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彷徨する自由帖

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【後編】石段街を下って巡る復路、路地の枝や建築物 - 伊香保温泉逍遥 1泊2日|群馬県・渋川市

 

 

 

 

 上記ふたつの記事の続き。

 

後編の目次:

 

復路 下り坂

  • 石段街の中心にて

 

 朝早く起床して、旅館の部屋から外に意識を向ければ、それはもう見事としか言いようのない美しい空模様。昨日のものとは大違いで、まさに「こういうやつ」が見たかったのだと頷いた。

 あの感じはあの感じでまた違った良さと風情ある雰囲気を醸し出していたから、別に初日の曇天が残念だと思っていたわけではなく、どうせ2日間を過ごすのならそれぞれ異なる伊香保の表情を見られた方が得だ、となんとなく考えていただけ。果たして、願いは叶えられたのだった。

 そして何より胸に名状しがたい感覚をもたらしたのが、この場所らしさが非常によく出ている独特の空気。人っ子一人通らない宿泊施設の前の路。どこか現実離れしている要素、それぞれの在り方。各客室には多くの旅行客が滞在しているのだろうに……そう、人間だけではなくて、建物も街自体も、目覚めていながら半ば眠りの中にいるような様子だった。

 神社の鳥居から途切れず伸びている階段は、確かに、人ならざる者が音もなく行き来するためのもの。神様だって妖怪だって隔てなく、温泉が好きなのだ。そう納得させられる。

 

 

 ある土地に温泉が湧く。すると、それに浸かりたい人々がどこからかやってきて、やがて彼らをもてなす商売の形態が生まれ、旅館や遊技場が集まって町になる。そういう当たり前のことが私にはいつも新鮮で面白く感じられ、だからこそ温泉自体もそうだし、広義の「温泉街」がかなり好き。

 その性質として、昼と夜ではがらっと雰囲気が変わるところにも注目したい。街が最も活気づくのは午後、夕方から夜にかけてだ。

 朝に旅館を出て、温泉地を去ろうとしているときの寂しさはかなり独特だと思う。けっして悲しい、と言っているのではない。ものさびしいとかうらさびしいとか、そういう音にしか乗せられない、あの感じ。土地と人の半分が眠っている中を、自分は起きて闊歩している状態。すると、胸に去来する何か。たまに朝までずっと起きていて、街灯が消える瞬間を見たい……と考える時もある。

 一晩眠って目を覚ますと、町が全然知らない顔になっている。そう、それ、本当にそういう印象があるのだった。前日の夕方に着いて知った空気の香りも、壁の色なんかも、次の日の払暁を過ぎればことごとく変わって見える。あんなに沢山話したのに、もう相手の名前すら憶えていない、なんて言いたげに。

 

 

 伊香保の名物、石段街。

 とりあえず歩いてみるのは賑やかで明るい表の通り。目に入った「湯乃花饅頭」の店や、左側に続く路地(後述する)の影響で佇まいが意味深長な、現在は物産店や遊技場として営業しているらしい「つたや物産店」の建物が気になるところ。隅っこが丸くて角がなく、可愛い。付近にはその店名が掲げられた街灯も見つけられた。このあたりで忘れずに、おまんじゅうを買う。

 金曜日に到着して、こうして午前から街を散策していたのは土曜日のことになる。人通りも活気もそれなりにあった。寂れているのかと聞かれれば否、といえる程度に。だから尚更なのか、坂の上の方で見かけた邦来館の廃墟しかり、閉館した橋本ホテルしかり、廃業後の旅館跡がわりと多くそのまま残っているのに気が付かされる瞬間が興味深い。昔はおそらく、現在の数倍は栄えていたところなのだろう。伊香保の地は。

 比較的規模の大きく、何より石段街で最も大きな中心の通りに面している中で、目立った廃墟が「村松旅館」。営業しているのかと最初は思ったが違った。メインのエリアにあってこの状態のまま残されているというのも珍しいというか、やはり、解体か再利用にもお金や手間がかかってしまうものなのか。

 

 

 村松旅館はどうやら2006年までは営業していたらしかった。近代遺産で廃墟となっている「伊香保観光ホテル」の廃業が2007年だから、このあたりがわりと大きな変化の時期だったのかもしれない。

 石段を下り、歩きながら考える。万葉集にも地名が記載されていたくらい、温泉自体は古くから湧いていた。やがて、こんな風に階段自体が街の核を形成する、傾斜の特徴的な伊香保の姿へと変化していったその基盤は、一体いつごろ固められたものなのだろう。

 調べてみると今ある街の原型は16世紀後半に遡ることができそうで、かつ現在ある石段に御影石が敷かれたのが、昭和55~60年頃だそう。

 真っ直ぐに一直線、ではなく、ところどころ軽く折れ曲がりながら伸び、部分的に踊り場が設けられている階段。上に行けば行くほど狭く、反対に裾野へ向かえば幅がぐっと広くなる。ところどころ洋風の電灯が立っているのがまた魅力的で、個人的に好きな要素が多く、全体の造形も楽しめる場所だと思った。

 街の中に比較的大きな高低差があり、はっきりした主要部分から路が枝分かれしていて、ある種の統一された空気が漂っていながら細部が多様。そういうスポットが自分の嗜好に合致するのかもしれない……?

 岐阜の馬籠宿などもそうだった。振り返ってみれば。

 

  • 木の樋で湯を分ける

 

 施錠されたガラスの扉。特徴的な覗き穴。

 石段街の要所に設けられた観覧所から見えるのが何かといえば、湯樋、である。栗の木を用いて作られた湯樋と、そこを勢いよく流れ落ちていく、毎分約4000リットル湧出するとされる「黄金の湯」の源泉。これは江戸時代、寛永16年に井伊直好が採用したシステムが今に受け継がれているもので、源泉を引く権利を持つ各旅館に湯を決められた分量だけ配分するためのものだった。

 小間口には切り落としの細工が施されている。なので、もしも源泉の湧出量が急激に増えることがあっても、そこから各旅館へ分配される湯の量は一定で同じ。そのようにして源泉周辺の権利が守られ、分けられた湯が旅行客に提供されているのだった。

 この切小間(切こ満)の湯樋は数年に一度の点検と改修が必要で、その際は源泉の利用権を有する者たち全員が一堂に会し、不正などがないよう一部始終を見守ることになっている。特に切り落とし部分の打ち替えに関しては、その都度前の寸法を測って行っているというから、相当に神経を使うのだろう。

 

 

 ガラス越しに流れ落ちる湯と、隙間から立ちのぼる湯気を眺めたり、地下から聞こえる轟音に耳を澄ましたりしていると、どきどきする。街の心音、その鳴動に間近で触れているような気がするし、実際にそうなのだから。湯の源泉こそが温泉街の血液であり、生命そのもの。仮に失われれば街もない。

 石段街を通る人間の足下には湯樋がある。そこを休まず通り抜けていくものがあること、意識するのとしないのとでは散策の面白さが雲泥の差。

 ちなみに私達の泊まった横手館も権利者組合に名を連ねる宿のうちのひとつで、定められた湯の分配量は7分(しちぶ)となっていた。伊香保では御三家と呼ばれる旅館へ配られる湯の量が多めで、例えば、その筆頭の千明仁泉亭への配湯量なら9分7厘だと組合のウェブサイトに記載されている。

 

  • あやしい一角

 唐突に、予期せず「お楽しみの時間」がやってきた。

 ここは湯の香通り。

 

 

 こういう一角を日本中どこに行っても探している。伊香保にあるものも、実に風情があって良い、静かな通りであった。

 料飲組合……観光協会推奨の店……18歳未満の方お断り……青山旅館……スナック石段。それに斜めの取手が二本並んだドア。もうほとんどの店舗が営業しておらず、人間の影もない。豆腐に文字を書いたみたいな四角い看板も、上のところが丸い入り口も、私にとって目印のような存在だった。

 もの寂しさと、そこはかとないあやしさとを併せ持った魅惑の場所。それなのに、私は発見するとどうしても落ち着いていられなくて「あ、ちょ、ちょっと一瞬石段から横に逸れていい? 良いもの見つけちゃった……覗いてくる、本当いきなり奇矯な動きしてごめんね……」って脇の友達に言いながら移動をしていた。

 正気を保つのが難しい。

 しばらく意識を飛ばして魅力的な建物に全力で駆けて行ったり、街中にあるぐっとくる一点に引き寄せられて無心で何枚か写真を撮ったり、急に奇行種みたいなことをしても構わずそこに居て待っていてくれるのでみんな優しいと思う。今後も、なまぬるい眼差しで見守っていてほしい。

 

 

 

 

 飾りとしての瓦の庇。正方形の豆タイル。2階の欄干。

 どれも合言葉を彷彿とさせる要素で、それゆえ彼らに出会える場所は視覚的な狙い目だった。しかし短い中にぎゅっと見どころが凝縮されている道でたまらず、全体をこのまま保存して縮小し持ち帰りたくなる。適当な魔法をかけて。

 さっき湯の花まんじゅうを買ったつたや物産店がメインの通りとの境目になっているため、いっそうこの特定の空間の、ちょっとうらぶれた感じが引き立っていた。そこで全盛期に遊ばれていたのは、射的でもダーツでも輪投げでもなかったはず……。

 かつて路地のいちばん奥にあったのが有明館。すでに廃業・閉館しているけれど、建物は残っている。

 石段街自体が賑わっていても横道には誰もいない、こういう領域も伊香保には多くあって、もう少し階段を下ったところにある道もそのうちの一つだった。

 

  • 近代の建築物

 

 ここは、群馬銀行伊香保出張所が昭和21年からしばらく入っていた建物。地下1階建て、地上2階建て。

 横の階段を下りれば裏側も覗けるようになっている。正面から仰ぐと「香月」なる四角い看板の文字が残っていて、おそらく銀行でなくなった後は、飲食店や宿として使われていたのだろうと伺えた。あまり知られていなさそうだけれどとても良い。木の扉も、そこに嵌まったガラスの色や質感も。もう、中に立ち入る人間はまったくいないのだろうか。どんな風に管理されているんだろう。

 裏の方に回ってみた時のこの感じ。建築物がひしめく場所では必然的に生まれる、けれど表には晒されない空間の妙。随分とほこりっぽくて、あまり長い間滞在しても息が詰まるが、たまに下りて行きたくなる性質の何か。そうだ、猫になってみたい。しなやかな猫の身を自由にすべらせたり、軽やかに跳躍したりして、街を歩き回れたら。何にせよ人間の散策には向かない場所らしい。

 暗がりに対峙すると、待ち構えているようにある逆さまのキリン(KIRIN)。

 

 

 その向かいにあるのが昭和20年に建てられた建造物。

 こちらは写真屋から演芸場へと役割の推移したものだった。軒下に「さくらフィルム」の看板がある。この名称は、合併前のコニカ株式会社がむかし販売していたフィルムの商品名で、おそらくは「コニカカラー」よりもっと前……「さくらカラー」と呼ばれていた頃に設置されたものなのだろう。

 看板は結構珍しいらしいので、じっくりと観察した。黄と緑と黒の組み合わせがかわいい。吊るされた赤い提灯と、繁茂する草も建物によく馴染んでいて、向かいにある元銀行の建物とは大きく異なり現役の施設として生きている感じがする。夜になったらどんな明かりがつくのだろう。

 ここに至るまで、だいぶ石段坂を下ってきた。前編に引き続き特別なことは何もせず、ただ歩いているだけなのに、こんなにも楽しい。

 

  • 玉こんにゃく串を片手に

 このショーケースの感じ、好きだな。

 昔の煙草販売ブースを思わせる、出窓みたいな部分。「木のおもちゃ」と書いてありお土産が並んでいる。資生堂化粧品、の文字が残っているが化粧品は見当たらない。

 

 

 そして魅惑の木の欄干に出会ったのは細い道。近くに段差があるから自分の足元と同じ高さに屋根が並んで重なり、見渡すと、錆色の海が空中で波を寄せているように思える。鞠を持った子供の影が、その上を跳躍しながら駆けていく幻を見た。

 大通りに戻ってくると、道行く人々が玉こんにゃくの串を持っている。

 近くに売っているお店があるみたいだったので、さっそく探して買ってみることに。1本100円。その手軽さに、もうだいぶ長い間行っていない縁日の屋台などを連想させられて、懐かしい気分になった。あ、あれも食べたい。割り箸の先でうすいモナカの板に挟まれた、水飴というやつ。

 

 

 私は普段、こんにゃくを頻繁には食べない。

 だからきちんとそのおいしさを理解できるか不安だったけれど、全然大丈夫だった。

 

 

 串に刺さった3つのまあるいこんにゃく。その数と同じく、三口でさくっと食べ終われるだろうと思いきや、これが見た目よりもなかなか量がある。しかもできたてで熱い。猫舌の自分には致命的であり、少しずつ冷ましながらかじりつつ、時間をかけてなんとか食べきった。

 弾力のある白いこんにゃく本体。しょっぱくてほんのり甘い出汁が染みているのは、主にその表面、つまり外側だけだ。だから最初は、味が薄くて物足りなくなってしまうのでは、と危惧していたものの、内側は内側でこんにゃく自体の豊かな風味が確かにあり、噛んでいると舌に優しく感じられた。

 そう、優しい。口と胃に穏やかに作用してくる食べ物、という印象で、ゆっくり咀嚼していると想像以上に満足感をもたらす。なお、店頭にからしが置いてあるため、お好みで辛さを調節できるのも良い点だ。

「ぷるぷる」のこんにゃく。

 近くで発見した歌えるスナックの店名は「るんるん」。

 

 

 満喫している。伊香保温泉を。

 

  • 旧ハワイ王国公使別邸

 辿り着いた石段街の最下段エリア、平らに整備された土地の片隅に、ぽつんと邸宅が残っている。

 木の色や木目の模様がきれいな感じの家。

 それが旧ハワイ王国公使別邸なのだと知り、一体ハワイの公使と伊香保の土地にどんな縁があったのか……? と、頭をひねった。この日は別邸内部が公開されていない日だったので、ひとまず外観だけ堪能し、後から詳細を調べてみることにして。あたりでは木造建築の良い香りがした。

 

 

 どうやらこの建物は、ロバート・W・アルウィンという、駐日ハワイ王国弁理公使だった人物が伊香保に設けた別邸を、移築保存し公開している施設らしい。

 ハワイも温暖な地域だが、やはり日本の高温多湿を極める夏には辟易したと見えて、アルウィン氏は避暑地を探していた。そこで、当時の政府高官であった井上馨が紹介したのが伊香保の地。それからも長く日本に暮らした公使はこの場所を愛し続け、今では坂のふもとの「アルウィン公園」にもその名前が刻まれるほど、伊香保に由縁のある人物となった。

 そんなアルウィン公園こそが、伊香保石段街の終着点。

 

 

