ふたたびガレのランプ。棚に展示されている工芸品にもアール・ヌーヴォーの趣がある。四方八方に伸び増殖していく、流れるような蔓や花房の形状、花びらの重なりは妖しくも美しい。

 それからクジャクなどの動物や虫——彼らの羽が持つ色合いや文様、も好んで採用されたモチーフのひとつ。ラリックの製作したトンボのブローチ(グルベンキアン美術館蔵)は特に有名だと思う。

 表現にあたっては木のほかにガラスや、鉄をはじめとした金属類といった新時代の素材が用いられ、ただ単に機械文化を拒絶するだけのやり方ではなく、先へと続く様式と思想の発展を志していたことも見逃せない。

 

 下の写真、座面が花のように広がるソファも当時のもの。

 

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 広義のインテリア・デザイン的な考え方の基盤は、アール・ヌーヴォーの時代に形作られたといえるかもしれない。

 ひとつの物だけでなく、カーペットや壁紙、家具類、そしてテーブルに載せる食器や小物に至るまでを包括して、調和するように整える。これもアーツ・アンド・クラフツ運動の源流から受け継がれている意識であり、ウィリアム・モリスが抱いていた動機のひとつであった。

 モリスは自邸を設計する際、市場で上の考えに合致する調度品を探し出そうと試みたが、琴線に触れるものがなかった。それゆえ自ら総合的なデザインをしようと思い立ち、モリス商会を創設するに至ったのである。

 

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 モリスが提唱した「生活の芸術」の理念はアール・ヌーヴォーへと継承されたが、やがて先鋭化していく装飾へのあくなき欲求ゆえか、あるいは世紀末という時代の潮流によるものでもあるのか、堅実であったはずの様式は形骸化した。

 たとえば家具であれば、真に追及すべきはその機能を最大限に発揮させるために造形的意匠を付与するはずが、すっかり装飾の方が主体となってしまったのである。いわば生活感情の喪失——。

 これが誰かの家や部屋の中だけで留まるものであれば、さしたる問題もなかっただろう。しかしこれは国際的な風潮であった。

 その魅力が再度発見されるまでにいくばくかの時間を要したのも必然で、やはり個人的な趣味の範疇を越えて運動となった芸術様式には、すべからく社会の背景が関わっているのだとわかる。

 

 

 月末に旧朝香宮邸を見学する予定なので、その記録記事ではアール・デコの方の話をします。

 

 

 

 

 

 

うろこの家(旧ハリヤー邸)の外壁を覆う薄い石の板は人魚の尾鰭|神戸北野異人館 日帰り一人旅

 

 

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 塔屋の側面に取り付けられた、パーティー用のサングラスみたいな装飾が滑稽だった。子どもの玩具みたいな色と形。

 クリスマスの時期だったから頂上にサンタクロースの人形もいる。

 あの場所は、さぞ眺めがよいことだろう。

 

公式サイト:

神戸北野異人館街公式サイト

 

 神戸の異人館街には、瀟洒な下見板張りや、暖かみを感じさせるハーフティンバー風の外壁を持った近代の洋館がたくさん建っている。

 だから初めて「うろこの家」を目の当たりにしたとき、きっとこの邸宅の特徴的な壁——愛称の示すとおり、魚の鱗に似ている——も、きっと木でできているのだろうと考えていた。灰白や灰褐色と微妙な色の違いを持ち、半円を引き伸ばしたような形の木の板を丁寧に重ねて、建物を覆ったものに見えたのだ。

 あとで、実はその「うろこ」が木ではなく、ごく薄い石、屋根に使われることもあるスレートを用いた意匠なのだと知って、それまで胸に抱いていた邸宅への印象がすっかり四散するのがわかった。

 ひんやりした、なんて繊細で、壊れやすい素材であることか。石板の総数は3000枚以上になるという。

 

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 前庭に立って想像する。この家があるとき悲しみか喜びに身を震わせて、そのせいで外壁を覆う鱗が、一枚一枚剥がれ落ちていく様子を。

 スレートの板が垂直に、涙の粒みたいに零れて地面で割れる。きっと高台から港に至るまで、軽やかな高い音が響きわたり、海の表面さえかすかに揺らすはずだった。さながら丘から人魚が故郷を想って唄を歌うような光景……。

 なんだか本当に生き物に似ていると思えてくる。生々しい。

 明治時代に建てられ、大正期に入ってから現在地に移築されたうろこの家、旧ハリヤー邸。もとは外国人向けの借家だった。今は横に展望ギャラリーが併設しているので大きく見えるが、実際に内部を歩くと結構こぢんまりとしているのがわかる。

 左右対称、塔屋を擁した2階建てで、あまり奥行きはなく横に細長い。

 

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 昔は2階部分から、螺旋階段を使って塔屋の上までのぼれたそう。

 北野異人館のなかでも特に高い場所に位置するうろこの家だから、他に建造物も少なかった頃はもっと眺めがよく、反対に街の方からも、この存在を容易に確かめられたはず。向けられていたのは親しげな視線だろうか、それとも、得体の知れない外国人の家を見る眼だったろうか。

 内部で鑑賞できるのは、マイセンなど外国製の食器類や、家具、照明器具の数々。エミール・ガレの作品をはじめとした、アール・ヌーヴォー様式のガラス工芸は邸宅の雰囲気によく合致している。簡素なデザインよりも重厚で複雑なものが似合う。

 私は植物の葉と蜘蛛の巣を組み合わせたような意匠のものと、べっ甲飴を思わせる色の電燈が、とりわけ好きだった。妖怪だったらぺろりと舐めているくらいに。

 

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 ちなみにこの家、内装がFate/stay nightにおける遠坂邸のモデルとなった、いわゆる聖地である。上の写真の部屋、棚や椅子などが特にそう。凛が腰掛けていたソファ。

 こんな風に、団欒の空間を模して演出されている家具類には心を惹きつけられる。もう誰も住んでいない家なのに。

 見学するだけではなく実際に手に入れたくもなってしまう。洋館は必要だし便利。一件所持していれば中でお茶会が開け、あるいは黙々と仕事もでき、しまいに休息まで取れるのだから。それにひととおり館内を歩き回れば、あとは脳内で勝手に増改築を繰り返して広がってくれる。

 あらゆる調度品が、部屋の雰囲気に合わせて自動的に整うような魔法もかけたい。油断していると建物自体にこちらが取り込まれてしまいそうだけれど、別に良い。

 

 

 

 

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 階段の先には印象に残る部屋があった。床に敷かれているタータンチェックのカーペット、そして、家具に交じって置かれているのは何かのラケットとゴルフクラブ。かすかに革製品の匂いがする……。

 掲示の写真と説明文によれば、六甲山のある神戸の土地はスコットランドとゴルフに縁があるらしい。

 1903(明治36)年、5月24日に「神戸ゴルフ倶楽部」の発会式が執り行われた。発会のきっかけとなったのが、当時の外国人居留地に住んでいたイギリス人の商人、アーサー・H・グルーム氏で、これが日本で最初のゴルフ場となった。

