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神奈川の片田舎に住んでいる。鶴見川を越え、多摩川を越えたあたりまでは散策に行ったり、友人を訪ねたりすることも多いのだが、さらに荒川も越えた先の土地まで赴く機会は普段、あまりない。と言うよりか、今回が初めてだった。
東京と埼玉との県境にほど近い、王子あたりまでなら時折足を延ばす。渋沢栄一にゆかりある青淵文庫や晩香廬があるから、建物や調度品を見学しに。
旧田中家住宅のある川口元郷までは、そんな王子駅から地下鉄南北線を利用して10分程度で辿り着く。出口から出て地上の空気を吸い、岩槻街道という大きな道路に沿って、北の方角へ向かった。
旧田中家住宅
長らく訪問を渇望していたので、まさに念願の対面と呼べる瞬間だった。櫻井忍夫の設計で大正10年から建設が始まり、同12年に竣工した、旧田中家住宅洋館。国の重要文化財に指定されている。
スパンドレルのある窓の並び方も、壁の飾りも実に魅力的で、この館の付近で暮らすことを夢想せずにはいられない。私は朝早く起きて一度、また夜眠る時にも一度ずつ部屋からこの建物を眺めて、もしかしたらカーテンの間の細い隙間から赤い光が漏れてくるのではないかと、息を殺してじっと見守る。
そうしてしばらく経つと、館から封蝋の押された招待状が来る……、閑話休題。
歩いて近付くと、徐々に姿をあらわした風格のある建物の、まずは高さに強く目を引かれた。同時代の邸宅で3階以上のものは珍しいし、しかも洋館となればなおさら。現代の住宅街にあると異彩を放つ。
佇まいからすると石造りのようにも思えるが、実のところは外壁に化粧用レンガを敷きつめて外観を整えた、木造レンガ造り住宅である。積み方は、長手と小口の段が交互に重なるイギリス積み。
この建物は関東大震災以前に上棟されたのも特筆すべき点で、田中家は材木商をしていたこともあってか、全体に使われている建材はどれも良質かつ豪華だった。
商家らしく、玄関の引き戸に手をかけるとすぐそこが帳場になっていて、華美ではないが格式を感じさせる格天井に視線を奪われる。空間を睥睨する大きな時計の右下には使用人を呼ぶための装置があって、おそらくはどの部屋に用があるのかを示すため、対応する部分が電気で光ったのだろうと思う。
順路に従って進むと、洋館一階に位置する応接間が現れた。
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「高さ」の洋館
置いてある椅子の形の良い脚。何より天井中央、漆喰でできた鏝絵風のレリーフから釣り下がる、優美な照明!
真ん中の大きなものは楽器か酒樽、周りの小さなものは飲み物を注ぐ杯の一種に見える。今にも果汁の芳醇な香りが漂ってきそう。3つとも、ゼンマイのような意匠の金属部分に支えられているのもたまらない。
二重になった上げ下げ窓の部分から伺える厚みは、すなわちレンガの幅だった。大通りに面しているので、外を頻繁に乗用車が通っているのを見ると奇妙な感じがする。ほんの数分前まで地下鉄の駅にいたのに、今は自分の肉体だけがさっきと違う時間の中にあるようで。
上でも建材の話をしたが、この部屋の腰壁に使われているのも立派な杉板。最高級の木材が惜しげもなく用いられた旧田中家住宅、その建築費用総額は、現代の価値に換算するとおおよそ2億5千万円にも上るという。一介の庶民にすぎないので、話を聞いてぶるぶるした。
一階応接室の脇にあるのは通用口。淡い青、黄、桃と繊細な色遣いが特徴のステンドグラスが左手にあった。まるで、ほのかに甘い氷菓子のような佇まい。触れればわずかな熱でもきっと溶けてしまうだろう。
薄いすりガラスの向こうに何かが見える。