 ときおり路地に逸れながら階段を下ってきたのは良いルートだったと思う。下からではなく、飲泉所から神社に至る道の方から散策を初めて、遠景の山を眺めながら徐々に下りていく。

 坂の上で湧いた源泉が木の樋を伝って流れてくる様子さながら、順路に身を任せて歩いてきたからなおさら面白かった。

 

 これは余談だが、帰りに渋川駅行きのバスに乗っていると、ある看板が道路に立っていた。「うまい焼肉 あおぞら」という食事処のもので、この先〇〇メートル……という表記の下に「豪華トイレ」と書いてあったのが衝撃的かつ印象的で、未だに気になっている。

 検索すると色々情報が出てきて、料理は確かにおいしいが、お手洗いは特に豪華でもなく普通らしい。謎だった。

 もともと自分はお風呂が好きだけれど、温泉にはさほど関心を持ってこなかった人間なので、今後も周囲におすすめを尋ねたり連れて行ってもらったりしながらゆるく多種多様なお湯と温泉地を楽しみたい。

 

 

 

 

 

【前編】石段街より上方を歩く往路、閑散とした良さ - 伊香保温泉逍遥 1泊2日|群馬県・渋川市

 

 

 

 

 壁の質感、屋根の形、何よりこの「大丸土地」の文字の入り方に、とっ……ても惹かれる。

 向きが横じゃなくて縦であるのもかなり良い。

 渋川駅を出発したバスから降りて、比較的すぐ目に入った建物に対し、真っ先に抱いた感想がそれだった。

 

 

 群馬県中央のあたりに位置する、伊香保の地。3月の末頃に泊まっていた。

 実はそれが最初に話題に上ったきっかけも、では行ってみましょうか、と最終的に決定させられた要素が何だったのかも、今年の春はさほど遠い過去ではないのにはっきりと思い出せない。そういうことってあるのだろうか。まあ、あるのかもしれない。実際にそうなので。全くどうでもいいわけではないけれど、きっかけはきっかけであり、単純にそれだけのこと。

 ほら、そこの方、あんまり人を忘れっぽいとか揶揄するものではないのである。

 確か首都圏から1泊で、無理なく満喫して帰って来られる温泉地、を条件に友達と地名を挙げていったところ、どこかで伊香保の存在が私達の視界に飛び込んできたはず……だった。湧いている湯の泉質のほか、現地を散策する上であまり色々なものに目移りしなくてよい、適度にコンパクトな街の感じも魅力的に映った。

 ちなみに伊香保のある渋川市は、しげの秀一氏の漫画「頭文字D」の聖地らしい。

 

 

 首都圏からの交通アクセスの選択肢は多い。今回の往路で利用したのは、JRの在来線と路線バスを組み合わせる方法。

 まずは高崎線、上野東京ラインの区間を走るうち「快速アーバン」の愛称で呼ばれる電車に飛び乗って、早朝に起床した眠気を抱いたまま高崎駅へと向かった。降車したらJR上越線に乗り換えて、最寄りの渋川駅に到着後、わかりやすく伊香保温泉と表示のあるバスに乗るだけ。

 この簡単・安心の旅程。困難の多い旅もそれなりに楽しいけれど、煩わしい手間のかからない癒しの温泉旅だってもちろんすばらしい。面倒の大半は背後に置いてきた。

 しばらくバスに揺られれば、伊香保ロープウェイの不如帰駅近くがその終着点(他に違う種類のバスも有)。歩いて街の中心の方角へ向かうと、石段の中腹より少し高い場所、伊香保神社のすぐ下のところに出る。さあ、ここからはどんな風に動こう。窮屈だった昔の修学旅行とは違う。宿泊する旅館、横手館にチェックインするまで、どのあたりにいって何をしてもいい。

 

 

 そこでこう考えた。この日は今立っている場所から、伊香保温泉石段街を起点として、上半分を歩いてみる。それで明日チェックアウトを済ませたら、次に下半分を散策してみようか、と。

 石段の両脇に各種施設が立ち並び、それを中心にして路地の枝が伸びている街の構造を思えば、それがいちばん単純明快な行程かつ面白そうに思えてきて。まずは伊香保神社でご挨拶を兼ねてお参りをした。拝殿の後ろに回り、奥の方へ進む。

 1日目は到着直後から夕方までずっと曇天のまま、標高700メートルほどに位置する現地は3月末でもかなり肌寒く、歩いて体を温めるのがいっそう心地よく感じられた。そして次の日の朝、さらに想像を超える寒さに苛まれることになるのだけれど、まだ私達はそれを知らない。

 

前編の目次:

 

往路 上り坂

  • 散策前のぼんやり

 

 鳥居の前の階段を上りきり、背後を振り返ってみると、旅館の建物の隙間から遠くの山々が望めた。ちょうど正面にかなり特徴的な形をした、とんがり頭の3人が肩を並べているのがわかる。ものすごく無理矢理に捉えると「猫の耳」に見えなくもない……と、私は思うのだけれど、誰に聞いても同意してもらえないので、感覚としてどこかずれているらしかった。

 写真の山は左から十二ヶ岳、中ノ岳、小野子山。

 地図を見ると、その手前に広がっているのは吾妻川沿いの街や、ゴルフ場。あのあたりにも小野上温泉や吾妻温泉があり、伊香保の近辺はとにかく湯に恵まれた土地であるのだとわかる。ずっと奥ではあるが、伊香保から北西の方に進み続けると、かの高名な草津温泉も存在している。

 草津と言えば、ドイツからお雇い外国人として来日し、日本近代医学の父と呼ばれていたエルウィン・フォン・ベルツ博士が、ハンセン病の療養に効果があるとして特に熱い視線を向けていた土地。実は同じ群馬県内にある伊香保温泉は、草津よりも前に彼によって「鉱泉分析」を受け、それをきっかけに効能をひろく知られることとなっていたのだった。

 

 

 では伊香保温泉の湯の、特徴とは?

 第一に挙げられるのは茶褐色をした湯の色。これは地中ではまったく違う色をしているようだが、含まれる鉄分が空気に触れて酸化するため、私達の目に映る頃にはそのような姿になるみたい。また、かなり顕著な金属の香りと味も。後者に関しては飲泉所で実際に体感することになるので、また後の項で述べるとする。

 伊香保温泉旅館協同組合のウェブサイト「伊香保づくし」から効能を引用してみよう。

 

浴用の適応症

神経痛・筋肉痛・関節痛・五十肩・運動麻痺・冷え性・病後快復期・疲労回復切り傷・火傷・虚弱児童・慢性消火器病・動脈硬化症・慢性皮膚病・高血圧など

 

~伊香保のご紹介 伊香保づくし[伊香保温泉協同組合] より

 

 これ以外にも俗に「子宝の湯」として知られており、付近を歩いていると子宝饅頭を販売している店を見かけた。

 石段街中腹の風景がアイコンとして有名な伊香保温泉だが、これから私達がするように、川沿いの道を辿って上の方まで散策してみるのも面白いもの。温泉地に何を求めて来るのかは人それぞれで、個人的には何とも言えない寂寥感をそこかしこに見出すのも楽しみにしている。

 そう考えてみるとこの季節は良かったのかもしれない。時期を考えると春だが、標高が高く、気温の低いこのあたり一帯の木々はまだ冬用の衣を纏っているように見えた。風がつめたく、金曜日という平日でもあるからか賑わいは鳴りを潜めていて、それゆえ散策そのものに集中できる。不思議と何でも面白くなってしまう。

 そう、仮に栄えている場所だからといって、無条件に訪問が楽しくなるわけではない……。反対に、具体的な物事が溢れていなくても楽しい場所は、確かにある。

 

  • お店や旅館の並ぶ道

 

「湯の花饅頭 勝月堂」が存在しているのと同じ通りに、「邦来館」という旅館の看板がある。調べてみると結構前に閉館し、廃墟となっていたみたいで、そのわりにはまあまあ綺麗な状態で残っているなと思った。一見、営業中なのかと感じたくらいには。

 前述したとおりの平日、さらに看板だけが残ってすでに商いをしていない店舗の数もかなり多いのか、独特の雰囲気があってたまらない。とにかく静か。

 川に面した立地柄、建物と建物の隙間を覗くと高確率で細い石段があって、用もないのに吸い込まれてしまいそうになる。斜面が持つのは相当に危険な魅力で、それはぐっと近付かなければ下に何があるのか視認できない、という状態の性質と、けっして無関係ではないはず。

 首がいくつあっても足りないくらい周囲に注意を払って進んでいくと、本当に些細なレンガ風タイルの視覚的なリズムとか、置いてあるバケツとの位置的な関係とかをつい考えて足が止まってしまい、ほどほどにしないと永劫に坂の上まで辿り着けないと危惧する必要に迫られるのだった。

 

 

 また少し先には「元祖子宝饅頭製造元」の看板。

 上の項でも言及した、温泉の効能に関する俗説に由来する特産品。けれど現在は販売されていなさそうで、青色とクリーム色で構成されたしましまのオーニング庇や、店名の下のTEL (イカホ) 261という、電話番号の表示が味わい深かった。

 考えてみれば伊香保という地名は漢字表記と音の双方が面白い。由来には諸説あり、特にこれが有力な説、という風にも現時点ではきちんと絞り切れないよう。地名とは得てしてそういうものなのかもしれないが。しかし、本当に空気がつめたくて快適だった。夏の暑さに喘いでいる今、写真からこの時・この場所の空気を取り出して自分の部屋に充満させたり、ストローで吸い込んだりしたい。させてほしい。

 今度は「木村物産店」の建物に遭遇し、どういういきさつでこういう状態になったのかは分からないけれど、ぐっと湾曲した看板の板にときめきをおぼえた。木だから経年や湿気によって反り返ったのか、あるいは他に理由があるのか……。ところで「物産店」という名前には、どこか懐かしさを胸に喚起される。響きにも、字面にも。

 

 

 オ……オロナミン、C……?

 あのう、オロナミンCさんですか? と勇気を出して尋ねても、ニンゲンの声では返事の返ってこなさそうな看板が道端にぽつんと残っている。かろうじて笑顔のような表情が観測できるのも絶妙に恐ろしく、おお、くわばら、くわばらと唱えながら足早にその前を去った。うっかり捕まらなくて良かった。

 さっきよりも水の音が近くに聞こえ、やがて川と橋が見えてくる。気が付けば1本しかない道の、もうそれなりに上の方まで来たようだった。坂の傾斜はきつくなく、歩いていても全然疲れない。

 

  • 河鹿橋

 

 鮮やかな黄土色の川の土は、きっと湧き出る温泉の成分の影響も受けているのだろう。そして欄干が赤いのが、伊香保の河鹿橋(かじかばし)。

 他の地域でも同名の橋を見かけるけれど、これって一体どういった意味があるのだろうか。河に鹿。調べると「河鹿」というのがカジカガエルを意味しているとわかり、そういうことなら、水辺にかかる橋の名称として納得できる気がした。これまではずっと名前を見かけるたび、弧を描く橋を軽やかに渡っていく、動物の方のシカの姿しか浮かんでこなかったから。

 それはそれで幻想的な光景だと思えて好きではある。夜、橋の親柱のところで息を殺しながら立っていて、あるとき思わず身じろぎすると……足元の小石が高い音を立てて、橋を渡りかけていたきれいな鹿がくるっとこっちを振り向く。その目の色の深さに私はたじろぎ、自分は何をどうしたらよいのか、すっかり分からなくなってしまう。

 出会いたいけれど出会いたくない幻の鹿。

 しかし河鹿がカエルの一種のことであれば、無事に帰る、という言葉とかけて、縁起を担ぐことができるじゃないか。それはいい。これなら、人知を超えた深みへ迷い込んでしまう心配もないだろう。なので願っておく、最後にはきちんとおうちに帰れますように、って。

 

 

 

 

  • 橋本ホテル

 

 この建物の前に差し掛かったとき、身体か頭のどこかで何かが働いて、おそらくもう営業していないホテルではないかと直感した。果たしてそれは正しく、高揚した気分で正面の石段を勢いよく上ってみる。近付くまでの数秒が待ちきれない。私は閉館してからまだ年月が経過していない、いわゆる廃墟と呼ぶにはあまりにも新しい感じがするホテルが大好きだ。熱海のニューアカオとかも。

 苔むした表面が、ここに頻繁な人通りの絶えて久しいことを、如実に示していた。「当たり」だね。

 ツタの植物に埋まるようにしてガーデン・ノーム(庭小人)がいて、そういうところもすばらしい。しきりに素敵だと呟きつつ、レンガ風の壁、蜘蛛の巣みたいな八角形のステンドグラス窓や、洋燈を連想させる意匠の照明に目をやった。当然ながら誰もいない。それなのにこうして、崩れもせずに建っている建築物の、舞台セットのような空箱的性質。

 板に「引く」と書いてある取手は引けない。そしてその表面に施されたチョコレートクリームみたいな半立体の加工は、むかし油画科で使っていた、丸い形のペインティングナイフを思い出させるのだった。あれにも色々な種類があって、よく洋画家の象徴のようにいろんな作品に登場する、細長い三角形のもの以外にも、大きな画材屋に行けば目が回りそうなほど多様な形状で溢れている。

 

 

 額がすり減るくらいガラスに顔を接近させて、中を覗き込んでいた。絵面が完全に不審者なのである。けれど仕方がないではないか、だって螺旋を描くようにねじれた階段がここから見える部分なんて、ひょっとしたら計算されてそうなったのではないか、と邪推するくらいには美しい。

 橋本ホテルが閉館・廃業したのはどうやら2019年頃のよう。

 経営していた株式会社橋本ホテルは、大本を辿れば明治42年の創業とかなりの歴史を有しており、不景気のあおりを受けた破産という結果はとても残念なことだ。施設の老朽化もそれに至った一因らしいのだが、例えば他の地域や施設のように、レトロで古びた感じを売りにして話題になり、軌道に乗れば、ひょっとしたら再建の道もあったかもしれない。いまさら言っても詮無き話。

 正面入り口に掲げられたアルファベットの並びは、HASHIMOTO HOTEL の文字。

 

 

 裏側から眺めると反転して見える。ごく単純な現象なのに、まるで鏡の向こうの世界に来てしまったようで、少しどきどきするのだった。鏡ならぬ伊香保の国のアリス。

 キャロル著「鏡の国のアリス」ではチェスのルールが物語進行の大きな鍵となるが、もしも伊香保が舞台なら、その盤上の遊戯はおそらく碁か将棋になるに違いない。正直、ちょっと読んでみたいと思わされてしまった。

 ふたたび苔むした階段を下って、現実におかえりなさい、意識。

 

  • 飲泉所

 さて、さて。噂の飲泉所、呑湯というのがここにあるらしい。

 休憩所的な、四阿みたいな屋根の下を覗いてみると、確かに存在している。お湯と湧水、異なる2種類の出てくる管が並んでいて、誰でも自由に飲むことができるようだった。備え付けのコップがあるけれど当然ながら衛生的に恐ろしいので、自分の所持していたペットボトルのキャップを使い、少量を汲んで口に運んでみる。

  とりあえず温かいお湯の方から。どきどき……。

 

 

 …………。まっ……ずい!

