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【宿泊記録】昭和への懐旧を抱く宇宙船、ハトヤホテルの廊下を渡る|伊東のレトロ豪華な大型施設

 

 

 

 熱海、そして伊東。

 相模の海を望める伊豆半島、その周辺の代表的な温泉地には、昭和の前半に建てられた豪華な宿泊施設がまだいくつか残っている。

 それらのうち、熱海の方のホテルニューアカオが2021年冬に閉館を発表したのは記憶に新しい。実際に営業終了後の館内を歩いてみて、稀有な意匠の数々に、過去の隆盛を彩る虚飾の気配が濃い、すてきな建築物だと思った。

 

 

 伊東のハトヤホテルに泊まってみようと思ったのは、今度は営業中の豪華ホテルの館内を見て回り、感想を綴りたくなったから。その存在は友達に教えてもらって知った。

 立地的に、ニューアカオが海なら、ハトヤは山……そんな印象を受ける。

 ちなみに昭和50年に新しくできた、全室オーシャンビューのサンハトヤは本当に「海ハト」とも呼ばれることがあるそう。ハトヤホテルに宿泊すると、そちらの日帰り温泉にも入浴できる券が、チェックアウト時にもらえる。

 水槽を眺めながら温泉のお湯を楽しめるお魚風呂も、結構おもしろかった。

 

公式サイト:

伊東温泉|ハトヤグループ

 

 

目次:

 

ハトヤホテル

  • 概要・外観

 

 伊東駅前、改札を出て右にある案内板の前から、無料の送迎バスに乗る。

 何度もカーブを曲がって、ぐんぐん坂を上るとハトヤの看板が見えてきた。大きなホテル。私は世代ではないのでこれまで耳にしたことがなかった、例の「伊東にゆくならハ・ト・ヤ」で有名なCMソングが聴こえてくる気がする。

 電~話~は4126(よい風呂)。

 公式サイトで過去のCM、特に貴重な初代(昭和36年頃)の白黒動画が視聴でき、訪問前に幾度となく予習したのでもう歌える。むしろ頭から離れてくれず、今では正直困っているのだが。

 何をしていてもハトヤに決めた♪  ハトヤに決めた♪  が脳内で流れ続けるから……。

 

 

 それもそのはず、この曲の作詞者は「おもちゃのチャチャチャ」が代表作の野坂昭如氏で、作曲者の方は「手のひらを太陽に」が特に有名な、いずみたく氏。

 人間の心に残りやすいフレーズを生み出すのに長けた2人が作ったというので、忘れられないのにも納得してしまった。

 伊東にゆくならハ・ト・ヤ♪

 電話はヨイフロ♪

 ハトヤに決めた♪  ハトヤに決めた♪

 

 …………。

 

 

 ぐっと外側に張り出しているのは本館の食事会場、ダイヤモンドホール。

 名前の通りの形状だった。

 

 ハトヤホテルの起こりはニューアカオと少し似ていて、小さな旅館から始まったらしい。あるときハトヤの創業者が、その建物を所有者から譲り受けた。当時の建物はもう違う場所に移築されているため現在のハトヤホテルとはまた別になる。

 なんでも元の旅館の持ち主がハト手品を得意としていたため、ハトヤの創業者はその名前を宿泊施設に冠し、ここがハトヤホテルとなったらしいのだが……色々と気になる。

 一体どういう知り合いで、どういう縁があったのだろう。

 

 

 ホテルの入口から坂を下り、回り込んだ場所には「ハトヤ消防隊」の待機所があった。

 消防車の走行は敷地内に限られていて、まさに自前の警備隊という感じでちょっと格好いい。名前が見えるだけで、このホテルを見守ってくれている、という安心感が生まれる。ダイヤモンドホールに似て三角に突き出した小窓が鳩のくちばしみたいだ。

 CMにも「消防隊篇」なるものが存在しており、再生してみると、当時の古く貴重な消防車2台の姿が映っているのを確認できる。

 

  • ロビーと渡り廊下

 

 ハトヤホテルといえば、ここ。宇宙船の通路を思わせるアイコニックな廊下は、いわゆる昭和レトロ的な「過去に描かれた近未来」の象徴のようで、たびたび話題になっている。

 張られた布は上下で色と柄が違い、いずれも赤系。レモン型のレンズが両脇に並んでいて、この窓から差し込む太陽の光が時間に伴って床を移動し、なんともいえない非日常感を演出するようだった。

 渡り廊下が結んでいるのは本館とシアター別館のあいだ。後者はまるで、塔のように空へと伸びる多角形をしている。

 ちなみにこの場所、昼間の様子はよく取り上げられているが、夜にどんな表情を見せてくれるのかにはあまり言及されていない感じがする。

 

 

 陽が沈んでから通ったら、まったく別の世界が広がっていた。ガラスの外が青い。これは、とてもとても楽しいのでは……。

 手前の広い空間となっているロビーには藤の花みたいなシャンデリアが下がっていて、その根本、蛇腹を伸ばしたように角ばった天井の次に、床へと目が行く。

 うまく言えないけれどこの感じ、まさに日本の少し古いホテルという感じがして、好きだな。

 お土産のお菓子の包装紙を思わせる柄。

 

 

 そして、ロビーのお土産ショップで売っていた「おみくじ付ボールペンセット」を買ってしまった。

 他にもマグカップやタオルなどがあったけれど、個人的にはこれにこそガッシリ心を掴まれる。おみくじの部分に詰まっているのは、ときめきの源、胸を高鳴らせるわくわくの原液。

 こういうものがなくても生きていけるかもしれないが、ない人生に意義を見出せるかと問われたら、話は別。おみくじ付ボールペンは必要。

 そのボールペンにおみくじがついているか、いないのか、それが重要な問題なのである。

 

 

 

 

  • 客室(和室)

 ニューアカオの営業開始が昭和48年だから、同38年にはすでにCMを放映していたハトヤも、近代の大型ホテルとしては相当古い部類だろう。

 私達が宿泊したのは、シアター別館の12階にある和室だった。

 こちらの完成は昭和45年。

 何度かリノベーションされているようだし、全体的にとても清潔だったが、やはりどの設備も年季が入っている。豪華だけれど確かに色は褪せていて、わずかな寂しさを感じさせるところが好みだった。

 

 

 今回は2名での宿泊になったが、友達3人くらいで一緒に泊まるのが丁度良さそうな広さの客室。

 適度な解放感があって過ごしやすい。お茶セットとハトヤサブレが置いてあるので、到着してすぐにくつろぐも良し、お風呂あがりにのんびりするのも良し。

 ああ、ここにも鳩がいる……!  つるりとした焼き物の、白い鳩。手品でよく登場するギンバトの色。姿はふつうのドバドなのだけれど。四角い金庫の横にいて、幻の鳴き声を室内に響かせていた。ポッポ。

 通称「海ハト」のサンハトヤとは対照的なこちらの「山ハト」、広縁に面した窓からは伊東の町を俯瞰したり、背後から迫りくる天城連山の気配を感じたりできる。

 

 

 広縁(ひろえん)、やはり良い。

 よく「あのスペース」や「謎スペース」と呼ばれているこの場所、昔は旅館の内廊下を客室ごとに区切ることで生まれた空間であり、現在では単純に窓の外を楽しんだり、一息ついたりするのに丁度いい存在に変わった。

 スルッと違うふすまを開けるとそこは洗面所、お手洗い、さらに浴室へ繋がる道。お手洗いの方はできたてピカピカという感じだが、浴室の方はまさに昔からありますと言いたげな雰囲気を醸し出している。

 ハトヤの客室のお風呂はすべて、蛇口から温泉を出すことができるそうだ。

 

 

 今回の宿泊で最も私の印象に残ったのは、実は以外にも布団の寝心地の良さ、快適さ。

 当方あまり首が強くなく、すぐに筋などを痛めてしまう体質なのだが、ハトヤの布団と枕はかなり寝やすかった。チェックアウト時に「どこの製品を使っているんですか」と聞きそうになったくらい。ぐっすり眠れて嬉しかった。

 余談として、夜寝ていたとき、夢の中にも全く同じ客室が出てきたのを思い出す。そこでも私は布団に寝ていて、何やら子供の声で「5,4,3,2........」とカウントダウンされていたのだった。数え切る前に目が覚めた。

 最終的によくわからない夢だったが、仮に数字が0になっていたら、白い鳩にされてしまっていたのかもしれない。ここはハトヤだから。

 

  • 食事、シアター会場

 この茶色い看板の字体が、なんともいえないレトロ感。

 結構たまらないものがある。

 

 

 食事は別館の地上階にある、シアター会場で取ることになっていた。

 ここは名前が示している通り、日によっては何らかの演目が行われている劇場のような空間。周囲を見回すと、ゆるい曲線を描いた2階の縁の部分や、カーテンで覆われていない窓があの渡り廊下と呼応する造形だった。本当に宇宙船みたいな。

 到着してから最初に頂いたのは、夜ご飯。

 バイキング形式のディナーで、好きなものを好きなだけプレートに取り、満足したら席で黙々と食器を動かす。お腹が空いていると他になんにもできない。

 夜の個人的なおすすめ料理はグラタンだった。

 

 

 そして、朝食ビュッフェのおすすめはソーセージ!

 これがとても好みだった。固めで、引き締まっていて、適度な塩味が嬉しい。いくらでも食べられそうだった。またパンやパンケーキ類は、台のところに温められるオーブンが備え付けられている。

 私は和風にアレンジされた洋食(伝わるだろうか……)が好きなので、日本の旅館やホテルでは、可能な限り洋食寄りの食べものを選ぶ傾向がある。子どもの頃は外食時以外、徹底して和食が提供されていたから、そうなったのだろうか。理由は分からないけれど。

 ご飯はみんなおいしかった。しかしコーヒーと紅茶はちょっと薄すぎていまいちだったので、それらが好きな人はジュースやミルク、緑茶を飲む方がいいかも。

 

  • 館内の様子

 

 すばらしいお湯の温泉を満喫して、どういうわけか肌よりも髪の毛の方がうるつやになってから、その後はゆっくりハトヤホテル館内を見て回ることに。友達とゲームコーナーでも遊んだ。

 まず照明器具類、シャンデリアの類が本当にきれいで……デザイン自体が昭和の豪華ホテルの雰囲気を体現しており、眺めているだけで満たされる。首と目がいくつあっても足りない。

 特に七宝つなぎの意匠は食事会場へ行くと必ず視界に入ってくるから、そのたび感嘆の声を脳内で零していた。いいなあ。家の電気も一部これにしたいな。

 大浴場の近くの天井にあったものも、他ではお目にかかれない感じだったのでつい高揚してしまう。金属の棒がぐるぐる。

 

 

 それから扉とか、隅っこに置いてある机やソファ類だって見逃せない。

 情勢の関係でバー「花」が休業中だったのは本当に残念……音楽のスピーカーを連想させる丸い彫刻が施されていて、ドアノブに手をかけたい、戸を押し開けて何か飲みに行きたい、という思いを激しく掻き立てられる。

 この建物は、いつまでここに建ってくれているだろう。

 個人的には時代の移り変わりとともに変遷し、時には改装され、また建て替えられていってしまう儚さも含めて、古い建物を愛している。もちろん重要文化財などに登録されて、長く保存されていれば、いつでも見学できるかもしれない。当然それも嬉しい。

 

 

 けれど同時に、遠からず姿を消してしまうかもしれない存在だからこそ、いっそう愛しく感じられるような気もする。あくまでも私はそう思うというだけの話だが。

 昭和の大型ホテルの廊下を歩いていて感じる、浴衣のすそから染み入る寂しさとか、けっこう好きなのだ。

 どちらにせよ、営業している状態のハトヤで実際に宿泊できた経験、これは間違いなく人生の宝物になった。こうして回想しながら記録するのも楽しいし、仮にウェブ上の文章や写真のデータが全部消えたとしても、私は折に触れて心の中のハトヤを思い出すだろう。

 

 最後には前述したように、チェックアウト時にもらえる入浴券を忘れず受け取り、サンハトヤのお魚風呂へと向かったのだった。

 

おまけ:日帰りサンハトヤ

  • お魚風呂のある建物

 

 沢山の魚たち、また、大きなカメも一緒になって水槽内を泳ぐのが見られる、サンハトヤのお魚風呂。

 海の底1000メートルからお湯を汲み上げているため、そのまま海底温泉とも呼ばれている。内風呂は丁度いい温度で、露天風呂は冬で屋外ということもあってか、かなり熱めの温度だった。早々に内風呂へと戻って再び魚を眺める。

 大浴場は撮影ができないので公式サイトの写真を参考にしてもらうとして、お風呂上りにジュースが飲めるスペースや、ちょっとした建物内の意匠が気になったので載せておく。

 

 

 しおれた印象のゲームコーナーもあって、ハトヤよりは新しいけれど、こちらも素敵な昭和レトロ感。

 なかなかに愛おしかった。

 

 

ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー

 

関連記事:

 

 

旅館時代のバーを利用した喫茶室「やすらぎ」- 起雲閣・再訪の記録|熱海の近代建築(大正~昭和初期)

 

 

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参考サイト:

熱海市公式ウェブサイト

 

 

 前回の見学記録:

 

 先日、熱海の起雲閣にもう一度足を運ぶことができた。ちょうどよい機会があって。

 内田信也の別邸として大正8年に竣工、その後、根津嘉一郎の手に渡ってから大幅な増築が行われた和洋折衷の館は、玄関にあたる表門から庭園に至るまで余さず魅力だらけの場所。

