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彷徨する自由帖

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芒種の妻籠宿を歩き、太陽に灼かれ、かじる五平餅 - 中山道における42番目の宿場|長野県・木曽郡南木曽町(5)

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 長野県、南木曽の周辺を巡る一連の記事の続きです。

 

1. とても端正な近代化産業遺産、桃介橋の尊顔 - 大正時代に竣工した美しい吊橋と木曽川|長野県・木曽郡南木曽町

2. 山の歴史館 - 明治時代の木造洋風建築、御料局妻籠出張所庁舎|長野県・木曽郡南木曽町

3. 福沢桃介記念館 - 大正時代の洋館で暮らした「電力王」桃介と「女優」貞奴の面影|長野県・木曽郡南木曽町

4. 手打ち蕎麦処 桃介亭 - 記念館と橋の近くにある休憩所|長野県・木曽郡南木曽町

 

 

 JR南木曽駅から、木曽川に沿ってさらに南へと向かって行った。

 上の記事群でも言及した読書発電所のあたりで、川は本流の木曽川と、支流の蘭(あららぎ)川の二股に分かれ、後者を辿ればそこは妻籠宿の北の入り口。中山道(古くは中仙道とも書いた)にある69の宿場のうち、42番目となる地点である。また、全長約526.3 kmとなる中山道でも、特に「木曽街道(木曽路)」……と呼ばれた区間内に位置している宿場町なのであった。

 福沢桃介記念館を出てから妻籠宿に立ち寄ったのは、島崎藤村の生誕地である馬籠宿をたずねる際、馬籠峠の手前でちょうど経由することになる場所だから。

 この周辺は日本国内でも最初に「重要伝統的建造物群保存地区」に指定され、景観保護による地域振興が行われた例としても興味深く、世界各地から多くの観光客が訪れている。しかしながら6月頭、熱さの厳しい平日に、目的もなく道を歩く人の数はとても少なかった。比例して、開いているお店もごくわずか。

 それでも散策は面白かった。本当に初めて訪れる、これまでは全くなじみのなかった地域だから、目に見えるもの、耳に聞こえる音のひとつひとつも新鮮に感じられて。けっして大袈裟な表現ではなく。

 

 

 具体的にはどんな音がしていただろうか、と振り返る。風と風鈴の音、虫の羽音、それから水の音など……。ああそうだ、このあたりで羽織っていた薄い上着の繊維に苦手な形の虫が絡まってしまい、正直泣きそうになったのだった。多少暑くても、ある程度つるつるした素材の服の方が良かったのかもしれない。

 水車を動かす清流の気配を辿って見つけたのは、妻籠宿北端にある、かなり大きな岩。どうやら鯉岩(鯉ヶ岩)というらしかった。

 名前の由来が色々あるようで、たとえば木曽義仲が愛妾との別れを惜しんだのにちなんで恋岩、要するに「恋」が転じて「鯉」となった……という説や、鎌倉の武将や妻籠城の武将、果てはとある石工にまつわるものまで、それらしい話は枚挙にいとまがない。また形も魚の鯉に似ているとされるのだがよくわからず、調べてみると明治時代の濃尾大地震で、頭にあたる部分は落ちてしまったのだそう。

 頭の無い鯉、というのも怪談みたいで少し面白い気がする。たとえば本所七不思議の片葉の葦などを連想させられるから、結構好き。ぼんやり想像してみよう。頭の無い鯉が、池の中を静かにぬるりと泳いでいる情景を……。

 

 

 足元の水路を流れる水は清く、あまりに透明なので、写真に収めてみるとそこに水があるのかどうか判別するのも難しくなる。私もイタチのように小さくしなやかな動物になって、かがみ込み、この水でごくごくと喉を潤してみたかった。至上の幸せと推察する。

 清流。きよらかなながれ。「清い」という言葉や文字を考えるとき、穢れがない、あるいは澄んでいる、などの印象を抱くが、そこで学生時代に学んだことをなんとなく思い出す。平安時代の頃から使われるようになったとされる「きよら」「きよげ」の語について。

 それらはくもりのないことを示す「きよし」を源としており、現在でいう「美しい」に近い意味を持っていた。なるほど美しいことはすなわち透明で、少しも汚れていないこと、そういう感じを人々に与える概念だったのだな、と、思いを巡らせる。

 しかし本当に、つめたくておいしそうな水。私はおいしい水に目がない。しかも水のある場所も好きだ。そういう場所に行くたび心安らかな気持ちになり、同時に高揚もする。

 ああ、最高に美味な水で、最っ高のお茶を淹れたい!

