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彷徨する自由帖

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熱海随一の和洋館《起雲閣》を訪ねて|大正~昭和初期の富豪の別邸であり、後に文豪も宿泊した旅館

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参考サイト:

起雲閣へようこそ(熱海市公式ウェブサイト)

 

起雲閣

 JR熱海駅から徒歩25分程度、ちょうど糸川と初川の間あたりに、広い敷地を持つ立派な元別荘がある。周囲をぐるりと塀に囲まれているため、高台から見下ろすか、実際に中に入ってみないとその容貌は伺えない。

 現在の名前を「起雲閣」というそうだ。ここは実業家であり政治家の内田信也が別邸として建て、根津嘉一郎に受け継がれた後、旅館として生まれ変わった歴史ある施設。一時期は競売にかけられ、取り壊しが危ぶまれたものの、熱海市と地域の方々の尽力によって保存され、公開されるに至ったのが嬉しい。

 大正8年、竣工当初に設置された正面の薬医門は、少し離れた場所から眺めると優雅な むくり を持っているのが分かる。太い本柱と細い控柱が二本ずつ地面から伸び、上に戴いた屋根はわずかに本柱の方へと張り出している造りになっていた。

 武家屋敷や城、仏閣によく用いられた様式らしく、重厚な印象を受ける。

 

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 和と亜細亜、西洋の意匠が混在する館内は、用途の違う部屋や棟ごとにその様子を大きく変えるので、かなり圧倒されるし目も回る。入場料(大人510円)を支払い、まず足を踏み入れたのは《麒麟》と呼ばれる間、そして《大鳳》と呼ばれる二階の空間だった。玄関部分から直接繋がっており、敷地内で最も古いもののうちに入る部分。

  麒麟の間はまず真っ青な壁の色が目を引くが、これは昭和初期に旅館として開業した際に塗り替えられたものだ。採用された技法は、石川県の地方に伝わる「加賀の青漆喰」というらしい。旅館の開業者・桜井兵五郎が石川出身だったのが理由とされている。

 もともと、車椅子に乗って日々を過ごしていた母のために内田氏が用意した部屋とあってか、段差が極力発生しないよう工夫されていた。起雲閣に限らず、建築はその佇まいを通して人の面影を伝えてくる。建てた人、かつて暮らしていた人、そして訪れた人達の残した片鱗を。

 大池のある美しい庭に面した廊下へ目を向ければ、片側一面が硝子の戸になっているのが分かった。向かいには隣接する洋館も見える。あいにくの雨だが、周囲に漂う風情はそのままだ。

 

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 僅かなうねりや気泡が特徴の、大正時代の手作りガラス。

 その性質上、破損してしまえば復元が困難な代物なので、悪天候時は被害を受けないようにきちんと雨戸が引かれる。他にも漏電や経年劣化には最新の注意が払われていて、館を取り巻く人々の細かな気遣いによって文化財が保存されていくのだと、改めて頭の下がる思いだった。

 麒麟の間の二階には大鳳の間がある。かの太宰も滞在して執筆(缶詰め)をしていたという部屋だ。一瞬、壁は同じ青色かと錯覚するが、ほんの少し赤のかった藍色になっている。大鳳は伝説上の生物「鳳凰」の異名で、麒麟・霊亀・応龍と並んで四霊と称し、いずれも瑞祥の化身。

 ちなみに、起雲閣の敷地内には他に「鶯」「雲雀」「千鳥」「孔雀」など、鳥の名を冠した部屋が多くある。宿泊すれば縁起のいい夢が見られそうだ。

 

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 階段を下りて廊下を進んだ先にあるものは洋館。部屋の名はそれぞれ「玉姫」「玉渓」で、その名の通り起雲閣において最も絢爛、かつ珠玉といえる要素が一堂に会した大変な空間だった。目が幸せになってしまう。

 訪問客はまず、天井からも窓からも外光を贅沢に取り込んだ、アールデコのサンルームに迎えられる。床にはびっしりと豆タイルが敷かれ、月日が経っても変わらず色鮮やかだ。ここで一人、忘我の時を過ごすことができればどんなに良いだろう。庭の緑が透けて部屋にさらなる彩度を添えている。

 また、鉄骨で支えられた屋根は近代における技術の結晶ともいえ、郷愁を誘う大正浪漫的な雰囲気に心地よいメリハリを与えていた。

 