 翌25日に初めてのゲームが開催され、参加料は2円、昼食会にも参加する場合は別途で1円25銭が徴収されたとのこと。現在、ゴルフ場は日本の地図上であちこちに見られるほど身近な存在だが、ほんの百数十年前は影すらなかったのだと思うと少し不思議。

 

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 また、廊下では美しい石炭ストーブに出会った。

 当ブログでは過去にも何度か透明なドアノブの存在に触れているが、上の石炭ストーブにはドアノブならぬ、透明な取手がついている。石かガラスか。全体の形状も、誰かの心臓を閉じ込めておくための鉄の箱みたいで惹かれる。

 そう、石炭ストーブに放り込んだ、あかあかと燃える誰かの心臓で暖を取れたなら、それはどれほどの愉悦だろう……。しかも、魅力的な洋館で。人魚の鱗みたいな壁の家、その内臓を連想させる部屋の中で。

 だからあまり長居をしていると、心臓を奪われてしまうのは訪問者の側かもしれない。

 外から音が聞こえるような気がする。前に想像したとおりの、スレートの壁が一枚ずつ剥がれていく音。それが耳の奥にまとわりついて、永劫に離れない、また意識を放してくれない幻想。

 

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 優美な形の机がある。ここに、囚われたい。

 ずっと座って好きなことを考えて、好きなものを書いて暮らす、それで飽きたら旅行に行く。港から親しくなった人魚を呼んできて、留守の間の屋敷の管理を任せておく。

 寂しがり屋の人魚は陸にいる間、自分の尾鰭の鱗みたいな、この家の外壁をきっと気に入ってくれるだろう。

 

 ちなみに建物の外観に関しては、おおばやしみゆき氏の漫画「きらきら☆迷宮」で神戸に登場した、異人館「おとぎ館」のモデルがこのうろこの家になっている。塔が2本あるところや窓と玄関部分の形、それから入口の前部分にある階段と柵とかが同じ。

 作中に描かれた背景を確認してみると館内のステンドグラスにも共通点があった。

 でも、今も人が暮らしている設定の方に関しては、ここから少し離れた場所に建つ「プラトン装飾美術館(イタリア館・旧アボイ邸)」由来だろうななと思う。

 実際に行ったら、現職の(!)メイドさんや執事さんが館内の説明をして下さった所だ。

 

 

 

 

 

 

 

山本亭 - 大正末期から増改築を重ねた和洋折衷の館|東京都葛飾区・柴又の有形文化財

 

 

 

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公式サイト:

山本亭|葛飾区観光サイト

 

 京成電鉄金町線、柴又の駅から徒歩約6分。

 東京と千葉の境を流れる江戸川、その矢切の渡しにほど近い、柴又寅さん記念館と通りを隔てて建っている施設が「山本亭」だった。もとは、合資会社山本工場を創立し、カメラの部品を製造していた山本栄之助という人物により建てられた邸宅になる。

 基本は大正時代末期の建築で、以前の彼の家は台東区浅草にあったのだが、関東大震災を期にこの柴又に移転することになった次第。大正15年から昭和8年頃に至るまで、都度新しい要素を取り入れて増改築を重ねた素敵な建物だ。

 決して敷地は広くないのに沢山の見どころが凝縮されている。

 

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 駅からトコトコと歩いていって、まず長屋門の側から近付いてみた。

 伝統的な木造の平屋で屋根には瓦が葺かれているのだが、レンガ積み風にした外壁の角の部分や入口両脇の照明など、洋風の意匠が採用されているのがおもしろい。それは内装にも言うことができて、覗き込んだ時は特に、繊細なステンドグラスに目を瞠った。縦長の上げ下げ窓。

 透明な菱形の部分には他のところと違い、凹凸のあるガラスが嵌め込まれており、凝っている。色だけではなく質感にも差異があった。

 長屋門の内部の空間は裾部屋と呼ばれる。格式ある格天井に、花のようにふっくらとした橙色の電灯が映えていた。ここには普段から門番がいたほか、人力車の車夫、また客人の付き人などが控えていたらしい。

 

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 そんな長手門から山本亭に入って歩を進めると、居宅の旧玄関の横に洋風の応接間の棟が見えて、ああたまらないなと息を吐いてにっこりした。この、金属の、格子!

 上に並んだふたつの通気口も、格子の奥の角の取れた窓も、心拍数を増価させ血の巡りをよくする要素。とても健康にいい。

 もうわかる。隙間から首をねじ込んで覗いてみるまでもなく、この時点で自分の心をとらえる何かがそこに待っているのだと理解できてしまう。わかっていて足を踏み入れるんだから、もう恋。違うとしても限りなく近いものがある。

 徐々に近付いてくる母屋の玄関、その手前には防空壕があった。ふさがれている形だけを見るとまるで井戸のような。

 

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 受付で入館料を払って、いよいよ書院造りの様式を踏襲した居宅にお邪魔する。

 広縁に敷かれたカーペットに光がはねて、もあるのだけれど、加えておそらく木材自体の持つ色味も相まって、窓際では空間全体に柔らかく穏やかな臙脂の彩りがあった。ぼんやり赤い雰囲気、これがなんとも風流。天井は数寄屋風。

 書院庭園に面した側にはほとんど壁がなく、ガラスの引き戸で構成されているのも素晴らしかった。ガラスという素材、大正以降に建てられた建築の良さが詰まっている。

 説明によれば、山本亭は中央に設けられた廊下で大きく東西に二分される構造のようだ。東には鳥の間、雪の間、風の間。そして西側には、星の間、月の間、花の間と名付けられた和室が三つずつ並んでいた。各部屋に仕切りはないので、光も風も無音で通り抜けていく。

 

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 採光窓のある廊下のつきあたり、山本亭で最も古い時代に建てられたとされているのが土蔵。

 どうやら山本栄之助が邸宅をこの地に移す前からあったらしい。ちなみに、同じ場所に以前あったのは、瓦工場。鈴木家が経営していたもので、かつてはその邸宅も敷地内に存在していたという。彼らが瓦の製造をやめたきっかけは関東大震災だった。

 土蔵と舞の間を過ぎて館内をうろつき、西の旧玄関の側を見て回っていると、半ば開けられた引き戸に意識をとられた。足元には立ち入りを制限するための柵、どうやら応接室である洋間「鳳凰の間」は、部屋の外側からのみ見学ができるよう。

 ふと頭上を仰ぐとあまりにも美しいステンドグラスの欄間があり、氷の鏡……と脳内で呟いて、ただ硬直するよりほかになかった。

 

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 あんまり素晴らしいから何も言うことがなくなってしまう。大好き。家具や壁の感じも含め、最近遭遇した近代建築の中でも相当上位に食い込む、可愛らしい佇まい。

 この洋室部分は山本亭でも昭和初期に増築された箇所だった。絨毯の隙間からは寄せ木の模様が魅力的な床が露出し、壁紙に調度品の色柄や、四隅に置かれた彫刻などの佇まいと呼応して、見事な調和を生んでいる。何時間でも座っていられそう。