 とても、とても、まずい。まずさの権化みたいな味がする。錆びた金属を手当たり次第に鍋に放り込んで、ひとつまみの土を入れ、3日3晩のあいだ煮詰めたらこんな風になるんだろうな、という味。この表現で伝わってほしい。何の事前知識も持たずに挑んだ伊香保の飲泉、各種アレルギーや肥満、美容にも効果があるらしいのだが、結構ハードルが高かった。もちろん、大量に飲むものではそもそもない。

 ちなみに宿泊した旅館の記事で入浴時の感想を少し書いている。浸かる分には快適な温泉も、今度は口に入れるとなると、ずいぶん事情が変わってくるらしかった。当たり前。

 けれどきちんと自分の舌で試したことには価値がある。飲める温泉、というのは文字通りに「飲める」という意味で、けっして飲んでも美味しい温泉、というわけではないのだと実感できて。でも、忘れた頃にもう一度くらいはペロッとしてみたい……と強く思わされてしまうのは、いったい何故なのだろうか。

 巧妙な罠のような気がした。なんとかホイホイに引っかかってしまう虫の気持ちが、今なら分かる気がする。

 

  • ロープウェイで上ノ山公園へ

 

 自然に囲まれた地域において、高所からの見晴らしというのは格別なもの。

 標高700メートルほどに位置する石段街から、さらにロープウェイで上へと向かい、上ノ山公園のときめきデッキまで到達すればそこは標高約955メートルの領域。展望台と森林公園があって、旅館のひしめく下界とは一線を画する静けさに包まれ、風の音や遠くの景色を霞ませる大気の色を存分に堪能できるエリアになるのだった。

 徳富蘆花の小説に由来する名の不如帰(ほととぎす)駅で切符を買って、頂上まで行くのだが、このときおすすめなのは片道のみの切符を買うこと。行きはロープウェイ、帰りは徒歩で、ゆっくり街まで戻ってくると楽しい。

 特に何があるというわけでもないけれど……私達が散策していたときは、キツツキのような鳥が近くにやってきて、木の幹をくちばしで突く高らかな音がしばらく響いていて感覚が研ぎ澄まされた。あとは、地面に落ちている枯葉の形や大きさなんかを見比べて遊んでみるとか。想像以上にその種類は多様で驚かされる。

 利用できない遊具には、魂だけを飛ばしてすべらせておいた。象の鼻をつるつると降りてくる、自分の魂。

 

 

 曇りで、もやのかかったようになっている遠景もけっして悪くない。むしろこういう情景を心が求めているときもある、多分。灰色と薄青と、彩度のごく低い濃緑を混ぜ合わせて、水ではなく大気に溶かして描いた絵。前も後ろも山、森、ときどき街。あらゆるものが眼下に小さく見えて、自己が都合よく世界から切り離されたかのような、心地よい錯覚が胸を支配する。

 おもむろに空気を吸ったり、吐いたり。

 1日目、到着してから半日歩き続け、けっこう伊香保を満喫した気になれたけれど、まだ前半。今度は旅館から石段街の下の方を散策する楽しみが残っている。ひとまず展望デッキから不如帰駅のある通りに歩いて戻って、すぐ近くにあった「SARA"S terrace Arraiya」でキーマカレーと梅ジュースを胃袋に入れてみた。普通においしい。

 上州牛丼も魅力的だったのだが、旅館の夕飯で食べるお肉をかなり楽しみにしていたため、せっかくだから昼食は別のものを、ということで。爽やかな梅の風味にまろやかなカレー、わりと合う。私は梅が好きである。このジュースに載っている梅は、梅酒に漬けられたものだった。

 

 

 温泉地に来てそのあたりをふらふら歩き、色々とぼんやり眺めつつひとりで考え事をしたり、場合によっては人間と話したりして、今度は何かを食べてみる。気になる宿泊施設に滞在して、お湯に浸かる。客室で本を読みさらに眠りゴロゴロする。

 本当にそれだけのことが、どうしてこんなにも心を満たすのか、いくら自分や他人に尋ねても「これ」という納得できる答えはまず返ってこない。異様な満足感、面白さ、中毒性。

 温泉旅ってそういうものなのかもしれない。

 

 記事は【後編】に続く。

 

 宿泊した旅館の部屋はこちら:

 

 

 

 

 

石畳、みどりの水、ゲイエレット姫……「茶房 土蔵」にて - 馬籠宿の米蔵を改装したレトロ喫茶店|岐阜県・中津川市

 

 

 

「エメラルドの都へ行く道は、黄色いレンガの石畳になっていますから、迷うことはありません」
 魔女のおばあさんは言った。

 

(新潮文庫「オズの魔法使い」(2019) 著:L・F・ボーム / 訳:河野万里子 p.23)

 

 中山道六十九次の宿場のひとつ、馬籠宿は坂の上にあって、中心はきれいな石畳の道に貫かれている。けれど色は上で引用したような黄ではなく、陽を受けて明るく輝く灰白色だった。

 この石畳をどこまで辿ってもエメラルドの都には辿り着かない。でも、忍耐強く歩を進めて妻籠宿を越え、南木曽の方まで出れば、それこそ深い緑色をした宝石を思わせる水の流れや、自然に磨き上げられた岩石の群れを目にすることができると、実際に行った後だから知っている。

「オズの魔法使い」冒頭でカンザスから大竜巻で飛ばされ、マンチキンたちの住む東の国で銀の靴を手に入れたドロシー。都への旅を始めたばかりの彼女は、途中、長距離の移動に疲れて大きな館に身を寄せるのだった。いかに危険を退けてくれる魔女の加護があっても、疲労と空腹ばかりは如何ともしがたい。

 だから人間の使う街道の脇には、必ず旅籠屋や料理店、休憩所なんかが軒を連ねる場所が、一定の間隔をあけて点在している。ああ、それは物語の中ではなく、こちらの世界の話。

 

 

 坂の中腹にある喫茶店は土蔵といって、名前が示す通り、以前は米蔵だった建物を利用して昭和46年(1971)から営まれているとのことだった。もとの蔵は、20世紀初頭に建てられたものだと推定されている。

 どこにいても注文するのはだいたいクリームソーダ、あるいはメロンソーダと相場が決まっていて、その日に喫茶店を何件かはしごすると分かっているときだけ冒険して別のものも飲んでいるような気がした。鮮やかに色づいた水は眺めているだけで素晴らしいし、ソーダ水とシロップの割合や、バニラアイスの風味は店によってかなり変わるため、結局は同じものだとか言ってはいけない。全然違うから。

 土蔵で提供されているクリームソーダは軽やかな感じだった。明るめの色で、炭酸の泡は細かく、アイス部分は柔らかいよりもシャリシャリとしている。以前、名古屋のモックで賞味したかなり甘みの強いソーダとも大きく異なり、どちらもおいしい。

 みどり色をした水。

 住民と訪問者、双方が特別なメガネの着用を命じられているエメラルドの都では、家や人だけではなく、キャンディにポップコーンまでもがみな緑のレンズと同じ色に見える。だから都で飲む水は、たとえただの水であったとしても、ことごとくこんな風に自分の目には映るのだろう。

 

 

 気が付けば、食べる品物も緑色のものを選んでいる。抹茶クリームあんみつ。

 抹茶の液の部分が絶妙にあやしい沼地みたいで、なんだかたまらないな、絶対絶対これが良いな、とメニューの写真を見ただけで決めてしまった。考えてみれば色だけでなく、アイスの要素まで、見事にクリームソーダとかぶっている。けっして強欲なのではない。直感に忠実なだけ。

 はじめは抹茶の味が少し薄めなのかもしれないと感じたけれど、その本領はこっくりとしたバニラアイス(ソーダの上に載っているものとは違う種類)が溶けだしてきてこそ発揮される。ふたつが混ざってなめらかになった液は、甘い餡の味わいと口の中で重なって、この上ない充足をもたらす。

 おいしい「緑色の飲食物」を立て続けに摂取するのは、非常に心身の健康によかった。この時だけは私もエメラルドの都の住民気分を楽しめる。

 

街角では、男の人が緑のレモネードを売っていた。そしてそれを買いに来た子どもは、緑の硬貨を出していた。

 

(新潮文庫「オズの魔法使い」(2019) 著:L・F・ボーム / 訳:河野万里子 p.108)

 

 

 

 ところで。「オズの魔法使い」の中でも好きな、あるいはどこかが気に入っている登場人物について考えたとき、私の頭には真っ先にゲイエレット姫(Gayelette)の名前が浮かんでくる。作中世界の北方、ギリキンの国に住んでいた賢く美しい姫君で、それは強力な魔法の力を持っていた。

 彼女について言及している人をあまり見かけないのが意外なくらい、物語におけるその重要度は高い。直接的・間接的に幾度となくドロシーを助けた黄金の帽子、それはもともとゲイエレット姫の結婚相手……人間のクェララのために作られた帽子だったから。

 翼の生えたサル達が帽子の持ち主に3度従わなければならない理由も、作中で彼ら自身の口から詳しく語られている。かつてクェララに悪質ないたずらを仕掛けたことで、ゲイエレット姫の怒りを買った。それで帽子に存在を紐づけられてしまったのだと。

 

黄金の帽子の最初の持ち主となったクェララは、婚礼が終わると森に来てわれわれ全員を呼び出し、花嫁はもう翼の生えたサルを見るのもいやなので、二度と彼女の前に姿をあらわさないようにと命じました。サルたちも彼女のことはこわがるようになっていましたから、喜んでそうしました。
次に命令を受けたのは、黄金の帽子が西の悪い魔女の手にわたって、ウィンキーたちを魔女の奴隷にするようにと言われたときです。

 

(新潮文庫「オズの魔法使い」(2019) 著:L・F・ボーム / 訳:河野万里子 p.163)

 

 私は本文から伝わってくる、ゲイエレット姫の人柄が興味深くて好き。

 周囲の誰からも愛されていながら、彼女自身が心から愛せると思える者を見つけられず、悲しく思っている。そこである日、なかなか魅力的だと判断した人間クェララを自分のルビーの宮殿に召し上げて、ありったけの魔法を彼にかけた。おかげで国中の誰よりも知恵があり、温厚な人柄を持ち、容姿もすぐれた男性として完璧に成長した彼を、姫はたいそう深く愛する。

 クェララがサル達にからかわれたと知ったとき、彼女が露わにした怒り。それは身近な人間を貶められるという普遍的な不快さに基づいているのと同時に、他ならぬ自分が手塩にかけた、作品のような存在を汚された憤りも激しく感じていたのだと伺える。

 彼女は強力な魔法の力を人助けにしか使わない、といわれるほど善良な魔女だったが、己の誇りをみすみす傷つけるような真似は決して許さなかったとみえる。それって……いいよね。美しく怜悧でありながら苛烈、そんなところが魅力的なキャラクターだと私には思える。

 

 こうして色々考えているうち、グラスも器も空になった。みどり色の水はもう消えて、エメラルドの都は遠い。

 また、私は私の世界の石畳を歩きに、喫茶店の扉の外に出る。

 

 

 

 

明治に廃止されるまで存在した妻籠宿本陣の復元、島崎藤村の母の生家 - 南木曽町博物館|長野県・木曽郡南木曽町(6)

 

 

 

 

 

 長野県、南木曽の周辺を巡る一連の記事の続き。

 

1. とても端正な近代化産業遺産、桃介橋の尊顔 - 大正時代に竣工した美しい吊橋と木曽川|長野県・木曽郡南木曽町

2. 山の歴史館 - 明治時代の木造洋風建築、御料局妻籠出張所庁舎|長野県・木曽郡南木曽町

3. 福沢桃介記念館 - 大正時代の洋館で暮らした「電力王」桃介と「女優」貞奴の面影|長野県・木曽郡南木曽町

4. 手打ち蕎麦処 桃介亭 - 記念館と橋の近くにある休憩所|長野県・木曽郡南木曽町

5:

 

宿場らしい高札の立つところを中心に、本陣、問屋、年寄、伝馬役、定歩行役、水役、七里役(飛脚)などより成る百軒ばかりの家々が主な部分で、まだその他に宿内の控えとなっている小名の家数を加えると六十軒ばかりの民家を数える。

 

(新潮文庫「夜明け前 第一部(上)」(2018) 島崎藤村 p.6-7)

 

 ……上の引用はこの妻籠宿ではなく、近隣にある馬籠宿の様子を描写した一文ではあるけれど、江戸の木曽街道における宿場の基本的な構成はどこも似ている。徳川家光の時代に「参勤交代」が制度化されてからは特に、これらが重要な役割を果たしてきたのだった。

 本陣とはそもそも宿場の中にあって、大名をはじめとした藩の重役を主に逗留させた施設で、宿場や村の有力者の家などが使われることが多かった。それより一段階、格式の下がる脇本陣とは異なり、よほどのことがない限りは一般の宿泊者に提供されることもなかった。

 現在、妻籠宿で見学できる本陣は明治時代にいちど取り壊されている。

 というのも、本陣はいわゆる旅館業を営んでいた家ではなく、大きな規模とはいえあくまでも「普通の住居」を利用して大名に食事や寝床を提供していたため。それで参勤交代制度が廃止されれば必然的に、誰かを泊めることもなくなった。本陣の廃止が正式に通達されたのは明治3年のこと。

 

 

 平成7年にこうして復元された妻籠宿本陣は、もともと島崎藤村(本名は島崎春樹)の母、縫(ぬい)の生家だった。最後の当主は藤村の兄、広助で、彼が上京したのをきっかけに家は解体。しばらくの間は跡地が営林署や御料局のために使われていた経緯がある。

 今は妻籠宿の脇本陣奥谷、歴史資料館と合わせて南木曽町博物館の一部になり、間取りなど、すべて江戸時代後期の状態を忠実に再現し公開されているのだった。

 

 かまどと流しのある土間は完全な日陰の空間で、夏でもそれなりに涼しく、見上げるとそれは立派な柱が黒く光っていて気圧された。下には囲炉裏があって、ここに来る前に脇本陣奥谷で聞いた解説が脳裏をよぎる。火を焚いた煙が防虫と抗菌の作用をもたらすのだと。

 靴を脱ぎ、つるつるの板場に足を滑らせながら内部を見学した。靴下越しに感じる柔らかくも硬質な木、草を編んだ畳の表面から、伝わってくる温度は低い。炎天下を徒歩でやってきた疲れが多少なりと癒されるようで、心地よくもある。

 本陣として使われていたくらいだから当たり前だが、本当に大きな家。

 

 

 

 

