参考サイト・書籍:
湯LOVE草津(草津温泉ポータルサイト)
ふしぎ地名巡り(著・今尾恵介 / ちくま文庫)
草津温泉
町へ近付くにつれて、車を降りる前から独特の匂いが鼻についた。
白根火山の恩恵を受け、毎分3万2千リットル以上の豊かな湯が湧き出る土地・草津。いま記事を書きながら開いている本《ふしぎ地名巡り》にはこう記載されている。一説によると草津の地名は、硫化水素の臭気を纏った水――つまり温泉から来ているのだ、と。臭う水⇒臭水(くそうず)の音が変化して、草津(くさつ)と呼ばれるようになったらしい。
日本には他にも新潟県や秋田県に草水、草生津(いずれもくそうずと読む)の地名が存在しているが、それらは同じ「臭いのある水」でも、温泉ではなく「石油」の方を指していた。興味深い。
さて、観光課のある場所から中央通りの坂を下って、湯畑におりた。無数の四角い桶が並ぶ広場で周りを見渡して気付いたのは、和風の建物に交じって、ハーフティンバー様式を模した風貌の建物がいくつか並んでいるということ。まるでドイツの一地方で見られるような……。考えてみれば確かに、草津温泉にはドイツとの浅からぬ縁がある。
その関係の始まりは明治初期の頃だった。
明治9年――廃刀令の発布された頃、お雇い外国人として日本政府に招かれたのがドイツ(ヴュルテンベルク王国)出身の医師、エルヴィン・フォン・ベルツ。
彼は滞在した29年間で、東京医学校で教鞭をとった後は宮内省侍医にも就任し、近代医学の発展に大きく貢献した人物。今では『日本近代医学の父』と称されるほどで、歴史の教科書には必ずその名が載っている。
草津温泉にいたく心を寄せていたベルツは何度もこの地を訪れ、自身の著書や日記でもたびたび言及した。当時、国内では既に優れた保養地として評判だった草津の名が、ヨーロッパを中心とした諸外国にも知れ渡ったのは、ひとえに彼の功績によるといっても過言ではない。
湯畑のある広場からは少し距離が離れているが、道の駅(草津運動茶屋公園)の横には彼の歩みと草津との関わりを学べる小さな記念館がある。こちらもどこかドイツ風にデザインされた建物が目印で、無料で入ることができた。
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ベルツ記念館
赴いた患者を医師が診察し、時には入院させて経過を見る。そんな、現代の病院に近い形式の施設が日本に生まれたのは幕末から明治にかけての時代。
それ以前は往診と漢方が中心で、いわゆる外科手術をきちんと行えるのも長崎など、鎖国下でオランダの医療・学問(蘭学)を学んだ人間のいるわずかな場所に限られていた。
やがて明治維新と文明開化の風が吹き荒れる中、需要の高まる西洋医学を採択するにあたり、識者の提言を受けて国が選んだのは当時最先端(参考:ドイツの医学薬学は世界一ィィィィーーーー! )を行っていたドイツ医学。
政府は医者を志す学生にはドイツ語を学ばせ、時には森鴎外のように留学を命じたほか、海外から何人かの人材を雇い入れることになる。こうしてベルツ博士がやってきたのだ。
彼は滞在中、後に《ベルツの日記》と題された日記や手紙、日本文化論など様々な記録を残した。ごく主観的に記されたものでありながら、端々から明治日本の風景や政治、人々の相貌を伺える貴重な資料である。外国の学問や技術を取り入れるにあたって、日本人は改めて自国の歴史・文化と向き合うべきだと説いた部分は特に一読に値する。
そんなベルツが注目し惹かれていたのは、草津温泉が持つ優れた保養地の要素と可能性だった。ここでは良質な温泉の成分の他、立地の恩恵を受けて生まれた澄んだ空気と湧き水が合わさって、理想的な環境を形成している――と。事実、
当時の草津には多くのハンセン病患者や花柳病(性病)患者が療養のために集っていた。
特にハンセン病の湯治に関しては、外皮にできた潰瘍へ一定の効果が認められたそうだ。
国内での草津温泉の評判は高かったが、その強酸性の泉質や独特の入浴法「時間湯」について、詳細な研究は未だ行われていないと気づいた博士。より効果的な治療と滞在しやすい場所作りのため、医師の派遣と旅館の改良、そして交通網を整備する必要性を説いた結果、この地の近代化は大きく後押しされることに。
ベルツと共に草津や伊香保などの温泉地を訪れた人間の中には、同じドイツ人でお雇い外国人の外科医、ユリウス・スクリバがいた。
彼の銅像もこの記念館内にあり、町にはその名を冠した道《スクリバ通り》もある。
館内では他に、ベルツが日本滞在中に結婚した女性・戸田花子(花)の身に着けたドレスや小物の展示品をいくつか見た。