 やがて桜井兵五郎に所有権がわたり、この建物が旅館「起雲閣」としての営業を開始したのは、昭和22年のことだった。太宰治谷崎潤一郎をはじめとした文豪の数々に愛され、令和になっても日々多くの見学者を迎えている。

 

 そして、今回再訪した最大の目的はここ。「やすらぎ」という名前の与えられた、素敵な喫茶室を利用してみたかった。

 

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 まず何に魅了されたかといえば、部屋全体を支配する落ち着いた緑の色だ。

 ソファは青みがかった布張り、カーペットはミルキーな薄緑、他の部分は黄色っぽく温かみのある感じ……になっているが、同じ空間に存在しながら喧嘩せずきちんと調和している。

 アール・デコの趣がある大きな天井の照明が意匠の白眉だと言えそう。

 直線と曲線、それらが組み合わさって綾なす文様と色面は、どこまでも単純な要素の集積であるはずなのに、驚くほど単調にならない。奥行きのない平面図形が不思議な重層感を生む。

 本当に怜悧なデザインだ。眺めているこちらはすっかり陥落してしまう。

 

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 カウンターの上に並んでいた、天井部分のものとはまた異なる花形の照明。薄い玻璃のはなびらが電球を包んでいる。

 現在の喫茶室「やすらぎ」は、昭和期にここが旅館だった頃、バーとして利用されていた空間をそのまま使っているのだそうだ。珈琲や紅茶はテイクアウトもできるとのこと。

 実際に訪れてみて、びっくりするほど居心地が良いと思う。窓から広い庭園が望めるのも楽しいし、かつては宿泊客が夜にここで杯を傾けた情景を想像すると、目の前が幻の紫煙でかすむから心が躍る。

 提供されているコーヒーはオリジナルブレンドのもの。香り高く、セットでついてくる和菓子の、最中と黒餡の甘さによく合う味が嬉しかった。強すぎずまろやかで。

 

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 カウンター側に設置してある椅子は、ソファのある壁側のものと比べて高さが異なるだけでなく、背もたれのデザインも違う。ずっと座っていられそうな優しさがあった。

 

 そして再訪ということで、喫茶室を出たら、また数年前のように起雲閣の館内をぐるりと見て回る。

 いわゆる「サンルーム」に対する並々ならぬ執着を持つ人間として、根津嘉一郎の所有時代に増築された玉姫の間、そこに付随しているガラス張りの空間には何度でも心を囚われてしまう。

 ちなみに解説いわく、天井以外の透明なガラスは当時のイギリスから輸入したもので、通常よりも紫外線を多く透過する(カットするのではない)仕様になっている、特別なものだとのこと。

 

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 太陽の光は浴び過ぎれば害だが、身体の成長には欠かせない。メラトニンやセロトニンなど、健康の増進に必要な要素を日光浴で補うため、根津の一家はときおりここに集ったのだろうか。

 床の正方形のタイルが相変わらず美しい。

 これなら庭の水辺で遊んで、そのままサンルームに入ってきても大丈夫そう。水が染み込まないから掃除が楽そうだ。隣の空間の、稀有な装飾が施された折上げ格天井に関しては前回の記事を参照してもらうとして……。

 

 今回改めて発見したのは、旅館の客室部分の良さ。

 

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 旅館の「広縁(ひろえん)」が好きな人の数はかなり多いはずだ。かくいう私もそのうちのひとり。

 上の写真の空間は、比較的面積の大きな広縁。腰をかけようものならもう二度と立ち上がれなさそうな、ふっくらとした綿が座面と背もたれに詰まっている椅子が、左右に二脚ずつ。籐の棒が交差するひじかけの部分をよく見ると、間に置かれたテーブルの意匠にも似ている。

 空間そのものもさることながら、この陽の光の射し込み方なんてあまりにすばらしい。足を踏み入れて休んだら最後、きっと待っているのは浅からぬ眠り。午睡の甘美さ。

 

 現在は起雲閣と呼ばれているこの建物が、何度も所有者の名を変えながら、それでも竣工当時から内部の雰囲気を損なわずに増築され、整備されてこれまで使われてきたのは本当に喜ばしいことだ。

 歴代のオーナーも、やはり単純にここが好きだったと見える。当然、熱海の土地と屋敷が欲しいだけの理由で買う場所ではない。

 

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 それでは金剛の間に設置された暖炉の上、ガンダーラのレリーフで今回はお別れします。

 熱海に行くならもう絶対、起雲閣に寄らずには帰れない。

 

 

 前回見学時の記事:

 

 関連スポット:

 

 

 

 

旧山邑家住宅(ヨドコウ迎賓館)- フランク・ロイド・ライト設計の見学可能な建築(3)|兵庫県・芦屋市の重要文化財

 

 

 

 

前回の記事:

 

 吐く息が煙のように目の前で漂う。その向こう、芦屋川の上流にぼんやりと白く、部分的に青く煙った六甲山麗の峰が見えていて、やはり気温の低いときにここへ来て良かったと心底思った。

 たとえば猛暑の中であんな景色を眺めたとしても、きっと今ほど敬虔な気持ちになれはしない。

 いささか険しい坂を、あまり急がずに上った。比較的静かな心で、好奇の炎が勢いよく燃えそうになるのを、できるだけ抑えつつ。

 

公式サイト:

ヨドコウ迎賓館

 

 

 どうしてそんなことをしなければならないのかというと、あまり対象の建物に対する気持ちが大きすぎると、折角の良さをかえって見逃してしまう場合があるから。

 事前に詳細を調べ、可能な限りの場所に目星をつけておくのも賢い方法だと思うが、個人的には実際に訪問してから後でいろいろと調べる場合が多かった。我儘ゆえに、答え合わせよりも宝探しの方をしたかった。

 もっと違う意味で「きちんと」建物を鑑賞している人の方が世の中には多いだろうけれど、私はあまりそういう風にできない。

 

 

 魅力を言葉で伝えるのが、非常に難しい性質の建物。

 写真があって良かった。

 

 

 大昔の遺跡か、未来の何かの基地。

 面白いことにどちらともとれる外観の建物は、海の側から川に沿って道を歩いていくと、丘の中腹に見えてくる。不思議な四角い形の塔がその屋根から空に伸びていた。ざらついた大谷石の部分に施された、幾何学模様の装飾がすばらしい効果を発揮していて震える。

 かつては個人の別邸として建てられた旧山邑家住宅。

 現在はヨドコウ(株式会社淀川製鋼所)の迎賓館として公開されているこの建物は、フランク・ロイド・ライトによる設計で、彼が米国に帰国してからも弟子の遠藤新と南信の施工監理によって建設が進められた。

 大正13年に竣工しており、鉄筋コンクリート造りの住宅では日本で最初に重要文化財へ登録された建物になる。平成7年の関東大震災では被害を被ったが、その際に大規模な調査と修復工事が行われ、現在に至った。

 

 

 この家、その内部の広さと奥行きからは想像もできないくらい、玄関扉が小さい。上の写真の左側に写っているのがそれ。

 半ば玄関を塞ぐようにして横に突き出ているのが水盆になる。昔は雨どいに繋がっていて、石柱を伝って上から水が流れてきていたそうだ……それを聞いたときにはひどく高揚した。こんなにわくわくする仕様ってあるだろうか。今の水盆は水道から引いた水を湛え、中には魚が泳いでいる。

 入場料を支払って侵入した建物の中、細い階段からはじまる空間の、独特の雰囲気に呑まれそうになりつつ足を動かす。床はカーペットに覆われていて温かい。

 やはりここ、同じライトによる設計であっても、他の自由学園明日館や旧帝国ホテルとは様子が明白に異なる気がした。ヨドコウの迎賓館になる前は個人の別邸であったことを改めて考える。すなわち、誰かの牙城とも呼べる領域に、いま私は踏み込んでいるのだと。

 

 

 応接室への戸口も狭い。説明によれば幅は約62センチメートルほどとのことで、やはり秘密の基地みたい。

 そこから体を滑り込ませれば、解放感と落ち着き、両方を兼ね備えた部屋へと出る。

 どこの何から言及するべきなのか迷ってしまうが、ひとまず置かれている家具へと目を向けた。五角形をしたテーブルはヨドコウ迎賓館時代になってから制作されたもので、ライトのデザインを参考にしている。よく見ると椅子も同じ形で統一されているようだ。

 ひとつの机を複数人で囲む、類似の座り方なら丸テーブルでも用は足りるが、このほとんど直線で構成された部屋に丸い家具はそぐわないだろう。壁の球形の照明は例外という感じがする。

 縦長の空間を挟むのは、車窓を思わせる大きな嵌め殺しの窓だった。なんだか、ソファの置かれ方も電車の座席に似ている。いまにもガラス越しの風景が横に流れ出しそう。そして、壁の上部で帯のように並ぶ、小さな扉のついた窓にも気が付いた。

 

 

 そう、ひとつひとつの小窓に扉がある。

 もちろん開閉可能で、今はガラスが嵌められているものの、建設当時は通気口としても機能していたらしい。雨などが吹き込むと建物の保存に影響するため、現在こうして閉じられている。

 設置した意図も面白いが、これは視覚的、造形的にも稀有なものだと思う。ずらりと一直線に並んでいるのを実際に目の当たりにすると、圧巻だった。ちいさな長方形によって部屋のために切り取られた光。

 周囲の環境や自然のものを無理に動かしている感じではない。けれど、確実に何かの仕掛けによって、各要素を建物に合うよう変換している印象を受けた。

 なお、小窓はここだけでなく他の部屋にも設けられている。建物の内側から見るのと外側から見るのとではかなり様子が異なるのだが、後で屋上バルコニーに向かうときそこにも注目してみよう。

 

 

 

 

 3階には長い廊下があり、それがこれまた細長い和室に面している。

 特徴的な青緑色をした銅板の装飾は植物の葉から着想を得ているらしい。錆びたような質感になっているのは、単純な老朽化によってではなく、あえて理想の色合いに近付くよう意図的になされた仕様なのだ。

 ガラスの窓は外に向かって開くことができ、それにより自然、建物の外部と内部が接続するようにというライトの考えが現れている。当時のアメリカで一般的だった上げ下げ窓だと、開口部はできるが空間同士のかかわりが生まれないということなのだろう。

 和室に関して特筆すべきなのは、これは元の設計の際には存在せず、後に依頼者であった山邑氏の希望で設けられた部屋である点。ライト帰国後も弟子の遠藤新と南信が設計を引き継いで尽力した。

 やはり畳の部屋があると落ち着くものだろうか。あるいは人を迎える際にも、客人の好みや、催事の性質によって和室の方が適していることもあったかもしれない。実際、茶道の会などはそのような部屋でないと行えないだろう。

 

 

 同じ3階、廊下の階段の奥へ進むと洗面室に至る。近代建築の水回り好きとして、どうしても見逃せない空間。

 嬉々として足を踏み入れ、お風呂場のタイルと手洗い場の白い陶器、それから……と視線をせわしなく振り回していたら、「すごい」ときめきに遭遇してしまった。もはや遭難ともいえる邂逅だった。流し場に並んだ、透明なガラス棒である。

 ……流しに透明なガラス棒。

 著しい言葉の乱れを今だけ許してほしい。

 だって、すごすぎる……!

 

 

 私は旧山邑家住宅ではじめてこのような意匠に出会った。

 調べてもあまり該当するものがヒットせず、TOTO㈱のサイトで紹介されていた八木邸(建築家・藤井厚二による)くらいしかその存在を明記しているページに行き当たらなかったので、結構珍しいものだと思う。

 透明なクリスタルのドアノブと並んで、今後も建築探訪の際には積極的に探していきたい存在のひとつになった。またどこかで出会えるのが楽しみだ。

 

 そこから同階に位置する家族寝室(こんな小さな部屋にも暖炉がある)を経由して、もうひとつ上の階へ歩を進める。

 4階に続く北側の廊下の壁に採用されているのは、日本の木造建築における伝統的な工法の土壁。建物全体はコンクリート造りの中、その一部分に紛れ込ませるようにして点在しており、他にも和室の西側の壁などが土壁のようだった。

 

 

 階段の先に満ちているのはどこか神聖で、厳かでもある気配。

 私が大好きな暖炉もあるのだが、食堂に関しては暖炉単体というよりも、空間全体に呑まれた。ここで薪に火をつけるとき、他の部屋で同じようにするのとは明らかに違った意味を持つ行為に変わるのだ。

 四角錐に近い形を採用した天井、また木の装飾から受ける印象によって、この食堂の機能を理解……させられた、と言ってもいい。

 外装に施された大谷石の部分の彫刻と同じく、ところどころに見られる幾何学的な紋様は別の国の村の家のような、違う世界の建物から持ってきた飾りのような、不思議な表情をしていた。

 天井の三角形をした窓からは、夜なら星も見える。

 

 

 言葉にできないどきどきする感覚は、バルコニーでその極致に達するのだった。

 食堂の横から外に出ると、あの扉付きの小窓を外の側から確認できる。石の飾りで覆われて、遺跡の半地下から繋がる通気口のよう。さらに視線を前に向ければ四角い塔がそびえていた。きざはしになった中を通り抜けて、芦屋の街を一望できる端に立ち、俯瞰する。