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 視覚から受け取れる喜びはまだ終わらない。もう一つ特筆すべきなのは、食堂の天井の造りだ。折上げ格天井に金唐和紙をふんだんに使った、最近ではもう滅多なことではお目にかかれない、あまりにも手のかかった装飾が網膜を焼いた。

 空間を支配する重厚さは、神社仏閣に採用されるような意匠や、欄間に施された中央アジア風の彫刻によってもたらされている。

 二代目の持ち主、根津嘉一郎は自らが手掛けた洋館に家族や知人を招き、共に充実した時間を送っていたのだろうか。昭和7年に完成してから彼がここを手放すまで、わずか12年ほどしかなかった。現在国内に残っている貴重な邸宅の中には似たものも多いが、こうして後世も人々に愛された方が、きっと建物は幸せだろうという気がする。

 併設された居間、玉渓の方ではイギリス・チューダー風の様式、インドを思わせる装飾、そして竹を利用した天井が組み合わさって独特の様相を見せていた。

 

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 部屋が変わって、いよいよ館内の目玉、ローマ風浴室に繋がるのが「金剛」の間。竣工当初は他の部屋と繋がっておらず、独立していたらしい。お風呂場の横ということもあってか、団欒の間とはまた違った落ち着きを感じさせる。

 螺鈿を用いた装飾や、半円形を描く暖炉の開口部に心が躍った。徐々に風が涼しくなってきた初秋の頃、火を焚いて、お風呂あがりに椅子でうとうとしたりお茶を飲んだりしたい。床がタイル張りになった一角では、裸足でぺたぺたと歩くのも気持ちがよさそう。

 主な細工の施された部分は、全て当時のまま残っているというから驚きだ。対するローマ風浴室は、使われた素材の特性もあり、改築時に差し替えられた部分も多い。しかし窓や蛇口は古いもののままだった。

 

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 浴槽の数は二つ。ゆったりと余裕を持たせた空間には湿度があり、お湯など沸いていないのにその蒸気を頬に感じた気がした。官能的な床石の艶や、ゆるく弧を描く天井の輪郭に目が行く。

 説明によれば、浴槽の周囲の床には木製のタイルが敷き詰められているそうだ。このお風呂に入りたい。熱海の温泉を惜しみなく使い、頭からかぶって、日頃の疲れを洗い流したいと切実に思う。その願いは叶わないが、想像するのだけは自由だ。

 旅館時代の大浴場を横目に廊下を進むと、前回——すなわち1964年の東京オリンピック開催にあたり、首都圏のホテルや旅館がどのような対応をしていたのか、幾つかの例が掲示されていて興味深かった。

 当時、多くの外国人観光客が訪日すると予想され、東京近郊の熱海も多くの恩恵を得られるだろうと期待されていた。だが残念なことに、思ったよりも旅行者は流れてこなかったらしい。昨今の教徒などを見ていると、あまり大量の人間が殺到するのも困りものだと感じるが、やはりせっかく準備をしていたのにあまり効果が無かったとなると……ちょっと切ない。

 

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 続いて「孔雀」の間にお邪魔すると、付け書院や床の間のある落ち着いた座敷が展開していた。こちらの壁は朱色の漆喰で彩られている。

 畳張りの座敷を廊下が囲うようになっている、入側造りの建物は他の近代の和洋館にもよく見られるが、私はこれが好きだ。家の中の空間を、さらなる空間で隔て、また別の領域を生むような構造に惹かれるのかもしれない。見た目も美しいし、実際に内部を歩いてみると動きの面白さが実感できる。

 敷地内で移築された際に他の棟と離れたためか、あるいは池泉回遊式庭園の向こうに和館と洋館を望める位置ゆえか、他の部屋よりも少し落ち着いていて贅沢な感じがした。

 館内ではボランティアの方々が、とても心地の良い距離感を保って案内をして下さったり、説明を添えて下さったりする。一度訪れてみれば、起雲閣が多くの人々に愛されている理由の一端がきっと分かるだろう。

 近代建築が好きならぜひこの館を見に、そうでなくても熱海銀座商店街を散策したついでに、ぜひ薬医門をくぐって内部の散策を楽しんでほしい。

 

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 部屋だけではなく、廊下でもこんなに素敵なものに出会えるから最高。

 かつてのバースペースは喫茶室になっている:

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 熱海関連では以下の記事(外部メディアで執筆させていただきました)もよろしくお願いいたします。

 起雲閣にもほど近い、糸川エリアの建築探訪記録です。

 

 それから、ニューアカオも。