 現代の昼間でも電気をつけないと暗い、昔のお風呂場やお手洗いにはどぎまぎしてしまう。

 人の暮らす場所ではないみたいだと思わず内心でつぶやく。では一体何が住んでいる場所に見えるのかと聞かれても答えられず、なんとなく想像するのは、無人の敷地内を音もなく移動するいくつもの影だけ。

 重厚なしつらえの屋敷に誰もいない状態が私は大好きで、それでしょっちゅう古い邸宅を見学しに行っているようなものだが、こういうところでもやはり気分の高揚を感じた。日本家屋の「区切られているようで繋がっている」間取り、ある程度開放的なのに迷宮を連想させる袋小路の印象、だから中庭に出ると少し落ち着く。

 当るとじりじりする太陽光の及ばない地点から、池にじっと視線を向けて静止した。

 確かに博物館として管理されてはいるけれど誰も住んでいない家だ。そこに、不思議な魚が生息していたら面白いのに。ふと水面から跳ね上がる音が聞こえて振り返っても、実際は波紋ひとつない池があるばかり。

 

 

 そんな庭から入側を挟んだところにある御上殿、書院と床の間を擁した空間には御簾が設けられていた。御簾は興味深い存在だと思う。力を入れれば簡単に取り除いてしまえる薄い膜なのに、それが下ろされているだけで、どういうわけか絶対に立ち入ることのできない空間が出現したのだとも錯覚してしまう。

 性質としてはきっとあれに似ている。関守石、別名を止め石。物理的な防壁にはなり得ず、しかし人の認識に訴えることによって、この先には進めないのだと如実に示す興味深い存在。寺社の境内などで見つけるとちょっと嬉しいやつ。

 そんなことを考えていたら直接的に「この部屋に入らないでください」と書かれた看板にも行き当たって、面白いものだと思った。うむ、これは普通の掲示。

 

 妻籠宿本陣と脇本陣、用途以外での違いは何だろうかと思いを巡らせ、間取り図に目をやって庭の広さを挙げてから、実際に見学してみて装飾などの部分に意識が向いた。

 個人的に脇本陣で見たいくつかの意匠に好きなものがあって、それらと比べると、本陣の方は建物自体の豪壮さが何よりも大きな特徴なのだろう。滞在する一団の規模の差もあってか、台所の設備の相違も気になる。

 

 

 大名たちを歓待する食事を賄うのには、相当な手数と手間を要したに違いない。

 山間部の宿場というのは砂漠のオアシスにも似ている。旅路の途中、補給に必要な経由地として誰かが立ち寄り、そしてまた去る。まるで街路灯としての町。その在り方はどこか夢なども思わせる、なのに儚さとは一線を画する根強い印象を同時に受けるのが不思議だった。

 とはいえ色々な要素から納得もできる。

 参勤交代や本陣の制度が廃止されてからも、重伝建保存地区として注目され、廃れて消えていく前に文化的に息を吹き返したのが妻籠宿。時代とともに変化しながらも確かに残っているところ。だからこそ、なおさらそんな風に感じるのかもしれなかった。

 

 

 

 

 

芒種の妻籠宿を歩き、太陽に灼かれ、かじる五平餅 - 中山道における42番目の宿場|長野県・木曽郡南木曽町(5)

 

 

 

 

 長野県、南木曽の周辺を巡る一連の記事の続きです。

 

1. とても端正な近代化産業遺産、桃介橋の尊顔 - 大正時代に竣工した美しい吊橋と木曽川|長野県・木曽郡南木曽町

2. 山の歴史館 - 明治時代の木造洋風建築、御料局妻籠出張所庁舎|長野県・木曽郡南木曽町

3. 福沢桃介記念館 - 大正時代の洋館で暮らした「電力王」桃介と「女優」貞奴の面影|長野県・木曽郡南木曽町

4. 手打ち蕎麦処 桃介亭 - 記念館と橋の近くにある休憩所|長野県・木曽郡南木曽町

 

 

 JR南木曽駅から、木曽川に沿ってさらに南へと向かって行った。

 上の記事群でも言及した読書発電所のあたりで、川は本流の木曽川と、支流の蘭(あららぎ)川の二股に分かれ、後者を辿ればそこは妻籠宿の北の入り口。中山道(古くは中仙道とも書いた)にある69の宿場のうち、42番目となる地点である。また、全長約526.3 kmとなる中山道でも、特に「木曽街道(木曽路)」……と呼ばれた区間内に位置している宿場町なのであった。

 福沢桃介記念館を出てから妻籠宿に立ち寄ったのは、島崎藤村の生誕地である馬籠宿をたずねる際、馬籠峠の手前でちょうど経由することになる場所だから。

 この周辺は日本国内でも最初に「重要伝統的建造物群保存地区」に指定され、景観保護による地域振興が行われた例としても興味深く、世界各地から多くの観光客が訪れている。しかしながら6月頭、熱さの厳しい平日に、目的もなく道を歩く人の数はとても少なかった。比例して、開いているお店もごくわずか。

 それでも散策は面白かった。本当に初めて訪れる、これまでは全くなじみのなかった地域だから、目に見えるもの、耳に聞こえる音のひとつひとつも新鮮に感じられて。けっして大袈裟な表現ではなく。

 

 

 具体的にはどんな音がしていただろうか、と振り返る。風と風鈴の音、虫の羽音、それから水の音など……。ああそうだ、このあたりで羽織っていた薄い上着の繊維に苦手な形の虫が絡まってしまい、正直泣きそうになったのだった。多少暑くても、ある程度つるつるした素材の服の方が良かったのかもしれない。

 水車を動かす清流の気配を辿って見つけたのは、妻籠宿北端にある、かなり大きな岩。どうやら鯉岩(鯉ヶ岩)というらしかった。

 名前の由来が色々あるようで、たとえば木曽義仲が愛妾との別れを惜しんだのにちなんで恋岩、要するに「恋」が転じて「鯉」となった……という説や、鎌倉の武将や妻籠城の武将、果てはとある石工にまつわるものまで、それらしい話は枚挙にいとまがない。また形も魚の鯉に似ているとされるのだがよくわからず、調べてみると明治時代の濃尾大地震で、頭にあたる部分は落ちてしまったのだそう。

 頭の無い鯉、というのも怪談みたいで少し面白い気がする。たとえば本所七不思議の片葉の葦などを連想させられるから、結構好き。ぼんやり想像してみよう。頭の無い鯉が、池の中を静かにぬるりと泳いでいる情景を……。

 

 

 足元の水路を流れる水は清く、あまりに透明なので、写真に収めてみるとそこに水があるのかどうか判別するのも難しくなる。私もイタチのように小さくしなやかな動物になって、かがみ込み、この水でごくごくと喉を潤してみたかった。至上の幸せと推察する。

 清流。きよらかなながれ。「清い」という言葉や文字を考えるとき、穢れがない、あるいは澄んでいる、などの印象を抱くが、そこで学生時代に学んだことをなんとなく思い出す。平安時代の頃から使われるようになったとされる「きよら」「きよげ」の語について。

 それらはくもりのないことを示す「きよし」を源としており、現在でいう「美しい」に近い意味を持っていた。なるほど美しいことはすなわち透明で、少しも汚れていないこと、そういう感じを人々に与える概念だったのだな、と、思いを巡らせる。

 しかし本当に、つめたくておいしそうな水。私はおいしい水に目がない。しかも水のある場所も好きだ。そういう場所に行くたび心安らかな気持ちになり、同時に高揚もする。

 ああ、最高に美味な水で、最っ高のお茶を淹れたい!

 

 

 細い道に建物が軒を連ねるところ、ちょうど鯉岩の向かいに、熊谷家住宅の展示があった。ここはまだ妻籠宿の北の端、中心部からは離れたところ。

 熊谷家住宅は、もとは19世紀初頭に建てられたとされる二軒長屋の一部だった。やがて左右の両端が取り壊され、残った部分が一軒家として利用されており、珍しいために保存されているとのこと。説明を3回くらい繰り返し読んでようやく意味がつかめたのだが、つまりは隣接していた異なる長屋の接続部分、ちょうどそこを中間として、それぞれの建物の一部が残されている状態なのだった。

 後に改築されて住居として使われ、現在では一般公開されて間取りを見られるようにしてあったり、琺瑯風の看板や当時の生活用具などが展示してあったりする。

 ところで、増改築、というのはなんとも名状しがたい魅力を持つ言葉ではないだろうか。建物はそもそも生き物じみた存在だと、建築物愛好者の私は常々感じているけれど、もとあった形が変わり、新しく要素が加えられ、時には一部が解体されつつも残っていく家というのは文字通りに姿を変化させながら生きている何かだ。

 だからたまに思う。どうしてもその姿を保持したまま、変わらず、動かされず、未来永劫残ってほしいと願ういくつかの建物に対して。私のそれは、生ではなく、化石化への願いだ。動態保存ともまた異なり、さながら、博物館の展示物のように残ってほしいという。

 

 

 木曽街道の宿場町はすべからく山間部にあって、当然ながら前も山なら、後ろも山。街道沿いに各種建物の並ぶ地点だけがこうして開け、広大な空が望めるようになっている。そのぶん太陽を遮るものも何も無くて、暑かった。無慈悲な太陽に容赦なく灼かれて。

 きっと地図の上から眺めれば、旧中山道は濃緑の海のような山と森を、かの旧約聖書に登場するモーセが紅海を割ったように貫いているのがわかるだろう。そんな、人間の使う道路の左右に迫る、今にもすべてを呑み込んでしまいそうな深い草木の海。宿場町はまるでその海面に浮かび、旅人をしばし停留させてやれる、筏にも似た佇まい。

 脳裏に夕間暮れの街を想定してみる。完全に陽が沈む前に、辿り着かなければならない場所。徐々に光量を少なくしていく空の色の美しさに慄きながら、人が汗の流れる額、細めた眼を向けた先に、ぼんやり点る明かりがあるのだと。灯火は安心の象徴のよう。そういえばモーセが海を割り、エジプトから脱出した後に人々が口にするのは、白くて甘い「マナ」だった。これも恵みであり、安心の象徴みたい。

 もしも遠くに見える明かりが、あるいは空から降ってくる恵みが、ぜんぶ夢だったらどうしよう。すべては錯覚で、ふと瞬きを繰り返してみれば、道の先には何もないし舌に乗っていたあの味もない。途方に暮れて首を回してみるも、すっかり日の沈んで暗くなった細い道があるだけ。

 なすすべなく座り込んでいると、どこからか、似ているけれど人間のものではなさそうなあやしい足音が聞こえてくる。

 

 

 幸運にもこの時は夜ではなかったし、開いている店こそ少ないものの、謎の白いマナ以外にも食べられるものがあった。

 これが五平餅。愛知、長野、岐阜などの山間部で食される郷土料理で、潰してから平たくのしたうるち米を串に刺し、味噌ダレを塗って焼いたものがそう呼ばれている。名前の由来は諸説あるらしい。

 私は猫舌ゆえにアッツアツのものが食べられず、丹念に風を送って冷まし、それでも駄目なら冷たい水を飲んでからでないと熱のあるご飯を口に入れられない。でも、目の前にある五平餅は絶対、焼き立てでないと駄目なんだってしきりに頭の中の誰かが囁いてくる。いや、それ、一体誰なんだろう。いつも頭の中にいるやつ。もう一人の自分によく似ている。

 あの手この手を使ってついにかじりついた五平餅は弾力があり、ほどよく柔らかい。ごく単純なように思える味噌ダレも、家庭や店舗によって材料に違いがあるみたいで、ここのはどんなものを使っているのかなと考えた。たとえば胡麻、くるみ、落花生などがあるそうで……。

 四半日の汗を流してきた体に染み入る、香ばしくてしょっぱい味。わずかな甘み。タレが塗られているのは表面だけだから、米の質量に対して少なめなのではないだろうか、と初めは感じたけれど、根気強く延々と咀嚼していれば米の部分自体にもきちんとさやかな甘さがあると理解できた。握りこぶし大の量で十分にお腹いっぱいになる。

 

 

 

 

 ふたたび歩き始めてすぐ、黒い木の箱に呼び止められた。ポストだ。黒いポストで、書状集箱と書かれている。

 もちろん木箱が声帯を持ち、空気を震わせて言葉を発したなんてことはない。ただ文字を見ると、それが胸の内で勝手に再生される。だから何かを読むとそれに話しかけられ、呼び止められているような気分になる。単純だけれど巨大な文字なら大声に、小さな文字なら囁き声に。字体が変われば雰囲気も変わり、この「書状集箱」に関しては、まだ若いけれど趣味が渋めの人間をぼんやり連想した。

 明治期のポストの復元であり、投函すれば実際に手紙を届けてくれる。背後にある妻籠郵便局は現役の郵便局、その空間の一部が資料館になっていて、そこでは四角く縦に細長い黒ポストや当時の局員の制服、また旗など面白いものを沢山見られた。郵便制度の黎明期は明治初期、まさに私の好きな時代。

 今ではすっかりおなじみとなった郵便のマーク「〒」だが、かつては太い横線に丸をあしらったものだった。国旗の日の丸に一本追加したみたいな感じの。

 ちなみに妻籠郵便局の初代局長は、文豪・島崎藤村の大伯父である嶋崎与治右衛門である。

 その開局当時の情景が描かれているというので、さっそく小説「夜明け前」を買ってきた。パブリックドメインなので青空文庫でも読める作品だが、とくに長編小説の場合は画面ではなく紙の上の文字で摂取しないと頭が痛くなってしまうので、私は絶対に紙を手に入れる。手に入らないものはいさぎよく諦めて、電子で少しずつ読んでみる。

 

 

 郵便資料館から少し歩いたところ、通りの向かいに引き戸がほんのり洋風の建築が残っていて、展示の写真を見るに、これも縁のあった建物だろうと推察できた。

 重伝建保存地区である妻籠宿のエリアに保存されているのは、主に江戸時代の宿場の町並みだが、明治期に建てられた洋風の建物もあるのでそれを探すのもかなり楽しいのだった。うちの一つが現在の「妻籠を愛する会事務所」、少し前までは観光案内所だったが移転したらしい、下見板張りの外壁が気になる木造の疑洋風建築。明治30年の竣工。

 水色の壁、ゆるやかな曲線を描く玄関部分のひさしに心惹かれる。その下に身を隠している球形の照明を眺め、ここが旧吾妻村警察署として建てられたのだと知り、深く頷く。うん、それっぽい。これまでに見てきた近代の警察署の建物との共通点をそこかしこに感じる。あの鬼火みたいなまあるい電灯が特に好きなのだ。もぎ取りたくなる。私に力さえあれば。

 それから横には自働電話。

 ここのものは「自動」表記だけれど他の場所では「自働」となっている場合が多い。箱の中には入れないので、ガラス越しにじーっと中を見た。好き好き好き。明治期の洋風建築好き好き好き。好き好き唱えていると呪文みたい。たぶん、建物にもこの想いは伝わっているはず。

