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牛久シャトー(旧牛久醸造場・シャトーカミヤ)の見学 - 近代化産業遺産・国指定重要文化財|茨城県

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公式サイト:

牛久シャトー公式サイト

 

目次:

 

 先日、実業家の神谷伝兵衛が稲毛に建てた別邸を訪れた。

 

 

 伝兵衛が東京都浅草で「みかはや銘酒店(現・神谷バー)」を開業してから、かねてより計画していた醸造場の建設に踏み切り、それを完成させたのが明治36(1903)年のこと。

 彼は茨城県、牛久市の一角(昔の稲敷郡岡田村、女化原)を開墾してブドウ園とし、醸造設備には最新の様式を取り入れて、まるで小さなボルドー地方ともいえる世界を作り上げた。実際にフランスへ婿養子の伝蔵を派遣し、多くの資料や知識を持ち帰らせたのも功を奏したのであろう。

 現在ではそのうち、旧事務室のあるシャトー本館、旧醗酵室、そして旧貯蔵庫の3棟が国の重要文化財に指定され、牛久シャトー全体も経産省の近代化産業遺産に認定されている。

 

 旧醗酵室は「神谷伝兵衛記念館」として展示が行われており、地上2階から地階を無料で自由に見学することができた。

 

牛久シャトー(旧牛久醸造場)

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 門の正面に立つと視界に飛び込んでくる、本館の建物。午前の陽に照らされた2階の白いカーテンは揺れない。そこには誰もいないようだった。

 左右対称なようでいて、通路のある中央右側に時計を擁した塔屋があり、眺めていて飽きない要素が追加されていた。屋根の上の目を思わせるドーマー窓に煙突も見逃せない。ちょうど、あの2階の裏側に旧応接室(大広間・比蜜閣)が広がっているのだろう。

 本館は通常見学できないので、旧応接室や旧事務室など、現在の内部の様子は資料に載っている写真から推測するしかない。洋室には赤いカーペットが敷かれ、1階には和室と押入れがあり、比較的きれいな状態で残っているようである。

 また、大正2年に撮影された白黒写真には板垣退助を含む要人がシャトーに来園し、祝宴が開かれた際の一幕が記録されていた。

 

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 建物の正面上にある三角の部分や、通路脇、ドア上のレリーフにはブドウの意匠があしらわれているよう。そして少し怖くなるほど大きなトンボも。色柄からして、オニヤンマに見える。

 Château D. KAMIYAの文字が刻まれたアーチをくぐって中庭に抜けた。

 フランス語のシャトーは主に王侯貴族の住まう建物や田舎の大きなお屋敷、城塞などを指す言葉だが、ボルドー地方においてはワインを醸造するブドウ園の一部を、19世紀半ばに行われた格付けに従って特にそう呼んでいる。

 この牛久醸造場も、本場の施設の在り方に倣って建造されたものだったのだ。

 

神谷傳兵衛記念館(旧醗酵室)

1階

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 レンガ造りに鉄板瓦の旧醗酵室。

 その入り口の脇から直角に旧洗滌場が突き出ていて、まるでそれぞれの建物が完成してから接続した、おもちゃのような配置を思わせた。旧洗滌場部分に関しては東日本大震災で受けた被害の復旧工事の際、窯や煙道の遺構が発見されており、現在も調査が続いている。

 さっそく扉の開いている旧醗酵室を覗いてみると、並んでいたのは巨大な樽だった。私が目一杯両腕を広げても直径に届かない。これらがワインの醗酵桶らしい。

 規則正しい配置は、2階の床にある四角い開口部の場所に対応していて、トロッコで運ばれてきたブドウを上で絞って果汁を生成し、下の桶に流し込んで一次醗酵を行っていたのだとか。日本では、牛久醸造場のみが採用していた方法になる。

 

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 かつてはブドウ園、醸造場、牛久駅の間を結ぶトロッコが存在していて、それにより果実の運搬がなされていた。現在はレールこそないものの、その軌道は生活道路として残っており、付近を散策していると特徴的な角度で交わる道に気が付く。

