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裾が途中で折れたみたいな面白い形の屋根をして、その下に半立体の紋章をあしらい、門のある正面の側が水色の柵で囲まれたお屋敷。受付に座っていたのは、随分とクラシカルな服装に身を包んだ小柄なメイドさんだった。
彼女の佇まいに少し驚きつつ入場券を買ったとき、「この異人館には、他とは大きく違う特徴がひとつございます」と言われて、まばたきをする。さて一体なんのことだろうか。
建築年代? 様式? 展示物?
正解はどれでもなかった。
神戸、閑静な不動坂の中腹に建つプラトン装飾美術館には、今も実際に人が住まわれているのだそうだ。オーナーご夫婦とそのご家族、加えて大きな3匹の愛犬が。
その自宅である、大正4年に竣工した旧アボイ邸の一部が、こうして一般の見学客にも公開されている。
プラトン装飾美術館 / イタリア館
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本館
ろうそくのシャンデリアを模した電燈の下で、見開きの玄関扉が開いている。鍵が開いているという意味ではなく、家の内部を覗けるようにして、軽く外側に。
その佇まいがどれほど私を安心させたことか、自分自身の言葉を用いたとしても、とても説明できるとは思わない。
いわゆるクリスマスの時期だった。平日にもかかわらず往来の人の数はそれなりに多く、平気なフリをしていたはずでも内心はすっかり辟易してしまっていて、冷たい風に身を切られずとも済む暖かい場所を求めていたような気がする。
あの、マッチを売る少女が炎に透かして見ていたような、それかブレーメンへ向かう途中で動物たちがごちそうにありついた小屋みたいな……、そういう感じの場所がいい。
果たして、この邸宅はまさにそういう家だった。
建物の所有者が個人的に集めたコレクション品を基にした美術館、というと、昔よく行った英国ロンドンのウォレス・コレクションも併せて脳裏に浮かぶ。応接間や書斎、浴室のある普通のお屋敷、その内部にオーナーが収集した美術作品や家具が並んでいる形式の施設。
玄関ホール右手から繋がる応接間に入ると大きなツリーに迎えられた。それから「予約席」を示す札にも。他でもないこの時期に、これが見ず知らずの私のために置かれているのだと勝手な錯覚をさせてくれるから、旧アボイ邸はきらびやかだけれど優しい雰囲気の家だ。
バルビゾン派を代表するフランソワ・ミレーの油彩画にエッチング、イタリアの彫刻などがひしめく中、部屋の中央部を太い2本の木の柱が貫いているのには面食らうようなすがすがしいような気分になった。優美なだけではなくて、結構おもしろいところもある。
隣の大食堂、ビクター・エモーヌ(19世紀イタリアの彫刻家)の部屋と名付けられた空間へ移動する際には、頭上に注意を払うといいことがある。フルール・ド・リスのパターンがあしらわれたフロストガラスの照明がきれい。
ここにも美術品が所狭しと置かれている。吊るされた大きなシャンデリアは、細い枝をしならせる程たわわに実った果物のようで、透明な結晶の中にぎゅっと水分が閉じ込められているみたいだ。ひとつ摘んで口に含んでみたくなる。
なめらかな春の湖を思わせる色のテーブルクロス、趣向を凝らしたその上の各食器に、真珠母貝の柄がついた銀のカトラリー。これらを引き立たせている空間の要は、実はテーブルの影に隠れている暖炉であるといっても特段誤りではないだろう。
今は眠っていて、冬場にディナーパーティーが催される際には瞼を開き、炎を抱く。かつてフランスの競売で落札され、ここに設置されたという。
途中で通り抜けた台所は今も日常的に使われているとのことだった。手作りのお菓子が販売されていて、いい匂いがする。普段もう誰も住んでいない邸宅ばかり見学しているから、たとえばそういう場所にある喫茶室の香りなどとは、明らかに違う雰囲気に敏感になった。
この場所の主体はいまだ「人」なのだ。建物自体は1歩下がったところにいて、人に合わせた時を刻んでいる。
2階にある部屋の白眉はバスルーム。たっぷりの液体で満たされた大瓶の数々はリキュールみたいにとろりとした色を透かして、眺めているだけで酔ってしまいそう。
特筆すべきは天井で、植物のモチーフをあしらった照明は、怜悧なアール・デコの様式を踏襲していて心奪われた。拡大するとギザギザした鉄の棒のようなものを曲げて茎が表現されているのがわかり、工業製品的な造形のパーツが言葉に尽くせぬ味わいを醸し出している。
ところで、「ただのお茶会」ではなく「すばらしいお茶会」に必要な要素はなんだろうか。それには何を差し置いても質が良くておいしいお茶、お茶の風味に合う食べ物、加えて同じ空間に居ても苦にならない知己の存在、などが挙げられる。
あとは状況に応じて環境を選択したり、事物を追加したりできれば一番いいのだが、ここにはそんなお茶会をアレンジする際のカタログみたいな部屋が沢山あるのだった。