 

 

 旧吾妻村警察署はその後に村役場へ、さらには南木曽町役場吾妻支所、と用途を変えながら現在まで利用されてきた。

 町のある所に建物はあり、建物の並ぶ所には脇道がある。水路、隙間、空地、切通……時に見過ごし、時には首を長く伸ばして覗き込む、それらの場所には何が宿っているのだろう。魔、たとえば曲がり角とか、四辻とかに潜むとされている魔の類と同系統のような気がした。通り抜けられる空間があること、またはどこかに続いていること、それが人ならざる者にとっても重要な要素なのだろうか。

 北の入り口から足を踏み入れた妻籠宿。このあたりで中程にさしかかり、私は徐々に南へと近付いてきたようす。

 目に入った看板には「旅人御宿 下嵯峨屋」とあった。これは、江戸時代に建てられた木賃宿(食事のついたいわゆる通常の旅籠よりグレードが下の安宿)の遺構らしい。最低限の料金を支払い、加えてご飯を食べるなら米などを持ち込んで、別途で炊事代や薪代を払い調達する。就寝時は大部屋で雑魚寝となり、相当に質素だが、雨風を安価でしのぐためには貴重な場所だったのだろうと想像した。旅に出る人間の懐事情は千差万別。

 

 

 前の記事で山の歴史館を見学した感想を書いた。その中で木曽の山における伐採の制限、江戸時代に尾張藩が禁じた木曽五木の採取について言及したのだが、この下嵯峨屋にはヒノキの柱が使われている。当時、一般の町屋にはその使用が認められていなかったにもかかわらず。

 どうやらこの木賃宿を建てるのに利用した、前の建物の建材を転用しているためにそうなっているらしい。建材の転用……というと脳裏に浮かぶ印象的な小説がある。小野不由美作品の残穢とか、残穢とか、あと残穢とか。

 

福澤氏は奥山家の建物は「解体され売却された」と言った。これは、建物を移築するか、部材として売却されたということではないだろうか。昔の建築物ではないことではない。
良い材料は使い廻すのが普通だった。

 

(新潮文庫「残穢」(2015) 小野不由美 p.296)

 

 一度は形成された建物が、極小の単位になるまでばらされ、ふたたび建物の形をとる。今記事のはじめの方で増築や改築の話をしたが、解体の後にまったく違う建物に生まれ変わる、というのも、面白い変化の形の一つだ。生物の成長というよりかは文字通りの転生みたいな感じ。なんだか生々しくてどきどきしてくる。

 下嵯峨屋からまたしばらく歩くと別の看板に遭遇した。

 これは「旅館 いこまや」と表記してあるもの。カタカナの「ホ」にみえるのは「こ」、現在は屋号以外に使われている場面がほとんどなくなった変体仮名である。昭和23年に戸籍法が施行される以前は人名にも少なからず見られた文字。

 

 

 おや、ここには張り出したうだつがある。撫でまわしたくなってしまう。

 防火や防風、あるいは単純に装飾のため設けられるうだつにも色々種類があり、上の写真の場合は「本うだつ」に分類されるものだろうか。切妻屋根が持ち上がり、さらにその下の、斜めに張り出している部分が袖壁となる。澄んだ空の下でまばゆい白壁を仰いでいると清々しい気分になった。

 こうして北端から南の方まで歩くうち、大勢の観光客を目撃する機会もなく、現地は閑散としていた。気温は高いし、平日だし。結果的に静かな宿場町を散策できたので嬉しく思っている。

 本陣や脇本陣など、宿場の機能と歴史を語る上で欠かせない設備の見学記録はまた別途、次に更新する記事に残しておく。

 とりあえず、今回は散策のみの記録にて。

 

 あとは栗きんとん。

 

 

 滋味豊か、かつなめらかでとってもおいしい。そして、食べると口の中の水分が一瞬にして奪われ、全てがパサパサになる。感じる圧倒的な喉の渇き。

 じっくり味わうなら、ぜひお茶などと一緒に。

 

 

 

 

べに色のあまく爽やかな水 モック - 太閤通の脇道に立つレトロ喫茶店|愛知県・名古屋市

 

 

 

 

 

《COFFEE モック》

 立派に葉の茂った大樹が描かれた看板。その根の下にじっと目を凝らしてみると、モック、というカタカナの文字を構成しているパーツも、実は丸太なのだとすぐに気が付いた。まず、それだけでどきどきして楽しくなってしまう。

 頭の中で呟く。文字が、丸太でできている。文字が丸太でできている……。

 

 

 建物1階、縦に細長く並んだ窓はすべて角が取れ、玄関前を囲う壁の部分も丸くアーチ状にくり抜かれて、かまくらの入口に似た趣があった。ざらついたクリーム色の外壁。窓ガラスの仕様か、あるいはカーテンの効果なのか、内部の様子は外からではちょっと伺えない。

 営業中、の札を信じて朝の店内におそるおそる踏み込めば、ドアに取り付けられた小さな鐘の音がカラカラと鳴った。

 温かな雰囲気でこぢんまりとした、どういうわけか英語でcozyと表現したくなってしまうような空間が広がっている。チョコレートを思わせる色彩を基調とした、背の低いソファと机の席。名古屋の喫茶店はどこもそうだと思うけれど、平日の朝からお客さんでにぎわっていて、その「がやがや」に少し気圧されてしまうのだった。活気だ。

 みんな、まさにこれから、この場所から1日を始めるのだと、肌で感じるこの空気。夜を本領としている私には本来向かない。けれど、不思議と居心地のよいところで。

 

 

 クリームソーダをトーストと卵のついたモーニングセットにしたら、そこで、希望の色を聞かれた。ソーダの話で、あるのは3色のうちどれか……あか、あお、みどり、だという。なんとなく他ではあまり見ない赤を選んで、机に運ばれてくるまでの短い時間、しばしそのことについて考えてみた。

 水の色を選べる贅沢。

 もちろん選択できないのも楽しいし、こうして好きな色にできてしまうのも、当然ながらわくわくする。頭の中に何か期待が生まれる。一体どんなものが出てくるんだろう。赤といっても微妙に異なる、その色合いは? グラスの形は? 待っていると、先にゆで卵が運ばれてきた。こうしてできたものからサッと迅速に提供してくれるので、急いでいる人はどんなにか助かることだろう。

 次に到着する、焼き立ての厚切りトースト。ふかふかの生地の上にバターがじんわり染み、千切って口に運ぶたびに、蒸気から芳醇な匂いがした。食パンの繊維が千切れるときのあの感じが好き。

 

 

 そしていよいよ目の当たりにする、赤いクリームソーダの色合いは、べに色に近いものだった。

 店内の雰囲気にも馴染む、深みのある赤色。なめらかな食感のアイスを載せて白く泡立った部分が、下に残る半透明の部分と層をなしていて、単純に綺麗。ゆったりと丸みを帯びたグラスによく映える。

 おそらく、色付けに使われているのは苺シロップなのだろう。吸うと、かき氷のイチゴを連想させる風味がストローから舌に伝わり、わずかに酸味を帯びた甘さが口蓋を駆け抜けた。はじける炭酸がしばらく消えずに残る。夏は、これ。これがあれば何もかもが良くなる。薬とおんなじで……(果たしてその表現で良いのだろうか)。

 

 退店してからもう一度外観を眺めると、やっぱり窓から内部の様子は伺えず、ひとときの夢みたいだったな、と思う。

 あのがやがや。あのべに色。

 看板の木を振り返る。世界のどこかで大樹の枝にハンモックを吊るし、うとうと微睡むとき飲むのにぴったりなのが、きっと例の赤いクリームソーダなのだった。

 

 

 

 

お題「お得なモーニングが大好きです。モーニングをやってるお店を教えて下さい!」

手打ち蕎麦処 桃介亭 - 記念館と橋の近くにある休憩所|長野県・木曽郡南木曽町(4)

 

 

 

 

 南木曽駅の出口から徒歩で5分くらいの距離、福沢桃介記念館桃介橋からもすぐの場所に、「桃介亭」というお蕎麦屋さんがある。金曜日、土曜日、日曜日……と、週のうち3日間だけ開店しているのだった。

 首都圏から移住してきた親切なおじさまがおひとりで回されている店で、付近は閑散としている印象だったけれど、お昼時(金曜日)には私達のほかにもう一組のお客があったのを覚えている。休日なら、これよりもう少し忙しくなるのだろう。

 提供されている蕎麦の種類はざるそばとかけそばの2種類。

 2022年6月時点でそれぞれ750円とかなりお得だった。数量限定で、だいたい1日10食限定らしいから、9時30分の開店時間を狙っていくか、事前に電話で問い合わせをしてみるかすれば、きっと確実にお蕎麦が食べられる。

 またコーヒーやビール、ソフトクリームの取り扱いもあるので、昼食以外にもおやつ休憩ができておすすめ。仮にお蕎麦が品切れでもソフトクリームはなくならないだろう。

 

 

 前述したように、おひとりで準備から提供までされている都合上、入店してから少し待ち時間が発生するときもある。その場合、店内に自由に汲んで飲めるお茶が用意してあるほか、写真のようなお菓子(無料)を提供してもらえるので、席でのんびり過ごしていよう。

 いただいたのはほんのり甘い豆菓子と、その隣にある細長い方は、蕎麦の麺を揚げたもの……だろうか? どちらも香ばしさがあって、じっくり噛めば噛むほど美味しかった。

 やがて到着したのは注文したざるそば。トレーの上には蕎麦の麺とつゆ、季節ごとに品目の変わる天ぷら(筍や大葉、南瓜)、そしてサラダが載っている。サラダに添えられている白いものはチーズで、茶色いものはお味噌だった。全部あわせて昼食として十分な量があり、これで750円!

 

 

 そばつゆに、ネギとワサビを落とす。ワサビはよく見ると半透明で、つやつやしていて、本当にさっき擦ったばかりのような新鮮さを醸し出していた。辛すぎず、奥深い風味がある。

 蕎麦の麺は、なじみのある灰色よりも幾分か明るい白色をしていたのが印象的。噛んで飲み込むと抵抗なくなめらかに喉を滑っていった。この味をどう表現したらいいのか考えたけれど難しい……けっして重たくなく、軽やかな感じでありながら、どこか芯もある感じ。食感にざらつきが少ないので、おそらく一番(更科)粉と二番粉を比較的多く使っているのかな、と思った。

 そして食べ始めてしばらくすると、蕎麦湯を持ってきてくれる。

 私は蕎麦湯の使い方をよく知らなかったので母の真似をした。そばつゆの入った器に蕎麦湯を注ぎ、薄まったつゆを飲むのだそう。うん、おいしい。つゆを蕎麦湯で割ったら、そのまま味も水っぽくなりぼんやりしてしまうのでは、と考えたけれど、けっしてそんなことはなかった。

 目を瞑ると、確かに液体へ溶け込んでいる無数のものの気配を感じる。どこまでも滋味豊富で、安心できる味がした。

 

 

 

福沢桃介記念館 - 大正時代の洋館で暮らした「電力王」桃介と「女優」貞奴の面影|長野県・木曽郡南木曽町(3)

 

 

 

 

 

 私がコンビで推している歴史上の人物、ふたりが暮らした大正時代の洋館見学。

 

 以下2記事の続き:

 

 水色に塗られた木の柱が交差する点を飾る、錆びた金属の持ち送り。組み合わされた図形のうち、円の部分をじっと見て、それが等間隔に並んでいるのを眺めていた。

 前の記事で述べた山の歴史館からこの渡り廊下を使って移動すると、そのまま大正8年に竣工した、福沢桃介の別荘へと入ることができる。彼に関しては過去、名古屋にある文化のみち二葉館を訪れた際の記事でも言及しているので、興味のある方はそちらも参照されたい。

 別荘であるこの洋館の2階部分は、実は昭和35年4月に発生した火災により焼失してしまった。それゆえ現在は平成9年の復元後に整備された状態のものが一般公開されており、桃介橋の建造や付近の開発にまつわる資料や、貴重な写真、年表などを展示する空間になっている。

 2階は近年の復元とはいえ、基礎部分も1階部分もほとんど竣工当初から現役で使われていた頃の状態のまま、往時の雰囲気をよく伝えている。外観をじっくりと眺めてみた。

 

 

 モルタル造りの洋館、上品な灰色をした壁の表面には凹凸がある。

 ざらついた質感と、付近の木曽川の流れのそばに転がっている岩のような形をした突起が風景とよく馴染み、さらに建物下の部分に設置された大きな岩石とも形態が呼応しているようだった。この大岩も、他ならぬ桃介自身が好んでここに置いたもの。サンルーム側の柱が、その上から直接生えている部分などはどきどきするような均衡。

 これを建物のデザインに取り入れる際、安全設計上いろいろな懸念も生じたらしいのだが、それでもどうにか希望の外観を実現できるように図った部分に彼の性格も滲み出ている気がした。

 特筆すべきなのは窓の面積の広さ。通りに面した側も、これから探索する反対側も、明治大正期以降の建物において特に重要だった素材、ガラスの板がずらりと並んでいる。

 

 

 渡り廊下から繋がる扉は本来客用のものではなかったので、いきなりバスルーム近くの空間に辿り着いたとしても、別段驚くには値しない。風呂のすぐ横にサンルームが設けてあるあたり、どこか熱海の起雲閣も思い出させる佇まいだった。ここで山を眺めながら涼むのは、たいそう気分がいいだろう。

 床に開いているパイプの穴はお手洗いの痕跡。大正中期の別荘で、きちんと水洗トイレを備えていた建物の例としても興味深い。

 白くひんやりとしたタイルは安心を誘う。つるつるした素材が洋館や和館の水回りを覆っているのは、いつ見ても良いものだった。大理石などの板でももちろん構わない、何かなめらかでつめたいものであれば。

 しかし、それにしても随分と風呂釜が小さいのでないか……と感じてしまうのは私の側の問題なのだろうか。膝を折らないと身体を沈められない狭さの方が、入浴時に安心できたのかもしれない。全然わからない。

 

 

 

 

 ここで少し福沢桃介の話をしよう。彼の旧姓は岩崎であり、ゆえに若い頃は岩崎桃介、だった。生涯を通しての肩書きとしては、投資家であり実業家といえる。

 けっして裕福とは言えない家で育ったが、学問好きで、やがては慶應義塾大学に入学するに至った桃介。その慶應義塾の運動会で福沢諭吉夫婦の目に留まり、彼らの次女、房(ふさ)の結婚相手として彼が相応しいのではないか、と候補に入れられたのだが……それが人生の大きな転機となる。

 彼はかねてより洋行を志していた。そして、福沢家が桃介に対して提示したのは、福沢家に養子として婿入りする代わり、アメリカで学ぶ際にかかる費用を捻出してやる、というもので。表面上は渡りに船ともいえる状況だが、彼の内心の葛藤はいかほどのものだっただろう。