 

 

 細い道に建物が軒を連ねるところ、ちょうど鯉岩の向かいに、熊谷家住宅の展示があった。ここはまだ妻籠宿の北の端、中心部からは離れたところ。

 熊谷家住宅は、もとは19世紀初頭に建てられたとされる二軒長屋の一部だった。やがて左右の両端が取り壊され、残った部分が一軒家として利用されており、珍しいために保存されているとのこと。説明を3回くらい繰り返し読んでようやく意味がつかめたのだが、つまりは隣接していた異なる長屋の接続部分、ちょうどそこを中間として、それぞれの建物の一部が残されている状態なのだった。

 後に改築されて住居として使われ、現在では一般公開されて間取りを見られるようにしてあったり、琺瑯風の看板や当時の生活用具などが展示してあったりする。

 ところで、増改築、というのはなんとも名状しがたい魅力を持つ言葉ではないだろうか。建物はそもそも生き物じみた存在だと、建築物愛好者の私は常々感じているけれど、もとあった形が変わり、新しく要素が加えられ、時には一部が解体されつつも残っていく家というのは文字通りに姿を変化させながら生きている何かだ。

 だからたまに思う。どうしてもその姿を保持したまま、変わらず、動かされず、未来永劫残ってほしいと願ういくつかの建物に対して。私のそれは、生ではなく、化石化への願いだ。動態保存ともまた異なり、さながら、博物館の展示物のように残ってほしいという。

 

 

 木曽街道の宿場町はすべからく山間部にあって、当然ながら前も山なら、後ろも山。街道沿いに各種建物の並ぶ地点だけがこうして開け、広大な空が望めるようになっている。そのぶん太陽を遮るものも何も無くて、暑かった。無慈悲な太陽に容赦なく灼かれて。

 きっと地図の上から眺めれば、旧中山道は濃緑の海のような山と森を、かの旧約聖書に登場するモーセが紅海を割ったように貫いているのがわかるだろう。そんな、人間の使う道路の左右に迫る、今にもすべてを呑み込んでしまいそうな深い草木の海。宿場町はまるでその海面に浮かび、旅人をしばし停留させてやれる、筏にも似た佇まい。

 脳裏に夕間暮れの街を想定してみる。完全に陽が沈む前に、辿り着かなければならない場所。徐々に光量を少なくしていく空の色の美しさに慄きながら、人が汗の流れる額、細めた眼を向けた先に、ぼんやり点る明かりがあるのだと。灯火は安心の象徴のよう。そういえばモーセが海を割り、エジプトから脱出した後に人々が口にするのは、白くて甘い「マナ」だった。これも恵みであり、安心の象徴みたい。

 もしも遠くに見える明かりが、あるいは空から降ってくる恵みが、ぜんぶ夢だったらどうしよう。すべては錯覚で、ふと瞬きを繰り返してみれば、道の先には何もないし舌に乗っていたあの味もない。途方に暮れて首を回してみるも、すっかり日の沈んで暗くなった細い道があるだけ。

 なすすべなく座り込んでいると、どこからか、似ているけれど人間のものではなさそうなあやしい足音が聞こえてくる。

 

 

 幸運にもこの時は夜ではなかったし、開いている店こそ少ないものの、謎の白いマナ以外にも食べられるものがあった。

 これが五平餅。愛知、長野、岐阜などの山間部で食される郷土料理で、潰してから平たくのしたうるち米を串に刺し、味噌ダレを塗って焼いたものがそう呼ばれている。名前の由来は諸説あるらしい。

 私は猫舌ゆえにアッツアツのものが食べられず、丹念に風を送って冷まし、それでも駄目なら冷たい水を飲んでからでないと熱のあるご飯を口に入れられない。でも、目の前にある五平餅は絶対、焼き立てでないと駄目なんだってしきりに頭の中の誰かが囁いてくる。いや、それ、一体誰なんだろう。いつも頭の中にいるやつ。もう一人の自分によく似ている。

 あの手この手を使ってついにかじりついた五平餅は弾力があり、ほどよく柔らかい。ごく単純なように思える味噌ダレも、家庭や店舗によって材料に違いがあるみたいで、ここのはどんなものを使っているのかなと考えた。たとえば胡麻、くるみ、落花生などがあるそうで……。

 四半日の汗を流してきた体に染み入る、香ばしくてしょっぱい味。わずかな甘み。タレが塗られているのは表面だけだから、米の質量に対して少なめなのではないだろうか、と初めは感じたけれど、根気強く延々と咀嚼していれば米の部分自体にもきちんとさやかな甘さがあると理解できた。握りこぶし大の量で十分にお腹いっぱいになる。