  暖炉のマントルピースは大理石だそうで、素材の持つ重厚さを活かしながらも、決して重苦しくはない感じを演出しているのが良かった。高い位置にある白い漆喰の天井もその一因のはず。

 接待されている客人も、豪華な洋室とはいえこんな雰囲気の間に通されたら、きっと心安く椅子の背にもたれてくつろげたことだろう。

 

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 現在、見学者が洋室の方に入ることはできないものの、和室の側の好きな場所に座って楽しめる喫茶メニューがいろいろある。お抹茶とか和菓子とか、あとぜんざいなども。私が選んだのはあたたかい珈琲、500円。

 入館料を払った場所で注文して、机のところで待っていると運んできてくれる。

 晴れた日の午前中、畳に腰を下ろすと最高だった。もう毎日入り浸りたいくらい。この季節は椿の花が咲いているのも心が癒されたし、花粉さえ飛んでいなければもっと……とスギの木を恨む。

 存分に空間を楽しんでから山本亭を去る時、長屋門の脇の壁が、わずかに湾曲しているのに気が付いた。こういのもやっぱり良い。

 

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 2022年3月現在、山本亭の入館料は大人100円で、近隣の寅さん記念館との合同券だと幾分かお得になるようだった。

 休館日は毎月第3火曜日。

 

 

 

 

 

【宿泊記録】プリンス スマート イン熱海 - シンプルな次世代型のホテル、朝食付き|静岡県

 

 

 

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公式サイト:

 

 古いものと新しいものがごった煮のように混在する最近の熱海にて、2021年の春にできたばかりのホテル「プリンス スマート イン」に泊まってみた。株式会社プリンスホテルが経営しており、この熱海にあるのは、東京都・恵比寿に続いて2番目に開業した店舗。

 かつて最も栄えていた頃の温泉街の名残に触れ、レトロな建築物や喫茶店、近代遺産などを見て回るかたわら、あえて新興の宿泊施設に滞在してみるのはむしろ風変わりでけっこう面白かった。

 ひとこと感想として、友達と一緒に利用してみて快適だったし、単独でも過ごしやすそうなホテル。

 料金には朝食が含まれている。

 

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 まず、入り口からすぐのロビーはこんな感じ。

 奥に見える縦長の機械で、チェックインやカードキー・ロッカーキーの発行、帰りのチェックアウトまでできる。料金に関しては事前のクレジット決済が原則で、現金がいらない。わからないことがあれば横のベルを鳴らすとスタッフが出てきてくれて、丁寧な対応だった。

 エレベーター前にある棚から各種アメニティが入った紙袋(男性向けと女性向けに分かれている)を各自で回収し、客室に向かう流れ。

 このエレベーターでボタンを押す際、カードキーが必要になる。

 

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 上はツインの部屋のベッド。枕元にUSBポートなど、各種充電できるコンセントあり。

 寝心地に問題はなく、空調も機能していた。寝転がるとちょうど正面にテレビの画面が来るような位置になっている。ちなみにフロントへコールするのは固定電話ではなく、机の上に置いてある専用のスマートフォン。

 テレビはYoutubeやNetflixに繋がり、自身のアカウントがあればログインできる。

 シャワーブースには脱衣所こそないものの、寝室と廊下を区切るカーテンを引くと、そこに空間ができるような形になっていたので裸でうろつかなくても大丈夫。部屋着はワンサイズ。

 

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 洗面台の鏡はいわゆる「スマートミラー」になっていて、タップするといろいろ表示されておもしろかった。部屋で流せる音楽の再生リストとか。未来っぽい(こういうものにあまり親しみがない小物感)。

 今回は利用しなかったけれど、ランドリーが特定の階に設置されていて、テレビ画面で空き状況を確認できるようす。

 個人的に好きだったのが朝食の形式で、ロビー階のカフェでカードキーを提示すると提供してもらえるのだが、それが取手付きの小箱に入っている。なので持ち運びができ、その場で食べても部屋や他の場所で食べてもいい、親切仕様なのだった。

 立地もあり、サンビーチの方に持って行って食べる人も中にはいそう。

 

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 中身はこういう感じ。サンドイッチにスコーン(メープルシロップ付き)、温かいスープ、アイスコーヒー。量も多すぎず少なすぎず。

 残念ながらスープの風味だけあまり口に合わなかったものの、他はおいしかった。

 清潔で新しい雰囲気を求めている人、気軽に快適な滞在をしたい人には特におすすめできる宿泊施設。

 

 

 

 

 

 

プラトン装飾美術館 / イタリア館(旧アボイ邸)には今も実際に人が住んでいる|神戸北野異人館 日帰り一人旅

 

 

 

公式サイト:

神戸北野異人館街公式サイト

 

目次:

 

 裾が途中で折れたみたいな面白い形の屋根をして、その下に半立体の紋章をあしらい、門のある正面の側が水色の柵で囲まれたお屋敷。受付に座っていたのは、随分とクラシカルな服装に身を包んだ小柄なメイドさんだった。

 彼女の佇まいに少し驚きつつ入場券を買ったとき、「この異人館には、他とは大きく違う特徴がひとつございます」と言われて、まばたきをする。さて一体なんのことだろうか。

 建築年代? 様式? 展示物?

 正解はどれでもなかった。

 神戸、閑静な不動坂の中腹に建つプラトン装飾美術館には、今も実際に人が住まわれているのだそうだ。オーナーご夫婦とそのご家族、加えて大きな3匹の愛犬が。

 その自宅である、大正4年に竣工した旧アボイ邸の一部が、こうして一般の見学客にも公開されている。

 

プラトン装飾美術館 / イタリア館

  • 本館

 

 ろうそくのシャンデリアを模した電燈の下で、見開きの玄関扉が開いている。鍵が開いているという意味ではなく、家の内部を覗けるようにして、軽く外側に。

 その佇まいがどれほど私を安心させたことか、自分自身の言葉を用いたとしても、とても説明できるとは思わない。

 いわゆるクリスマスの時期だった。平日にもかかわらず往来の人の数はそれなりに多く、平気なフリをしていたはずでも内心はすっかり辟易してしまっていて、冷たい風に身を切られずとも済む暖かい場所を求めていたような気がする。

 あの、マッチを売る少女が炎に透かして見ていたような、それかブレーメンへ向かう途中で動物たちがごちそうにありついた小屋みたいな……、そういう感じの場所がいい。

 

 

 果たして、この邸宅はまさにそういう家だった。

 建物の所有者が個人的に集めたコレクション品を基にした美術館、というと、昔よく行った英国ロンドンのウォレス・コレクションも併せて脳裏に浮かぶ。応接間や書斎、浴室のある普通のお屋敷、その内部にオーナーが収集した美術作品や家具が並んでいる形式の施設。

 玄関ホール右手から繋がる応接間に入ると大きなツリーに迎えられた。それから「予約席」を示す札にも。他でもないこの時期に、これが見ず知らずの私のために置かれているのだと勝手な錯覚をさせてくれるから、旧アボイ邸はきらびやかだけれど優しい雰囲気の家だ。