 留学費用と引き換えの婿入り。要するに身売りのような条件を前にして桃介は熟慮し、結果、それをのむことにしたのだった。

 

 

 そんな福沢桃介が、南木曽の別荘で書斎として使っていたのがこの部屋である。

 彼は洋行から紆余曲折を経て、やがては当時の電気事業に触手を伸ばし、木曽川の電源開発を推し進めるに至る。資材を運ぶための桃介橋の建造、さらにそこから付近の大井や読書に水力発電所を建てており、この洋館に関しては外国人の技師や政界の実力者らを招いて宴を催す迎賓館でもあった。

 そして、桃介を公私ともに支え、彼の事業における社交や接待など人間に関係する面でなくてはならない存在となっていたのが、川上貞奴という女性。旧姓は小山。実家の没落により幼少期に芸妓の置屋に売られ、それから研鑽を積んで女優として、時には会社の経営者としても活動していた人物だった。

 川上貞奴と福沢桃介の間には確かな縁がある。その発端は桃介が洋行へ赴く前にまでさかのぼり、彼は慶應義塾に通っていた学生時代に貞奴と出会い(きっかけは野犬に追われていた彼女を助けたこと、とされている)交流を重ねていた。

 

 

 桃介が留学費用のために婿養子となり、アメリカへ渡る前、資料によれば貞奴はこう言っている。「歩む人生は別々でも、あなたはあなた、私は私の道で、必ずや成功しましょう」と……。

 貞奴は川上音二郎と結婚、桃介は福沢房と結婚し、彼らはその言葉どおりに異なる道程を歩んでいく。ちなみに貞奴と音二郎が住んでいた家がかつて茅ヶ崎にあり、現在では井戸のみだが、一応痕跡が残っている。そのすぐ横に原安三郎の別邸遺構もあるので興味があれば覗いてみてほしい。

 音二郎との死別後に、貞奴は桃介の事業の数々を手伝った。この別荘でも長い時間を共に過ごしている。滞在中、大井ダムの工事にあたっては物怖じせず彼に付き従い、時にはインディアンと呼ばれる赤いバイクにも跨って、勇敢に地を駆けていたとの証言も残っていて、眩しいと思った。誰かの側にいることでそんなにも生き生きと過ごせること、その姿の美しさ、眩しさ。

 桃介も彼女の持てる社交力を抜きにしては、これほどの成功を手にすることはできなかっただろう。そんな彼らは揃いの着物に互いのシンボルマークを染め抜き、普段から身に着けていたという。記念館内にその欠片が残されている。もみじ(楓の葉)の紋は名古屋の二葉館でも見ることができた。

 

 

 花形の照明が目に留まる暖炉の部屋が、応接間。全体に開放的な印象を与え、くつろぐのに適した雰囲気の別荘のなかで、どちらかというと重厚で人を迎えるための佇まいになっている。

 私はずっとこの場所に来たかった。

 2019年に二葉館を訪れて彼らのことを知って以来、その軌跡を追うのが楽しくて、ついにこの別荘にも足を踏み入れるに至った。12月から3月までの冬季は休館、わりと温かい季節にしか開館していない記念館は、新幹線と在来線の特急を使ってもそれなりに時間のかかる距離にある。けれど、けっして行くの自体は難しくない。

 案内の方が、建物の周囲に植わっている木の種類について少しお話してくれた。ドイツのミュンヘンから桃介が持ち帰って育てたハナモモに、ミツバツツジの灌木など。

 

 

 私が足を運んだ時期のように初夏なら、透けるような緑に。葉の色づく時期に赴けば、炎のような赤が別荘の周囲を囲み、館内のどこにいてもガラスの窓からそれらが見える。さながら自動的に図柄の変わる不思議な壁紙で、そもそも、窓というものの機能の一端はそこにあるのではなかったかと考えた。

 福沢桃介と川上貞奴。

 波乱が多く、時には意に沿わない境遇にその身を置きながらも志を持って野望(とあえて呼びたい)を追い、欲しいもののために懸命に歩み続けた彼らの生きた記録が、社会から消されずにこうして残っていることが私は本当に嬉しいのだった。

 決して幸福なだけでなく、すべてが理想的に運ばなかった人生であっても、その途中で何か尊くかけがえのないものを見出すのは可能なのだと、心底そう思わされる。思わせて、くれる。

 

 

 

 

まあるいもの 珈琲王城 - 上野にあるレトロ喫茶店|東京都・台東区

 

 

 

 

 

 珈琲王城は、昭和50(1975)年に創業した喫茶店。

 

 

 本来は決まった形というのを持たない液体が、器に注がれることで初めて丸くなったり、四角くなったり、三角形になったりするのがいつも新鮮におもしろく感じられる。

 それが半透明の飲み物で、底が深く奥行きのあるグラスに注がれれば、色は濃く。反対に浅めのグラスに注がれれば、淡い感じの色合いに変わり、印象も異なって見えるのだろう。同じものでも。

 そんな風にもの自体が同じでも、磨き方や削り方によって大きく見え方の変わるものとしては、やはり伝統的なところだと宝石を思い浮かべる。カットの種類がそれは多岐にわたっていて、どれも宝石の色や性質ごとに、最大限の輝きを引き出すため考案されている。丈夫なショーケースの内側や、向かいに座る誰かの指、あるいは首元にある石の粒。眺めているだけで心躍る存在。

 資生堂の洗顔石鹼で「ホネケーキ」というシリーズが確かあったけれど、あの宝石みたいな石鹸を洗面台に置きたい、また実際に使って顔を洗いたい気持ちも、実によくわかる。

 

 

 上野の喫茶店、王城で提供されるメロンクリームソーダを構成する要素のうち、本体のソーダ水の部分……丸みを帯びたグラスの、輪郭の内側を見ていた。つるりとした曲線と色合いがカボションカットの翡翠を連想させるのだが、同時に水中で浮かぶいくつもの角ばった氷が光を屈折させて、ファセットの面のような趣を加えている。例えるのならオーバルカット。名前は卵、を意味しているのだそう。

 卵といえばバニラアイスの主となる材料である。そこに牛乳、砂糖などを混ぜ合わせて、冷やし固めて作る。掬ってソーダ水に浮かべれば、こうしてクリームソーダになる。

 その体積のほとんどを美しい緑色の液体に沈ませて、アイスもさくらんぼの実も、うっとりとまどろんでいた。なんだか幼く。周りの白い泡はおくるみか、ゆりかごみたい。硬質な銀色のスプーンで泡を軽くかき混ぜ、時折ストローでソーダ水を吸えば、徐々に彼らの寝床は減っていく。たまにアイスは頭から削られる。さくらんぼも、皮を歯で破られかじられる。

 ふと考えてみると、このクリームソーダの構成要素はだいたいみんな、どことなくまあるい輪郭をしていた。氷以外。あやしい緑色の、甘く淡いまどろみ。けれど存外に深いそれから目覚めないまま、人間にすべて食われてしまったものたちは消えて、グラスには最後、つめたく角ばった氷だけが残っている。

 

 

 向かいに座った友人は飢えた私と対照的に満腹らしく、一緒にここで過ごすあいだ、私は一人だけ甘いものと塩気のあるものとを贅沢に並べ欲張って味わっていた。お腹が空いていると元気がなくなるか、胸に飼っている動物らしい一面が顔を覗かせて、攻撃的になる。だから食事は重要で。

 しかし、それにしても、と、立て続けに届いた皿を眺めて思った。どれもこれもなんとなく「まあるい」感じがするではないか。香り高くコクのあるバターがのったパンケーキも、ミニピザも、果てはカップに注がれた艶やかなコーヒーの水面も、まあるい。一体どうしたことだろう。

 いいえ。どうしたも何も、それらは単にそうあるべき形に収まっているだけなのであって、今更私ごときに形状だの何だのと言われる筋合いは無論、ない。ないはず。

 そもそも食べ物の土台となる白い皿からして丸いのだ。カップの下敷きになっているソーサーも同じく。当たり前の、安心を誘うようにどこにでもある、見慣れた喫茶店の食器。すべてを視界の端に、私はもっと、違うことを考えようと試みていた。そう、実際に交わされている会話の内容とか。あとはテーブルの表面、うす緑色の大理石風の模様が美しいな、とか……。

 

 

 何か、が気になってしまったら最後、そこに囚われて、しばらく抜け出せない。

 とにかく王城には、まあるいものがあった。設けられたお茶会の席はいつも語っているとおりに「真実の行為」であり、この日の魂は、無事に救われた。椅子から立ち上がる頃にはグラスの氷もすべて、すっかり溶けていたのは言うまでもない。

 

 

 

 

熱海クエスト 昼夜編|散策の記録

 

 

 

 

 

 海を望む岬の上にはどでかいお城が聳えているし、その近くには、人魚の住んでいる妖しい岩場だってある。なぜか強烈な既視感をおぼえる宇宙人も着物を着てさまよっていた。もちろん嘘なんかじゃない、ぜんぶ、実際に現地で目の当たりにした、本当のこと。

 その証拠にほら、写真だってきちんとあるでしょう。

 信じてよ。みんな本当にあったんだから……。

 

 

 それほど長く間を空けず、だいたい年に1度くらいは繰り返し訪れている場所でも、足を運ぶたび新鮮な感想を抱くことは可能であるらしかった。

 これまでくまなく色々な通りを歩いてきたつもりなのに、意外と決まりきった場所にしか関心を注いでいなかったり、たとえ同じ場所であっても、昼と夜の時間帯とで表情や雰囲気が大きく変わる事実に無頓着であったりするもの。少なくとも、私はそれをよく実感する。

 JR東海道線に乗って、熱海の駅で下車。何度も来ているところだから、駅舎を出ると、懐かしさにも似た奇妙な安心感を誘われるくらい。この街をあてどなく散策するのが、本当に好きだ。

 とはいえ、熱海にピンク色をしたクラーケンの亜種が生息しているなんて、先日まで寡聞にして知らなかったのだけれど。アーケードの下、特選舶来品、の文字が浮き出た店舗のわりと近くで発見してしまった。

 

 

 満面の笑みでにっ……こりとした、なぜかうすら寒ささえ感じさせる表情のクラーケン君(看板に「イカ」と明記されているが勝手にそう呼ぶ)。その仕事は、大きく開いた口から「大成功おみくじ」を吐き出して、人間相手に商売することのよう。

 私がこの道を通ったのは初めてではなく、ピンクの彼も決して短くはない期間ここに浮かんでいるのだろうが、友達から「あ、そこになんかいるよ」と指摘されるまで存在に気が付いたことはなかった。常にきょろきょろ周囲を見ているようで、実は見えていなかったものの代表格。

 さて。通常なら、こういう類の生き物に遭遇して倒すと、経験値やその世界の通貨が獲得できることが多いものだが、この場合はどうだろう。そもそも店先にいるものを勝手に討伐するわけにはいかない。だから剣は振りかざさず、黙って脇をすり抜けて、笑顔のクラーケンをやり過ごす……。

 もとより存在すらしていなかった勇者の資格を、改めて失った気がする。仕方がないので散策者に戻ろう。うん、いわゆる冒険の世界にも、実はそういう奴らがごまんといるはずだもの。とりたてて描かれてはいないだけで。

 

 

 結構な角度の斜面にも平気で家は建つし、人が住み、店も開かれる。

 私は神奈川県の横浜出身・在住の人間で、たとえば国内でも長崎や呉に比べれば大したことはないのだが、坂の多い地形はわりと見慣れている。特に住宅地であればなおさら。それにしても、熱海は傾斜という特徴が顕著な場所だと思って調べたら、なんと斜面市街地の割合ランキングでは、栄えある1位にその名が据えられていた。成程どおりで、と納得する。

 入口の正面に立つと、その右下が坂道ですっぱりと切られているようにように見える、赤い半円の屋根の下のシャッター。「杉山園茶店」の左側にじっと目を凝らすと「喫茶 ぐりむ」と書いてある。ひらがな3文字表記なのが、なんとも可愛らしいではないか。

 そのまま坂道を下って、壁の風合いに味がある旅館の前に差し掛かる。窓と戸袋の下にマットが3段重なっているような、丸みを帯びた段差があるのが、滅茶苦茶に良かった。撫でまわしたくなる。ざらついた表面はどこかケーキのスポンジも思わせた。さらに手前の街灯との相乗効果で、テンションが爆上がり。

 

 

 

 

 このあたりの「旧赤線」の趣がたまらない。

 また、付近にあるものに関しては、以下の過去記事もぜひ参照してみてほしい。

 

 

 いよいよここから熱海銀座周辺、昔のロマンス座を利用した店舗や喫茶店のある通りを過ぎて、幾度となくぶらついている糸川方面に向かって歩いていくのだけれど、今までの散策とは明確に異なっている要素がひとつある。

 そう、時間帯。

 これまでは昼間に来て夕方のうちに帰っていたところ、今回はわりと夜遅くまでとどまることにした。駅横の宿泊施設に泊まって、日付を挟んだら早朝にもう一度街歩きをしてみる、そんな探検を試みたのだった。結果としてこれが大正解、さらに土地への愛着が深まり、好奇心も同時に満たせて満足する。

 日が落ちて、事物の輪郭が曖昧になればなるほど、不思議とくっきり浮かび上がってくるものが沢山あるようだ。強いて見ようとしなくても、存在感を主張してくるものたち。建物も、もちろんそれ以外も。

 

 

 夜に美しく浮かび上がる街の妖精といえば、ネオンの看板や、柱の上の電灯。

 なかでも写真に写った「なぎさ中通り」の街灯が素晴らしかった。これは尋常ではなくときめく存在。イラストの太陽が妖しく微笑んでいて、まるで何らかの力を示すように、周囲に白色の球体を複数浮かべている。じっと眺めていると今にも回転しだしそうな上、日没後にうっかり付近の通りを歩くと、知らずのうちに冥界へ連れて行かれそう。

 熱に浮かされて見る夢に登場するやつだ……。脳波を乱すオーラを発して、精神的な攻撃を仕掛けてくる敵。

 この辺りは川沿いに梅の木が植えてあり、ちょうど開花の時期だったから、宵闇に浮かび上がる花弁は美しかった。もはや花ではなくて別の何かにも見えてくる。ふわふわした発光する綿みたいな。あるいは食べたら甘そうな雪とか。聖書に登場するマナ。ふと顔を上げると、人間ではない別の生き物が口を開けている。このあたりに生息している石の魔物なんだろう。

 

 

 

 

 いつも心底惚れ惚れしている「スナック亜」の、夜の佇まいを前にして、ツタの葉の堂々たる紋章が本当に権威のようだと思いつつ袋小路に迷い込む。

 ここには前にも来たことがあったはず。夜ではなく、昼間に。突き当たりの壁に寄りかかるような街灯風の照明が、実際に灯されるとどんな色をもって輝くのか、今まで知らずにいた。白い3つの光。それと目のような防犯カメラのレンズに睥睨されて、特に用という用を持たず、単に歩き回っているだけの私達はたじろぐのだった。

