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彷徨する自由帖

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閉館後のホテルニューアカオ本館を徘徊する体験(1) ダンスホール|熱海のアートイベント《ATAMI ART GRANT》のACAO会場

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目次(1):

 

概要

 終戦から数年が経過した、1954(昭和29)年のこと。幼い頃に訪れた錦ヶ浦の海岸風景を長く胸に抱き、熱海の地に、2階建ての旅館を開業した人物がいた。

 彼の名を赤尾蔵之助という。

 そして、創業当時は全12客室しかなかった赤尾旅館を増築し、7年後にホテルとしての営業を開始、やがてついに思い出の錦ヶ浦の地を購入するに至り——1973(昭和48)年に満を持して「ホテルニューアカオ」を開業する。

 断崖絶壁の土地。建設にあたっては、気の遠くなる数のピアノ線を支えとするアンカー工法が採用された。

 見上げるほどの鉄筋20階建てに、250の客室を備えた宿泊施設。そこに息が吹き込まれた瞬間だった。

 

 

 あれから48年の月日が流れ、ホテルニューアカオは老朽化などの理由で2021年の11月に閉館が発表された。現在では、平成初期に建てられた新館ロイヤルウイング(現・ホテルアカオ)が熱海にあるアカオ系列施設の中心となっている。

 そして同年の冬。11月16日から12月12日までの間(後に12月20日まで会期延長)、旧館ニューアカオの建物はPROJECT ATAMIという企画の一環で、アートイベント《ATAMI ART GRANT》の現代美術作品展示会場となっていた。

 見学は基本的に無料。ロイヤルウイングの入口で入館証を受け取り、帰りに同じ場所で返還する。

 キュレーターに髙木遊を据え、ほか7人のアーティストが名を連ねる企画「Standing Ovation / 四肢の向かう先」が、往年の空気や、ホテルの建築が経験してきた重厚な年月を偲ぶ手掛かりとなる。

 

PROJECT ATAMIのサイト:

https://projectatami.com/

Standing Ovation / 四肢の向かう先 特設サイト:

https://standingovation.site/index.html

 

 

 訪れた見学者はまず、細長く分厚いパンフレットを手に取る。上の写真のシャンデリアがある場所で。そこからは指示に従って粛々と館内を回ることになるだろう。手元に視線を落としたり、うす暗く静かな廊下に目を凝らしたりしながら。

 そう、閉館した無人のホテル内をぐるぐると徘徊するのだ。

 私は普段から誰もいない近代の邸宅をうろつくのが好きだし、多くの人が行き交う場所でもふと思考を横道に逸らして、「ここから一瞬にして人間の姿だけが消えてしまったらどうなるだろう」と考える癖がある(そういう人の数は多いと思う)。

 図らずもこの展示に身を投じたことで、いつもの他愛もない空想が突如として眼前に顕現する体験をした。先日現地で見聞きしたことを、少しずつ回想して書き記すことで、記憶をできるだけ鮮明に胸にとどめるよう努める。

 

 保存か、改築か、取り壊しか……これからニューアカオの建物がどんな道を辿るにしろ、熱海の錦ヶ浦には確かにおもしろい建築が存在していた、という事実だけでも覚えておきたいから。

 

サロン・ド・錦鱗(ダンスホール)

 

 受付のある新館・ロイヤルウイング入口から連絡通路を経由して、辿り着いた先で唐突に「舞踏」に誘われる。何かにぐいと手を引かれ、カーペットの敷かれた柔らかい床から板張りの部分に足を踏み入れたとき、鈍く靴音が響いて自分のいる場所と時代を再確認させられたようだった。

 横に長く、外光を取り込む細いガラス窓の上部が、波のように優雅なたるみのカーテンで飾られている。反射的におもちゃの竜宮城だ、と思った。誰かが海の底に建つお城を想像して、好きな意匠で仕上げをした、つくりものの。

 ホテルが営業していた頃は宿泊客の過ごす憩いの空間として、また特定の日にはダンスフロアとして使用されていた空間には、サロン・ド・錦鱗(きんりん)と名前がついている。

 錦に鱗、とはよく考えたものだ。海を望む施設にそれらしい華やかさを添える名称。令和の時代の宿泊施設にはあまりそぐわない「ダンスホール」という言葉の響きも、ここでは不思議なほど建物の佇まいに合致し、よく馴染む。

 

 