 当時のブドウ畑はおおよそ120ヘクタール。はじめに植えられた6000本もの苗木が育ち、それから2年の歳月をかけて、ようやく醸造場を本格的に稼働させる準備が整ったのだった。

 ……てっきり、この旧醗酵室1階には醗酵桶が並んでいるだけかと思いきや、そういうわけではないらしい。私はすっかり油断していたようだった。

 突然、なにやら異様な気配を感じた。次にとてつもない力で引き寄せられて、視線を向けたら大変だった。もうここから視界に収めた様子、醸し出されている雰囲気から、どう考えても自分の大好きな場所だとわかる。逃げられない。

 

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 この空間は、ボルドー地方の醸造場において責任者(メトル・ドゥ・シェ)に与えられていた部屋を模し、牛久醸造場にも設置されていたもの。

 各工程に対して適切な指示を与える人間がいる場所、いわば施設の核だった。

 しかし本当にずるいと思う。こんなに瀟洒な洋風の空間を擁しているなんて、聞いていない。

 シャトー本館の旧事務室も旧応接室も一般見学はできないのだとわかっていたから、今回は醗酵室の設備の方を存分に堪能しよう、という心でいたのに、何の前触れもなくいきなり別方向の「良さ」をこうしてぶつけてくる。近代の洋館好きとしては狂うしかなかった。

 なんとかホイホイに誘い込まれる虫の気持ち、理解できる。

 

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 棚の中には神谷伝兵衛の婿養子、伝蔵がフランスから持ち帰った現地の土壌など、さまざまな種類のサンプルが収められていた。

 不思議な形の器具もそうだし、くすんだ色の床のタイル、窓の並び、扉の開かれ方すらも強く心を惹きつける、魔性の空間。階段の下に位置しているというのもなかなか絶妙にくる要素である。

 最後は天井から釣り下がる照明器具にとどめを刺された。うん、本当に良い佇まい……。

 

 

 

 

2階

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 2階に展示されている一連の資料を見れば、当時のワイン醸造の流れと、神谷伝兵衛の辿った軌跡を並行して学べる。

 建物の構造そのものにも魅力が多い。キングポストトラスの天井は東日本大震災後に補強され、新しく鉄骨の梁が設けられているので、その対比に注目した。床にある四角い突起は小窓の蓋であり、前述したように、ブドウ果汁を醗酵桶に流し込む際に使われたものだ。

 収穫したブドウの果実から枝や茎を取り除いて果汁を絞り、醗酵させ、瓶に詰めてもまだ続く工程。それぞれの段階で異なる形の機械が用いられ、全ての作業がこの建物で行われる。

 2階全体を見回し、ここは神谷伝兵衛にとって念願の、まさに夢の城であっただったろうと考えて、北海道余市にあるニッカの蒸留所を思い出した。あの場所も、竹鶴氏が夢にまで見たお城のようだったから。余市の小さなスコットランド、そしてここ牛久の小さなボルドー地方。

 

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 経歴を見ると、神谷伝兵衛はまれな商才を持った人物であったと伺える。しかし彼が商売の道に足を踏み入れたのはまだ年齢が一桁で幼い頃、その理由も、家の没落および困窮と切実なものだった。

 数々の成功と失敗を経験した末、明治6年(1873)、伝兵衛は17才の時に縁あって横浜へ赴き、フランス人が経営する洋酒醸造所(フレッレ商会)に雇用されることになる。

 彼はよく働いたが、過労がもとで倒れ、やがて医師にも見放されるほど容体が悪化した。そこで折しも葡萄酒、ワインとの運命的な邂逅を果たす。雇用主が見舞い品として差し入れてくれた輸入ワインを少しずつ摂取したところ、なんとひと瓶を飲み干す頃にはすっかり元気になっていた。