 振り返ればさっき通った塔の向こうに建物の本体が見えた。

 そもそもこの四角いやつ、一体なんなんだろう……と思っていたら、説明に暖炉の煙突と書いてあってうっかり陥落してしまった。……ずるい。これだけ暖炉があるなら確かにたくさん煙突は出ているはずなんだけれど、まさかこういう形だとは予想していなかった。

 本当はもうちょっと抵抗する意志を持ち続けていたかったものの、少しの間、せめて滞在中くらいは膝を折っても良いと認めざるを得なかった。

 

 

 思想のある建築を見学するとものすごく精神力を使うが、それもきっと醍醐味のひとつなんだろう。

 私はいつも個人的な暖炉への執着をぶつぶつ呟いてるけど、前はさほど関心を払っていなかった故に、ライトという建築家がこれほど暖炉に執心していたとは全く知らなかった。でも、彼の作品に惹かれた。実際に外から眺めて、内部を歩いてみて、良いと思ったんだ。知らなくても。

 うん。これは、運命だね(別に運命ではない)。

 

 帰り際、三度目の修復工事の際に露出したという竣工当時のレンガ擁壁を見ていたら、建物周辺の落ち葉を払っていた係の方が少しお話をしてくれた。季節ごとに展示などもやっているので、機会があれば見に来ては、とも。

 この建物が愛されているのが伝わってきて、単なる訪問者の立場でもなんだか嬉しかった。

 

 

 たとえ同じ箇所でも、違う方向から眺めたり通り抜けたりしないと分からない部分とか、さりげなく配された形のおもしろさがあって、何度でも周回したくなる。

 複雑な魅了の術がかけられている……。

 

 

 

 

 

 

 

透明なクリスタルのドアノブ - 旧前田家本邸・再訪の記録|駒場公園の洋館

 

 

 

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参考サイト:

目黒区公式ホームページ

旧前田家本邸(東京都生涯学習情報)

 

 

 駒場公園敷地内にある大きな洋館——旧前田家本邸。以前は旧前田侯爵邸とも呼ばれていた場所。

 私は2020年の初夏に初めて見学し、その際の訪問記録も残している。

 建物の概要とか、今回よりも全体的な印象の方に関しては、以下の記事へ。

 

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 この東京都目黒区、公園の緑に囲まれた昭和4年竣工の建物を、2021年の冬にもう一度訪れた。今度は自分ひとりではなく、友達を伴って。

 過去に内部を歩いた近代建築を再び探索するのはかなり面白かった。

 昨年は思いもよらなかった箇所に目が行ったり、隣に立つ誰かの意見を聞いたりと、初見の時には咀嚼しきれなかった要素をたくさん味わえたために。普段は新しい邸宅の魅力を探すのに血眼になっている分、落ち着いた気持ちで内装を眺められたのも、結構よかった。

 

 とりわけ印象に残ったのは、他の近代の邸宅でも遭遇した、あの美しい家具の存在……。

 

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 そう、あの家具とはもちろん「あれ」のことだ。

 同じ東京都内にある旧山田家住宅や滋賀県の旧八幡郵便局にもあった、透き通って美しい、八角形の面を持つクリスタルのドアノブ。握り玉の部分に透明の塊が輝いている。

 旧前田家本邸では、以前の浴室にあたる部屋の扉に取り付けられていた。

 触ることはできないものの、開かれたドアの側面に回ると、板を貫く一本の軸で繋がった綺麗な結晶を存分に拝める。本当に素敵。はじめにこういう意匠を考え出した人は、いったい誰なんだろう。

 

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 自分でもかなり意外に思うのは、私は最初に前田家を見学していたとき、このドアノブの存在に全く気を取られなかった……という事実。素通りしていた。

 いや、嘘でしょう、と思うけれど実際にそうだった。冒頭にも掲載した前回の記事を読み返してみても、一切言及していないから。きちんと見ていればそれとわかるように何か書いていたはず。

 頭の中で某作品に登場する探偵が喋り出した。ただ見たり眺めたりするのと、観察をするのは本質的に違う行為なんだって。

 前回の私はクリスタルのドアノブの魅力を知らなかったし、だから注意も払わなかったのだろう。「視界に入っていても認識していない」とは、まさにこういうことみたいだ。

 

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 棚の中にも展示してあったから、ここだけでなく、どこか他の階の浴室や洗面室でもかつては使われていたのかもしれない。

 クリスタルのドアノブに関する詳しい説明書きは特にない。けれど、別の場所で見つけたものがいずれも米国に関連するものだったので、おそらくは前田家にあるものも当時の輸入品だろうと推測できた。

 それにしても目を引かれるし、心もその透明な膜の内側に囚われる。

 検索するとアンティークのカテゴリで類似の製品がヒットするから、いっそのことひとつ買って、自室の扉に取り付けようかと真面目に検討するくらいには好き。

 

 国内にまだ存在するであろうクリスタルのドアノブ、少しずつ探し出していきたい。

 それこそ採掘をするみたいにして。

 

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 同階の、相変わらず素晴らしかった書斎。

 

 

 前回の記事:

 

  また、前田家の別邸訪問記録はこっちです:

 

 

 

 

神戸文学館 / ラムネの色の窓ガラス

 

 

 

 

 その日はちょうど施設の休館日にあたる水曜で、だから当たり前に建物の門戸は閉ざされていた。私の他には人間もいない。

 神戸市灘区、丘の上の文学館。

 近くにある他の場所を訪れたついでに立ち寄っただけだから、別に落胆はしなかったけれど、今度はきちんと開いている時を見計らって内部も見てみたいと思った。貴重なハンマービーム・トラスの、美しい天井構造を拝めるというので。

 

  白い雲の吹き散らされた蒼穹に、褐色のレンガは良く映える。

 

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 石段にじっと座り、やがて陽が落ちて、右手にある洋風の電灯に明かりが点るまで忍耐強く待っていたい。そうしたら、指先からだんだん様子が変わっていって、一時的に透明になれるかもしれない。

 手持ち無沙汰に開館していない施設の周りをぐるぐる回っていると、まるで山ふもとの里を襲おうとする熊にでもなったようだった。どこかに隙間がないか、もしくは食べ物の匂いがしないか、探している。入れろ、という気持ちで。

 余談だが、熊の害……と書いて「ユウガイ」と読ませるのを、私はこのまえ初めて知った。

 

 現在神戸文学館として公開されている建物は、明治37年に建てられたものだ。

 

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 もとは関西学院の礼拝堂、ブランチ・メモリアル・チャペルで、イギリス人建築家ヴィグノールの設計と、吉田伊之助の施工で完成したものだった。それから関西学院が上ヶ原へ移築されても建物はここに残り、約10年後に神戸市によって買収される運びとなる。

 昭和20年の頃、戦時中の空襲により屋根は落ち、尖塔部分が崩れて炎で外壁も焼けた。

 

 それを建造当時の姿に戻そうと、平成5年に行われた復元。

 設計を担当したのは、近江八幡散策中にも多く名を聞いた一粒社ヴォーリズ建築事務所。実際の建築を新井組が手掛け、こうして、往時の面影が丘の上に蘇った。

 

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 柵の合間から視線だけを差し入れて、釣られている照明の美しい形を堪能する。するとあることに気が付く。奥の方にある、青みがかった窓のガラスの色は、別の壁のところにある透明なものとは少し違っていた。

 外壁に沿って一周してみると、高い位置にもそれと同じ色味のガラスがはめ込まれているのがわかった。空を反射しているからだろう、と最初は思っていたが、どうやら違う。

 調べると、公式サイト上では「ソーダ色」と表現されていた。

 色が濃いものと薄いもの、2種類あるという。なんとも心惹かれる形容である。

 その言葉自体にきらめきがある。

 

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 私はこれらをラムネ色の窓と呼ぶことにした。

 その下、白く曇った方のガラスにも目を凝らしてみよう(写真では判別しにくいのが残念)。四辺を縁取っているのは、細かな葡萄のつる。眺める網膜に触れる、弾ける炭酸の泡を思わせる感触。

 あの夏に売られるラムネに似ているがこれらは板だ。固く、薄くて、割れたら鋭い。

 

 澄んだ碧の窓を前にして、昔、恩師の一人と交わした会話が蘇る。小学校時代の理科教師で、当時の担任だった。

 確か、私はこう尋ねた。融点に達していない物質は固体ですね。それなら、私達の身の周りに存在しているものは一部を除いて、普段ほとんどが凍っているのだとも言えるんでしょうか。って。

 本来「凍る」というのは、水をはじめとした、常温で液体の物質に対してのみ使われる言葉だ。それを前置きした上で、恩師は寛容に頷いて見せた。まあ、そういう考え方もあるのではないかと。

 以来、眼球を通して認識する通常の世界のことを、私はたまに心の中で、偽物の氷の世界と称している。

 

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 それだけでなく、ラムネ色のガラスは「鏡の向こうの色」でもある。

 洗面台の前に立ち、三面鏡の両翼をこちら側に起こして、合わせ鏡を作ってみればよく分かる。無限に連続する像が、ずっと奥の方へ行くに従って、徐々に青みを帯びていく。空気遠近法を使った絵の後景みたいに、かすんで。

 あるいは深更に一人、むくりと起き出して、思い切り深く潜ればそこまで辿り着けるかもしれない。

 私はこの建物がチャペルとして使われていた頃を思った。

 真摯に礼拝堂で祈り続ければ、どこまでも静謐な、澄んだ薄青の世界に到達できるのだろうか。深層に沈んで、目を瞑り、泡の弾ける音を聞きながら、追憶の中を揺蕩うような。

 

 それは冷たい湖に潜って、白く凍りつき閉ざされた水面の向こうを一途に思うのと、とてもよく似た行為になるだろう。

 

 

 

 

 

 

旧田中家住宅 - 高さと奥行きに魅了される洋館・和館:大正12年竣工|埼玉県川口市の重要文化財

 

 

 

 

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公式サイト:

旧田中家住宅ホームページ

 

 

 神奈川の片田舎に住んでいる。鶴見川を越え、多摩川を越えたあたりまでは散策に行ったり、友人を訪ねたりすることも多いのだが、さらに荒川も越えた先の土地まで赴く機会は普段、あまりない。と言うよりか、今回が初めてだった。

 東京と埼玉との県境にほど近い、王子あたりまでなら時折足を延ばす。渋沢栄一にゆかりある青淵文庫や晩香廬があるから、建物や調度品を見学しに。

 旧田中家住宅のある川口元郷までは、そんな王子駅から地下鉄南北線を利用して10分程度で辿り着く。出口から出て地上の空気を吸い、岩槻街道という大きな道路に沿って、北の方角へ向かった。

 

旧田中家住宅

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 長らく訪問を渇望していたので、まさに念願の対面と呼べる瞬間だった。櫻井忍夫の設計で大正10年から建設が始まり、同12年に竣工した、旧田中家住宅洋館。国の重要文化財に指定されている。

 スパンドレルのある窓の並び方も、壁の飾りも実に魅力的で、この館の付近で暮らすことを夢想せずにはいられない。私は朝早く起きて一度、また夜眠る時にも一度ずつ部屋からこの建物を眺めて、もしかしたらカーテンの間の細い隙間から赤い光が漏れてくるのではないかと、息を殺してじっと見守る。

 そうしてしばらく経つと、館から封蝋の押された招待状が来る……、閑話休題。

 歩いて近付くと、徐々に姿をあらわした風格のある建物の、まずは高さに強く目を引かれた。同時代の邸宅で3階以上のものは珍しいし、しかも洋館となればなおさら。現代の住宅街にあると異彩を放つ。

 

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 佇まいからすると石造りのようにも思えるが、実のところは外壁に化粧用レンガを敷きつめて外観を整えた、木造レンガ造り住宅である。積み方は、長手と小口の段が交互に重なるイギリス積み。

 この建物は関東大震災以前に上棟されたのも特筆すべき点で、田中家は材木商をしていたこともあってか、全体に使われている建材はどれも良質かつ豪華だった。

 商家らしく、玄関の引き戸に手をかけるとすぐそこが帳場になっていて、華美ではないが格式を感じさせる格天井に視線を奪われる。空間を睥睨する大きな時計の右下には使用人を呼ぶための装置があって、おそらくはどの部屋に用があるのかを示すため、対応する部分が電気で光ったのだろうと思う。

 順路に従って進むと、洋館一階に位置する応接間が現れた。

 

 

 

 

  • 「高さ」の洋館

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 置いてある椅子の形の良い脚。何より天井中央、漆喰でできた鏝絵風のレリーフから釣り下がる、優美な照明!