 スナック、パブ、風俗、ほか夜間に開くはずの店、明らかにそのような佇まいをしているのに開いていない建物は、すでに営業をしていないものなのかもしれない。上の2つの角が丸く、半円の弧を描いた、それらしいうす桃色の扉。

 これは壁がごく淡いクリーム色に見えるのだが、夜が明けて、白日の下で観察してみるとペールグリーンなのだと判明した。やはり人と同じく建物も、異なる状況と角度から視点を変えて、判断するべきらしいと考えるなど……。

 

 

 熱海の夜散歩を経験して明らかになったのは、私は夜に栄える街の一角を、あえて昼間に歩くのが相当好きなのだという事実だった。

 太陽に照らされている時間帯でも、誘い込むように蛇行する道の形とか、建物の造作なんかを眺めていると、そこに漂う妖しい感じの雰囲気は如実に伝わってくる。けれども本来の目的で活動するにはまだ早く、人影もほとんどない。セットなど準備だけが整った舞台上を自由に歩いている気分になるのだった。

 明るいと、当然そこにあるものの輪郭がはっきりする。そのかわり、窓から漏れる明かりや煙などから、壁の内側にも存在しているであろう世界を伺うのは難しくなる。だからむしろ印象が茫洋としているのだ。つかみどころのなさ。対照的に顕著な、視覚的要素がもたらす効果。

 建物と建物の接続する点に通路が口を開けていて、まるで貴婦人の傘みたいな(この表現を私はとても気に入っている)、汚れた青い半円の屋根が、存在を主張するわけでもなく黙って佇んでいたのが印象的だった。

 

 

 これは細い路地で行き当たった場所。入口に引かれた黄色いチェーンと、階段を下りた先の見通せない暗がりが気になった。郵便受けまですっかり廃墟らしく錆びついているのに、中途半端にしか道を阻まれていないから、ずんずん入って行けそうに錯覚してしまう。

 秘され、隠されているからこそ視線が引き寄せられてしまう矛盾。

 そこに実際には足を踏み入れないことの愉悦、それがとても良い。地下迷宮に巣食う怪物と、わざわざ戦わなければならない道理なんてどこにもないから武器も持たない。鞄を肩に下げただけ。

 ぼんやりしていたら、細く糸を引く雨が降ってきた。

 

 

 

 

 

 

 

コーヒースタンド - 中津川駅の待合室から入れるレトロ喫茶店|岐阜県・中津川市

 

 

 

 

 長野、南木曽散策からの帰りに立ち寄った中津川駅、そこで偶然発見した喫茶店。

 単純にそのあたりのベンチで電車を待つつもりが、待合室の奥に何かがあると思わなかったので驚いた。白い壁に埋め込まれたような木とガラスの引き戸、昭和感溢れるCoffeeの看板の文字、果ては「コーヒースタンド」のシンプルな店名まで色々と完璧に見える。その隣に暖簾を掲げる「根の上そば」とは経営が同じ梅信亭らしく、厨房も繋がっている。

 その梅信亭の弁当販売ブースがまだホームに残っているものの、駅弁業界の方からはすでに撤退し、営業はしていないようだった。調べると明治36年に「中央線開通に合わせて弁当部を創り……」とのことで、結構歴史がある。

 きっと蕎麦屋もこの喫茶店も、具体的にいつ開業したのか記載はなかったが、それなりに古いお店のはず。

 

 

 喫茶コーヒースタンドの店内には小ぶりのテーブルが3つと、カウンター席がいくつか。使われているものが全体的に黄色で統一されているようで可愛らしい。どこか、インコの羽根の色みたいで。

 朝はモーニングサービスもあるようだけれど、残念ながらこの日は時間を過ぎていたので普通にアイスコーヒーを注文した。このグラスの感じ好きだなあ……!  大ぶりの水玉を思わせる、丸い凹みが手になじむ、掴みやすい形状。お冷の注がれたグラスの方のうす緑色も良い。ハッカ飴でできているみたい。

 アイスコーヒーの味は苦みも酸味も少なく、まろやかだった。外が暑かったので本当に命の水である。午後にはアイスクリームセットも販売しているようだったので、夏場はきっと重宝されるだろう。

 ちなみに、親しみやすい感じのマスターがいる。Googleのレビューを見てみると同じことを書かれている方々が多かったので、多分いつもいらっしゃるのだろう。レトロ喫茶は入りにくいイメージの場所も多いので、来客が歓迎されていることがわかるとありがたい。

 

 

 コーヒーに付いてくるお茶請けは豆菓子。楽茶待夢、と書いてある袋にもなんだか時代を感じた。素朴な香ばしい豆は延々と咀嚼していたくなるおいしさ。

 空間としても居心地が良くて、かすかにテレビの競馬実況と列車の音が聞こえてくる、完全に無音ではない親しみやすさがある。それも駅に付随している場所ならではの雰囲気かも。支払いには現金のほか、paypayが使える。

 ここ、入り口から反対に位置するホーム側にも小窓の横に看板が出ていて、具体的な値段の表記などはなかったものの、もしかしたら蕎麦屋と同じようにそこから注文できる可能性が……?

 ふたたび中津川に立ち寄る機会があったらまた行きたい場所リストに追加された。

 

 

 

山の歴史館 - 明治時代の木造洋風建築、御料局妻籠出張所庁舎|長野県・木曽郡南木曽町(2)

 

 

 

 

  前回の記事:

 

 壮麗な桃介橋の架かる場所、木曽川の西岸部分から徒歩にして約数分。

 そこでは、橋を建造させた本人である福沢桃介の別荘「福沢桃介記念館」と、この土地と山林のかかわりについて理解を深められる「山の歴史館」が、共同の見学施設として門戸を開いている。受付があるのは歴史館の方で、両館併せて大人ひとりの入場が500円。

 空いていれば、職員の方がとても分かりやすく、かつ愛に溢れる館内の解説を行ってくださるので、ガイドをつけるか聞かれたらお願いするのがおすすめ。追加料金なども特にかからない。

 ちなみに冬季は休館しているのだが、確かにこの場所には春か夏に来るべきなのだと、足を運んでみて理解した。

 もちろん実際には雪など、気候の影響が最も大きい要因のはず。けれどあまりに美しいみどりが周辺に影を落としていて、こんな風に色の鮮やかな季節に訪れるのが正解なのだ、と言われている気すらした。

 

 今回は山の歴史館側の記録。

 

山の歴史館

 

 山の歴史館の外では、使われなくなった「森林鉄道」の車両が保存され、展示されていた。森林鉄道。これまで幾度となく面白い、と言及してきた登山鉄道とも共通点を持つが、異なる点も多くある。

 日本で初めての森林鉄道といわれているのは、この南木曽と同じ長野県内、阿寺渓谷で運行していた阿寺軽便鉄道で、明治34年に誕生した。こちらは主に、森で働く人々の生活必需品を運ぶために動いていたらしい。一方、木材を輸送するのを主な目的としたものだと青森県、津軽森林鉄道がその先駆けとされている。

 展示してある車両が使われていたのは、昭和2年から42年までの間。場所は南木曽町の国有林。

 南木曽の森林鉄道は3本の主路線、さらにそこから4支路線が枝分かれし、木材や生活物資の輸送手段がトラックなど自動車になり代わるまで、長く地域山村の暮らしに寄り添っていたのだそう。愛称は「林鉄(りんてつ)」とのことだった。

 

 先に進むと、下見板張りの壁、欄間の下に素晴らしい木の扉がある。

 木の色自体が美しい。

 

 

 

 

 これが「山の歴史館」の建物。

 もとは1900(明治33)年に建てられた木造建築で、当時は御料局(ごりょうきょく)妻籠出張所庁舎、といった。御料局とは明治18(1885)年に宮内庁に設置された、皇室の領地を管轄するための部署のこと。のちに帝室林野管理局、また帝室林野局……と二度の改称を経て、現在では廃止されて存在していない。

 かつては妻籠宿の旧本陣跡地に建っていたものを移築し、こうして山の歴史館として一般公開されている(妻籠宿散策の情報は後日更新します)。

 上の玄関部分の写真、柱のところを見てほしい。

 柱頭に施された飾り、ギリシア神殿におけるコリント式の装飾を連想させる、アカンサスの葉の意匠の部分はなんと木を彫って造られている。石ではない。細かで立体的な細工を施すのが非常に難しい素材であるのにもかかわらず、明治の頃あのようなデザインが採用され、現在も美しい状態のまま残されているのには感嘆の息を吐いた。

 

 

 歴史館内の展示は木曽の林政に関する資料で、全体がいくつかの部に分かれている。主なものだと「江戸時代の林政改革」や、「御料林事件」など。

 展示物を見ながら解説を聞いていて、まず、山間部の暮らしとそれ以外の土地では具体的にどう暮らしが異なるのか、これまで無頓着だった事柄を新しく知って瞠目するばかりだった。本当に自分が住んでいるところか、そこに類似した場所の生活しか、私は知らない。全然。

 例えば、これまでほとんど関心を払ってこなかったもののひとつに、地域ごとの年貢の種類の違いがある。

 自分の生まれ育った地域では、年貢といえば米だ。貨幣が人々の生活により浸透するようになってからは、銭納も。けれど木曽地域のようにそれを「木」で納めていた場所があったとは……そう、寡聞にして聞いたことがなかったのである。山では耕作に使える土地が少ないため、木を年貢として納めて、そのかわりに米が支給される仕組みがあったのだ。

 

 

 そして、かなり深く印象に残ったのが御料林事件。この山の歴史館内に、どういうわけか「留置場」なんて裁判所じみた設備が備え付けてあるのにも、きちんと関係している史実だった。

 元を辿れば、江戸幕府が良質な檜の産地として注目した木曽谷近隣の森林で「乱伐」が起こったため、尾張藩がそれを保護しようと敷いた施策に伐木の制限があった。これはかなり厳しく、盗伐により下される罰は「木一本首一つ、枝一本腕一つ」とも言われ、木年貢も廃止して徹底したルールのもと森林の保護が行われていたそう。

 ただしこの頃は、そのような厳罰に処された者の数はそこまで多くなかったという。木曽五木や停止木(ヒノキ・サワラ・ネズコ・コウヤマキ・ケヤキ・アスヒ)など貴重な木以外であれば、周辺住民も従来とさほど変わらない量の木材を山から得て、生活の糧にすることができた。

 事態がより複雑化するのは、その先の時代の話。

 

 

 幕末から明治期にかけては、前述した「御料林事件」が木曽の歴史に刻まれている。

 これにまつわる出来事を描写している小説で代表的なのが、島崎藤村の「夜明け前」という小説。無論小説であるから、内容は史実をもとにしたフィクションであるわけなのだが、そこに描かれている住民と政府との確執、また一連の騒動の着想となった事件は実際に起こったことだ。

 

 

 御料林事件において懸命に奔走したのが、島崎藤村の兄、島崎広助。

 明治時代、尾張藩の管轄していた森林が官林へと移行したことで、いよいよ民衆は雑木の伐採だけでなく山へ立ち入るのすら難しくなる。それによって生活の糧が大きく欠乏することを危惧した広助は粘り強い交渉を続け、都度記録を残し、今度は官林が御料林(天皇の所領)となってからもあきらめることはなかった。

 最終的に御料林への編入は避けられなかったものの、明治38年には宮内庁から、これより24年の間は毎年1万円の御下賜金を交付する、との通達がなされる。

 編入の撤回は叶わなかったものの、木曽に住む人々の暮らしを懸命に守ろうとしていた人間がいて、そうした処置が下されたことが、展示資料を通して伝わってきた。

 

 こういった、木曽における近代の山林の歴史を学ぶことができるのが、山の歴史館。

 そこから渡り廊下で繋がっている、福沢桃介記念館については次の記事に記載する。ちなみに島崎広助と福沢桃介の二人にも、木曽川における権利関係を巡る、切っても切れない関係があるのだった。

 

 

 おまけ。

 この館内展示物の置かれ方……「互いのことあんまりよく知らないんだけど、同じ班に入れられたからとりあえず距離を保って様子を伺ってる」みたいな感じ好き。ど真ん中にいる火鉢は警戒心が強いけど堂々としていて、隅の木箱は、所在ないからおさまりの良い角に陣取ってる。

 行灯は気遣い上手でちょっと心細そうだった。

 

 

 

 

 

 

とても端正な近代化産業遺産、桃介橋の尊顔 - 大正時代に竣工した美しい吊橋と木曽川|長野県・木曽郡南木曽町(1)

 

 

 

 

 晩春にこういう景色を見られたのが、夢のよう。

 私は森と川と、山と空が好き。

 

目次:

 

名古屋から南木曽へ

 

 6月の頭に名古屋駅、中央線のホームから乗車した、特急しなの号という電車の383系。

 以前はワイドビューしなの、という名前でも呼ばれていた。

 

 

 これは検索すれば代名詞のように「よく揺れる」の一言が添えられている種類の電車で、一体どうしてなのかと調べると、車両が採用している機構にその秘密が隠されているらしかった。なんでも振り子式……といって、急なカーブでもスピードを落とさずに走行できる仕組みなのだという。

 複雑な地形を駆け抜ける電車ならではの工夫といえる。

 実際、よく揺れた。あまり乗り物に酔う体質ではなくて良かったと、私は胸をなでおろす。しかしせっかく大きな窓があり、山間部の眺望を楽しめる仕様になっているのだから、もうちょっと窓ガラス部分がキレイだと嬉しいのだけれど。

 目的地の南木曽駅までは無数のトンネルを通過する必要があった。

 面白いのが、ひとつ、またひとつと暗い穴を通り抜け、再び陽の光の下に出るたび、みるみるうちに周辺の様子が変わっていくところ。当たり前のことなのかもしれないが、何度も潜り抜けていくトンネルは要するに山を越えた先へ行くための設備であり、土地の境界線、異なる世界を隔てているものだと言ってしまっても、決して大げさではないと思う。

 

 

 特急しなのには、南木曽駅に停車するものとしないものがある。旅程と時間帯によっては中津川駅で中央本線に乗り換えが必要になり、そうすると1時間20分程度で到着。今回は幸運にも都合の良い電車があったので、一度も下車せずに約1時間の旅となった。

 短いものだ。けれど出発地点の名古屋とは、こんなにも視界に入る要素が違う。景色だけではない。風も、空気の味も、湿度も。

 絵画でいう空気遠近法的に青くかすんだ山の輪郭や稜線は、いつも私の目を喜ばせる。季節としては好まない夏が地上にもたらした、美しい彩り。たっぷりと水分を含んだ木々と葉の集合体には思わず腕を伸ばしたくなる魅力がある。大きな手を広げて表面にやさしく触ってみたい。

