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彷徨する自由帖

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箱根登山電車&ロープウェイの魅力と1月の大涌谷

 

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大涌谷の黒たまご館

 この間、箱根の方まで出向いた。特に用事があったわけではなく、見たいものがあったわけでもない。ただ何となく。考えてみれば、自分がどこかへ行く時は理由があるからではなくて、目的地を決めてから、その理由を後付けで考えていることの方が多いということに気付いた。とにかく「どこか」へ行かなければならないと常に強く感じている。これも、そんな動機で出歩いた日のうちのひとつだった。

 東京都心からのアクセスがよい(新宿からは1時間半ほどで行ける)ためか、「思い立った時にすぐ行ける」が謳い文句にもなっている箱根。私は横浜市内でも内陸寄りに住んでいるので、まずは海老名から小田原に出て箱根登山鉄道に乗り換えて、そこから大涌谷まで足を運んでみることにした。平日の朝早くに出たので、現地には想像していたほど多くの人がいなかったのを覚えている。

 その土地の空気を吸って風景を見る程度のことしかしていないが、主に初めて体験した箱根登山鉄道の乗り心地や歴史、1月の大涌谷の様子について記載しようと思う。(余談だが、私は英国カンタベリーを訪れた際に、肝心の大聖堂へと寄らずロンドンへ帰ってきてしまったことがある。旅行や散歩の途中に気が変わるか体力が無くなる事案がよくあるので、そういう時に自分の惰弱さを思い知る。)

 今回もどうぞお付き合いください。

参考サイト:

箱根登山電車(箱根登山鉄道)

国立公園 箱根 大涌谷(大涌谷くろたまご館)

スイス観光政府局(スイス観光政府局公式)

  • 温泉地としての箱根――近代まで

 箱根周辺の地形が今のような状態に形成されたのは、約40万年~3000年前にかけてという、途方もなく昔のことだ。火山の活動自体はそれよりもずっと前からあった。その後は大涌谷で幾度かの水蒸気爆発が観測されているが、大規模な地殻変動などは起こっていないらしい。

 その歴史に比べれば、私たちになじみの深い「温泉地」としての箱根が経験してきた約1200年という期間は、とても短いものだといえる。

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現在の箱根湯本駅

 言い伝えによれば、古くは奈良時代に泰澄(たいちょう)という僧の弟子・浄定坊が箱根湯本の地を訪れ、当時関東で流行していた病への対策として祈祷を行ったとされている。すると、疫病を治す効果のある温泉(惣湯と呼ばれる)が岩の間からたちまち湧き出てきたのだそうだ。この伝承が、湯治場としての箱根の始まりだといわれている。やがて戦国時代、江戸時代を経て明治に入ると、周囲の風景は徐々に今の私たちが見ているようなものへと変貌していった。

 温泉の効能を求めてやってくる人々の中には、一般人のほかに明治の有力者や著名人もいた。彼らは当時、まだ足を運びにくかった箱根の地をより訪れやすいものにするため、その財とアイデアを用い、交通網の発展に大きな影響をもたらした――特に福沢諭吉は「道路の整備に力を入れることが土地の発展にとって重要だ」と提言し、それがきっかけで開かれた道路には賑やかに馬車や人力車が行き交うようになった。これが、後の国道1号線である。

 道路の開削は小田原から箱根湯本、湯本から塔之沢、塔之沢から宮ノ下といった具合に少しずつ行われた。それと同時に、当時の東海道線の開通にあたって、その停車駅ではなかった箱根という土地が周囲から取り残され、孤立してしまうことを危惧した有志達により、国府津から箱根湯本を鉄道によって結ぶ計画が発足した。

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塔ノ沢駅

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山間を縫うように走る

 明治21年から29年ごろの間は、「小田急馬車鉄道」が主な国府図―小田原―湯本間の交通手段だった。その名の通り、多くの客を載せた車両(英・米から輸入されたもの)を、馬たちが日々せっせとひ引いていたのだという。小田急が所持していた馬の総数は80頭を超えた時期もあり、飼料をはじめとした世話にかかる出費は相当なものであった。それゆえ、利用客は増加していても赤字の状態が続いていた。

 鉄道を電化しようとする声が大きくなってきたのは、利便性の追求もさることながら、悪化した経営状態を立て直そうという意図が根底にあったのだろう。

 明治33年にはついに国府津から小田原、そして箱根湯本が電車で繋がれることになる。同時に発電所の設置によって電燈の普及が試みられるなど、箱根も日本の他の地域に漏れず、近代化への道を紆余曲折を経ながら進んでいった。