 真ん中の大きなものは楽器か酒樽、周りの小さなものは飲み物を注ぐ杯の一種に見える。今にも果汁の芳醇な香りが漂ってきそう。3つとも、ゼンマイのような意匠の金属部分に支えられているのもたまらない。

 二重になった上げ下げ窓の部分から伺える厚みは、すなわちレンガの幅だった。大通りに面しているので、外を頻繁に乗用車が通っているのを見ると奇妙な感じがする。ほんの数分前まで地下鉄の駅にいたのに、今は自分の肉体だけがさっきと違う時間の中にあるようで。

 上でも建材の話をしたが、この部屋の腰壁に使われているのも立派な杉板。最高級の木材が惜しげもなく用いられた旧田中家住宅、その建築費用総額は、現代の価値に換算するとおおよそ2億5千万円にも上るという。一介の庶民にすぎないので、話を聞いてぶるぶるした。

 

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 一階応接室の脇にあるのは通用口。淡い青、黄、桃と繊細な色遣いが特徴のステンドグラスが左手にあった。まるで、ほのかに甘い氷菓子のような佇まい。触れればわずかな熱でもきっと溶けてしまうだろう。

 薄いすりガラスの向こうに何かが見える。

 そっと扉を開けて外に顔を出すと、あるのは洋館に隣接する文庫蔵のレンガの壁。また、花壇からは青々とアカンサスの葉が茂っているのだが、説明によれば、この植物をモチーフにした意匠が旧田中家内の装飾には多く確認できるらしい。

 振り返れば、なるほど応接室の天井のレリーフはその葉の形をしていた。加えて部屋から移動すると、階段の木の手すりを支える柱にも、どことなく愛嬌のある実の彫刻が生えていることに気が付く。

 ああ、階段。この邸宅が幻惑の本領を発揮するのは、まさにここからだ。

 

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 かなり理想の階段と踊り場だったから、魂を抜かれてしまうかと思った。あるいはもうとっくに半分くらい抜かれていて、家にいる自分は、前よりも少し軽くなった殻に近いのかもしれない。印象的な場所や人物のことを頭に浮かべているとき、実際、魂は胸のうちに留まらずその対象のそばを漂っているものらしいから。

 洋館の折り重なる階段を、この角度から眺めるのが私はとりわけ好きだ。階段というものを抱いている縦長の空間そのもの、まさに「箱」みたいな在り方にも大きな魅力を感じる。外に露出している良さとはまた異なっていて。

 踊り場は辻みたい。館内に棲む魔とすれ違うなら、間違いなくここ。昼夜を問わず。

 上で箱だと表現したけれど、きっと、檻でもあるんだ。欄干は格子。一段目に足をかけたら最後、角ばった螺旋を描く軌道の中に、人の動きは驚くほど綺麗に取り込まれてしまう。そして上って、また下りる、反復の過程を経て最後に踏みしめた段が、自分がもと居た空間の床にきちんと繋がっているとは限らない。

 

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 この階段から、まずは最上階の南側にある大広間を見学することになる。

 一階にも応接室があったが、あえて地面よりも高く眺めのよい場所に迎賓の空間を設けているのには、明確な意図が感じられた。

 部屋全体はイギリスのジョージアン様式風になっていて、天井の中心飾りに施されているのは、細やかな漆喰の花。きっと、探せばそこにもアカンサスがいるだろう。

 そして、古代ギリシアの神殿のようなイオニア式の白い柱が大広間全体を支える。

 窓から午前の光線が射しこみ、誰もいないのにソファとテーブルの並ぶこの場所で、幻想の煙に巻かれた私はひとりの少女に話しかけられた。もちろん、実際にそんなものはいないのだけれど。

 

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「この家の主人も、間借人も、それから使用人もみんな『私』なんです」とテーブルの向かいで笑む彼女の言葉は本当なのだろう。思えば玄関で上着を預かってくれたのも、先刻廊下ですれ違ったのも、確かに同じ顔をしていた。「一つしかない体で長い時間を生き過ぎたので」と彼女は重ね、指先で焼菓子をつまみ頬張る。

 そうして、気が付くとすぐに消えてしまう。寂しいけれども仕方がない。

 同階の横の部屋は控室になっているほか、もうひとつの入口が元の蔵へと接続しており、この埼玉・川口がひと昔前……江戸時代後期から昭和30年代まで、味噌作りで栄えていた頃の様子を展示で知ることができる。地場産業であった。

 邸宅を建てた田中家は材木を扱うほか、「上田一味噌」という商標を掲げ、味噌醸造で名をあげていたそうだ。

 

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 2階に下りるとそこは、書斎とお座敷。

 角のところにある棚がおしゃれで気になった。田中家住宅内にある調度品には、建造当時の大正時代に作られたものと、昭和48年の改築にあたって新しく追加されたといわれているもの、2種類がある。

 棚がどちらに属するのかは不明だが、角にすっぽり収まるようになっている佇まいが魅力的で、なんだか心に残った。私の部屋にも欲しい。

 窓の外にはバルコニーも設けられている。タイルや青銅色の手すりが美しく、そこから眺める風景と、現在ではなく田中家建造当時に広がっていたであろう空の広さを想像して目を細めた。さぞ美しかったことだろう。

 今では、かつて付近の水路沿いに並んでいたという蔵の数々は見えないが、むしろそのことが屋敷の経てきた時間を強調するようにも思える。

 

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 書斎の横に設けられた数寄屋造りの座敷は、洋館の領域にある中では唯一の畳敷きの部屋だ。8畳の座敷に隣り合う6畳の広縁、その内装は和風ながら、レンガ壁の厚みの内側に設けられた窓は他の部屋と同じ上げ下げ窓で、外から見るとその様子はまったく伺えない。

 隠れ家みたいだった。

 吹き寄せ竿縁(竿扶)天井に贅沢に用いられている屋久杉が、遠い土地の空気を訪問者にも伝えてくれる気がする。

 

 この部屋に隣接した階段から下に降りると別の空間へ繋がっているのだが、見学開始からこの時点までずっと「縦」の空間にいた自分の意識が、今度はいきなり「横」へと引っ張られていく不思議な感覚をおぼえた。

 

 

 

 

  • 「奥行き」の和館

 大正時代竣工の洋館に隣接しているのは、昭和9年に増築された和館。

 個人的な好みというのを差し引いても照明器具が素晴らしい。

 

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 私は一歩ごとに内心で感嘆の声を零していた。洋館部分も素晴らしいが、旧田中家住宅の真髄はむしろ、洋館から和館へ驚くほど違和感なく繋がり、横へぐっと広がる奥行きにこそ宿っているのかもしれないと思わされる。

 照明器具類にもとにかく魅了されて。天井から下がっていると言うよりか、空間を貫いている、太い氷のつららを連想させる風格が稀有だった。他ではなかなか見られるものではない。意匠そのものも、醸し出される雰囲気も。

 屋敷内の細部の意匠に出会うたび、都度小さく感嘆を零しながら家主の後ろを静かについていきたいし、突然の来客に驚きつつ隣の部屋からその歓談に耳を傾けて、あわよくば成り行きで一緒にお茶を飲みたい。どんどん欲求が増えていく。

 こういう、金庫の中をこっそり見せてもらえるとか……。

 

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 立派な神棚もある。

 私は近代建築を訪れるたびに水回りが良い、と呟いているが、田中家も非常に良質なお手洗いを保有していた。和館1階にある個室には立ち入れないものの、扉の隙間から中を覗くことができる。魅力を貪りたく、血眼で目を凝らして。

 床は縁甲板張りで、屋久杉一枚板の帯板戸にガラス吹き寄せ障子。縁甲板……というと耳馴染みのない感じがする仕上げの技法は、いわゆるフローリングのこと。もちろん、現代の私達が頭に思い浮かべるフローリングとはだいぶ趣が違う。

 館内は奥行きがある分、昼間でも陽光に照らされている場所とそれが届かない場所との違いが際立っていて、うす暗いところでは少し心を乱された。どきどきする。

 吸血鬼とか、日光を嫌がる生き物が根城にしている家みたいで。

 

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 ガラス張りの引き戸越しに光の溢れる廊下からは庭が見える。また、反対の方角に回ると半透明の模様越しにレンガが見えるのも面白い。

 これらのレンガは輸入品ではなく、田中家の建設時、実際に周囲にいた職人の力を借りて焼き上げたものだという。木材に材木を扱う家らしいこだわりを発揮するだけでなく、建材全体に意識を向け、力を入れていたのだとわかる。

 田中家住宅を建てた四代目 田中德兵衞は、家業である材木商と味噌醸造業のかたわら、南平柳村の村長や埼玉県会議員としても働いていた。

 ここだけでなく、現在も残っている近代の邸宅の多くは、住居としてだけでなく迎賓のための用途を想定して造られたのだと改めて思う。人の集まる場所、人のくつろげる場所が必要で、なおかつそこは家名を損なうような空間であってはならないのだ。

 

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 いきなり「うちはどうだった?」と背後からまたあの女の子に聞かれた。何人もいるようだけれどやっぱり同じ顔。あまり長く滞在していると逃がしてくれなさそうだから、退散することに。

 去り際に振り返ると、帳場の奥と和館を隔てる壁に設けられた大きな扉があって、これは火事対策も兼ねて取り付けられたものだそうだ。横のやつは防火シャッターを引き出すとき使う紐、らしい。

 勝手口や土間の方を通ったときは、長年の炊事で黒く煤けた壁や天井に染みついている時間に意識をとられて、ふたたび辿り着いた正面玄関はひどく眩しかった。

 

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日帰り一人旅:滋賀県 近江八幡散策(4) 明治に建てられた小学校の疑洋風建築 - ステンドグラスのある白雲館

 

 

 

 

 

前回の記事の続きです。

 

参考サイト:

(一社)近江八幡観光物産協会

 

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 駅から歩いて池田町の洋風住宅街を散策する際、街角で上の写真、宇宙船みたいな窓の美容室に遭遇して嬉しくなった。加えて短めのサインポールと、その先にある白く丸い照明にも心ときめく。鬼火みたいで。宇宙船ならば信号に相応する部分だろうか。

 地面から人知れず浮き上がり、大気圏を越えて、またここに帰ってくる船。

 

 付近にある八幡小学校の校舎も見ておきたかったので、不揃いな「焼き過ぎ膨張レンガ」の美しい壁を堪能した後に、足を向けた。

 それらしい意匠が見られるのは、大通りではなくて細い道に面している方の側。現在の正門は反対側の新築部分のようだ。近付くと、松の植木の向こうから容貌が伺える。

 学校自体は明治初期の設立だが、現在の建物は大正時代、1917年に新築された校舎が改装を経て現在に受け継がれているものになるという。設計は田中松三郎で、この人物の詳細はあまり明らかになっていない。

 

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 周囲はとても静かで、敷かれた砂利を踏むときの高く細かい音が妙に緊張を誘った。自分とは無関係な学校の敷地内だから当たり前なのかもしれないけれど。門が開放されているのは、こうして建物の外観を見に来る人間がたまにいるからだろうか。

 白い校舎は左右対称。なんとなく、車寄せ部分を支える太い柱に思いきり体当たりしたくなった。安心を誘われる剛健な感じがして。学校らしく受け止めてほしい。

 校舎の屋根、建物にとってのいわば舳先部分には大きな棟飾りが屹立している。懸魚の下の破風には、半円形のファンライトを要する小窓、両脇にはレリーフ状の装飾があって、ほとんど直線で構成された建物の正面に適度な動きが加えられていた。

 

 そこからしばらく歩くと、八幡堀の手前には旧八幡東学校の校舎が残っている。現在では「白雲館」と呼ばれている、疑洋風建築。

 長野の旧開智学校に少し背格好が似ていた。

 

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 白雲館(旧八幡東学校)は、近江商人の集めた資金により明治10年に建てられた。そのほとんどが寄付で、当時の値段にして約6000円だったという。設計者は蒲生郡の大工であった高木作右衛門。

 木造2階建ての瓦葺き校舎で、国の有形文化財に登録されている。中央部から顔を出す六角形の塔屋が何より美しい。今ここは観光案内所兼市民ギャラリーとして活用されており、基本、誰でも無料で見学ができるのが嬉しい点だった。

 母屋から左右両脇に、正面玄関を囲うみたいにしてコの字型の空間が形成されている。2階部分のバルコニーなどは温泉旅館のような趣で面白い。赤錆を思わせる落ち着いた赤、これは唐破風だ。浴衣を着た人間が引き戸から顔を出しそう。

 

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 それから、門の石柱から伸びてランタンを支える金属のつるが、白雲館の呼称のとおりに空に浮かぶ雲の図案を思わせる意匠だった。漆喰塗りの白い外壁も、その質感ゆえに柔らかな印象を与える。石やレンガのような、硬質なものとは明らかに違う。

 薄緑の柵を観察してみると、先についた棘のところが星を3つ組み合わせたようになっていて惹かれた。1本だけ引き抜いてみても良いかな? 駄目だよね。

 中に入って細い階段を使うと使うと2階部分にも上がれる。

 時代的に、階段踊り場の窓は「ステンドグラス」ではなく、あえて「ギヤマン張り」と言いたくなる趣があった。色彩も、柄の意匠も。疑洋風建築に施されている色ガラスはみんな、周囲の空気を吸い込んで妖しく光を透かす。

 

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 ちなみに、この建物の前には「ある存在」がいる。正面玄関から歩道を渡った、ちょうど向かいのところに。人工の無機物だから確かに生きてはいない、なのに生きているかのように感じられる、不思議な何か。実は滋賀県が発祥の地とまことしやかに噂されている。

 近江八幡の地で何度も繰り返し現れたそれについては、別の記事にて。

 

 散策記録は次に続きます。

 

 

 

 

 

クラタビル11号館の風情|神戸市中央区・レトロ建物

 

 

 

 

 昨年の12月なかば、半日くらい神戸に行っていた。

 この辺りに来るのは高校の修学旅行以来で、当時、自分がここで実際に見たり聞いたりした些細なものが、そのまま同じ場所に残っているのに遭遇すると意外だった。そしてかなり懐かしかった。切なくなるくらいに。

 帰国した際、ほんの数年で町というものが想像以上に大きく様相を変えることを実感したから、なおさら。

 

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 別に思い出に浸りに来たわけではないのに、図らずも必要以上に多感な、あまり良くはない状態であったのは、きっとそういう要素が揃っていたせいだ。

