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彷徨する自由帖

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小樽を流れる歴史と、余市蒸溜所という小さなスコットランド|北海道一人旅・小樽~余市編

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 これは前回の記事の続きです。

 札幌市内(旧本庁舎、豊平館、ビール博物館など)を散策した際の記録は以下をご覧ください。

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余市蒸留所

 NHKの連続テレビ小説「マッサン」を視聴していた、もしくは名前を小耳に挟んだことがある――という人は一体どのくらいいるだろうか。その物語のモデルとなった人物にとても縁の深い場所が、札幌から北西の方角にある小さな町に今でも残っている。

 北海道・余市へ足を運ぶのを決めたのは、そこにニッカウヰスキー株式会社蒸留所があるためだった。ここでは予約制の見学ツアー無料で行われている(自由見学もできるが、その場合一部入れない場所もある)。現役で稼働している設備の一部を間近で見ることができるほか、創業当初に使用されていたポットスチル(単式蒸留器)も展示されているなど、非常に興味深いところなのだ。

 JR線を使って札幌から余市へと出るには、小樽での乗り換えが必要になる場合が多い。

 問題は、そこからの電車の運行本数が1時間に1~2本と非常に少ないこと。訪れる際にはしっかり予定を立てておかないとツアーの時間に間に合わなくなるかもしれないし、もっと深刻なのは札幌近辺に宿泊していて夜に帰りの電車が無くなってしまうような場合。滅多にないとは思うが少し気を付けたい。

 

参考サイト:

小樽市(小樽市公式ホームページ)

おたるぽーたる(小樽観光協会公式サイト)

余市蒸留所(余市蒸留所のページ)

北海道余市町(余市町ホームページ)

 

 

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手宮線跡の一部

 ちなみにこの日の朝ごはんは、行きしなに購入した北海道の駅弁「石狩鮭めし」だった。サケとイクラのコンビネーションはどうしてこんなにも美味なのか。

 ここでは札幌からの目的地である余市に加えて、途中下車して散歩した小樽の町について書いていく。

 車窓からの風景を撮った写真はないが、ときおり垣間見える静謐な灰色の海が、とても綺麗だったことをよく覚えている。空は曇っていた。

 

小樽

 かつてはアイヌ語に由来する音で呼ばれていたこの地域が、現在のように「小樽」と称されるに至ったのは1869年の頃。

 ちょうど、幕府が蝦夷(いまの北海道)に開拓使を派遣・設置した年のことだ。

 それから小樽の町は立地を生かして海の玄関として発展したが、その過程で造られたのが、後にこの項で述べる「小樽運河」や、日本で3番目にできた鉄道「手宮線」である。

 

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廃線跡を利用した遊歩道

 この地名を聞いて私の脳裏に浮かぶのは、北海道出身の作家である三浦綾子が著した小説《氷点》のことだ。

 美しいが複雑な状況のもとに生まれた少女「陽子」は、養子として旭川の医者・辻口氏の家族に育てられることとなったが、実母の住まいはここ小樽にある。加えて野田サトル氏漫画《ゴールデンカムイ》でも、特に物語の前半でこの場所が繰り返し登場している。

 上記の作品で描かれた情景を胸に、夏の終わりの日中にこの地を歩いてみた。

 

小樽の概要:小樽を知る|おたるぽーたる

 

  • 手宮線跡

 札幌からの電車を下り、小樽駅の正面からまっすぐに坂を下る。

 目指すのは運河の方角。

 道を歩いている途中でとある廃線の跡を見られるが、それが前述した手宮線の名残で、現在はその大部分が遊歩道として自由に散策できるよう整備されている。私は事前知識なしにこの場所を訪れたので、突然道路を横切るようにして現れた線路の跡に少し驚いた。

 

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 この路線は、もともと北海道開拓にあたって開通した、幌内鉄道と呼ばれた路線の一部だった。

 やがて鉄道が国有化されてからは、小樽駅から手宮駅までの区間を特に手宮線と称すようになる。主な運搬物は開拓物資だったが、道路の整備が進み車が多く使われるようになった結果、利用客の大幅な減少によって1985年にその役割を終えたのだ。当時の転車台や車庫に関する資料は小樽市総合博物館にも展示されているので、興味のある方はぜひ足を運んでみるといい。