そっと扉を開けて外に顔を出すと、あるのは洋館に隣接する文庫蔵のレンガの壁。また、花壇からは青々とアカンサスの葉が茂っているのだが、説明によれば、この植物をモチーフにした意匠が旧田中家内の装飾には多く確認できるらしい。
振り返れば、なるほど応接室の天井のレリーフはその葉の形をしていた。加えて部屋から移動すると、階段の木の手すりを支える柱にも、どことなく愛嬌のある実の彫刻が生えていることに気が付く。
ああ、階段。この邸宅が幻惑の本領を発揮するのは、まさにここからだ。
かなり理想の階段と踊り場だったから、魂を抜かれてしまうかと思った。あるいはもうとっくに半分くらい抜かれていて、家にいる自分は、前よりも少し軽くなった殻に近いのかもしれない。印象的な場所や人物のことを頭に浮かべているとき、実際、魂は胸のうちに留まらずその対象のそばを漂っているものらしいから。
洋館の折り重なる階段を、この角度から眺めるのが私はとりわけ好きだ。階段というものを抱いている縦長の空間そのもの、まさに「箱」みたいな在り方にも大きな魅力を感じる。外に露出している良さとはまた異なっていて。
踊り場は辻みたい。館内に棲む魔とすれ違うなら、間違いなくここ。昼夜を問わず。
上で箱だと表現したけれど、きっと、檻でもあるんだ。欄干は格子。一段目に足をかけたら最後、角ばった螺旋を描く軌道の中に、人の動きは驚くほど綺麗に取り込まれてしまう。そして上って、また下りる、反復の過程を経て最後に踏みしめた段が、自分がもと居た空間の床にきちんと繋がっているとは限らない。
この階段から、まずは最上階の南側にある大広間を見学することになる。
一階にも応接室があったが、あえて地面よりも高く眺めのよい場所に迎賓の空間を設けているのには、明確な意図が感じられた。
部屋全体はイギリスのジョージアン様式風になっていて、天井の中心飾りに施されているのは、細やかな漆喰の花。きっと、探せばそこにもアカンサスがいるだろう。
そして、古代ギリシアの神殿のようなイオニア式の白い柱が大広間全体を支える。
窓から午前の光線が射しこみ、誰もいないのにソファとテーブルの並ぶこの場所で、幻想の煙に巻かれた私はひとりの少女に話しかけられた。もちろん、実際にそんなものはいないのだけれど。
「この家の主人も、間借人も、それから使用人もみんな『私』なんです」とテーブルの向かいで笑む彼女の言葉は本当なのだろう。思えば玄関で上着を預かってくれたのも、先刻廊下ですれ違ったのも、確かに同じ顔をしていた。「一つしかない体で長い時間を生き過ぎたので」と彼女は重ね、指先で焼菓子をつまみ頬張る。
そうして、気が付くとすぐに消えてしまう。寂しいけれども仕方がない。
同階の横の部屋は控室になっているほか、もうひとつの入口が元の蔵へと接続しており、この埼玉・川口がひと昔前……江戸時代後期から昭和30年代まで、味噌作りで栄えていた頃の様子を展示で知ることができる。地場産業であった。
邸宅を建てた田中家は材木を扱うほか、「上田一味噌」という商標を掲げ、味噌醸造で名をあげていたそうだ。
2階に下りるとそこは、書斎とお座敷。
角のところにある棚がおしゃれで気になった。田中家住宅内にある調度品には、建造当時の大正時代に作られたものと、昭和48年の改築にあたって新しく追加されたといわれているもの、2種類がある。
棚がどちらに属するのかは不明だが、角にすっぽり収まるようになっている佇まいが魅力的で、なんだか心に残った。私の部屋にも欲しい。
窓の外にはバルコニーも設けられている。タイルや青銅色の手すりが美しく、そこから眺める風景と、現在ではなく田中家建造当時に広がっていたであろう空の広さを想像して目を細めた。さぞ美しかったことだろう。
今では、かつて付近の水路沿いに並んでいたという蔵の数々は見えないが、むしろそのことが屋敷の経てきた時間を強調するようにも思える。