 でもそれは、こんな風に遠くから眺めているゆえに抱ける感想であって、山岳を構成する、それぞれの枝葉が区別できるほど近くまで行くと、その様相はまた大きく変化する。実際に分け入れば、いつも羨望と憧憬を向けている青緑の塊の、異なる側面が見える。

 無論、今日はそこまで行かない。

 

 

 駅舎を出たらまず、目の前の木曽川まで歩いた。南木曽町立南木曽中学校の校舎も見える。

 本当に美しい流れ。形容しがたい色の水だけでなく、川辺に転がっている大きな白い石の数々もその一部で、川もそうだし向こう側に見える山もエメラルドみたいだった。あるいは本当に宝石でできているのかもしれない、砕いて散りばめたり、溶かして流したりして……最後は白い石や雲で飾られる。

 そういう場所が実際にあるのかもしれないと思わされる。

 あるとき、手を引かれて歩いていると「川の上流の方に」って横の誰かが喋りだすんだろう。背の高い人。「家も道も花も、全部が碧色をしている街があって、その真ん中を通り抜けてきた水だから、こんな風に光を透かしている」とどこか遠い声で語られたなら、幼い自分は心から喜ぶはず。

 いつか必ずひとりで川上へ行ってみますね。そんな風に返事する、絶対。

 

 

 

木曽川にかかる桃介橋 

 

 整っている。

 あまりにも、顔が良い。これが第一の感想。

 そもそも南木曽に来た理由の筆頭は、付近にある福沢桃介記念館を訪問することであり、この橋の方はそのおまけくらいに考えていた。ところがどっこい。桃介橋、素晴らしいじゃん。こん……っなに造形が整っているなんて聞いてない。顔が良い。最高……本当に悔しいんだけれど、これは膝を折る。

 きちんと認める。木曽川にかかる君が、美しいってこと。

 桃介橋は大正10(1921)~11(1922)年の間に建造された、主塔部分が鉄筋コンクリート造りの木造吊橋。橋長は247.762mと、国内に現存する木橋のなかでもかなり大きなもので、老朽化によって使用取りやめとなった後の平成5(1993)年に復元された。今では近代化遺産として、国の重要文化財に指定されている。

 

 

 桃介橋を建てたのは福沢諭吉の義理の息子、婿養子として家に入った福沢桃介。彼については後日更新予定の福沢桃介記念館の記事に記載する。

  彼が社長を務めていたのが、当時の電力会社界でもかなり影響力を持っていた、大同電力株式会社だった。大正~昭和初期に興ったいわゆる「五大電力」のひとつに数えられる。

 その水力発電所建設に必要な資材を運搬するため架けられた橋が桃介橋で、建設当初の役割を伝えるため、復元後もトロッコのレールの跡が足下に再現されている。ちなみに川の下流にある「読書発電所」というのがその発電所なのだが、これの名前は「どくしょ」ではなく「よみかき」。地名から取られている。柿其水路橋が、主な導水路。

 読書発電所の外観の主要な特徴は窓のアーチであると思うが、桃介橋を構成するいくつかのアーチにも感嘆の息が漏れる。

 

 

 一番大きな曲線の上に、小窓のような空きが3つ。さらに上の方へじっと目を凝らすと、貫通はしていないがレリーフのように表面に彫られたアーチが6つ。橋の主塔自体の輪郭は直線で構成されているから、これらのアーチによって、心地よい視覚的なリズムが追加されていた。

 橋の形態には、19世紀アメリカで建造されたものとの類似点が少なからず見られ、かつて米国留学中に福沢桃介が視察してきた事柄の片鱗を伺わせる。

 私は何年も前に、ニューヨークのグランド・セントラル駅からビーコン駅まで電車で移動した際の風景を思い出した。地形こそ大きく異なるが、確かにあのハドソン線も同名の河の脇を走り抜ける電車で……そう考えると、特急しなの乗車中の奇妙な既視感にも納得がいった。窓から木曽川が見えるあの感じ、多分、少し似ていたのだ。

 主塔が3基あって4つに分割されているから、桃介橋は4径間になる。橋桁のトラス構造は少女の三つ編みのよう。揺れる吊橋、揺れるお下げ、どことなく民謡の歌詞のような連想だと思った。

 

 

 中央橋脚には階段があって、そこから水辺に下りられる。

 ちなみに桃介橋はこの周辺一帯でも最も川幅の広い場所に架けられていて、より対岸との距離が近い場所を選ぼうと思えば選べたはずだが、そうしなかった部分に桃介氏の人柄が伺えると記念館の職員の方は仰っていた。面白い。機能はもちろんのこと、見栄えにも意識を向けるのは実業家・投資家らしい視点だと私は思う。

 現在では「桃介橋」と呼ばれているが、実は建設当初、周囲からこの命名に反発されてやむなく「桃之橋」にしたとされる逸話が残っており、それには笑った。復元時にめでたく改称された結果を、彼は遠い場所から満足げに眺めているだろうか。

 この、復元前の木材やワイヤーの一部は山の歴史館の脇に保管されていた。

 次回の記事はそこから始める。

 

 

 

 

スイートハウスわかば - 中央商店街アーケード内のレトロ喫茶店|静岡県・伊東市

 

 

 

 

公式サイト:

 

 噂の昭和レトロなハトヤホテルに宿泊し、温泉に浸かったり、ふらふら散策したりするのに訪れた伊東の町。

 駅から飲み屋街を通り抜けて歩いて、細い路地に「宵まち通り」と看板が掲げられているのを横目に進むと、アーケードに行き着いた。閑散としてはいるが、全部が全部閉ざされている感じでもない。昼間の、ちょっと寂しい趣ある温泉街の商店街。そこに佇んでいる「スイートハウスわかば」。

 お店の側面、緑のひさしが並んでいるのを見るとまさに若葉の葉を連想させられる。白いタイルの壁から生え、茂った工業的な草。なかなか魅力的だった。

 公式サイトによれば、創業は昭和23(1948)年とのことで結構な古さだ。アイスキャンディーやアイスまんじゅうを手作りする喫茶店を経て、現在あるソフトクリームの店へと発展した旨が書かれており、大部分のメニューが今も手作りで生産され提供されているのだそう。

 

 

 そんな説明を読んでしまえば、やはりオリジナルのアイスが使われたメニューを何か注文せずにはいられない。クリームソーダともう一つ、メロンミルクジュースの上に乗せられた、たっぷりの白い塊。

 大きな釜で作るアイスは、夏季と冬季で味に変化を持たせているそうで、工夫とこだわりが伺える。私達が訪れたのは肌寒い頃だったから、きっと甘めのレシピのものだったはず。なめらかでおいしい。シャリシャリした感じは全くなく、かなり柔らかいタイプのアイスクリームであり、掬って口に含むと牛乳の味が染みわたった。

 それから食べ物として、ポテトピザトースト。食パンの上にポテトサラダとチーズが敷かれ、焼き立てアツアツの状態で提供される横に、ポテチが添えてある。

 個人的にはタバスコを全体に何滴か振りかけて、味を辛めにするといっそう楽しめた。使われているマヨネーズも自家製とのことで、文字通りにここでしか食べられない、というのは単純にいいなと思う。素朴で優しい味、特別な感じなど全然ないことがむしろ特別なのだった。

 

 

 店内の内装も、昭和創業の喫茶店らしい雰囲気。

 折り上げ天井の縁を飾るネオンの線と壁のレリーフ、その周囲に何時間でも座っていられそうなのんびりした空気が流れていて、冬でもアイスクリームをおいしく食べられるくらい店内は暖かかった。

 

 

 

 

さながら陸上の船舶、川辺の東海館 - 木造の旧旅館に混交する意匠|静岡県・伊東市

 

 

 

 

 海に面した都市に住んでいるため、なんとなく港の方に出て埠頭の見えるあたりを歩いているとき、そこで停泊している客船を目にする機会が多い。

 水の上に浮かんだ大きな船は、錨を下ろしていると船舶というより横長の建造物に似ていて、なんだか集合住宅みたいだといつも思う。部屋が沢山あるマンション。異なるのは、ひとたびエンジンをかけて舵を切れば海面を滑り、平衡に進み出すという要素くらい。

 そしてこれとは反対に、陸地に建っているのに船のようで、水に浮かび揺蕩っている風に見える建造物というのも、確かに存在しているのだった。私にとってはそれが伊東の東海館。どうしてそう感じるのかといえば、川辺にある建物を対岸から見ると、一瞬、その水の流れの中にあるように錯覚させられるから。

 植えられた深緑の灌木が地面との境目を覆い隠しているせいで、なおさらそう見える。塔屋はまるで帆先。風を切って、進んでいる。本当は少しも動いていないのに。

 

 

 唐破風の趣がある玄関の彫刻部分、飛沫をあげて海面に降り立った鳥の背景に、雲の切れ間から太陽が覗いている。板から削り出されているものだけれど、細かな部分に落ちる影は、ごく薄く溶いた絵の具で丁寧に薄い膜を重ねたような陰翳に見えるから不思議。

 不思議だし、凝視していると奇妙に気持ちが満たされる。

 東海館は昭和3(1928)年、稲葉安太郎という人物によって創業された温泉旅館であった。彼は伊東の材木商。それもあってか、館内の各所に使われている木やその加工には確かなこだわりを感じるし、増築時にはわざわざ各階の意匠を評判のよい棟梁へ依頼しているようだった。

 創業当初に比べて、増築が必要になるほど宿泊客が大幅に増加した背景には、鉄道の存在がある。昭和13(1938)年に全通した国鉄伊東線、現在でも名を継承しJR伊東線として運行している電車が多くの人々を乗せて、この地へと運んだ。

 

 

 3階建ての層になっている構造、単純に高さがある建物の内側に設けられた中庭は、当然うす暗い。ガラス張りの窓、館内に光が灯れば周囲が少し照らされ、灯籠に火を入れて明るさを補強することもできるが、それでもなお重苦しくはない闇の布をかけられたみたいに、短い橋の渡された小さな空間はある。

 この入口付近に立った時点で、すでに東海館の広さを身体が予感する。

 全体的に、複雑な回廊が縦に重なっているようなものなのだ。無数の客室、階段、どれを上ってどれを下ったのか、順番に部屋を覗いていっても戸惑うくらいには、広い。物質として存在する建物には適さない表現かもしれないけれど、例えるなら精神的な奥行き、とでもいえる何かを歩いていると感じるのだった。瞑想を促される構造、みたいな。

 特定の題材についてひたすら考えるのに適している。時々あらわれる魅力的な意匠が、謎かけのヒントよろしく、視界をちらつく。だが実際にはそれに結構惑わされている。

 

 

 客室のひとつで見つけた組子障子の意匠。魚をとる網を思わせるあの形には、伊香保の横手館でもお目にかかったことがある。造形的におもしろく、手間がかかっていて、単純に美しい。仕上げるまでの工程は多く作業には神経を使うはずだが、職人はきっと出来上がったものを眼前にして、そんな些事よりも誇りを感じるのだろう。

 部屋ごとに欄間の木の彫刻とも組み合わさり、一角が無二の雰囲気を醸し出す。

 この裏側、広縁に置いてある椅子のところにしばらく留まると、視界全体で何かがきらめいていることに気が付く。比喩……ではなく、東海館のすぐ横を流れる大川の水面に、太陽の光が反射して窓越しにちらついているから壁が白く点々と輝いているのだ。

 建物の外、川の対岸から眺めて船のようだと思った東海館。私はその内側に立っていても、こうして確かに船を連想させる様相を目の当たりにすることになった。海原の上で、甲板から水面に目をやるのと、ほとんど変わらない印象を抱いて。

 

 

 大広間に設置された大きな照明は個人的にとても見逃せない。埼玉の川口元郷、旧田中家住宅の和館で出会ったものとも共通点があり、いずれもかなり重たそうな金属部分が白いガラスを擁して天井から下がっているのが特徴である。洋館にあるシャンデリアのようだが、日本家屋に驚くほどよく馴染む佇まいが空間を飾っていると、高揚する。

 そうして広間の敷居を跨いで廊下に戻り、また迷う。もちろん背後の電灯は鬼火でもあったのだ、正しく。

 3階建ての建物であるものの、忘れてはならない部位がここにはもう一つある。そう、望楼。

 昭和24(1949)年に新しく増築された部分で、周囲に高い建物が増えた今でも伊東の町を睥睨できる位置にあり、よく地域のアイコンとして写真にも写っている。ガラス越しに隣の旅館いな葉の塔と、米粒みたいに小さい昼間の月が空に見えるから、怖いような嬉しいような気分になった。

 

 

 頂点に至った後、また徐々に降下しながら探索を続けていると、複数人で素泊まりと雑魚寝ができそうな細長い間に行き当たる。そこの障子の細工がまた素敵なのだ。帆船のごくシンプルな意匠でありながら、あのなめらかな曲線を格子の上に実現させるのは骨の折れることだと、感心の息を吐く。

 ちなみに、東海館には1階に喫茶室がある。利用方法は受付で注文をし、代金と引き換えに券をもらって、喫茶室の空いている席に座っていれば飲食物を運んできてくれる。

 大川が窓のすぐ向こうに見える外側の席に腰掛けてみたのだけれど、これがとても良い。木立の緑がちょうど適度に日差しを遮りながらも十分な光を通して、肌寒い時期でも温かく、お昼寝ができそうなくらいに快適な空気を保ってくれていた。ゆったりとした椅子も最高で。

 クリームあんみつにオリジナルブレンドのコーヒーは至福の組み合わせ、他の追随を許さない、無敵の強さを誇るペア。今日も喫茶トーナメントで勝ち抜きトロフィーを獲得した。

 

 

 東海館見学後は噂のハトヤホテルに宿泊して、ゆっくり温泉に浸かる。

 熱海のニューアカオと並んでレトロかつ豪華な内装が楽しめる、それなりに古くて有名な大型宿泊施設だ。肌がすべすべになり疲れも取れる透明なお湯はもちろんのこと、ゲームコーナーや売店もおもしろかった。

 

 

 何度も訪問してすっかり首まで浸かった熱海とは違い、伊東の地はまだまだ探検と、より深い魅力探しの途中。けれどもすでにその良さの一端に気付かされているし、今後も繰り返し訪れることになる、と確信している。

 次回の更新は喫茶店や街歩きに関する記事になりそう。これから少しずつ、記録を増やしていきたい。

 余談だが、この東海館の横にも旧木造旅館が建っていて、名前を「旅館いな葉」といった。大正時代の建築物で国登録有形文化財、木造3階建てでつくりに共通点があるけれど、別のものだ。現在はゲストハウスとして営業。

 

 

 このよくあるガラス戸のところに文字が書いてあるやつがあまりにも好きなため、発見すると自分のときめきが最高潮になる。

 宿泊のできる施設なのでいつか泊まってみたい。