 バルビゾン派を代表するフランソワ・ミレーの油彩画にエッチング、イタリアの彫刻などがひしめく中、部屋の中央部を太い2本の木の柱が貫いているのには面食らうようなすがすがしいような気分になった。優美なだけではなくて、結構おもしろいところもある。

 

 

 隣の大食堂、ビクター・エモーヌ(19世紀イタリアの彫刻家)の部屋と名付けられた空間へ移動する際には、頭上に注意を払うといいことがある。フルール・ド・リスのパターンがあしらわれたフロストガラスの照明がきれい。

 ここにも美術品が所狭しと置かれている。吊るされた大きなシャンデリアは、細い枝をしならせる程たわわに実った果物のようで、透明な結晶の中にぎゅっと水分が閉じ込められているみたいだ。ひとつ摘んで口に含んでみたくなる。

 なめらかな春の湖を思わせる色のテーブルクロス、趣向を凝らしたその上の各食器に、真珠母貝の柄がついた銀のカトラリー。これらを引き立たせている空間の要は、実はテーブルの影に隠れている暖炉であるといっても特段誤りではないだろう。

 今は眠っていて、冬場にディナーパーティーが催される際には瞼を開き、炎を抱く。かつてフランスの競売で落札され、ここに設置されたという。

 

 

 途中で通り抜けた台所は今も日常的に使われているとのことだった。手作りのお菓子が販売されていて、いい匂いがする。普段もう誰も住んでいない邸宅ばかり見学しているから、たとえばそういう場所にある喫茶室の香りなどとは、明らかに違う雰囲気に敏感になった。

 この場所の主体はいまだ「人」なのだ。建物自体は1歩下がったところにいて、人に合わせた時を刻んでいる。

 2階にある部屋の白眉はバスルーム。たっぷりの液体で満たされた大瓶の数々はリキュールみたいにとろりとした色を透かして、眺めているだけで酔ってしまいそう。

 特筆すべきは天井で、植物のモチーフをあしらった照明は、怜悧なアール・デコの様式を踏襲していて心奪われた。拡大するとギザギザした鉄の棒のようなものを曲げて茎が表現されているのがわかり、工業製品的な造形のパーツが言葉に尽くせぬ味わいを醸し出している。

 

 

 ところで、「ただのお茶会」ではなく「すばらしいお茶会」に必要な要素はなんだろうか。それには何を差し置いても質が良くておいしいお茶、お茶の風味に合う食べ物、加えて同じ空間に居ても苦にならない知己の存在、などが挙げられる。

 あとは状況に応じて環境を選択したり、事物を追加したりできれば一番いいのだが、ここにはそんなお茶会をアレンジする際のカタログみたいな部屋が沢山あるのだった。

 ストライプの入った布が張られた椅子の上に、ライオン柄のクッション。活けられた花。そして……壁のところに……チェンバロがある。音楽、それも忘れたくない要素。ことあるごとに出向いた先でゴルトベルク変奏曲を耳にするので、チェンバロと言えばその曲に、ごく個人的に愛着を持っている。

 余談だが、私は演奏できる楽器をほとんど持たない。だからピアノを奏でる友人の強くも繊細な指と手が、とりわけ好きだ。幼い頃から。

 

 

 理想的な細長さを持つ、こぢんまりとした書斎の横に位置するのは寝室だった。

 鍋で熱し、練って固めた飴を連想させる色の照明は、もう見た目からして暖かい。どうやら天幕の上にも何か電燈が置いてあるようで、その黄緑色の光が滲んでおり、妖しくも魅力的に映る。

 いつもはあまり意識しないけれど、こういう寝室を見ると、そもそも眠りにつく行為は儀式的なものだという感覚が浮かぶ。体を預け、目を閉じる、そうして意識をどこか別の場所に置くこと、呼吸が静かであるほど死に酷似して。

 テディベアは、ならば持ち主が放り出した無防備な身体の番人なのだろうか。抱きしめると癒されるというのは建前なのかもしれない。

 想像の枕に頭を沈めて、螺旋を描いて降下する意識を追うように私も階段を下りると、さらに地下へと向かう階段が現れる。導きか、罠みたいに。いくつかのランプは鬼火の趣があった。

 

 

 

 

 

  • 地下室

 旧アボイ邸の地下にあるのは食卓とワインセラー。

 礼拝堂を思わせる佇まいなのは、実際に以前そうやって使われていたからだとか。生誕祭の飾りが、12月末の空気にどこか物悲しくも華やかな彩りを添えていた。向かい合う黒い金属の鳥は、人間の耳にわかる歌は歌わないようす。静かで、冷たい。

 興味深く眺めたのは、ザ・ミッドナイト・サン(真夜中の太陽)と題されたうすい黄色の宝石で、この家の家宝のひとつだと書かれていた。輝きを放つ塊の正体はシトリン系のトパーズ、と。

 

 

 この邸宅の地下ではできるだけ囁くように会話したい。互いの声が届くぎりぎりの距離を保って、決して近付きすぎず、椅子か机ひとつ分の空間を必ず隔てて。

 太陽の光と人工の光では、その下に居る人間の表情が驚くほど違って見える。鈴生りの花の電燈が白く明るい。

 一体あなたは誰であっただろう? 玄関でも存在を感じたような気がする。はじめて訪れた家で、はじめて会うはずの人の手を握り、ごく細い糸を紡ぐようにして言葉を交わすのと似ていた。建物を見学する行為は。

 ガラス越し、ワインセラーの棚に並べられているワインが布に包まれている姿にふと目をやって、ぎょっとした。赤子のおくるみ。それか、ミイラ。さっきよりも数段背筋が寒くなり、隠れるように老人の人形の後ろに回った。

 


 もう誰もいない。さっき確かに手を取って触れていたはずの人も、どこにも。

「真夜中の太陽」が堅牢な金属とガラスのケースの中で光っている。もしも世界が私達から何かを隠すとするならば、きっと、ああいうものの内側を選ぶのだろう。

 

  • 屋外プール

 水を貯める設備、しかも屋外に設置しているとあればさぞ管理に手がかかるだろうと思う。だからこの部分だけは現役でなく、飾りであってもおかしくないと考えていたのだが、今でも夏になれば普通に使われているというから感心する。

 なんと言っても色がいい。本当に気持ちの良い薄青色で塗られた四角いくぼみは、存外に深い。外の柵と同じ、サイダーになりたかったペンキみたいな彩りの壁。

 

 

 プールは羊や獅子、馬、豹のように尻尾の長い何かなど、たくさんの動物に囲まれている。そこを泳ぐ者は果たして狙われているのか守られているのか窺い知れず、けれどおそらくは後者であろうと感じた。

 屋敷の側を向くと連続するアーチが柱に支えられ、廊下と外とを明確に区別している。壁も扉も使わない類の、開口部であるのにもかかわらず、いわゆる仕切りの役割を演じる機構。ついたてに似ている。