ストライプの入った布が張られた椅子の上に、ライオン柄のクッション。活けられた花。そして……壁のところに……チェンバロがある。音楽、それも忘れたくない要素。ことあるごとに出向いた先でゴルトベルク変奏曲を耳にするので、チェンバロと言えばその曲に、ごく個人的に愛着を持っている。
余談だが、私は演奏できる楽器をほとんど持たない。だからピアノを奏でる友人の強くも繊細な指と手が、とりわけ好きだ。幼い頃から。
理想的な細長さを持つ、こぢんまりとした書斎の横に位置するのは寝室だった。
鍋で熱し、練って固めた飴を連想させる色の照明は、もう見た目からして暖かい。どうやら天幕の上にも何か電燈が置いてあるようで、その黄緑色の光が滲んでおり、妖しくも魅力的に映る。
いつもはあまり意識しないけれど、こういう寝室を見ると、そもそも眠りにつく行為は儀式的なものだという感覚が浮かぶ。体を預け、目を閉じる、そうして意識をどこか別の場所に置くこと、呼吸が静かであるほど死に酷似して。
テディベアは、ならば持ち主が放り出した無防備な身体の番人なのだろうか。抱きしめると癒されるというのは建前なのかもしれない。
想像の枕に頭を沈めて、螺旋を描いて降下する意識を追うように私も階段を下りると、さらに地下へと向かう階段が現れる。導きか、罠みたいに。いくつかのランプは鬼火の趣があった。
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地下室
旧アボイ邸の地下にあるのは食卓とワインセラー。
礼拝堂を思わせる佇まいなのは、実際に以前そうやって使われていたからだとか。生誕祭の飾りが、12月末の空気にどこか物悲しくも華やかな彩りを添えていた。向かい合う黒い金属の鳥は、人間の耳にわかる歌は歌わないようす。静かで、冷たい。
興味深く眺めたのは、ザ・ミッドナイト・サン(真夜中の太陽)と題されたうすい黄色の宝石で、この家の家宝のひとつだと書かれていた。輝きを放つ塊の正体はシトリン系のトパーズ、と。
この邸宅の地下ではできるだけ囁くように会話したい。互いの声が届くぎりぎりの距離を保って、決して近付きすぎず、椅子か机ひとつ分の空間を必ず隔てて。
太陽の光と人工の光では、その下に居る人間の表情が驚くほど違って見える。鈴生りの花の電燈が白く明るい。
一体あなたは誰であっただろう? 玄関でも存在を感じたような気がする。はじめて訪れた家で、はじめて会うはずの人の手を握り、ごく細い糸を紡ぐようにして言葉を交わすのと似ていた。建物を見学する行為は。
ガラス越し、ワインセラーの棚に並べられているワインが布に包まれている姿にふと目をやって、ぎょっとした。赤子のおくるみ。それか、ミイラ。さっきよりも数段背筋が寒くなり、隠れるように老人の人形の後ろに回った。
もう誰もいない。さっき確かに手を取って触れていたはずの人も、どこにも。
「真夜中の太陽」が堅牢な金属とガラスのケースの中で光っている。もしも世界が私達から何かを隠すとするならば、きっと、ああいうものの内側を選ぶのだろう。
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屋外プール
水を貯める設備、しかも屋外に設置しているとあればさぞ管理に手がかかるだろうと思う。だからこの部分だけは現役でなく、飾りであってもおかしくないと考えていたのだが、今でも夏になれば普通に使われているというから感心する。
なんと言っても色がいい。本当に気持ちの良い薄青色で塗られた四角いくぼみは、存外に深い。外の柵と同じ、サイダーになりたかったペンキみたいな彩りの壁。
プールは羊や獅子、馬、豹のように尻尾の長い何かなど、たくさんの動物に囲まれている。そこを泳ぐ者は果たして狙われているのか守られているのか窺い知れず、けれどおそらくは後者であろうと感じた。
屋敷の側を向くと連続するアーチが柱に支えられ、廊下と外とを明確に区別している。壁も扉も使わない類の、開口部であるのにもかかわらず、いわゆる仕切りの役割を演じる機構。ついたてに似ている。
ちなみに現在は情勢の関係もあり休業しているが、ここはカフェでもあるのだった。飲み物やお菓子を横に置いて過ごしたら、また異なる建物の表情が見られるに違いない。できることなら何度でも通って、あなたのことをもう少し教えてほしいと呟きながら敷地を歩き、邸宅と心を通わせたい。
無人の邸宅はけっこう雄弁だが、旧アボイ邸はまだ実際にご家族の住まわれている家だからか、わりと寡黙なのである。聞いたことには答えてくれるが、同時に恥ずかしがりもする。
プール横、扉にステンドグラスのあしらわれた小屋。
私はこういうものに出会うと、もしかしたら中に誰かが立っているのではないかと、下部の隙間に目を向けてこっそり爪先を探してしまう。動きはなかったし、音もしなかった。当然だが。
門を出て不動坂に戻ると、さっきまで別の場所を流れていた時間が少しずつ、自分の身体と血液に合流してくるのがはっきりとわかった。
ここは夢か嘘みたいな本当のお屋敷。