 だから下の写真のビル(名前はHILL SIDE TERRACE /ヒルサイドテラス)を視界に入れたとき、動けなくなってしばらくじっとしていた。あんまり良いビルなので驚いて。これから先、都市部に建てられる機会はほとんどなさそうな、贅沢に丸みを帯びたデザイン。

 塔屋みたいに突き出している部分のねじれ方とか、壁面の連続の仕方と、もちろんを帯びた屋根も魅力的だし、極めつけはベランダの柵だった。

 印象としては全体的においしそうで、その甘さのせいか知らない郷愁も誘われた。

 

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 ビル脇に設けられた細い通路にアーチが並ぶ。大昔、誰かに手を引かれてこういう商業施設の中を歩き、何かをねだった、ありもしない記憶が蘇ってくる。だからこそ恐ろしくて楽しいのだろう。

 でも、今回記録したいのは別の建物のことだ。

 三ノ宮駅を出て北野坂に沿って歩き、山本通りと道が交わる点に差し掛かって突然、この土地で何をしたら、またどこに行ったら良いのかもよく分からなくなったので、右に曲がってみた。感覚が連続しないのだ。自分が直前まで何を望んでいたのか忘れてしまう。

 結果的に、交差点をこの日の運命の分かれ道に見立て、四つ示された選択肢のうち一つを選んだということ。

 

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 すると、ある縦長の入り口から変な引力を感じる。誘われるまま不用意に近付いたら、もう中を覗いただけで大変だった。

 煉瓦風の外壁、洋風の電燈、奥の方に伺える複数の入り組んだ通路の気配。

 そう、気配だけがする。通りの向かいからでは全貌を把握できないのが憎い。

 本当に危ないところだ。心を捕捉されて、離れられなくなる。絶対、陽が沈んでから足を踏み入れたら、次々と不思議なことが起こるビルだった。

 

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 まず、中心が吹き抜けの空間になっている。そのことに気が付いた時点で頭の中のトロッコが走り出し、ぐんと速度を上げ始めた。

 だまし絵みたいに折り返し連なる階段と、必要もないのに四分円形に張り出した3階の一角、またテナント募集の貼り紙が追い風となって、絶えず高速で滑車を回し続ける。仰げば雲の切れ間から蒼穹が見える。

 地下から地上までを貫くこの空間に、雨の日は天から滴り落ちる水が入り込んでくるのだろう。涙をためる墓穴のようで、想像するだけで素晴らしく、こちらまで泣きそうになった。

 

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 でも、それだけでは終わらなかった。

 おそるおそる階段に足をかけて、ビル内の入り組んだ通路が描く軌道に、自ら巻き込まれに行く。さっきまで存在していた時間から、確かに切り離された実感があった。角ばった螺旋を描いて廻り、上昇と下降を繰り返す。螺旋。

 全体的にぽつぽつ観葉植物の鉢が置かれているのも嬉しくなるポイントである。柵の間から葉が出ているのが見えるところなど、かなり良い。ここで経過する時間の象徴のよう。

 

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 館内をざっと眺めてみた感じ、照明の色が白と橙の二種類に分かれているのはたぶん意図的な仕様なのだろうと思った。そうでなかったらむしろ面白いというか、偶然にしては整い過ぎている。

 それで廊下を進んだら、うす暗い突き当りには細い吹き抜けと、何かに使う梯子、シャッターがある空間……それらと自分を隔てる背の低い仕切りまで鎮座していたので、油断したら危うく叫んでしまうところでこらえた。本当におあつらえ向き、お話の中に登場させるのによくできた仕掛けじゃないかと。

 通路両脇の扉はなんだろう。一体、誰が通るのだろう。

 帰ってきてから調べてみると、このビルはもうすぐ築40年らしい。どこからか、猫の鳴き声がしそう。毛色は黒か、ぶちか、三毛か。

 

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 幻の猫が足元を走り抜けると風の音がする。

 前述したとおり、外からこのビルの奥行きを把握するのは難しい。それゆえ、町の中に秘された基地か何かに迷い込んだ気分にさせられた。正面に空いた入口が文字通りの口みたい。

 波長の合う通りすがりの人間を取り込もうと、ビルはこうして待っている。

 建物は建物ごとに固有の興味深い生態を持っている。矛盾しているようだが、生き物でなくても生態は存在する。特徴、という言葉で整理することはできない類の性質を、私はそう呼んでいる。

 

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日帰り一人旅:滋賀県 近江八幡散策(3) 水路のある商人の町へ - 八幡堀と日本家屋

 

 

 

 

 

 前回の記事の続きです。

 

参考サイト:

(一社)近江八幡観光物産協会

 

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 琵琶湖の東に広がる近江八幡の地には、一体どんなものがあるのだろうか。

 ヴォーリズの建築、他の近代遺産、それから「近江商人」の家。時代と住む人々の変遷を見守りながら発展した街に流れているのは、表通りは活気に溢れながらも小さな路地は静謐さを保ったまま伸びているような、どこか訪れる人の心を穏やかにさせる空気だった。

 八幡堀の南側に広がる区域は特に整然としていて、碁盤の目とまではいわないが、地図を眺めてみると似た形の四角がたくさん並んでいる。

 JR近江八幡駅から徒歩約30分。

 体力温存のためにバスに乗っても良いけれど、運河に至るまでの周囲の様子を肌で感じながら、土地の雰囲気を自分なりに味わってみるのは他では得難い体験になる。たとえ誰もが知っているような有名なものでも、実際にそれらを見て感じ、確かめた事柄だけはやはり無二のもの。

 いわゆる観光地ばかりに行くのもつまらないが、観光地にあるものだけを頑なに避けてしまうのもつまらない。現地で吸い込んだ空気の詳細な匂いや温度は、どんな本を隅々まで探したとしても、完全に同じ描写を見つけることはできないだろうから。

 

目次:

 

旧伴家住宅

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 近江商人の家は間口が比較的狭く、外観も派手ではなく質素で、どちらかというと内側の方を広く豪華にした造りのものが多いのだと、この旧伴家住宅の受付の方が教えてくれた。

 そもそも近江商人とは、いまの滋賀県の中の地域から全国に商いを展開させていた商人のことを指す言葉。

 彼らは特に江戸時代ごろに最も活発な動きを見せていた。近隣を大きな街道が通る立地を活かして、京都や大阪(大坂)、江戸などの都市に進出したほか、遠くは蝦夷地などにも触手を伸ばしていたという。

 旧伴家住宅の起源を辿ると、伴庄右衛門という江戸時代初期の豪商に行き当たる。彼が本家として建てた商家が基盤となって、現在も残る、七代目能尹(よしただ)によって建設されたこの建物が誕生した。

 

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 建設年代は江戸時代の後期。着工から完成まで十年以上もかかったと言われている家は、遠目からでも存在がよく分かる3階建ての造りだ。

 この頃は町屋の高さに関して、2階建てやそれ以上の建物を設けてはならないという決まりがあり、天井にかけられる梁の長さも制限されていたのだが、旧伴家住宅は規定を大きく超える規模の建物となっている。それが当時の地域における近江商人の力を示している要素だと考えられていて、在りし日の彼らの立場が伺えた。

 伴家は畳表や扇子、蚊帳、麻織物などを生産し販売していたそうで、1階の土間から上がってすぐの場所には蚊帳を主に作っていた頃の古い貴重な看板が展示されていた。

 広い邸内では沢山の従業員が並んで作業に勤しんでいたらしく、単なる住宅というよりも、むしろ工房といった方が実態に近かったのかもしれない。畳の上にたいそう大きな面積の布が広げられ、加工されていく様子を想像する。それはどこか漣や雪景色に似て、幻想的ですらある。

 

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 通常の公開日に見学できるのは、太い柱と梁が支える45畳の大広間が見どころの2階まで。そしてパンフレットによれば、3階部分には「ジシンの間」と呼ばれている空間があるのだとか。

 どうやら江戸時代には、不審者や火災に目を光らせる役職の「自身番」が存在していたとのことで、旧伴家住宅の中でも窓から町の半分ほどを見渡せる部屋がそう名付けられたと考えられているそうだ。

 最上階に上れなくても屋根裏の吹き抜けを下から眺めることができ、40センチ角の大黒柱や高さ70センチを超える胴柱、丸太梁と、そこに立っているだけで建材の持つ迫力に圧倒される。

 加えて印象的だったのが、展示物として設置されていた極彩色の巨大な「左義長(さぎちょう)」。毎年、干支の動物をモチーフとしたダシで飾られ、左義長祭りの当日は各地区同士でこれをぶつけ合い、通称「ケンカ」を行う。最後に炎を用いて左義長を燃やす奉火が行われ、祭りの終わりとともに本格的な春の到来を祝うのだった。

 

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 精巧な動物の像や他のパーツは全て、穀物や寒天など食品になる素材でできている……。

 

 江戸時代に著しく興隆した伴家だが、その末期からはどういうわけか衰退の一途を辿り、商売に幕を下ろして家系も途絶えた。よくあることなのかもしれないが、旧伴家住宅を見学し、最盛期に思いを馳せてからその事実を知ると興味深い気もする。

 明治に入るとこの建物は八幡西小学校や図書館としても利用されており、現在復元されているのもその時の状態である。展示物のなかの校長室の机や椅子のほか、塗料で塗られた壁の感じ、窓の金具などがそれらしかった。

 今だと不便なことの方が多そうだけれど、昔なら、こんな空間で学びを深められるのは良いなと思う。教科書や道具箱を背負って通ってみたい。

 

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 旧伴家住宅の入館料は400円。

 通りを挟んで向かいに建つ、市立資料館との共通入館券は800円になる。

 

 

 

 

 

八幡堀

 北西へと進み続けると、日牟禮八幡宮とこちら側との岸を隔てる八幡堀に行き当たった。

 ところで私は水のある場所、町を訪れるたび、それについて熱を入れて言及している気がする。好きなのだろう。自分のことながらはっきりとした理由は分からないが。

 

 

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 八幡堀は琵琶湖に繋がっている。

 そもそも、そこから水を引くために設けられた水の路だったのだ。16世紀後半、戦国の安土桃山時代に、豊臣秀次が八幡山城を築くにあたって城下町が整備され、土地の血管として人や物を運んだ八幡堀は町の発展の礎となった。

 白雲橋の親柱のそば、大きな常夜燈を見上げて昼夜の賑わいを想像する。建物から漏れる明かりだけでは周囲をあまねく照らすことはできず、壁と壁の隙間に常に何かが潜んでいた頃の様子を。湿った石で足を滑らせないように、どこかから呼び止められても(そういえば本所七不思議に「おいてけ堀」というものがある)安易に振り返らないように、気を付けて。

 石段を使って水面の近くに下りるとき、わくわくしないことのほうが少ない。

 

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 まだ明るい午後の水路の両脇には、料亭や蔵造りの建物が並んでその景観を構成していた。

 漆喰で覆われた土蔵の壁や分厚い窓の扉は、和三盆糖のお菓子みたいだと私は常々思っている。上の写真だと特に、施された花の形のような文様が特にそれらしい。そうっと舌を這わせたら、きっと一瞬のうちに溶けてしまうような甘い味がするはずだ。突然勢いよく駆け出して壁にかじりついたら、狂人だと思われてしまうだろうか。だってお腹が空いたのに。

 平日というのもあって人通りは少なく、舟の往来もない。岸に横付けされて水と風に揺られるままの舟は眠っている動物みたいに見える。陽射しを浴びてうとうとと。

 一般には乗り物であり、種類によっては家にもなる、海や川の上に浮かぶもの。

 

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 横道に逸れると魅力的なレンガの壁と扉もあった。

 水路の側から眺める建物は正面でもあり裏口でもあるから、また階段を上って地面を通る道路の方に立ってみると、不思議な感覚が残る。勝手に中庭を覗いて帰ってきた風の心持ちがする。

 おはなしの中で川は異なる世界を隔てるものと相場が決まっているし、他の場所とは空間の質が違うからそう思えるのかもしれない。

 八幡堀の脇を歩ける区間はとても短いけれど、濃く、凝縮された空気にはそれを意識させない深みがある。足を動かしながら吸い込んでは吐き出した。師走の気温が、息を煙のように白くする。

 

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家々の壁の不思議な文字

 近江八幡に限らず滋賀県内の住宅に見られる特徴で、印象的なものがあった。

 はじめは新幹線の中からぼんやり外を眺めていて気が付いたのだ。滋賀県の県境を越えたあたりで、民家の壁に、不思議なものがたくさん確認できるようになった。それらは、過去に旅行した国内のどの地域でも目にしたことがなかったもの。

 

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 屋根の下の壁のところ、何か突起の上に書かれた文字のようなものがある。なじみのない意匠なので第一印象は「怪しい」だったし、少し怖くもあった。知らないものは恐ろしい。

 調べてみると、この文字は「水」というものであるらしい。まるでひらがなの「ゐ」のような形、これで水と読ませるのかと頭をひねり、古籍のくずし字の表を見て草書体なのだと納得した。他にも、楷書の漢字に近い水の文字が大きく書かれているものもあるという。

 どうやら、かつては庶民に許されなかった懸魚の役割を異なる形にした、火伏(火事防止)のおまじないに端を発するものらしい。

 不思議な儀式の行われている県に迷い込んでしまったかと不安だったけれど、杞憂でほっとした。

 

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 そして突起だけが残り、文字はもう消されてしまっている家もある。