 また、線路を辿って歩いていくと、小さな駅の痕跡も見つけられる。ここは色内駅で、かつては旅客専用――つまり貨物ではなく人間の乗り降りのために設置されたホームだった。旅客路線が廃止されたのは、貨物船よりも少し早い、1962年であったとのこと。

 ここも町自体と同じく、四季によって多様な姿を見せてくれる場所。春や夏なら草木の色彩が美しいし、秋なら赤茶色の線路の錆と地面が呼応して寂寥感を誘う。特に冬の夜に開催される光の祭は幻想的で、過去にここを通っていた車両や往来の人々の影を蝋燭が映し出すような、そんな印象を与えてくる。

 

  • 小樽運河

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 立ち並ぶ倉庫とガス灯を映す水面。小樽運河では、昼と夜それぞれの時間ごとにクルーズも楽しめる。特にこの周辺に宿泊する予定なら、移り変わってゆく運河沿いの景色を、実際にのんびりと眺めてみたいものだ。

 小樽はその立地から、長く海の玄関口としてその門を開いてきた。そこで港からの貨物をより効果的に運搬するため、荷揚げする台船が接岸できる距離を長くすることを意図して造られたのが、この小樽運河なのである。形が湾曲しているのは元の地形を元に埋め立てを行ったためだ。やがて小樽港に埠頭ができ、運河が使われなくなってからはその半分ほどが歩道として整備され、現在のような姿になったという。

 当時のまま残っている倉庫群は見ているだけでも楽しいが、内部を改装して飲食店やその他のお店へと生まれ変わっているものもあり、脈々と受け継がれる歴史を感じられる。橋の近くで楽器の演奏をしている人がいる日もあって……そんな時は足を止めて海からの風を感じるのも一興だと思う。

 この辺りで時間が迫ってきたので駅へ戻った。次に向かうのは余市。かつてウイスキーに情熱を抱いた、ある一人の人間が見出した土地だ。

 

 

 

 

余市

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余市駅前

 小樽駅から電車を乗り換える際に留意すべきなのは、余市駅にはICカードを読み取れる改札が無いということだ。そもそも改札自体が存在しない有人駅である。なので、紙の切符を買って行くのをおすすめする。

 余市ではニシン漁が盛んな時期があったが、それと並行して、開拓使が持ち込んだ果物の苗の栽培が農家の間で行われるようになったそうだ。後から知ったことだが、小中学校の生徒がよく踊っているあの「ソーラン節」の発祥はこの周辺地域だといわれている。現在ニシン漁は廃れているが、未だに他の海産物――例えばカレイやエビ等を豊かに得られる土地柄。

 また、北海道の中でも比較的温暖な気候の余市には、古くから人間が居住していた痕跡が多く残っている。例えば、西崎山環状列石のようなストーンサークルや、フゴッペ洞窟といった縄文時代の史跡などだ。

 特にフゴッペ洞窟内に残されている壁画には謎が多く、日本国内でも類を見ない非常に珍しいものとなっている。一時期はその価値や真贋に疑問があるとされ、半ば放置された結果、保存状態が非常に悪くなっていた時期があるのは残念なこと。しかしながら、今では各地から人々の訪れるスポットとなっている。

 

余市の概要:まちの紹介|北海道­余市町ホー­ムページ

 

  • ニッカウヰスキー余市蒸溜所

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蒸留所正門

 駅から徒歩3分程度、電車を降りて真っ直ぐに進めば、そこはもう余市蒸留所の正面玄関だ。その門構えもさることながら、敷地内へ一歩足を踏み入れると爽やかな感動が訪問者を迎えてくれる。石造りの建物やところどころに植えられた木々の種類は、まるでここが何処か別の国であるかのような、そんな印象をこちらに抱かせるものだった。

 ニッカウヰスキー余市蒸留所創立は1934年。実際にスコットランドへ留学し、本場でウイスキーの製法を学んだ竹鶴政孝は、当時の寿屋(サントリー株式会社)を退職した後に余市へと目を付けた。気候や材料の入手しやすさ、またこの事業の初期段階を支えたジュース製造に役立つりんごの産地だいうことから、竹鶴はこの地へと根を下ろしたのである。