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登山鉄道の車内

 ちなみに前述した福沢諭吉には桃介という婿養子がおり、彼もこの時代に実業家としての才を十分に発揮していた。桃介がビジネスパートナー・貞奴と共に生活した洋館(復元)の様子を、後日執筆した名古屋旅行についての記事に記載したので興味のある方はぜひどうぞ。

  • 箱根登山電車に乗って

 さて、今回私がその魅力を発見することになった「箱根登山電車」は現在、小田原―湯本―強羅の間を結んでいる。昨年の2018年には創業130周年を迎えることになった。箱根湯本に到着するまでの様子は他の電車と大きく変わるところがないが、そこから強羅に至るまでには、目に映る風景も感覚もがらりと変化する。

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晴天

 まず、乗っていて明らかな傾斜を感じる。そして幾つものトンネルを抜けるたびに緑は濃くなっていく。景観を大きく損ねることがないよう山ひだに沿って走る列車は、形容するならば「ぬるぬる」といった感じの面白い動きをする。急な勾配のため、計三か所のスイッチバック(切り替え地点)を利用し蛇行しながら進むので、それが山肌に張り付き、這っているかのような印象を与えるのかもしれない。車窓からは木々のあいだに、自動車の通る道路も垣間見ることができる。

 登山電車を開通するにあたって、当時の小田原電鉄に多大な影響を与えたのが遥か遠国スイスの私鉄「旧ベルニナ鉄道(現レーティッシュ鉄道)」であった。アルプスの山々を縫い颯爽と走る赤い車両は、無数の橋梁やトンネルを超えて、イタリアまでを繋いでいた。当時の日本から現地へと視察に出かけた一団は滞在を通して、線路を敷く際の勾配の程度やカーブの緩急など、当初の計画を見直すきっかけを多く得たという。

 その技術から学び建設された箱根登山鉄道は、後の1979年にレーティッシュ鉄道と姉妹鉄道の連携を結ぶことになる。

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強羅駅

 

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車内のようす

 日本国内初の登山鉄道ということもあり工事は難航をきわめたが、なかでも特筆すべきなのは通称「出山の鉄橋」と呼ばれている箇所、すなわち早川橋梁の部分であったという。建設のための足場を組むだけでも多大な労力がかかったほか、第一次世界大戦の影響で物資の入手と運搬は滞っていた。後に払い下げられた天竜川橋梁を移設し、やっとのことでこの橋は完成した。

 さて。今では「箱根一の眺望」とも称されるそこからの撮影を、見事に失敗した私の写真がこれです。

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 すがすがしいほどにシャッタータイミングが悪かった。

 箱根登山鉄道の沿線にある観光スポットの中で、訪れたことがあるのは彫刻の森美術館だけだ。強羅での乗り換え以外で下車をしたことがないし、そもそも歴史と風情のある電車に乗っているだけでかなりの満足感を得てしまうから、自分にとってここはそういう場所なのだろうと思う。だからこの記事も「特に何もしない旅行」とタイトルに記載している。

 電車の外観とその内部、各駅で統一されたテーマカラーの朱色がいい。今に至るまでの過程が面白い。動きそのものが良い。眺めもいい。だから、ただこの電車に乗るためだけに箱根に来る価値は十分にあると思う。加えて産業遺産や文明開化、明治時代の偉人......が好きだという人には特におすすめできる。胸が熱い。

 とはいえ他に本当に何もないというのも寂しい気がするので、大昔の8年前に彫刻の森で撮影した、塔の内部の写真を貼っておく。これがなかなか綺麗。また、敷地内にはピカソの作品(絵画や彫刻をはじめ、陶器など)を収めた建物もあるので、彼のファンなら必見。個人的に、近代の彫刻家ならジャコメッティやブランクーシが好きだ。

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色硝子を通して入り込む外光

 強羅で下車したら、次は2両編成のケーブルカーに乗り換えて早雲山という駅まで出る。そこから大涌谷はもうあと一息。仮に終点の桃源台駅へと行く場合でも、結局は大涌谷での乗り換えが必要になるので、時間が許すのであれば少し周辺を歩いてみることをおすすめする。