 近江八幡のほかに安土、彦根、米原で電車を降りたが、どこに行ってもこれがあった。意識して探そうとしなくても見つけられるくらいだから、国内の他の場所に比べて本当に数が多いのだろう。面白い発見となった。

 

 

 近江八幡の散策記録は次の記事に続きます。

 

 

 

 

 

日帰り一人旅:滋賀県 近江八幡散策(2) レンガ塀の住宅街と趣深い洋風建築 - ヴォーリズ(一柳米来留)という人物の軌跡

 

 

 

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 前回の記事の続きです。

 

参考サイト:

(一社)近江八幡観光物産協会 

一粒社ヴォーリズ建築事務所

 

W・M・ヴォーリズと彼の設計した邸宅群

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 明治38年、24歳の頃に来日してから近江八幡に居を構え、生涯を通して建築家や伝道者として熱心に活動した人物——ウィリアム・メレル・ヴォーリズ。

 彼の自邸は現在、ヴォーリズ記念館として予約制で公開されている。電話での予約のみ受け付けがされており、弾丸旅行では内部を見学するのが難しいのだが、外観だけは自由に眺めることができるので周囲をぐるぐると気の済むまで回った。煙突の上のアーチが気になる。

 建物は昭和6年の竣工で、門扉の脇の柱のところには「一柳」と表札が出ているのがわかる。

 これはヴォーリズと大正8年に結婚した夫人、子爵令嬢であった一柳満喜子氏の姓であり、後に日本国籍を取得するにあたってヴォーリズ自身が名乗った「一柳米来留(ひとつやなぎ めれる)」に由来するものだ。かつて米国から来てここに留まる、そんな字義と元のミドルネームの音(Merrell)を組み合わせた洒脱な名前だ。

 

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 彼はもとより建築家を志していて、日本でも数多くの施設や邸宅の設計(その数なんと一千を超える)を手掛けたが、何より心血を注いだのはキリスト教の伝道活動だった。

 はじめは滋賀県立商業学校(現在の八幡商業高等学校)で英語教師として教鞭をとり、その傍ら、放課後に聖書のクラスを設けるなどして多くの生徒を信仰の道へと導いたほか、1907年には近江ミッションを創設。

 このあと一度アメリカに帰国しているのは、仏教色の強かった地域との不和があり、教職の契約更新がされなかったためだと言われている。

 やがて再来日してから建築事務所を立ち上げ、知人の建築技師レスター・チェーピンや、教え子の吉田悦蔵とともにヴォーリズ合名会社(後に近江兄弟社メンタームへと発展する、近江セールズ株式会社の前身)も設立したが、全ての活動を通して己の利益ではなく社会貢献とキリスト教の伝道を念頭に置いていた。

 

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 上2枚の写真は、明治時代に建てられたYMCA会館を昭和10年に移築してアンドリュース記念館としたもの。そして下1枚は通りを挟んだその向かいの地塩寮になる。

 アンドリュース記念館は当初、ヴォーリズの学生時代の親友、ハーバード・アンドリュース氏を記念してその名前を冠したキリスト教青年会館だった。移築に際して古い資材をそのまま用い、面積を同じにして、ヴォーリズが使っていた書斎や小部屋もそのまま残してあるそうだ。

 地塩寮に関してはヴォーリズ本人ではなく、彼の建築事務所に所属していた西井一郎氏が設計を担当している。近江兄弟社の独身寮として昭和15年に竣工、その後民間に売却され、昭和59年に日本キリスト教団近江八幡教会が買い取り、改築。

 公開日はなく、内部を見学することはできないので、外から建物が経てきた年月に思いを馳せるにとどめる。これまで沢山の人達が暮らし、そして現在も様々な活動が営まれている場所だった。

 

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 ヴォーリズの展開した社会事業は多岐に渡る。

 メアリー・ツッカー女史の寄付を受けて大正7年に近江サナトリウム(今のヴォーリズ記念病院)を建てたり、大正11年には伴侶である満喜子夫人とともにヴォーリズ学園を設立したりと、支援者に事欠かなかったのは、ひとえに彼の人柄と伝道への熱意ゆえだったことだろう。

 近江八幡の池田町と呼ばれる区域にはヴォーリズの手がけた邸宅が未だに残っており、上の写真のウォーターハウス記念館や、吉田悦蔵邸もそのうちに含まれる。

 ウォーターハウス氏はヴォーリズを師と仰ぎ、近江ミッションの一員として活動していた一人だった。大正2年に建てられ、現在は記念館となっているその家は木造3階建て、コロニアル様式を採用しており、壁に張りつくようにして設置された煙突が遠くからでも目立つ。

 すぐそばに残るのはともに合名会社を設立した教え子、吉田悦蔵氏の邸宅。これもウォーターハウス邸と同年の竣工だが、こちらはだいぶ趣が異なる。ざらついた壁の質感と色が魅力的。現在も、一般の住民の方がここで生活をされているとのことだった。

 

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 レンガの塀を辿って行くと現れるのが、ダブルハウス。大正9~10年に建てられた二世帯住宅で、かつては近江ミッションのスタッフが利用するための住宅であった。こちらも現役の住居だ。

 不揃いな感じのごつごつとしたレンガは、重厚感や威圧感よりも温かみを感じさせる。思わず触れてみたくなるくらいに。調べると、これは焼き過ぎた膨張レンガを使用している故の外観なのだという。ヴォーリズの作品、特に旧八幡郵便局などの公共施設とはまた違った邸宅の佇まいは、同時代のどの建物とも異なっている。

 決して主張が強いわけではなくとも特徴が滲み出ているような、素朴で親しみやすい感じが設計者本人の意図を反映しているのだろう。

 ウィリアム・メレル・ヴォーリズは昭和39年に近江八幡でその生涯を閉じた。満喜子夫人はその5年後に亡くなり、両者はともに、また他の社員の多くと一緒に、近江兄弟社霊園である恒春園に眠っている。

 

 近江八幡の散策記録は次の記事に続きます。

 

 

 

 

 

日帰り一人旅:滋賀県 近江八幡散策(1) 旧八幡郵便局 - W・M・ヴォーリズの設計した大正時代の建築

 

 

 

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 個人的に、首都圏から日帰り旅行をしようと考えた時に検討できる範囲は、だいたい片道3時間程度の距離にある場所まで。

 電車やバス、飛行機、船など移動手段は限定せず、夜は日付をまたぐ前に余裕を持って帰宅できれば良いと思っている。

 

 最近はそんな条件を設定して、仮に休日が1日しかなくても、旅行(主な目的は街歩き・近代の洋館めぐり)を楽しめるところをかなり熱心にリストアップしていた。行程が弾丸なので人は誘わず、ひとりで行くのを前提にして。

 そうして白羽の矢が立ったのが、滋賀県の近江八幡だった。ここには興味深い建物がたくさんある。著名なものも、あまり知られていないものも。

 

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 近江八幡を訪れるには、まず東海道・山陽新幹線に乗って米原駅か京都駅のどちらかで降りる。そうしたらJR東海道本線(通称・琵琶湖線と呼ばれている区間)に乗車し、近江八幡駅に着くまで、数駅分電車に揺られる……それだけなので非常に簡単だ。

 駅北口を出て20分ほど歩くと、やがて町並み保存地区や洋館群、堀が見えてきて、これから夕方までどんな風に過ごそうかとわくわくさせられた。

 何ということのない路地や家にも、関東地方や他の県では確認できない特徴があって面白い。これも後に記載しようと思う。

 

 ブログでの散策の振り返りは、近江八幡に縁を持つ建築家であり実業家でもあった人物、ウィリアム・メレル・ヴォーリズの辿った軌跡や彼の手がけた建築に関するものから始める。

 それから他の洋風建築、かかわりの深い近江商人の存在にも順に言及してみたい。

 

参考サイト:

(一社)近江八幡観光物産協会

 

旧八幡郵便局

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 この建物のある「仲屋町通り」は「すわいちょうどおり」と読む。

 歩いていると出会うのは、決して派手ではないが堂々とした堅実な印象のファサード。郵便局の機能にふさわしい外観だと思うし、設計者の気質のようなものも反映されているみたいで、好感が持てた。

 大正10年竣工の旧八幡郵便局。

 玄関部分は一度取り壊されてしまったが、平成16年に当時の外観を再現する形で復元が行われ、現在に至っている。1階部分ではその再生保存活動を行う「一粒の会」により、小さなカフェも設けられていた。内装にはどこかの銀行か、駅舎の待合室も連想させる穏やかな雰囲気が漂っている。

 宙に浮いたような照明の球に、こちらの気分まで熱に浮かされた。近代建築の魅力に触れるとくらくらする。

 

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 館内には古い書類の棚に電話、椅子、それからピアノがあった。静けさの中にそれらの発する音なき音が聞こえてくる。音が振動として空気を震わせたあと、壁に染み込んでいって永劫にその場所に残るせいだろう。

 旧八幡郵便局を設計したのは、米国で生まれ、後に日本国籍を取得したウィリアム・メレル・ヴォーリズ。明治38年に英語教師として来日、生涯を通し建築家や伝道者として熱心に活動した人物だ。

 近江八幡の地をこよなく愛したことで知られ、あの「メンターム」で有名な近江兄弟社の創業に携わったのも彼である。次の記事では街の洋館群と一緒に彼の経歴にも言及したい。

 この郵便局の建物は、管理に手間と資金を要する難しさから一時期空き家となっていて、前述した「一粒の会」により平成9年から保存と一般公開を目指した活動が開始された。残存する資料が乏しい中、写真などを参考にして当時に近づけた外観が蘇ったのだった。

 

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 現在は誰でも自由に入り口に面した内部空間を見学できるようになっている。また、特定の公開日には2階を覗くことができたり、そこで展示を見たりすることもできるようす。

 仮に公開日ではなくとも、横の駐車場から建物の裏側に回り、階段までは上ることができる。壁のタイルや曇ったガラスの色、井戸などに強く惹きつけられた。きっと、秋雨の日がこの建物には似合う。

 壁に埋め込まれた階段の手すりは周囲の時間をも止める佇まいだ。

 殊更に印象深く、そして意外な喜びでもあったのは、東京都・成城学園駅付近に建つ旧山田家住宅で確認したものと似た形のドアノブに遭遇できたこと。握り玉の部分にそれは綺麗な石があしらわれた製品。まるで、美しいものの影が閉じ込められているみたいな。

 

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 山田邸の家具類は米国から取り寄せたものだし、もしかしたらヴォーリズが用いたこれらのドアノブも同じ店に依頼した製品かもしれない。透明なクリスタルのものとは一味違う、珍しい紫水晶は郵便局の局長室のドアに取り付けられていた。

 これを綺麗だと少しでも感じたら、たちまち心のひと欠片はその透明な身体の内に取り込まれて、輝きの一部になる。そうして魅力を増した石に視線を奪われて、誰もがその表面に指先で触れずにはいられない。

 皮膚越しの紫水晶は硬く冷たく、ゆえに熱さにも似た鋭さを感じた。寒い冬の空気にすっかり冷やされていたのだろう。おとなしく、手を引っ込める。

 壁に開けられたアーチの下をくぐって玄関から外に出ると、その外観にまた別のアーチを見つけて、曲線を目でなぞった。他の洋館、たとえば神奈川県・平塚にある旧横浜ゴム平塚製造所記念館でも類似の意匠を見かけたと思い出しながら。

 

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 窓にそっと差し掛けられた傘か、おしゃれな帽子のような。建物最上部の飾り(メダイオンかカルトゥーシュ風の)を支えているようにも思える。

 アーチ下の半円部分は近代建築でよく出会うファンライトの窓ではなく、ハーフティンバーの家のように、木枠を露出させた意匠にしてある。ごつごつとした壁に埋まり、木材はまどろんでいた。柔らかな陽に照らされて。

 ガラスの窓は時代を越えて幾人の顔を、また幾つの空の色を映してきただろうか。わずかな歪みが本物の水面のように揺らぐ。

 

 近江八幡に足を踏み入れてから、はじめて見学した近代建築がこのヴォーリズ作品であり、かつては手紙や小包を通して人々の想いを繋げる役割を持っていた施設の痕跡だった。

 

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 近江八幡の散策記録は次の記事に続きます。

 

 

 

 

 

泰明小学校、数寄屋橋公園に隣接する校舎 - 近代建築|大正~昭和初期に建てられた「復興小学校」とは

 

 

 

 

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参考サイト・書籍

泰明小学校(公式サイト)

ふしぎ地名巡り(著・今尾恵介 / ちくま文庫)

建築デザインの解剖図鑑(著・スタジオワーク / エクスナレッジ)

 

 

 市街地を歩いていると、流れる水の音はなく、気配すら感じられないアスファルトの海上にも「橋」の文字を冠した地名が散見される。

 その多くは、かつて存在した河川を埋め立てて整備した痕跡。

 周囲を散策すれば橋のたもとを飾った親柱や、江戸時代の火事防止策に端を発する小公園(橋詰広場)、また付近には交番に稲荷神社などを発見することができ、江戸・東京という都市が「水路の街」とも呼ばれていた往時の様子が偲ばれる。

 銀座の数寄屋橋公園もそれらのうちの一つ。

 地図で上から眺めてみると、中央区立泰明小学校が公園の一角に食い込むようにして建っている。細長く片方の先端が丸い、特徴的な校舎の形が目を引いた。実際に現地へ足を運べばさらに興味深い印象は強くなる。

