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彷徨する自由帖

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明治に廃止されるまで存在した妻籠宿本陣の復元、島崎藤村の母の生家 - 南木曽町博物館|長野県・木曽郡南木曽町(6)

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 長野県、南木曽の周辺を巡る一連の記事の続き。

 

1. とても端正な近代化産業遺産、桃介橋の尊顔 - 大正時代に竣工した美しい吊橋と木曽川|長野県・木曽郡南木曽町

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4. 手打ち蕎麦処 桃介亭 - 記念館と橋の近くにある休憩所|長野県・木曽郡南木曽町

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宿場らしい高札の立つところを中心に、本陣、問屋、年寄、伝馬役、定歩行役、水役、七里役(飛脚)などより成る百軒ばかりの家々が主な部分で、まだその他に宿内の控えとなっている小名の家数を加えると六十軒ばかりの民家を数える。

 

(新潮文庫「夜明け前 第一部(上)」(2018) 島崎藤村 p.6-7)

 

 ……上の引用はこの妻籠宿ではなく、近隣にある馬籠宿の様子を描写した一文ではあるけれど、江戸の木曽街道における宿場の基本的な構成はどこも似ている。徳川家光の時代に「参勤交代」が制度化されてからは特に、これらが重要な役割を果たしてきたのだった。

 本陣とはそもそも宿場の中にあって、大名をはじめとした藩の重役を主に逗留させた施設で、宿場や村の有力者の家などが使われることが多かった。それより一段階、格式の下がる脇本陣とは異なり、よほどのことがない限りは一般の宿泊者に提供されることもなかった。

 現在、妻籠宿で見学できる本陣は明治時代にいちど取り壊されている。

 というのも、本陣はいわゆる旅館業を営んでいた家ではなく、大きな規模とはいえあくまでも「普通の住居」を利用して大名に食事や寝床を提供していたため。それで参勤交代制度が廃止されれば必然的に、誰かを泊めることもなくなった。本陣の廃止が正式に通達されたのは明治3年のこと。

 

 

 平成7年にこうして復元された妻籠宿本陣は、もともと島崎藤村(本名は島崎春樹)の母、縫(ぬい)の生家だった。最後の当主は藤村の兄、広助で、彼が上京したのをきっかけに家は解体。しばらくの間は跡地が営林署や御料局のために使われていた経緯がある。

 今は妻籠宿の脇本陣奥谷、歴史資料館と合わせて南木曽町博物館の一部になり、間取りなど、すべて江戸時代後期の状態を忠実に再現し公開されているのだった。

 

 かまどと流しのある土間は完全な日陰の空間で、夏でもそれなりに涼しく、見上げるとそれは立派な柱が黒く光っていて気圧された。下には囲炉裏があって、ここに来る前に脇本陣奥谷で聞いた解説が脳裏をよぎる。火を焚いた煙が防虫と抗菌の作用をもたらすのだと。

 靴を脱ぎ、つるつるの板場に足を滑らせながら内部を見学した。靴下越しに感じる柔らかくも硬質な木、草を編んだ畳の表面から、伝わってくる温度は低い。炎天下を徒歩でやってきた疲れが多少なりと癒されるようで、心地よくもある。

 本陣として使われていたくらいだから当たり前だが、本当に大きな家。

 

 

 

 

 現代の昼間でも電気をつけないと暗い、昔のお風呂場やお手洗いにはどぎまぎしてしまう。

 人の暮らす場所ではないみたいだと思わず内心でつぶやく。では一体何が住んでいる場所に見えるのかと聞かれても答えられず、なんとなく想像するのは、無人の敷地内を音もなく移動するいくつもの影だけ。

 重厚なしつらえの屋敷に誰もいない状態が私は大好きで、それでしょっちゅう古い邸宅を見学しに行っているようなものだが、こういうところでもやはり気分の高揚を感じた。日本家屋の「区切られているようで繋がっている」間取り、ある程度開放的なのに迷宮を連想させる袋小路の印象、だから中庭に出ると少し落ち着く。

 当るとじりじりする太陽光の及ばない地点から、池にじっと視線を向けて静止した。

 確かに博物館として管理されてはいるけれど誰も住んでいない家だ。そこに、不思議な魚が生息していたら面白いのに。ふと水面から跳ね上がる音が聞こえて振り返っても、実際は波紋ひとつない池があるばかり。

 

 

 そんな庭から入側を挟んだところにある御上殿、書院と床の間を擁した空間には御簾が設けられていた。御簾は興味深い存在だと思う。力を入れれば簡単に取り除いてしまえる薄い膜なのに、それが下ろされているだけで、どういうわけか絶対に立ち入ることのできない空間が出現したのだとも錯覚してしまう。

 性質としてはきっとあれに似ている。関守石、別名を止め石。物理的な防壁にはなり得ず、しかし人の認識に訴えることによって、この先には進めないのだと如実に示す興味深い存在。寺社の境内などで見つけるとちょっと嬉しいやつ。

 そんなことを考えていたら直接的に「この部屋に入らないでください」と書かれた看板にも行き当たって、面白いものだと思った。うむ、これは普通の掲示。

 

 妻籠宿本陣と脇本陣、用途以外での違いは何だろうかと思いを巡らせ、間取り図に目をやって庭の広さを挙げてから、実際に見学してみて装飾などの部分に意識が向いた。

 個人的に脇本陣で見たいくつかの意匠に好きなものがあって、それらと比べると、本陣の方は建物自体の豪壮さが何よりも大きな特徴なのだろう。滞在する一団の規模の差もあってか、台所の設備の相違も気になる。

 

 

 大名たちを歓待する食事を賄うのには、相当な手数と手間を要したに違いない。

 山間部の宿場というのは砂漠のオアシスにも似ている。旅路の途中、補給に必要な経由地として誰かが立ち寄り、そしてまた去る。まるで街路灯としての町。その在り方はどこか夢なども思わせる、なのに儚さとは一線を画する根強い印象を同時に受けるのが不思議だった。

 とはいえ色々な要素から納得もできる。

 参勤交代や本陣の制度が廃止されてからも、重伝建保存地区として注目され、廃れて消えていく前に文化的に息を吹き返したのが妻籠宿。時代とともに変化しながらも確かに残っているところ。だからこそ、なおさらそんな風に感じるのかもしれなかった。