 サロン・ド・錦鱗に設置されていたのは、保良雄のインスタレーション作品《Fruiting body》。

 キリキリ、あるいはカタカタという機械的なサウンドが空間全体を漂っている。それは何か未知の生物の鳴き声のようにも思えるが、説明によれば波の音などの自然音や動物の声をフィールドレコーディングしたもので、海水を汲み上げるポンプから放たれているものだそうだ。

 フロアのところどころに蒔かれている岩塩は海水の結晶であることから、時が凝固した物質、すなわち化石を連想させる性質に着目して用いられている。それをこの海に張り出した施設、ニューアカオで「孵化」させる行為に、来訪者は意識せずともかかわることになるだろう。

 ガラス窓越しに絶えず波音が侵入してくるサロンには、別の場所から送られてきた海の声が重なり、一種の多重奏を奏でる。

 

 

 

 

 この錦鱗で、他のどんなものよりも先に眼を捉えたのは天井だった。

 中央部、宙に浮かぶ虚舟のようなシャンデリアを支える部分は折り上げ天井の構造になっていて、さらにその根元がドーム状にへこんで装飾を擁している。四角く切り抜かれたようなその空間の四隅は丸くカーブし、工費と手間のかかる様式が豪華な雰囲気を醸し出しており、格調高さを演出しようとした意図が感じられる。

 よく眺めてみると、そもそもフロアの輪郭に当たる水色の天井部分から中央にかけて、全体が何段階かの折り上げ仕様になっていた。そこにも強く胸が高鳴る。

 特にバブル期はさぞ賑わい栄えていたのだろう場所の空気は独特で、既に過去の遺産となってしまってからでないと滲み出てこない良さが確かにあり、こうして自由に館内を歩き回って堪能できる僥倖を噛み締めた。

 

 

 青を基調としたマーブル模様の柱が、このおもちゃじみた竜宮城を支えている。乙姫は一体どこにいるのだろう?

 もしも玉手箱を渡されたら、好奇心に駆られてうっかり開けないように、帰りに熱海サンビーチの片隅から晴れた海へと放り投げてしまおうと思う。無論、ここから無事に出ることができたなら、の話。

 

黒潮(レストラン)

 サロン・ド・錦鱗と同じ階には食事場が並んでいる。

 ひとつは、畳の上に箱膳ではない一人用の机と椅子が置かれている場所。座る者はなく、配置された食器の上には料理の影もないが、設けられた席で坦々と食事の時間は流れているようだ。私の方は立ち入りを許されてはいるが、きっと招待されてはいないのだろう。

 丹羽優太の作品《居酒屋虎狼狸図》。

 

 

 その先で、もう水を湛えていない池に浮かぶ料亭を見つけた。ホテル館内の和食レストラン「黒潮」のある一帯には、かつて鯉が泳いでいたという。日中は宿泊客の昼食会場だった。

 今はその姿も気配も感じられない。ただ、ニューアカオの青いホーロー風看板が座礁した船のように中央へ据えられているだけで。けれど想像が潮流となって座敷の下を流れ出すと、にわかに床から建物の記憶が湧き上がり、人の話し声のようなざわめきを錯覚として耳に届ける。

 ふと、目の前に小さな橋があることに気が付いた。ロープで遮られていて、足をかけることはできないエリアにあるが、濠を越えて対岸へ行くための設備は備わっている。ホテルが営業開始し、このレストランが営業していた数十年の間、多くの人がその上を歩いたのだろう。

 向かいの通路には熱海出身の画家、森素光の静物画が何枚かかけられていた。そして反対側では、墨で彩られた薄い紙を透かして広がる光が美しい。

 

 

 釣り下がった照明が、味のあるタイルと岩壁を照らす。既に閉館したホテルの完全に凝固した時間と空気の中、私達の靴音とマスクの下の息遣いだけが、生きた生身の存在としてこの地点を通過していくのだった。

 

 手元のパンフレットによれば、訪問者はどうやらこの階からエレベーターにて移動しなければならないらしい。次に降りるべき場所が決まっていて、指示通りに進むと館内をくまなく見て回れるようになっている。先に待っていたのは新鮮な体験の連続だった。

 まだニューアカオ見学は序の口。かくして今回の興味深い徘徊は、絶えず建物の下から立ち上ってくる潮騒とともに、幕を開けた。

 

 

 

 ……次の記事(2)に続く。

 

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