 

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 小学校正門(こちらはとても美しい佇まいだが撮影不可)のある、数寄屋通りに面した壁に連続して並ぶアーチ。植えられた植物がその輪郭に彩りを添えていた。

 泰明小学校は明治11年に設立された学校で、今の校舎は東京市の設計で昭和4年に建てられ、日本経産省の近代化産業遺産に指定されている。過去の卒業生には島崎藤村や金子光晴などがいた。

 そして「復興小学校」と呼ばれる建物の中でも、現在に至るまで実際に生徒が通う学校として使われている貴重な存在であった。

 復興小学校とは、大正12(1923)年に発生した関東大震災を受けて、その後の災害に備えられる仕様を採用し建てられた学校。具体的には鉄筋コンクリート造りであったり、壁を平均よりも厚くしてあったりと、耐震や防火に強い構造となっている。

 

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 東京市(現・東京都東部の15区)内の復興小学校は117校にのぼった。

 近代建築愛好者として見逃せないのは、復興小学校の多くに特徴的な建築様式がみられる部分。機能性を重視したものや、装飾性を重視したものなど多岐に渡っているが、泰明小学校は後者だ。表現主義的で、同じ中央区のものだと常盤小学校や明石小学校も類似の例として挙げられる。

 校舎の周囲を歩いて確認した、半円形に湾曲する壁面。

 そして、ところどころに見られる繰形(モールディング)やアーチ状の意匠。いずれも諸外国の建築様式を参考にしながら独自に発展しているおもしろいもので、近代建築でも明治期の擬洋風建築校舎とはまた異なり、眺めていて飽きなかった。

 段になっている多角形の柱は気になるし、校名の金属板を照らす照明器具にも風情がある。

 

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 今回は泰明小学校を訪問したくてわざわざ足を運んだけれど、何も知らず銀座を散策していて突然ここを通りかかったら驚いたと思う。大都市の真ん中に小学校、しかもこんなにモダンな印象を残す校舎があるなんて。

 東京大空襲をも乗り越えてこの地に根を張る丈夫な建物が、今後も長く利用され、また保存されて残ることを願う。

 

 

関連記事:

 

 

 

 

閉館後のホテルニューアカオ本館を徘徊する体験(4) プール|熱海のアートイベント《ATAMI ART GRANT》のACAO会場

 

 

 

 

 壁をなめるように火の玉が飛んでいる。

 そう直感して意気揚々と近付いたら、ただの明かりだった。けれど心を惑わされたことには変わらない。金属製の花の萼に乗るふっくらとした白いガラス。

 インペリアルスイートルームの上層から退出した先、ホテルニューアカオ14階の廊下、やはり他に人間はいない。

 

 

 カパルア・プールに辿り着けばこの徘徊も、そして展示《Standing Ovation / 四肢の向かう先》も、じきに終わる。

 手元のパンフレットは既に3分の2を超えるページがめくられていた。

 

 前回の記事 ↑ の続きです。

 

目次(4):

 

客室(和室)

 これより前に足を踏み入れた和室(3077号室)とグレードは同じだが、幾分か広い面積を持つ1475号室。

 旅館に特有の広縁があり、まるで誰か二人が並んで海を眺めているように椅子が配置してあるものの、その正面はカーテンで覆われている。透明な彼らの後ろでは、前々回の記事でも言及した太田光海がまた別の映像作品を展開していた。

 部屋には明るいとも暗いともいえない光量が満ちている。

 

 

《縁々》と題された作品は、その漢字をどう読んでも構わないという。以下にそのキャプションから一部を引用する。

 

私は日本人であるが、熱海についてアマゾンの熱帯雨林よりも知らない。
それほど国境や文化に対する感覚が「バグって」しまっている私にとって、熱海で目撃したものは驚きの連続だった。見たこともない巨大なアロエ、見たこともないパーソナリティーを持つ岩石、見たこともない手捌きで行われるイノシシ猟。私は熱海、それもホテルニューアカオ周辺の極小世界で織りなされ、確かに存在している「縁々」について、カメラと自分の肉体を通してとらえようと試みた。

 

《Standing Ovation / 四肢の向かう先》パンフレット(2021)より

 

 彼はこの作品において、ここでは海から山を繋ぐように、あるいは貫くようにしてそびえるニューアカオからロイヤルウイングまでを歩くことにより、雨が土地に染み込み川となって河口に流れ着く……そんな一連のサイクルを疑似体験できると語る。

 

 

 作者の、「アカオの土地では自然物と人工物が凄まじい形で合流している」という言葉を実感として受け取りたければ、試しにニューアカオの建物の裏に回って、欄干からホテルに隣接する崖を覗いてみるといい。

 そこには上の写真のような光景が広がっている。

 なるほど、見方によってはかなり無理やりこの場所にホテルを建てたとも考えられるような形、その建築物が岩肌に食い込み半ば侵食するような形で存在していることを改めて認識すると、この展示で幾度となくエレベーター移動を経験した際の動きがさらに興味深いものになる。

 

カパルア・プール

 亀の甲羅を思わせる六角形の敷き詰められたパターン、クリームと臙脂のタイルの壁が、訪問者を階下へ導く。本当に亀ならばやはりここは竜宮城みたいなところに違いない。

 2階の通路から1階へ降り、窓の向こうの遠くから海の気配を感じると、改めて水平線すれすれの位置を歩いている己の身体に意識が向く。四方が鏡張りになった柱に姿が映り、どこかで私を混乱させるように置物の犬が鳴いた。

 

 

 通路の先ではまた現れた別の階段によってカパルア・プールのあるフロアへと導かれた。カパルアとは米国ハワイの一地区の名であり、そこに面した湾の名でもある。

 だがそもそも水着を持ってきていない。加えて、ゴーグルなしに私は水中で目を開けたくない。何の準備も整わないうちにプールへ赴けとパンフレットに指示される、さらにその先には「ゆっくりとお時間お過ごしください」なる一文まで添えられていて、参ってしまった。

 そんな自分の背中を後押ししたのは間違いなく、施錠された扉の向こうの看板だ。本日の営業は終了致しました。そう言い切る文字の並びに、今だけ己の存在は閉館後のホテルを彷徨い歩く、暇を持て余した幽霊なのだと定義しなおすことが可能になった。

 だからロッカーにしまうものは何もない。あるとすれば心臓くらいだ。

 

 

 室内ではメインダイニング錦で流れていたものとはまた違った種類の重低音が空間を支配していた。タイルが震え、プールの水槽では、もう張られていないはずの水が小刻みに揺れる。

 中央に配置されたスクリーンと点在する植木鉢、椅子、そして伸びるツタの配置は、渡邊慎二郎の作品《靡く植物》として展開されているもののようだ。説明によると、どうやら絶えず発されているサウンドは、大気のうねりの中で植物が発する音を可聴化した一種の音楽らしい。

 空気に関係する音なのだと知って意外に感じたのは、思考には既に、この場所が持つあまりにも強い水のイメージが入り込んできているから。ゴボゴボと沈む何かと対照的に浮かび上がる泡のような情景が。

 作者は人間の中にある植物性を引き出し、さらに植物との交信を通して人間本位の考え方から脱却し、「生き物になる」ことを目指している芸術家。この《靡く植物》も、彼が試みた植物との接触から生まれた。

 

 

 

 

 多湿になりやすいプールの空間は温室によく似ている。多種多様な植物のひしめく檻で、時には肩に葉を触れさせながら、花の香りにむせ、聞き取れない囁きに耳を傾けている際の感覚をここでも抱く。一部で露出した岩肌も大きな温室の設備にそっくりで。

 おもむろに手洗い場の鏡で自分の容姿を確認し、その容貌に驚く。まだ、人だった。

 天井のガラスに濾過されて降り注ぐ光はプール全体を包み込む。後で調べると、この施設はプールはプールでも温水専門であったと知り、名前の示すカパルアを空間内に再現しようとした意図を察することができた。

 ニューアカオ自体は、長い休業を挟みながらも今年の8月末まで営業していたのだが、カパルアプールに関してはそれより数年早い平成30年の9月に利用が停止されている。理由は施設の老朽化。

 

 

 閉ざされた疑似ハワイの浜で椅子に乗せられた植木鉢の植物は、映画館でじっと辛抱強く、銀幕に真剣な視線を向けている人物の姿と何ら変わりない。

 

ロビーより

 こうして最後のエレベーター搭乗を経て、一介の見学客(また展示の鑑賞者、同時に閉館後の建物への侵入者でもある)として徘徊を終えた私の足跡は、螺旋階段を経由して上階、そして紛れもなく現代の時間の流れる外界へと至る。

 途中、多田恋一郎の絵画《Sea》が鏡の横に展示されていた。絵の具の質感が特徴的なのでぜひ実物を見てほしい。

 

 

 ロビーの、何となく宇宙船を連想させる、角に丸みを帯びた枠にはめられた窓ガラス。このままニューアカオの建物が空ではなく、山でもなく、休みなく波の打ち寄せる海の方へ漕ぎ出していったらどんなにかわくわくすることだろう。

 建築物はそれ自体が動くわけではないが、そこに存在することで確かに「時間」という長い道程を旅してきているに等しい。歩き疲れたなら休むことも必要で、その間、しばらく人間が踏み入ってこなくなった空間を体内に抱きながら、奇妙な海や山の夢でも見ていてくれたらと思う。

 もしかしたら、一連の《Standing Ovation / 四肢の向かう先》の展示がその夢の体現なのかもしれなかった。

 さて、帰りはより注意深く周囲を眺めたり、小さな小屋の中を覗いてみたりするのも忘れずに。《ATAMI ART GRANT》の作品はまだところどころに隠されている。 

 

 

 ホテルとしての役割は終えたが、今後ニューアカオの建物が改修や再利用をされるのか、現在のような形で公開が続くのか、取り壊しになるのかはまだ分からない。

 今回の訪問の最後には、第一に「48年間、お疲れさまでした」の言葉を残された面影に捧げて。

 私はこれからも覚えておく。終戦から数年が経過した、1954(昭和29)年のこと。幼い頃に訪れた錦ヶ浦の海岸風景を長く胸に抱き、この熱海に、小さな2階建ての旅館を開業した人物がいたことを。

 そして創業当時は全12客室しかなかっ旅館を増築し、7年後にホテルとしての営業を開始、そしてついに思い出の錦ヶ浦の地を購入するに至り——1973(昭和48)年に満を持して、赤尾蔵之助が「ホテルニューアカオ」を誕生させたことを。

 

 

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閉館後のホテルニューアカオ本館を徘徊する体験(3) スイートルーム|熱海のアートイベント《ATAMI ART GRANT》のACAO会場

 

 

 

 

 もう、何度エレベーターに乗り込み、銀色のボタンを押したか分からない。

 無人のエレベーターホールで照明は煌々と灯り、飾りに施された半魚人(ポセイドン)のアイコンが、一人黙々と徘徊を続ける人間のことを見下ろしている。三叉の槍を片手に。

 その表情には階ごとに差異があるが、どれも妙にひょうきんな表情をしていた。

 

 

 ダイニングから、下の写真の部屋へ向かう道程。

 

 前回の記事 ↑ の続きです。

 

目次(3):

 

中庭

 仮にこのニューアカオを沈みゆく船に見立てるなら、きっと中庭は甲板に対応する部分だろう。

 ダイニング錦の脇にはそこへ上る小さな階段がある。レンガ風の壁に挟まれた踊り場に立って背後を振り返ってみたら、半円のアーチに飾られて伸びる通路は、船は船でも宇宙船みたいだった。

 

 

 途中に設置された白い柵は、舞踏会の会場を見下ろすためにあるバルコニーに似ている。それか、オペラ座の特等席。

 うす暗い照明の光を受け、やがて花柄のカーペットに覆われた床が石畳に切り替わり、長い潜水のあとで海面から顔を出すようにして外の空気を吸った。クジラの体内から脱出したピノキオとゼペット爺さんさながらに。

 潮風によって腐食し半ば朽ちた欄干の背後には、錦ヶ浦の北岸・錦崎の崖が波を受け止めてまどろんでいた。その前景にあるのが宮原嵩広による作品《Your name here》である。また、頭上を仰げば光岡幸一の《poetry taping》が空中にひるがえっていた。

 これらは《Standing Ovation / 四肢の向かう先》としてキュレーションされたものではないが、《ATAMI ART GRANT》の展示の一部である。

 

 

 こちらの作品は下からだとうまく写らなかったので別角度より(写真の中央、窓の向こうに浮いている)。15階の連絡通路を戻り、ロイヤルウイング側に立つのが最も見やすかった。

《poetry taping》の旗に書かれている「えらばなかった道」とは、ニューアカオを生み出した創業者・赤尾蔵之助の理念「人の通りにくい道を進む」を体現している言葉だ。

 他の誰かが選ばなかった道を行く。その思いが、かつてはあまり関心を持たれていなかった錦ヶ浦の地に魅了され、土地を買ってまでそこにホテルを建設した彼を後押ししていたのではないだろうか。

 

 

 一方、閉ざされた門に続く石畳。いうなればこれは「もう誰も通らなくなった道」なのかもしれない。意図せずとも、結果的に。

 私は同じ階段と通ってニューアカオの建物に戻る。外の風を頬に受けているときだけ、周囲の時間が動いているように感じられた。

 

廊下(6F, 7F)