 ちなみに現在は情勢の関係もあり休業しているが、ここはカフェでもあるのだった。飲み物やお菓子を横に置いて過ごしたら、また異なる建物の表情が見られるに違いない。できることなら何度でも通って、あなたのことをもう少し教えてほしいと呟きながら敷地を歩き、邸宅と心を通わせたい。

 無人の邸宅はけっこう雄弁だが、旧アボイ邸はまだ実際にご家族の住まわれている家だからか、わりと寡黙なのである。聞いたことには答えてくれるが、同時に恥ずかしがりもする。

 

 

 プール横、扉にステンドグラスのあしらわれた小屋。

 私はこういうものに出会うと、もしかしたら中に誰かが立っているのではないかと、下部の隙間に目を向けてこっそり爪先を探してしまう。動きはなかったし、音もしなかった。当然だが。

 門を出て不動坂に戻ると、さっきまで別の場所を流れていた時間が少しずつ、自分の身体と血液に合流してくるのがはっきりとわかった。

 

 ここは夢か嘘みたいな本当のお屋敷。

 

 

 

 

 

 

 

牛久シャトー(旧牛久醸造場・シャトーカミヤ)の見学 - 近代化産業遺産・国指定重要文化財|茨城県

 

 

 

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公式サイト:

牛久シャトー公式サイト

 

目次:

 

 先日、実業家の神谷伝兵衛が稲毛に建てた別邸を訪れた。

 

 

 伝兵衛が東京都浅草で「みかはや銘酒店(現・神谷バー)」を開業してから、かねてより計画していた醸造場の建設に踏み切り、それを完成させたのが明治36(1903)年のこと。

 彼は茨城県、牛久市の一角(昔の稲敷郡岡田村、女化原)を開墾してブドウ園とし、醸造設備には最新の様式を取り入れて、まるで小さなボルドー地方ともいえる世界を作り上げた。実際にフランスへ婿養子の伝蔵を派遣し、多くの資料や知識を持ち帰らせたのも功を奏したのであろう。

 現在ではそのうち、旧事務室のあるシャトー本館、旧醗酵室、そして旧貯蔵庫の3棟が国の重要文化財に指定され、牛久シャトー全体も経産省の近代化産業遺産に認定されている。

 

 旧醗酵室は「神谷伝兵衛記念館」として展示が行われており、地上2階から地階を無料で自由に見学することができた。

 

牛久シャトー(旧牛久醸造場)

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 門の正面に立つと視界に飛び込んでくる、本館の建物。午前の陽に照らされた2階の白いカーテンは揺れない。そこには誰もいないようだった。

 左右対称なようでいて、通路のある中央右側に時計を擁した塔屋があり、眺めていて飽きない要素が追加されていた。屋根の上の目を思わせるドーマー窓に煙突も見逃せない。ちょうど、あの2階の裏側に旧応接室(大広間・比蜜閣)が広がっているのだろう。

 本館は通常見学できないので、旧応接室や旧事務室など、現在の内部の様子は資料に載っている写真から推測するしかない。洋室には赤いカーペットが敷かれ、1階には和室と押入れがあり、比較的きれいな状態で残っているようである。

 また、大正2年に撮影された白黒写真には板垣退助を含む要人がシャトーに来園し、祝宴が開かれた際の一幕が記録されていた。

 

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 建物の正面上にある三角の部分や、通路脇、ドア上のレリーフにはブドウの意匠があしらわれているよう。そして少し怖くなるほど大きなトンボも。色柄からして、オニヤンマに見える。

 Château D. KAMIYAの文字が刻まれたアーチをくぐって中庭に抜けた。

 フランス語のシャトーは主に王侯貴族の住まう建物や田舎の大きなお屋敷、城塞などを指す言葉だが、ボルドー地方においてはワインを醸造するブドウ園の一部を、19世紀半ばに行われた格付けに従って特にそう呼んでいる。

 この牛久醸造場も、本場の施設の在り方に倣って建造されたものだったのだ。

 

神谷傳兵衛記念館(旧醗酵室)

1階

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 レンガ造りに鉄板瓦の旧醗酵室。

 その入り口の脇から直角に旧洗滌場が突き出ていて、まるでそれぞれの建物が完成してから接続した、おもちゃのような配置を思わせた。旧洗滌場部分に関しては東日本大震災で受けた被害の復旧工事の際、窯や煙道の遺構が発見されており、現在も調査が続いている。

 さっそく扉の開いている旧醗酵室を覗いてみると、並んでいたのは巨大な樽だった。私が目一杯両腕を広げても直径に届かない。これらがワインの醗酵桶らしい。

 規則正しい配置は、2階の床にある四角い開口部の場所に対応していて、トロッコで運ばれてきたブドウを上で絞って果汁を生成し、下の桶に流し込んで一次醗酵を行っていたのだとか。日本では、牛久醸造場のみが採用していた方法になる。

 

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 かつてはブドウ園、醸造場、牛久駅の間を結ぶトロッコが存在していて、それにより果実の運搬がなされていた。現在はレールこそないものの、その軌道は生活道路として残っており、付近を散策していると特徴的な角度で交わる道に気が付く。

 当時のブドウ畑はおおよそ120ヘクタール。はじめに植えられた6000本もの苗木が育ち、それから2年の歳月をかけて、ようやく醸造場を本格的に稼働させる準備が整ったのだった。

 ……てっきり、この旧醗酵室1階には醗酵桶が並んでいるだけかと思いきや、そういうわけではないらしい。私はすっかり油断していたようだった。

 突然、なにやら異様な気配を感じた。次にとてつもない力で引き寄せられて、視線を向けたら大変だった。もうここから視界に収めた様子、醸し出されている雰囲気から、どう考えても自分の大好きな場所だとわかる。逃げられない。

 

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 この空間は、ボルドー地方の醸造場において責任者(メトル・ドゥ・シェ)に与えられていた部屋を模し、牛久醸造場にも設置されていたもの。

 各工程に対して適切な指示を与える人間がいる場所、いわば施設の核だった。

 しかし本当にずるいと思う。こんなに瀟洒な洋風の空間を擁しているなんて、聞いていない。

 シャトー本館の旧事務室も旧応接室も一般見学はできないのだとわかっていたから、今回は醗酵室の設備の方を存分に堪能しよう、という心でいたのに、何の前触れもなくいきなり別方向の「良さ」をこうしてぶつけてくる。近代の洋館好きとしては狂うしかなかった。

 なんとかホイホイに誘い込まれる虫の気持ち、理解できる。

 

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 棚の中には神谷伝兵衛の婿養子、伝蔵がフランスから持ち帰った現地の土壌など、さまざまな種類のサンプルが収められていた。

 不思議な形の器具もそうだし、くすんだ色の床のタイル、窓の並び、扉の開かれ方すらも強く心を惹きつける、魔性の空間。階段の下に位置しているというのもなかなか絶妙にくる要素である。

 最後は天井から釣り下がる照明器具にとどめを刺された。うん、本当に良い佇まい……。

 

 

 

 