 この経験こそ、伝兵衛をワイン醸造の道へと導いたきっかけ。日本ではまだ高価だった葡萄酒を、どうにか一般庶民に普及させることはできないか。彼はそれから情熱の炎を胸で燃やし続けた。

 

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 牛久醸造場の開設には時間がかかったが、伝兵衛はそれ以前から、酒産業にかかわるいろいろな試みに触手を伸ばしている。代表的なものが「みかはや銘酒店(現神谷バー)」の開業とにごり酒の一杯売り、そして、蜂印香竄葡萄酒(はちじるしこうざんぶどうしゅ)の製造と販売。

 蜂印香竄葡萄酒は通称「蜂ブドー酒」とも呼ばれ、当時たいへんなヒットを記録した。輸入したワインを利用し、漢方薬や蜂蜜などを加えて甘味ワインにした商品で、まだ一般になじみの薄かったワインを人口に膾炙させるきっかけを担う。

 その販売広告を担当した近藤利兵衛は伝兵衛の親友であり、優れたマーケティング感覚を持った協力者。営業のほとんどを彼に任せていたというから相当に信頼していたのだろう。

 ちなみ香竄(こうざん)というのは伝兵衛の父が俳句を作る際の雅号で、豊かな香りがひそやかに身を隠している、そんな意味を馨しいワインの名に冠した。

 

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 多趣味だった父、兵助の代で神谷家は傾いた。それでも親の恩を忘れないようにとその雅号を商品に用いる感覚は、私からすればかなり面白い。不思議なものだ。

 やがて牛久醸造場を完成させ、ワイン醸造をはじめとした数々の事業に携わるほか、文化や慈善の分野にも貢献した伝兵衛は、大正11(1922)年に66歳でその生涯を閉じた。

 このシャトーが完成してから20年後のことだった。

 

地階

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 2階の階段は1階を経由し、下りればそのまま地階に繋がっている。

 この場所の雰囲気には驚いた。温度や湿度がワインを熟成させるのに適した状態で保たれている、機械を用いない貯蔵施設……。土や木の強い香りに酔うし、極力落とされた照明が限りある領域だけを照らしていて、どきどきする。神秘的だけど誰もいないからちょっと怖かった。

 暗くて、自分の息遣い以外は本当に何の音もしない。

 東日本大震災後の補強工事の際にも、この冷暗な環境を損なわないようにするため、できるだけ影響の出ない方法が採用されている。内側ではなく外部からバットレスで壁を支持しているらしい。

 

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 電灯の光が守護してくれるのは、足元のみ。

 樽の中で熟成されるワインの気分になる。もしくは振り向きざまにその囁きを聞く。途中に設置されているレリーフも、光量を絞るために曇らせた小窓も、私が知るのとは全く別の世界に属しているみたいだった。

 ビジターセンター(旧洗滌場)に繋がる階段を上る頃には、あまり興味を持ったことのなかったワイン醸造に関する基本的な知識と、明治の世でそれに魅せられた伝兵衛の願い、その結果の一端が意識の隅に刻まれた。

 先に千葉県の旧神谷伝兵衛稲毛別荘を訪れておいたのも良かったと思っている。ブドウに対する愛着を、ことさら強く感じる佇まいの洋風建築だった。

 

牛久市のブドウとワインの今

 令和4年現在、残念ながらこの牛久シャトーではワインの醸造はされていない。

 しかしながら牛久市内でのブドウの栽培は行われており、代表的なものに「富士の夢」があるらしかった。常磐線に乗るため牛久駅に立ち寄り、横の商業施設を覗いてみると、それを利用したワインが置いてある。

 興味があったので買ってみることに。

 

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 牛久市産のブドウを使用したワインは名前をLEGAME(レガーメ)というそう。

 名前がイタリア語なのは、牛久市が友好都市としてイタリアの一都市と縁を結んでいることに由来するとか。酸味が強く爽やかな風味だった。

 そのまま飲んだり料理に使ったり、いろいろと楽しんでみることにする。