 彼の情熱が向けられていたのは、学んだスコッチ・ウイスキーの製法からその味に至るまでを、この日本という場所で再現すること。

 そのこだわりゆえに、寿屋に勤務していた間は、会社の方針と自身の理想の間で苦悩していたのが伺える。当時は特に、日本の一般市民にとってなじみの薄い本格的なウイスキーの味の評判は芳しくなく、出資者や売り上げ目標額との折り合いをつけるのに骨を折っていたようだ。

 

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 この場所は竹鶴にとって、ようやく自由に羽を伸ばし、自分だけの酒造を追い求めることのできるのような存在だったのではないだろうか。完成した余市蒸留所を俯瞰してみた当時の彼も、きっとそう考えただろうと思わずにはいられない。

 各施設の屋根を彩るのは美しく赤い色。かつてこれらは全てであったそうだが(同じ敷地内にある旧竹鶴邸リタ・ハウス、旧事務所にその名残がある)、余市の空が晴れ渡る時の澄んだ青色に映えるのは赤色だ、と気付いた竹鶴が塗り直しを命じた結果、現在のような姿になっている。

 また、耐震性に問題があると判断された建物は現在立ち入り禁止になっているが、大きな地震が少ないこの場所では、石造りの各棟の多くが当時のままの姿でここに佇んでいた。

 

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旧竹鶴邸前

 ウイスキー製造に生涯を投じた竹鶴政孝を長く支えたのは、留学先で出会ったスコットランド人の妻リタ(本名:ジェシー・ロバータ・カウン)であった。この余市蒸留所内の博物館では彼女の人となりが垣間見える展示もあったが、そこからは非常に聡明で気丈な人物像が見て取れる。

 当時はまだ国際結婚が珍しいものだったのに加え、故郷から距離と文化双方の点で遠く離れた極東の地で暮らすことは、現代の私達にはとうてい想像もつかない決断である。

 特に戦時中、リタは日本人にとって「敵国の人間」として扱われた。その日々の艱難辛苦は計り知れない。それでもなお、自分の選んだ道を強く生きた彼女の軌跡は、それを知る者の心に一筋の光を残していく。

 後の1988年、彼女の出生地であるスコットランドのイースト・ダンバートンシャーは、この余市町と姉妹都市協定を結んだ。前述したリタ・ハウスは研究室として使用されていた建物であったが、この名前も彼女にちなんでつけられたものである。

 

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 現在の蒸留棟では当時、実際に稼働していた初代のポットスチル(蒸留に用いる器具)も目にすることができる。並んでいる幾つかの中で一番小さいものがそれだ。各蒸留窯の上部にあしらわれているのは注連縄で、これは創立者である竹鶴の実家が酒造業を営んでいたのにちなんだ意匠なのだという。とても洒脱なアイデアだといえよう。

 余市蒸留所では今でも伝統的な製法が忠実に守られており、「石炭直火蒸留」によってウイスキー製造を行っているのはもうここだけなのだそうだ。この製法は温度の調整が難しく非常に手間がかかるのが特徴だが、見学に行けばその様子を間近で観察できる。

 蒸留の工程によって香りとアルコールを抽出した後、ウイスキーの原液は濃度を調整され、の中で長いあいだ眠らされる。見学者待合室でサンプルを見たが、この時点でその色は薄く透明に近い。やがてその かさ は蒸発によって少しずつ減り、見た目も実際に販売されているもののような、濃い琥珀色に近づいていく

 

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変わった匂いがする

 蒸発で減ったかさの分はエンジェルズシェア(天使の分け前)と呼ばれる。この過程で、樽に使われる木材や周辺の湿度、空気が最終的なウイスキーの持つ個性に大きく影響してくるのだ。

 余市蒸留所は、日本の片隅にある小さな異国のような場所だった。創設者の情熱と、それを反映した各施設、後世に受け継がれていく伝統。

 販売されているウイスキーの製造過程や歴史だけではなく、この蒸留所が今もここに存在しているという事実そのものが、ひとつの物語なのだと実感した。

 

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 その翌日は新千歳空港から羽田まで無事に帰還することができ、お土産のマルセイバターサンドも家族と一緒に美味しくいただきました。

 現在北海道庁は、震災後の観光客に向けた声明を出すなどして、その誘致に力を入れているようです。

 これを機に、みなさんも北海道旅行を検討してみませんか。