2階

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 2階に展示されている一連の資料を見れば、当時のワイン醸造の流れと、神谷伝兵衛の辿った軌跡を並行して学べる。

 建物の構造そのものにも魅力が多い。キングポストトラスの天井は東日本大震災後に補強され、新しく鉄骨の梁が設けられているので、その対比に注目した。床にある四角い突起は小窓の蓋であり、前述したように、ブドウ果汁を醗酵桶に流し込む際に使われたものだ。

 収穫したブドウの果実から枝や茎を取り除いて果汁を絞り、醗酵させ、瓶に詰めてもまだ続く工程。それぞれの段階で異なる形の機械が用いられ、全ての作業がこの建物で行われる。

 2階全体を見回し、ここは神谷伝兵衛にとって念願の、まさに夢の城であっただったろうと考えて、北海道余市にあるニッカの蒸留所を思い出した。あの場所も、竹鶴氏が夢にまで見たお城のようだったから。余市の小さなスコットランド、そしてここ牛久の小さなボルドー地方。

 

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 経歴を見ると、神谷伝兵衛はまれな商才を持った人物であったと伺える。しかし彼が商売の道に足を踏み入れたのはまだ年齢が一桁で幼い頃、その理由も、家の没落および困窮と切実なものだった。

 数々の成功と失敗を経験した末、明治6年(1873)、伝兵衛は17才の時に縁あって横浜へ赴き、フランス人が経営する洋酒醸造所(フレッレ商会)に雇用されることになる。

 彼はよく働いたが、過労がもとで倒れ、やがて医師にも見放されるほど容体が悪化した。そこで折しも葡萄酒、ワインとの運命的な邂逅を果たす。雇用主が見舞い品として差し入れてくれた輸入ワインを少しずつ摂取したところ、なんとひと瓶を飲み干す頃にはすっかり元気になっていた。

 この経験こそ、伝兵衛をワイン醸造の道へと導いたきっかけ。日本ではまだ高価だった葡萄酒を、どうにか一般庶民に普及させることはできないか。彼はそれから情熱の炎を胸で燃やし続けた。

 

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 牛久醸造場の開設には時間がかかったが、伝兵衛はそれ以前から、酒産業にかかわるいろいろな試みに触手を伸ばしている。代表的なものが「みかはや銘酒店(現神谷バー)」の開業とにごり酒の一杯売り、そして、蜂印香竄葡萄酒(はちじるしこうざんぶどうしゅ)の製造と販売。

 蜂印香竄葡萄酒は通称「蜂ブドー酒」とも呼ばれ、当時たいへんなヒットを記録した。輸入したワインを利用し、漢方薬や蜂蜜などを加えて甘味ワインにした商品で、まだ一般になじみの薄かったワインを人口に膾炙させるきっかけを担う。

 その販売広告を担当した近藤利兵衛は伝兵衛の親友であり、優れたマーケティング感覚を持った協力者。営業のほとんどを彼に任せていたというから相当に信頼していたのだろう。

 ちなみ香竄(こうざん)というのは伝兵衛の父が俳句を作る際の雅号で、豊かな香りがひそやかに身を隠している、そんな意味を馨しいワインの名に冠した。

 

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 多趣味だった父、兵助の代で神谷家は傾いた。それでも親の恩を忘れないようにとその雅号を商品に用いる感覚は、私からすればかなり面白い。不思議なものだ。

 やがて牛久醸造場を完成させ、ワイン醸造をはじめとした数々の事業に携わるほか、文化や慈善の分野にも貢献した伝兵衛は、大正11(1922)年に66歳でその生涯を閉じた。

 このシャトーが完成してから20年後のことだった。

 

地階

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 2階の階段は1階を経由し、下りればそのまま地階に繋がっている。

 この場所の雰囲気には驚いた。温度や湿度がワインを熟成させるのに適した状態で保たれている、機械を用いない貯蔵施設……。土や木の強い香りに酔うし、極力落とされた照明が限りある領域だけを照らしていて、どきどきする。神秘的だけど誰もいないからちょっと怖かった。

 暗くて、自分の息遣い以外は本当に何の音もしない。

 東日本大震災後の補強工事の際にも、この冷暗な環境を損なわないようにするため、できるだけ影響の出ない方法が採用されている。内側ではなく外部からバットレスで壁を支持しているらしい。

 

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 電灯の光が守護してくれるのは、足元のみ。

 樽の中で熟成されるワインの気分になる。もしくは振り向きざまにその囁きを聞く。途中に設置されているレリーフも、光量を絞るために曇らせた小窓も、私が知るのとは全く別の世界に属しているみたいだった。

 ビジターセンター(旧洗滌場)に繋がる階段を上る頃には、あまり興味を持ったことのなかったワイン醸造に関する基本的な知識と、明治の世でそれに魅せられた伝兵衛の願い、その結果の一端が意識の隅に刻まれた。

 先に千葉県の旧神谷伝兵衛稲毛別荘を訪れておいたのも良かったと思っている。ブドウに対する愛着を、ことさら強く感じる佇まいの洋風建築だった。

 

牛久市のブドウとワインの今

 令和4年現在、残念ながらこの牛久シャトーではワインの醸造はされていない。

 しかしながら牛久市内でのブドウの栽培は行われており、代表的なものに「富士の夢」があるらしかった。常磐線に乗るため牛久駅に立ち寄り、横の商業施設を覗いてみると、それを利用したワインが置いてある。

 興味があったので買ってみることに。

 

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 牛久市産のブドウを使用したワインは名前をLEGAME(レガーメ)というそう。

 名前がイタリア語なのは、牛久市が友好都市としてイタリアの一都市と縁を結んでいることに由来するとか。酸味が強く爽やかな風味だった。

 そのまま飲んだり料理に使ったり、いろいろと楽しんでみることにする。

 

 

 

 

 

 

葡萄の意匠とタイルが光る「旧神谷伝兵衛稲毛別荘」そして電気ブランのこと|千葉県にある国の登録有形文化財

 

 

 

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公式サイト:

旧神谷伝兵衛稲毛別荘 | 千葉市民ギャラリー・いなげ

電気ブラン|オエノングループ

 

目次:

 

 JR横須賀線の電車がそのまま総武線に直通し、船橋と津田沼、検見川を越えて、やがて稲毛駅まで辿り着く。

 西口のバスロータリーを出てまっすぐ進んだ先が、海。

 かつては稲毛駅から15分も歩けば浜の砂に爪先が埋まったようだが、現在はその距離が倍以上になっていた。

 理由は地図を広げてみれば明らかで、住宅街に名前のみが残っている稲毛海岸の地域から海側にかけての道は、ほとんどが意図的に整然と並べられている。昭和20年代以降に大規模な埋め立て、浚渫工事が行われた証左であった。

 

 それゆえ、令和の稲毛を歩く際に何より必要だったのが、想像力。

 明治に開通した鉄道を利用して、この土地を訪れた人々が歩いた浜や、眺めたり泳いだりしていたであろう海の、当時の姿を考えてみる。それから大正から昭和にかけて、避暑地や保養地としての性質がいっそう強まり、多くの別荘が建ち並び旅館も軒を連ねた頃の稲毛を。