上の写真に写っているのは、夫妻が明治天皇に帰国の挨拶をするため、宮中へ赴いた際のもの。とても綺麗。
ちなみにベルツは生まれた長女・ウタが夭折した時、毅然な態度で悲しみに耐えた花の姿を見て「まるで古代ローマの女性のようだ」と日記に記している。最初はこれが褒め言葉なのかどうか分からなかったが、きっと良い意味なのだろう。慣れない日本での暮らしの中で、彼がどれほど花夫人に助けられていたのかは想像に難くない。
後に夫に付随してドイツに移り住んでいた花だったが、ベルツの死後10年ほど経って国籍が認められなくなり、帰国。それからは前述したスクリバの一家と交流しながら、未亡人として穏やかな余生を送ったといわれている。
以前ニッカウヰスキー余市蒸留所を訪れた記事で竹鶴&リタ夫妻に言及したが、国境を越えた結婚にはいつの時代も苦労が伴った。
また、グラバー園で軌跡を辿った倉場富三郎は日英の両親を持つ混血としてスパイ嫌疑をかけられ、最後には故郷の街に原爆が投下されたことで苦悩し自殺している。
国境を越えた関係を築くのには現代でも多大な努力が必要なのだから、当時の戦争や文化への無理解、人種差別などに大きく翻弄された彼らの艱難辛苦は計り知れない。
やがて昭和9年、草津はベルツ博士の出生地であるビーティッヒハイム・ビッシンゲン市と姉妹都市の関係になった。
縁あって結ばれた二国間の絆が、これからも良好に続くことを私は願っている。
ベルツ記念館を見学した後は少し湯畑の辺りを歩いた。
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湯畑周辺
草津に限らず、温泉地の独特な雰囲気が好きだ。
もっと頻繁に訪れたいけれど、人気のある土地では一人客を受け入れてくれる旅館はまず見つからない。万が一にお情けがあっても恐ろしく値が張るところばかり。
だがそれも当然、単純に一人客を泊めるメリットが少ないのだ。だからぼっち旅行者は突き付けられる悲しい現実を粛々と受け入れ、折をみて誰かを誘うしかない…… 閑話休題。
むせかえるような硫黄の匂い、ずらりと並ぶ長方形の木枠、そして湯気がもうもうと視界に広がる湯畑は壮観としか言いようがない。流れ落ちる湯の滝の轟音も微かに聞こえる。
訪れる人や周囲の景観が移り変わっても、まるで意に介さないように流れ続ける大きな熱脈の、ほんの一端にだけ触れられた気がした。
この湯の元を辿れば、遥かな白根山の地中に至るのだろう。
ふと思う――この湯畑が果たす役割とは一体何なのか。
調べると、湯桶を利用して高温な源泉に水を足さず適温化し、入浴できるようにするための仕組みなのだという。湧き出たままの湯はそんなに熱いのだ。もう一つ、沈んでいる大きな木枠の中の湯は「御汲上げの湯」と呼ばれ、各時代の将軍たちに献上された。数か月に一度くらいの頻度で桶に溜まった湯の花の採集も行われる。
温度が高いのに加えて、湯が青みのかった緑色なのは強い酸性による(殺菌作用がある)ものだというから、草津温泉を擬人化するとしたらかなり屈強なキャラクターが形成されそうだ。現地では湯畑の他にも、複数の源泉から異なる泉質の湯がもたらされている。
また、周囲の遊歩道をに目を向けると瓦がぎっしりと敷き詰められていて、流麗な文様を描いているのに気付いた。これは岡本太郎による作品。彼らしい造形が草津温泉の雰囲気と調和していて、個人的にはかなり好き。ガス灯を模した照明が道に立っているのも楽しく、歩いているだけで色々なアイデアが浮かんできそう。
気分が上がってきたので「本家ちちや」の温泉饅頭を食べた。
いつの時代も人を惹きつけてきた草津温泉だが、ベルツが指摘していたように、明治期までは交通の便が悪いことが難点だった。きっと、この標高の高さも影響していたのだろう。
大正の頃になってようやく、草軽電気鉄道により軽井沢から草津温泉に至る線路が開通する。スイスを参考にしている部分や、複数のスイッチバックを利用しているのは箱根登山鉄道と同じで、開通時期は両者とも大正初期だが、草軽電気鉄道の方は昭和37年で全線廃止されているのが残念でならない。
国鉄バスの運行が始まり、利用客が伸び悩んだことが原因の一つとして挙げられる。
今でも「草軽」の名前は草軽交通株式会社に残っており、公式サイト上のweb博物館で貴重な写真や動画の数々を見ることができるので、興味のある人におすすめ。
登山電車が大好きだから、実際に乗りたかったなとその終焉を惜しみつつ、心だけを当時に飛ばして颯爽と切符を買う。妄想は自由だ。
静かにじっと耳を澄ますと、遠くから規則的な、車両の走行音がゴトゴトと聴こえてくるような気がした。