書斎の横に設けられた数寄屋造りの座敷は、洋館の領域にある中では唯一の畳敷きの部屋だ。8畳の座敷に隣り合う6畳の広縁、その内装は和風ながら、レンガ壁の厚みの内側に設けられた窓は他の部屋と同じ上げ下げ窓で、外から見るとその様子はまったく伺えない。
隠れ家みたいだった。
吹き寄せ竿縁(竿扶)天井に贅沢に用いられている屋久杉が、遠い土地の空気を訪問者にも伝えてくれる気がする。
この部屋に隣接した階段から下に降りると別の空間へ繋がっているのだが、見学開始からこの時点までずっと「縦」の空間にいた自分の意識が、今度はいきなり「横」へと引っ張られていく不思議な感覚をおぼえた。
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「奥行き」の和館
大正時代竣工の洋館に隣接しているのは、昭和9年に増築された和館。
個人的な好みというのを差し引いても照明器具が素晴らしい。
私は一歩ごとに内心で感嘆の声を零していた。洋館部分も素晴らしいが、旧田中家住宅の真髄はむしろ、洋館から和館へ驚くほど違和感なく繋がり、横へぐっと広がる奥行きにこそ宿っているのかもしれないと思わされる。
照明器具類にもとにかく魅了されて。天井から下がっていると言うよりか、空間を貫いている、太い氷のつららを連想させる風格が稀有だった。他ではなかなか見られるものではない。意匠そのものも、醸し出される雰囲気も。
屋敷内の細部の意匠に出会うたび、都度小さく感嘆を零しながら家主の後ろを静かについていきたいし、突然の来客に驚きつつ隣の部屋からその歓談に耳を傾けて、あわよくば成り行きで一緒にお茶を飲みたい。どんどん欲求が増えていく。
こういう、金庫の中をこっそり見せてもらえるとか……。
立派な神棚もある。
私は近代建築を訪れるたびに水回りが良い、と呟いているが、田中家も非常に良質なお手洗いを保有していた。和館1階にある個室には立ち入れないものの、扉の隙間から中を覗くことができる。魅力を貪りたく、血眼で目を凝らして。
床は縁甲板張りで、屋久杉一枚板の帯板戸にガラス吹き寄せ障子。縁甲板……というと耳馴染みのない感じがする仕上げの技法は、いわゆるフローリングのこと。もちろん、現代の私達が頭に思い浮かべるフローリングとはだいぶ趣が違う。
館内は奥行きがある分、昼間でも陽光に照らされている場所とそれが届かない場所との違いが際立っていて、うす暗いところでは少し心を乱された。どきどきする。
吸血鬼とか、日光を嫌がる生き物が根城にしている家みたいで。
ガラス張りの引き戸越しに光の溢れる廊下からは庭が見える。また、反対の方角に回ると半透明の模様越しにレンガが見えるのも面白い。
これらのレンガは輸入品ではなく、田中家の建設時、実際に周囲にいた職人の力を借りて焼き上げたものだという。木材に材木を扱う家らしいこだわりを発揮するだけでなく、建材全体に意識を向け、力を入れていたのだとわかる。
田中家住宅を建てた四代目 田中德兵衞は、家業である材木商と味噌醸造業のかたわら、南平柳村の村長や埼玉県会議員としても働いていた。
ここだけでなく、現在も残っている近代の邸宅の多くは、住居としてだけでなく迎賓のための用途を想定して造られたのだと改めて思う。人の集まる場所、人のくつろげる場所が必要で、なおかつそこは家名を損なうような空間であってはならないのだ。
いきなり「うちはどうだった?」と背後からまたあの女の子に聞かれた。何人もいるようだけれどやっぱり同じ顔。あまり長く滞在していると逃がしてくれなさそうだから、退散することに。
去り際に振り返ると、帳場の奥と和館を隔てる壁に設けられた大きな扉があって、これは火事対策も兼ねて取り付けられたものだそうだ。横のやつは防火シャッターを引き出すとき使う紐、らしい。
勝手口や土間の方を通ったときは、長年の炊事で黒く煤けた壁や天井に染みついている時間に意識をとられて、ふたたび辿り着いた正面玄関はひどく眩しかった。