 幅の広い国道14号線の脇に立つ。

 そこで往時の風景を思うとき、全ての遮蔽物はどこか彼方に消え去って、海までの距離はたちまちゼロになる。

 

旧神谷伝兵衛稲毛別荘

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 稲毛に別荘を建てた神谷伝兵衛(傳兵衛)は牛久シャトーや、電気ブランで名を馳せた神谷バーの創設者であり、商才を持つと同時に洋酒への比類なき情熱を抱いて生きた実業家だった。

 建物は平成9年に国の有形文化財に登録されている。

 正面の外観を視界に収めてみて受けた印象は、几帳面な感じ。並ぶトスカーナ式の柱が支えるアーチや部分的な装飾は規則正しく並び、けっして退屈ではないながらも、視覚的に整い瀟洒なすまし顔で佇んでいる。

 設計者は不明だが、私は外壁に張られた白いタイルや、窓の上部分に施されたひし形のデザインを見て、名古屋にある旧豊田佐助邸を脳裏に浮かべた。共通点があると思った。

 

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 コンクリート造りの別邸は大正7(1918)年に竣工。関東大震災を経験しても倒壊しなかったことで、その丈夫さが際立つ。

 開放的な吹き抜けの玄関ホールは階段を擁している。ゆるやかで優美な曲線を描いており、敷かれたカーペットの深い赤は、どこかワインを連想させる落ち着いた色だった。というのも、神谷伝兵衛が特に葡萄酒(ワイン)の醸造で事業を発展させた人物だから、尚更そう感じるのである。

 そして三叉に枝が伸びる電灯、その天井の中心飾りにブドウの半彫刻が蔓を絡めていて、彼の功績とこのモチーフに対する愛着を改めて思った。簡素ながら魅力的な、四辺を飾っている持ち送り(モディリオン)の意匠も気になる。

 アール・ヌーヴォーやゼツェシオンの影響も受けているところが、有機的かつ優美な部分と、幾何学的な部分との調和を生み出しているのかもしれない。

 

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 右手に進むと寄木細工の床を境に、空間は玄関ホールから洋室へと変わった。この1階は応接室とし、客人を招いたのだとか。

 全体的にあまりごてごてしておらず、四方を囲む壁のうち二面がほとんど窓なのも相まって、雰囲気的な意味での風通しが良い。レールから垂れ下がるからし色のカーテンも重苦しくなかった。その向こうの上げ下げ窓は、網戸も上下に開閉ができる仕様。

 部屋の隅っこにシェーズ・ロング風の長椅子が置かれているのにどきどきした。あれが似合う人間を探してきて、ぽんって置いておきたい。あるいは自分自身がそれに見合う人間になってみるとか……。それはちょっと難しそう。

 暖炉は絵の描かれたヴィクトリアンタイルのほか、大理石のマントルピースの両脇に灰色の柱(オーダー)が立っているのが、他ではあまり見ない形なのでとても惹かれる。

 まだ1階部分しか見学していないのにこの情報量、喜ぶほかなかった。

 

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 そうしてすっかりウキウキしながら2階に上がってみたら、さらに圧倒的な天井が待ち構えていて、良すぎる、すごすぎる、としか言えなくなり数分間無心でいた。文字通りに活動を停止していた。

 メインである書院造りの部屋、折上げ格天井なのだが真っ先に煤竹で飾られている部分に目が行く。別邸の2階部分をこういう意匠にしようと思う、その感覚自体がもう洗練されていて……実業家の建てた良質な建築物を見学するたび、いつも心から感心する。

 ときめく箇所があまりに多くてどこから言及すればいいのかわからない。

 特に葡萄の古木の床柱は本当にずるいと嘆息した。そんなことをされたら好き以外の言葉が出なくなってしまう、一体どうしてくれようかと。

 ブドウ、ハチ、トンボはどれも伝兵衛の作った洋酒にゆかりあるモチーフ。1階玄関ホールの天井のように、他にもあるので館内を探してみよう。

 

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 例えば和室の欄間の竹柵によーく目を凝らすと、そこには紐のように絡んでいる何かがある。実は、これも葡萄の蔓なのだそう。凝っているし愛を感じた。

 近代建築に滞在しているとこういうものをずっと浴び続けるから、本当にいい意味で狂う。ひとりで最高最高ってぶつぶつ言いながら徘徊していたので、周囲に誰もいなくて良かったと胸をなでおろした。

 洋風建築にある和室をうろついていて感心する部分は多いが、なかでも窓と障子が壁の厚みを挟んで重層になっている部分はいつ見ても楽しい。この二重構造のおかげで、外観はタイル張りの洋館でも、内側から見るとすっかり和風の空間になるという仕掛けだった。

 ちなみに埼玉県の旧田中家住宅にも同じ種類の窓がある。鑑賞者は完全に魅了されて、逃げられない。

 

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 広縁の廊下突き当りにあるたまらないアルコーヴや、一枚の板からくり抜かれた木瓜の窓も深く印象に残った。

 ちなみにこの魅力的な別邸を建てた初代神谷伝兵衛、本人がここで過ごした期間は大正7~11年にかけての4年間と、比較的短い。

 その後は昭和16年頃に清朝最後の皇帝、愛新覚羅 溥儀の妹であった韞嫻と韞馨の二人が暮らしたり、第二次世界大戦の影響で疎開してきた伝兵衛の子孫(田島一家)が移り住んだりと、さまざまな住民を迎えた。

 戦後は旧山田家住宅のようにGHQにより接収され、進駐軍の将校が滞在するにあたって、増築が行われた。あくまでも別荘であったこの家には、生活に足りない設備も多かったためだ。

 

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 最後に振り返ると、人心を惑わす魔の電灯や、杉の一枚板の吹き抜け天井から下がるシャンデリアの存在に後ろ髪を引かれてどきどきする。

 これでは家に帰れなくなってしまうかもしれないと心配になった。

 まあ、普通に電車に乗って帰宅できたので安心した……。

 

 

 

 

噂の電気ブラン

 ワインの原材料であるブドウのモチーフがそこかしこに用いられていた、神谷伝兵衛の別荘。

 彼が蜂印香竄葡萄酒(通称ハチブドー酒)をはじめ、醸造に力を入れていたのは有名だが、もうひとつ代表的な製品を明治26(1893)年の頃に生み出している。それが電気ブラン。古いラベルでは電「氣」ブランと表記されることもある。

 これは、伝兵衛が創設した神谷バー(旧・みかはや銘酒店)を中心として提供されている、ブランデーをベースに他の酒類や薬草などをブレンドしたリキュール。

 

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 現在はアルコール度数が30%と40%のものが販売されており、写真のものは後者、なおかつ360mlの小さなサイズになる。

 ボトルは色々な場所で購入できるのだが、せっかく上の別荘を訪れたこともあり、ゆかりある稲毛の地で取り扱っている店を探した。調べると駅周辺に2店舗ほどあり、そのうちの片方へ行ってみることに。

