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彷徨する自由帖

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うろこの家(旧ハリヤー邸)の外壁を覆う薄い石の板は人魚の尾鰭|神戸北野異人館 日帰り一人旅

 

 

 

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 塔屋の側面に取り付けられた、パーティー用のサングラスみたいな装飾が滑稽だった。子どもの玩具みたいな色と形。

 クリスマスの時期だったから頂上にサンタクロースの人形もいる。

 あの場所は、さぞ眺めがよいことだろう。

 

公式サイト:

神戸北野異人館街公式サイト

 

 神戸の異人館街には、瀟洒な下見板張りや、暖かみを感じさせるハーフティンバー風の外壁を持った近代の洋館がたくさん建っている。

 だから初めて「うろこの家」を目の当たりにしたとき、きっとこの邸宅の特徴的な壁——愛称の示すとおり、魚の鱗に似ている——も、きっと木でできているのだろうと考えていた。灰白や灰褐色と微妙な色の違いを持ち、半円を引き伸ばしたような形の木の板を丁寧に重ねて、建物を覆ったものに見えたのだ。

 あとで、実はその「うろこ」が木ではなく、ごく薄い石、屋根に使われることもあるスレートを用いた意匠なのだと知って、それまで胸に抱いていた邸宅への印象がすっかり四散するのがわかった。

 ひんやりした、なんて繊細で、壊れやすい素材であることか。石板の総数は3000枚以上になるという。

 

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 前庭に立って想像する。この家があるとき悲しみか喜びに身を震わせて、そのせいで外壁を覆う鱗が、一枚一枚剥がれ落ちていく様子を。

 スレートの板が垂直に、涙の粒みたいに零れて地面で割れる。きっと高台から港に至るまで、軽やかな高い音が響きわたり、海の表面さえかすかに揺らすはずだった。さながら丘から人魚が故郷を想って唄を歌うような光景……。

 なんだか本当に生き物に似ていると思えてくる。生々しい。

 明治時代に建てられ、大正期に入ってから現在地に移築されたうろこの家、旧ハリヤー邸。もとは外国人向けの借家だった。今は横に展望ギャラリーが併設しているので大きく見えるが、実際に内部を歩くと結構こぢんまりとしているのがわかる。

 左右対称、塔屋を擁した2階建てで、あまり奥行きはなく横に細長い。

 

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 昔は2階部分から、螺旋階段を使って塔屋の上までのぼれたそう。

 北野異人館のなかでも特に高い場所に位置するうろこの家だから、他に建造物も少なかった頃はもっと眺めがよく、反対に街の方からも、この存在を容易に確かめられたはず。向けられていたのは親しげな視線だろうか、それとも、得体の知れない外国人の家を見る眼だったろうか。

 内部で鑑賞できるのは、マイセンなど外国製の食器類や、家具、照明器具の数々。エミール・ガレの作品をはじめとした、アール・ヌーヴォー様式のガラス工芸は邸宅の雰囲気によく合致している。簡素なデザインよりも重厚で複雑なものが似合う。

 私は植物の葉と蜘蛛の巣を組み合わせたような意匠のものと、べっ甲飴を思わせる色の電燈が、とりわけ好きだった。妖怪だったらぺろりと舐めているくらいに。

 

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 ちなみにこの家、内装がFate/stay nightにおける遠坂邸のモデルとなった、いわゆる聖地である。上の写真の部屋、棚や椅子などが特にそう。凛が腰掛けていたソファ。

 こんな風に、団欒の空間を模して演出されている家具類には心を惹きつけられる。もう誰も住んでいない家なのに。

 見学するだけではなく実際に手に入れたくもなってしまう。洋館は必要だし便利。一件所持していれば中でお茶会が開け、あるいは黙々と仕事もでき、しまいに休息まで取れるのだから。それにひととおり館内を歩き回れば、あとは脳内で勝手に増改築を繰り返して広がってくれる。

 あらゆる調度品が、部屋の雰囲気に合わせて自動的に整うような魔法もかけたい。油断していると建物自体にこちらが取り込まれてしまいそうだけれど、別に良い。

 

 

 

 

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 階段の先には印象に残る部屋があった。床に敷かれているタータンチェックのカーペット、そして、家具に交じって置かれているのは何かのラケットとゴルフクラブ。かすかに革製品の匂いがする……。

 掲示の写真と説明文によれば、六甲山のある神戸の土地はスコットランドとゴルフに縁があるらしい。

 1903(明治36)年、5月24日に「神戸ゴルフ倶楽部」の発会式が執り行われた。発会のきっかけとなったのが、当時の外国人居留地に住んでいたイギリス人の商人、アーサー・H・グルーム氏で、これが日本で最初のゴルフ場となった。

 翌25日に初めてのゲームが開催され、参加料は2円、昼食会にも参加する場合は別途で1円25銭が徴収されたとのこと。現在、ゴルフ場は日本の地図上であちこちに見られるほど身近な存在だが、ほんの百数十年前は影すらなかったのだと思うと少し不思議。

 

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 また、廊下では美しい石炭ストーブに出会った。

 当ブログでは過去にも何度か透明なドアノブの存在に触れているが、上の石炭ストーブにはドアノブならぬ、透明な取手がついている。石かガラスか。全体の形状も、誰かの心臓を閉じ込めておくための鉄の箱みたいで惹かれる。

 そう、石炭ストーブに放り込んだ、あかあかと燃える誰かの心臓で暖を取れたなら、それはどれほどの愉悦だろう……。しかも、魅力的な洋館で。人魚の鱗みたいな壁の家、その内臓を連想させる部屋の中で。

 だからあまり長居をしていると、心臓を奪われてしまうのは訪問者の側かもしれない。

 外から音が聞こえるような気がする。前に想像したとおりの、スレートの壁が一枚ずつ剥がれていく音。それが耳の奥にまとわりついて、永劫に離れない、また意識を放してくれない幻想。

 

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 優美な形の机がある。ここに、囚われたい。

 ずっと座って好きなことを考えて、好きなものを書いて暮らす、それで飽きたら旅行に行く。港から親しくなった人魚を呼んできて、留守の間の屋敷の管理を任せておく。

 寂しがり屋の人魚は陸にいる間、自分の尾鰭の鱗みたいな、この家の外壁をきっと気に入ってくれるだろう。