 パンフレットの指示は、またしてもエレベーターへの乗り込みを鑑賞者に要求する。

 今度は6階でいちどフロアに降り立ち、窓の外を見るように、と書かれていた。そして直後に再びもう一つ上の階へ移動させられ、今度は廊下をくまなく歩き回る行為を促される。すると、よく似た構造の6階と7階だが、何か決定的な差異が人の手によって加えられていると気付くのだ。

 その、違和感。

 

 

 6階では窓の外に「いた」はずの物体が、7階に移動すると屋内に忽然と出現していて、しかも別の廊下にも増殖して立っていた。これにはぎょっとさせられる。

 謎のオブジェに思える多田恋一朗の作品《pharmacon》は、木製のフレームに綿キャンバスを張り、アクリル絵の具で彩色したもの。タイトルのPharmaconは「薬」や「ドラッグ」、そして古い表現では「毒」も意味していた英単語だ。

 作者は展示のパンフレット上で、ゾンビキャンバスという造語を用いてこの作品の説明をしている。

 なるほど、確かに「木枠に貼られたキャンバスに絵の具が乗っている」時点で、これは絵画に違いない。だが何らのイメージもそこに描かれず、単に物質として存在している(いわば『媒体』としては死を迎えている)それらは現実世界に引きずり込まれ、生き物を思わせる佇まいになるよう固定されている。

 

 

 

 

 そもそも画廊ではなく、閉館後には一般客が訪れなくなったニューアカオの建物内にこれらが立っていることで、不気味さの後には不思議と哀愁のような感情が浮かんできた。ゾンビキャンバスたちは動かないし、動けない。

 

インペリアルスイートルーム

 このホテル内に存在する客室タイプのうち、和室、和洋室、ツインルーム、ロイヤルルーム……ときて、自分が足を踏み入れる可能性の最も低いのが「インペリアルスイートルーム」である。当然、一介の市民に縁があるわけがない。

 今回、アートイベントの一環としてスイートルームの全貌が公開されていることで、おそらくもう体験することはないであろう僥倖に見舞われてしまった。

 その扉に手をかけた時の感触こそ、建物好きとして歓喜を感じるほかない瞬間だった。

 

 

 2種類あるスイートルームのうち、見学させていただいたのはタイプⅠの1253号室。 2階層のメゾネット構造を採用していて、吹き抜けの空間に面した巨大な窓からは伊豆半島が一望できる。

 こちらは洋室の面積が広く、室内に枯山水を配した和風寄りのタイプⅡとは大きく雰囲気が異なる。ちなみに、タイプⅡの1418号室は、将棋において羽生名人と森下八段の王将戦の会場としても使われていたとか。

 今回の展示期間中は部屋全体に松田将英の作品《Final Answer》が展開されていて、説明を読むかぎり、かなりオープンな解釈が許されているのだと判断できた。室内に施された各種の仕掛けには、思わず笑ってしまうものもある。

 

 

 大窓に貼られたShutterstock(シャッターストック。素材としての写真販売サイトとして有名)のステッカーなどはその最たるものだ。

「問題解決を要求する現代社会へのアンチテーゼ」という一節がパンフレットにあるように、はじめは面食らうけれども徐々に納得させられてしまうような作品、その構造そのものを、私自身はかなり素直に受け取った。ブラックジョークのような雰囲気だ。

 しなやかな曲線を描く階段はどこか細長い貝殻の螺旋を連想させられ、そこから窓ごしに海を眺めつつ、1階部分に置かれたソファの光沢に眼を細めた。うねるバルコニーの縁も合わせて、本来は四角いものである部屋に別の動きが与えられている。

 2階の床を覆うのは黒い石。洋風の空間から一転、瀟洒な茶室を擁した和の空間が展開する。

 

 

 興味深かったのは、この部屋には出入り口がふたつ存在していることだった。メゾネット構造の下層には12階の廊下へと続く扉、そして上層には14階の廊下へと続く扉。なんだか推理小説にでも出てきそうな仕様で、単純ながらも大喜びしてしまった。わくわくする。

 今回は展示の指示上、私達は必ず下の扉からスイートルームに入室し、上の扉から出ていく。文字通りにこの部屋自体が通過点になるのだ。終着点ではなく。

 出ていくとき、扉を閉めた瞬間にもう一つの扉から自分の影が追ってくるような気がする。うっかり12階の廊下に残してきてしまったかもしれないのだ。けれど、同時に私は知っている。仮に追ってくるのが私自身の影なら、おそらくこのスイートルームに入り込んだ時点で、外に出ようとはしないだろう。

 いつかまたニューアカオの建物に変化がもたらされる瞬間まで、飽かずつややかなソファに寝そべり、惰眠を貪っているに違いない。

 

 

 そして、美しい緑の石の電話はいつまでも鳴らない。

 

 

 ……次の記事(4)に続く。

 

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閉館後のホテルニューアカオ本館を徘徊する体験(2) ダイニング|熱海のアートイベント《ATAMI ART GRANT》のACAO会場

 

 

 

 

 常に耳の端で海の音を聞きながら、質量すら感じる空気をかき分け、泳ぐようにして進む。無人の廊下を。

 閉ざされたどの扉の向こうにも誰かがいる気がした。

 そして下階、無数のテーブルがひしめく広大なダイニングから響く重低音が、エレベーターのワイヤーを伝い、閉館したこのホテルの末端にまで届く。

 

 

 ダンスホールから、この写真の場所へ向かう道程。

 

 前回の記事 ↑ の続きです。

 

目次(2):

 

客室(和室)

 

 客室の扉が肩を並べる、廊下の天井も折り上げ構造になっていた。

 こういった装飾というのは、それがあってもなくても機能的に支障のない部分に、あえて施すことで豊かな印象が与えられる。もちろん逆の結果がもたらされる場合もあるから、絶妙なバランス感覚が重視されることに頷けた。

 

 サロン・ド・錦鱗のある15階からエレベーターに乗り、何も分からないままに指示通りのボタンを押す。すると、眠っているのか起きているのか不明瞭なニューアカオの体内で、私の身体は縦の方向に大きく動かされる。

 どういう仕様になっているのか伺い知れないが、何も押さなくても勝手に昇降機の箱は動き出してしまったし、意図していない(ボタンを押していない)フロアに何度も到着することがあったので、降りる際はきちんとパンフレットの写真と目の前の空間を見比べる必要があった。

 3階、廊下の先で開いた扉は客室3077号室。他にもグレードの異なる部屋がある中で、最もリーズナブルな和室のものだ。ここにも《Standing Ovation / 四肢の向かう先》の現代美術作品が展示されている。

 

 

 太田光海による、《Wakan/Soul is Film》と題された映像作品。

 タイトルに組み込まれている「Wakan(ワカン)」とは、エクアドルの熱帯雨林に住む先住民、シュアール族の言葉で「魂」と「映像」の両方を意味するのだという。かなり興味深いことだ。その、私達の言語感覚からは相当遠く隔たった場所にある彼らの視点、観念の一端に触れる、あるいは何らかの新しい感覚を呼び起こそうとする試みが作品上で行われている。

 作者の太田光海は映像作家であり、文化人類学者。今回の《Wakan/Soul is Film》は、以前に制作されたドキュメンタリーフィルム《カナルタ 螺旋状の夢》で使われなかった場面をベースに、いわゆる「映画」という作品の形態とはまた違ったやり方で私達の意識と接続するのだった。

 魂と向き合うことと映像を鑑賞する行為が、まったく同じ音で表現される場所が地球上のどこかにある——。

 それを知ったとき、閉業したニューアカオの往時を偲ぶ映像を別所でぼんやり眺めている自分もまた、この建物の魂と呼べる何かに肉薄しているのかもしれない。

 

錦松・羽衣の間(宴会場)

 

 再びエレベーターに乗った。指示に従って次に降ろされたのは12階のよう。はじめ15階、それから3階、今度は12階……と、文字通りに「行ったり来たり」させられているのは明らかに意図的な誘導なのだと改めて理解する。

 上の写真、電気サインの妖しさに、宿泊施設ではなく、何か別の世界を連想してしまうのは私だけではないはずだ。パンフレットを見ると、ここに入れとある。畳の間では靴を脱ぐようにとも。

 戸の隙間からざらついた音が漏れていて、踏み入る勇気が出ずに躊躇していた。左右に伸びる廊下をもう一度見回す。誰もいない。だから、害もなければ助けもない。

 ついに息を止めて取手に手をかけ、部屋の敷居を跨いでから後ろ手に隙間を閉ざすと、そこは市松模様のパターンに緑色が施された天井のある空間だった。

 

 

 とはいえ、暗く照明が落とされているから、しばらく目を慣らさないと部屋の全貌は伺えない。中央のスクリーンで何かが展開している。周囲を歩いてみると、裏と表で異なる二つの映像が流れている、デュアルスクリーンなのだと分かった。

 ここに展示されている作品は、中村壮志による《回帰》。以下にその「あらすじ」を引用する。

 

1973年のある日、父に一通の手紙が届いた。
「ローリング・ストーンズが日本に来るから、日本に遊びにこないか」
差出人は、父が学生だった当時友達になった日本人留学生のトシであった。兼ねてからトシの故郷の話を聞いていた父は、その冗談まじりの便りを実行に移すことを決意する。
しかし、ローリング・ストーンズの来日公演が急遽中止になり、父はバンドの来ない日本で一週間過ごすこととなる。

 

《Standing Ovation / 四肢の向かう先》パンフレット(2021)より

 

 

 

 ローリング・ストーンズは英国のロックバンドである。彼らの来日中止がどのようにニューアカオと関連付けられているのかというと、その年によってだった。

 前記事の概要で述べたとおり、赤尾蔵之助が創業した赤尾旅館はホテルになり、やがて錦ヶ浦で、より規模を拡大したホテルニューアカオと進化していったわけだが……折しもニューアカオの営業開始は昭和48年。すなわち、ローリング・ストーンズの来日中止と同じ1973年の頃だった。

 中村壮志はその事実から架空の物語を紡いでいる。最終的には赤尾旅館の創業時、高度経済成長期の急激な社会変化と現代の状況を並列して、何らかの類似点を見出しているようだ。

 そしてもう一つの画面に映す対比には、熱海が登場する1953年の映画「東京物語」に描かれているような、緩やかな時間の流れと生活環境を挙げ、タイトルが示すようにどこかへ感覚を「回帰」させる必要性を鑑賞者に示そうとする。

 

メインダイニング錦

 

 また、エレベーターに乗せられた。ホールに降り立つと窓の外から外側が見えて、さらに柱の階層表示を確認し、今度は随分と下に来たのだなと思う。

 海が近い。本当にすぐ、そこにある。

 青黒い波に乗ってやってくるのは流木と風と、それから魚と……あとは何だろう。どこかから休みなく、ショーを観てさんざめく観衆の声のような、あるいは口の中で呟かれる呪文のような、低い音色がカーペットに覆われた床を這って来ている。それに呼応して建物もきっと歌っている。

 パンフレットに指示された通路は「メインダイニング錦」に通じていた。

 ニューアカオの営業開始から5年後、1978年に完成したシアター風のレストラン。地域で最大の規模を誇った全450席の空間では、かつて毎日のようにディナーショーが開催され、独創的な料理が提供されていた。

 

 

 小さなステンドグラスのある入口をくぐると身体全体に振動が伝わる。例の音だ。海鳴りに交じる重低音、ときどき歌声、これは小松千倫による作品《Endless Summer》の一部なのである。

 ほぼ半円形のレストランを縁取るような通路の側から席全体を見渡すと、正面に位置する透明なガラス窓、その向こうの岩肌と海面が背景となって、沈みゆく船を連想せずにはいられなかった。波が窓のすぐ下まで迫っている。

 ローマの宮殿を模した虚飾の城。レプリカだが、かつてそこに溢れていた宿泊客の笑顔はきっと本物であっただろう。

 誰一人として支持者も追随者もいない、空っぽの宮殿を王様として闊歩する喜びには、人を惹きつけて離さないものがあると感じる。だから多くが後戻りできなくなってもその冠を手放せない。

 

 

 頭上のシャンデリアばかりに気を取られていると足元をすくわれる。さらに地下へと続く階段があるが、先へ進むことはできない。

 視界にあるのに立ち入りのできない場所は、地図上に存在してはいても辿り着く道が存在しない地点に似ていて、いつかゲームで未実装のエリアに侵入してみたいと主人公を操作した記憶が蘇る。幾度となく、不可視の壁に阻まれた経験。

 思えば、そもそもニューアカオの建物自体が、やがて「見えているのに入れない場所」と性質を同じにするのだという気がする。

 展示の会期が終わり、すべての作品が撤収されてからはふたたび、一般の人間では中を覗くことのできない場所になるのだ……と考えてみれば。

 

 

 人々が熱海サンビーチから、遠くにかすむ「ニューアカオ」の赤い文字を認めて口々に噂する。昔、あそこでは毎夜のようにレストランで音楽が奏でられ、定期的にダンスパーティーも開かれ、栄耀のかぎりを尽くしていたのだと。

 けれど、もうその場所に立つことはできないのだ。少なくとも私達人間には。

 あるいは、海辺で例の場面を毎日毎日再現し続けるのに疲れた貫一とお宮(尾崎紅葉「金色夜叉」より)の銅像が、皆が寝静まった頃にビーチからニューアカオまで散歩し、サロン・ド・錦鱗で穏やかにダンスでもしているのかもしれない。

 

 

 ……次の記事(3)に続く。

 

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