 せんげん通りにある、天鷹並木酒店。

 自動ドアが壊れているのか結果的に手動ドアとなっており、震えながらおそるおそる入ると薄暗く静かな店内におばあちゃんがいて、電気ブランを売ってくれた。

 

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 その際に「どうぞ持っていってください」と無料で譲っていただいたのが昔のグラス。

 たくさん種類があって迷ったが、最終的にmitsuya(おそらくは三ツ矢サイダーのミツヤなのだろう)の文字と波の模様が入ったものを手に取った。なんともレトロで趣がある、とても素敵なもの。本当にもらってしまっても良いのだろうかと思うくらい。

 

 電気ブランを果たしてどう飲むのがおいしいのか、いろいろと試してみたけれど、個人的にはそのままが一番なのではないかという結論に至った。何かを混ぜたり薄めたりはしない方が私は好きだ。

 舌がびりびりして喉が熱くなる、この刺激が楽しくて、満足感をおぼえる。甘さと渋みが共存した味わいは著しく空腹を誘うのでごはんが欲しい。

 ちなみに名前に「電気」とついているのは、かつて最新の商品を猫も杓子も「文化」と称していたのと同じで、目新しいものを表現する謳い文句だったようす。近代日本史の資料集にも載っている「文化包丁」みたいなものだろう。

 むかし提供されていた電気ブランはアルコール度数が45%あったそうだから、これよりももう少しびりびり感が強かったと推測される。

 

 明治大正期に思いを馳せ、当時の雰囲気に浸ってみるのにぴったりの飲み物。

 その味を知ってもう一度別邸の方を訪れるのも、きっと面白い。

 

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 蒔絵の下飾りに麒麟がいた。



 

 

 

 

修善寺駅前の「純喫茶あぐり」と奇妙な資料館、極楽苑 - 静岡県・伊豆市

 

 

 

 

目次:

 

純喫茶あぐり

 駅の前にある喫茶店は、ときどき安心の象徴みたいに思える。

 バスや電車が来るまでの暇つぶしに、あるいは不意に降ってくる雨の冷たさを避けるのに便利な場所というのは当然なのだが、もっと、それ以上の恩恵を与えてくれる「何か」が確実にあると感じずにはいられない。

 内部に満ちている雰囲気によるものなのか、素朴なメニューに宿った力なのかは、わからないけれど。

 

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 静岡県、伊豆市の修善寺で営業している、純喫茶あぐり。

 某所に向かう途中で立ち寄ったこのお店は、土産物を扱う宮内名産店の2階にあった。駅の南口を出て道路を渡ると、㈱寺山タクシーの乗り場、右横に佇んでいるのが見える。緑色のオーニングの廂。

 細い階段を上がっていくときに気が付いた、まるで葡萄の房のような照明に目を奪われ、破顔した。よく観察すれば、電灯の粒の中にひとつだけ異なる形のものがある。きっと交換する際に全く同じものがなかったのだろう。角が丸い。

 ドアを開けると、想像していた以上に魅力的で落ち着く空間が待っていた。

 

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 彩度を抑えた赤い革張りの椅子。どこかの山小屋のような木の壁、床、そして面積を大きめに取った窓。

 外が曇っているのにもかかわらず明るく、冬でも内部は暖かかった。清潔でありながら少しの古さも感じさせるレトロな内装に嬉しくなる。さっき上がってきた、階段のある空間がガラス越しに眺められて、例の照明もすぐ近くから観察できるのが良い。

 メニューの品数は多く、何十とある飲み物の中からどれを頼もうか、かなり迷った。

 そしてなんとなくストロベリージュースを選択。

 

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 一口にフルーツジュースと言っても色々な種類があるけれど、これはミルキーなタイプだった。ストロベリー牛乳的な。机に運ばれてきたものを実際に飲んでみると、想像通りのなめらかさがあり、甘すぎず酸っぱすぎずで、氷の冷たさも相まってとても美味しい。

 ちなみに注文してしばらくすると、厨房の方からガーッという音が聞こえてくる。この感じが好きだなぁと思った。ついさっきミキサーで作られたばかりの、新鮮なジュース。

 実に喫茶店らしい良さ。

 次に来る機会があればコーヒーや、セットにできるサンドイッチを頼んでみたい。もしもお腹が空いていたらカレーライスも気になるような。

 

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 橙色のお花の照明に照らされ、窓際のアロエに目を向けると、何か光るものが眼に入る。どういうわけか鉢の上にたくさんの1円玉や10円玉が置かれていた。

 きっとお客さんによるものなのだろう。験担ぎか、それとも支払いの端数に困ったときに使う用なのか。謎は解けない。

 あまり好きではない冬の雨も、喫茶店の窓越しにであれば結構楽しめる。

 

 

 

 

 

伊豆極楽苑

 ところで、この修善寺までわざわざ足を延ばしたわけについてまだ書いていなかった。変わったスポットの好きな友達が、ある資料館を紹介してくれたのがその理由。

 名前を「伊豆極楽苑」という。

 外壁に地獄極楽めぐりと書かれている……。

 

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 修善寺駅前から、20分ほどバスに揺られて辿り着いた。

 ここは一体どんな場所なのか。聞けば1986年から開館している施設らしく、仏教における地獄について解説してくれる場所……らしい。入館すると最初に、その世界観に関するレクチャーがある。

 人間の魂が死後、7日ごとに7度の裁判を受ける49日の期間。

 輪廻転生の際に枝分かれする六道。

 天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、そして地獄道と罪の重さに応じて行き先が変わり、地獄に落ちた魂はそこでさまざまな責め苦を受ける。

 

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 極楽苑は手作りのジオラマによって、魂が「三途の川」を渡ってから、仮に地獄の最下層まで辿り着くとすれば、一体どんな光景を見ることになるのかが表現されているのだった。

 とても丁寧に時間をかけて作られた、並々ならぬ熱意を感じる展示。

 極楽苑のもとになったという参考文献「往生要集」も、最後の部屋で実際に触ることができる。もとの本が著されたのは985年だが、 極楽苑の蔵書の中で最も古いのは寛永17(1604)年の往生要集で、漢文で書かれたもの。

 もうひとつ展示されているのは天保14(1843)年のもので、こちらは八田華堂金彦による挿絵がついていた。

 

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 他にも曲亭馬琴の「新塁解脱物語」に葛飾北斎の絵を加えた1807年の本などが参考資料として並べてある。

 実際に自分の手で撫でたりめくったりしてみて、手すきの紙という素材の強靭さを実感する思いだった。興味のある方は極楽苑を訪れたらぜひ触ってみてほしい。

 2022年2月現在、入館料は大人700円。ちなみに秘宝展というあやしい展示(男根を模した彫刻などが並んでいるやつ)もあって、そちらとのセット券は900円となっている。せっかくなので両方とも見ていくのが面白いのでは……。

 

 

 私達は一連の展示物をそれなりに楽しんだ。

 たまにジオラマの様子は変化するみたいなので、時間を置いてまた尋ねてみるのもきっと悪くない。