箱根登山鉄道:登山電車への道|箱根登山鉄道の歴史

  • 大涌谷の風景

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木々の向こうに

 今では早雲山から桃源台を結ぶようになった箱根ロープウェイだが、1959年の開業当初は大涌谷までの運行に限られていたのだという。何度かの架け替えや点検、火山ガスの状況による運休の際は、代行バスが各駅まで走ることになっていた。現在のゴンドラは広く、一度に運ぶことのできる人間の数も多い。

 この日は空気中のガスの濃度が上昇しており、通常通りにロープウェイの運行はされていたものの、注意勧告がなされていた。乗車時には、緊急の際に口や鼻を覆うことのできるおしぼりが全員に配られる。何かあれば係員さんの言うことを注意深く聞かなければならないな、と少し緊張した。

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噴煙:大涌谷の風景

 晴れた日の上空からの景色はやはり怖くて、それでも本当に美しい。昔は立ち入ることができたが今は閉鎖されているエリアも、ロープウェイの上からなら存分に楽しむことができる。観光地である以前に、ここは活きている火山なのだということを、強い硫黄の匂いが思い出させてくれた。

 標高、約1044メートル。この大涌谷はかつて「地獄谷」「大地獄」のように呼ばれていたことがある。確かに、絶え間なく噴煙を上げる姿や酸に強い草木のみがわずかに生えている様子は、古い絵巻に描かれた地獄を連想させられた。改称のきっかけとなった出来事は明治9年の行幸(天皇がどこかへ赴くこと)で、このとき陛下が直接足を運ばれた場所に「地獄」とついているのはいかがなものか――と多くの人々が思ったのだろうことは想像に難くない。

 ちらほら雪も見られる1月半ばの大涌谷は、凍えるような寒さだった。適当に風景を楽しんでいたがすぐに耳や指先が冷えてしまうので、こまめに売店の建物の中に入って物色しながら、また外に出るということを繰り返した。この日はよく晴れていたのだが、残念ながら富士山を望めるほどの天候ではなかったようだ。

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延命地蔵尊

 大涌谷の隅には延命地蔵尊があり、その存在が、食べると長寿になると言われている名物「黒たまご」の由来となっている。むかし弘法大師がここを訪れた際に地蔵をつくり、祈願を行ったのがそのはじまりだ。子育てにもご利益があるという。黒たまごは全国でもこの場所でしか販売されておらず、特に冬季は売店が閉まる期間もあるので、お土産を求めて来るときは訪れる前の確認を忘れないようにしたい。

 ちなみに私がこの日ここで食べたのはその卵ではなく、黒色のソフトクリーム。大してお腹が空いていなかったとはいえ、あんなに寒い場所で、歩きながらキンキンに冷えたものを黙々と口にできる自分の気が知れない。

 でも一人で座ってご飯を食べるのは嫌だった。寂しかった。

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漆黒のアイス

 一人旅も散歩も大好きなのだが、いつも飲食店に入る時だけは誰かに居てほしいと思う。話し相手がいない場所でじっくりと何かを味わいたいなら家で十分だと感じるし、外食の際は、他人と共有する空間にこそお金を払っているという意識がどこかにある。なぜなのかは知らない。閑話休題。ソフトクリームは普通に美味しかった。ほのかに炭の味がした。

 その後は時計の両針が十二を指す前に、帰宅の途につく。翌日は仕事だったので帰ってからゆっくりと昼寝をした。この日帰り旅行(もはや散歩)をきっかけにして、今年は地元・神奈川の名所を重点的に、少しずつ開拓していこうと改めて思った。存外近くにあるのに見落としている、素晴らしい場所がまだまだたくさんある。

 時間をつくって多くの場所に足を運び続けたい。

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後景に連なる山々

 2019年10月12日に上陸した大型台風19号(ハギビス)により、甚大な被害を受けた箱根と箱根登山電車。崩落した山の斜面と、ねじ曲がり半ば落石に埋もれた線路の写真を目にしたときは心臓が止まるかと思った。以前と全く同じような風景はもう見られないのかもしれないが、また新しい形で、次の世代へと歴史を紡いでいってほしいと思う。大好きな路線なのでずっと応援している。

  • 小田原から帰宅

 余力がないのでお城には立ち寄らなかったが、駅弁を買ってみた。小鰺押寿司というもので、起源は明治36年に遡ると言われているらしい。中にはシンプルなアジの押し寿司のほか、二つのしそ巻きが入っていてとても美味しかったです。

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