海に面した都市に住んでいるため、なんとなく港の方に出て埠頭の見えるあたりを歩いているとき、そこで停泊している客船を目にする機会が多い。
水の上に浮かんだ大きな船は、錨を下ろしていると船舶というより横長の建造物に似ていて、なんだか集合住宅みたいだといつも思う。部屋が沢山あるマンション。異なるのは、ひとたびエンジンをかけて舵を切れば海面を滑り、平衡に進み出すという要素くらい。
そしてこれとは反対に、陸地に建っているのに船のようで、水に浮かび揺蕩っている風に見える建造物というのも、確かに存在しているのだった。私にとってはそれが伊東の東海館。どうしてそう感じるのかといえば、川辺にある建物を対岸から見ると、一瞬、その水の流れの中にあるように錯覚させられるから。
植えられた深緑の灌木が地面との境目を覆い隠しているせいで、なおさらそう見える。塔屋はまるで帆先。風を切って、進んでいる。本当は少しも動いていないのに。
唐破風の趣がある玄関の彫刻部分、飛沫をあげて海面に降り立った鳥の背景に、雲の切れ間から太陽が覗いている。板から削り出されているものだけれど、細かな部分に落ちる影は、ごく薄く溶いた絵の具で丁寧に薄い膜を重ねたような陰翳に見えるから不思議。
不思議だし、凝視していると奇妙に気持ちが満たされる。
東海館は昭和3(1928)年、稲葉安太郎という人物によって創業された温泉旅館であった。彼は伊東の材木商。それもあってか、館内の各所に使われている木やその加工には確かなこだわりを感じるし、増築時にはわざわざ各階の意匠を評判のよい棟梁へ依頼しているようだった。
創業当初に比べて、増築が必要になるほど宿泊客が大幅に増加した背景には、鉄道の存在がある。昭和13(1938)年に全通した国鉄伊東線、現在でも名を継承しJR伊東線として運行している電車が多くの人々を乗せて、この地へと運んだ。
3階建ての層になっている構造、単純に高さがある建物の内側に設けられた中庭は、当然うす暗い。ガラス張りの窓、館内に光が灯れば周囲が少し照らされ、灯籠に火を入れて明るさを補強することもできるが、それでもなお重苦しくはない闇の布をかけられたみたいに、短い橋の渡された小さな空間はある。
この入口付近に立った時点で、すでに東海館の広さを身体が予感する。
全体的に、複雑な回廊が縦に重なっているようなものなのだ。無数の客室、階段、どれを上ってどれを下ったのか、順番に部屋を覗いていっても戸惑うくらいには、広い。物質として存在する建物には適さない表現かもしれないけれど、例えるなら精神的な奥行き、とでもいえる何かを歩いていると感じるのだった。瞑想を促される構造、みたいな。
特定の題材についてひたすら考えるのに適している。時々あらわれる魅力的な意匠が、謎かけのヒントよろしく、視界をちらつく。だが実際にはそれに結構惑わされている。
客室のひとつで見つけた組子障子の意匠。魚をとる網を思わせるあの形には、伊香保の横手館でもお目にかかったことがある。造形的におもしろく、手間がかかっていて、単純に美しい。仕上げるまでの工程は多く作業には神経を使うはずだが、職人はきっと出来上がったものを眼前にして、そんな些事よりも誇りを感じるのだろう。
部屋ごとに欄間の木の彫刻とも組み合わさり、一角が無二の雰囲気を醸し出す。
この裏側、広縁に置いてある椅子のところにしばらく留まると、視界全体で何かがきらめいていることに気が付く。比喩……ではなく、東海館のすぐ横を流れる大川の水面に、太陽の光が反射して窓越しにちらついているから壁が白く点々と輝いているのだ。
建物の外、川の対岸から眺めて船のようだと思った東海館。私はその内側に立っていても、こうして確かに船を連想させる様相を目の当たりにすることになった。海原の上で、甲板から水面に目をやるのと、ほとんど変わらない印象を抱いて。
大広間に設置された大きな照明は個人的にとても見逃せない。埼玉の川口元郷、旧田中家住宅の和館で出会ったものとも共通点があり、いずれもかなり重たそうな金属部分が白いガラスを擁して天井から下がっているのが特徴である。洋館にあるシャンデリアのようだが、日本家屋に驚くほどよく馴染む佇まいが空間を飾っていると、高揚する。
そうして広間の敷居を跨いで廊下に戻り、また迷う。もちろん背後の電灯は鬼火でもあったのだ、正しく。
3階建ての建物であるものの、忘れてはならない部位がここにはもう一つある。そう、望楼。
昭和24(1949)年に新しく増築された部分で、周囲に高い建物が増えた今でも伊東の町を睥睨できる位置にあり、よく地域のアイコンとして写真にも写っている。ガラス越しに隣の旅館いな葉の塔と、米粒みたいに小さい昼間の月が空に見えるから、怖いような嬉しいような気分になった。
頂点に至った後、また徐々に降下しながら探索を続けていると、複数人で素泊まりと雑魚寝ができそうな細長い間に行き当たる。そこの障子の細工がまた素敵なのだ。帆船のごくシンプルな意匠でありながら、あのなめらかな曲線を格子の上に実現させるのは骨の折れることだと、感心の息を吐く。
ちなみに、東海館には1階に喫茶室がある。利用方法は受付で注文をし、代金と引き換えに券をもらって、喫茶室の空いている席に座っていれば飲食物を運んできてくれる。
大川が窓のすぐ向こうに見える外側の席に腰掛けてみたのだけれど、これがとても良い。木立の緑がちょうど適度に日差しを遮りながらも十分な光を通して、肌寒い時期でも温かく、お昼寝ができそうなくらいに快適な空気を保ってくれていた。ゆったりとした椅子も最高で。
クリームあんみつにオリジナルブレンドのコーヒーは至福の組み合わせ、他の追随を許さない、無敵の強さを誇るペア。今日も喫茶トーナメントで勝ち抜きトロフィーを獲得した。
東海館見学後は噂のハトヤホテルに宿泊して、ゆっくり温泉に浸かる。
熱海のニューアカオと並んでレトロかつ豪華な内装が楽しめる、それなりに古くて有名な大型宿泊施設だ。肌がすべすべになり疲れも取れる透明なお湯はもちろんのこと、ゲームコーナーや売店もおもしろかった。
何度も訪問してすっかり首まで浸かった熱海とは違い、伊東の地はまだまだ探検と、より深い魅力探しの途中。けれどもすでにその良さの一端に気付かされているし、今後も繰り返し訪れることになる、と確信している。
次回の更新は喫茶店や街歩きに関する記事になりそう。これから少しずつ、記録を増やしていきたい。
余談だが、この東海館の横にも旧木造旅館が建っていて、名前を「旅館いな葉」といった。大正時代の建築物で国登録有形文化財、木造3階建てでつくりに共通点があるけれど、別のものだ。現在はゲストハウスとして営業。
このよくあるガラス戸のところに文字が書いてあるやつがあまりにも好きなため、発見すると自分のときめきが最高潮になる。
宿泊のできる施設なのでいつか泊まってみたい。