 

 

 

 

 ふたたび歩き始めてすぐ、黒い木の箱に呼び止められた。ポストだ。黒いポストで、書状集箱と書かれている。

 もちろん木箱が声帯を持ち、空気を震わせて言葉を発したなんてことはない。ただ文字を見ると、それが胸の内で勝手に再生される。だから何かを読むとそれに話しかけられ、呼び止められているような気分になる。単純だけれど巨大な文字なら大声に、小さな文字なら囁き声に。字体が変われば雰囲気も変わり、この「書状集箱」に関しては、まだ若いけれど趣味が渋めの人間をぼんやり連想した。

 明治期のポストの復元であり、投函すれば実際に手紙を届けてくれる。背後にある妻籠郵便局は現役の郵便局、その空間の一部が資料館になっていて、そこでは四角く縦に細長い黒ポストや当時の局員の制服、また旗など面白いものを沢山見られた。郵便制度の黎明期は明治初期、まさに私の好きな時代。

 今ではすっかりおなじみとなった郵便のマーク「〒」だが、かつては太い横線に丸をあしらったものだった。国旗の日の丸に一本追加したみたいな感じの。

 ちなみに妻籠郵便局の初代局長は、文豪・島崎藤村の大伯父である嶋崎与治右衛門である。

 その開局当時の情景が描かれているというので、さっそく小説「夜明け前」を買ってきた。パブリックドメインなので青空文庫でも読める作品だが、とくに長編小説の場合は画面ではなく紙の上の文字で摂取しないと頭が痛くなってしまうので、私は絶対に紙を手に入れる。手に入らないものはいさぎよく諦めて、電子で少しずつ読んでみる。

 

 

 郵便資料館から少し歩いたところ、通りの向かいに引き戸がほんのり洋風の建築が残っていて、展示の写真を見るに、これも縁のあった建物だろうと推察できた。

 重伝建保存地区である妻籠宿のエリアに保存されているのは、主に江戸時代の宿場の町並みだが、明治期に建てられた洋風の建物もあるのでそれを探すのもかなり楽しいのだった。うちの一つが現在の「妻籠を愛する会事務所」、少し前までは観光案内所だったが移転したらしい、下見板張りの外壁が気になる木造の疑洋風建築。明治30年の竣工。

 水色の壁、ゆるやかな曲線を描く玄関部分のひさしに心惹かれる。その下に身を隠している球形の照明を眺め、ここが旧吾妻村警察署として建てられたのだと知り、深く頷く。うん、それっぽい。これまでに見てきた近代の警察署の建物との共通点をそこかしこに感じる。あの鬼火みたいなまあるい電灯が特に好きなのだ。もぎ取りたくなる。私に力さえあれば。

 それから横には自働電話。

 ここのものは「自動」表記だけれど他の場所では「自働」となっている場合が多い。箱の中には入れないので、ガラス越しにじーっと中を見た。好き好き好き。明治期の洋風建築好き好き好き。好き好き唱えていると呪文みたい。たぶん、建物にもこの想いは伝わっているはず。

 

 

 旧吾妻村警察署はその後に村役場へ、さらには南木曽町役場吾妻支所、と用途を変えながら現在まで利用されてきた。

 町のある所に建物はあり、建物の並ぶ所には脇道がある。水路、隙間、空地、切通……時に見過ごし、時には首を長く伸ばして覗き込む、それらの場所には何が宿っているのだろう。魔、たとえば曲がり角とか、四辻とかに潜むとされている魔の類と同系統のような気がした。通り抜けられる空間があること、またはどこかに続いていること、それが人ならざる者にとっても重要な要素なのだろうか。

 北の入り口から足を踏み入れた妻籠宿。このあたりで中程にさしかかり、私は徐々に南へと近付いてきたようす。

 目に入った看板には「旅人御宿 下嵯峨屋」とあった。これは、江戸時代に建てられた木賃宿(食事のついたいわゆる通常の旅籠よりグレードが下の安宿)の遺構らしい。最低限の料金を支払い、加えてご飯を食べるなら米などを持ち込んで、別途で炊事代や薪代を払い調達する。就寝時は大部屋で雑魚寝となり、相当に質素だが、雨風を安価でしのぐためには貴重な場所だったのだろうと想像した。旅に出る人間の懐事情は千差万別。

 

 

 前の記事で山の歴史館を見学した感想を書いた。その中で木曽の山における伐採の制限、江戸時代に尾張藩が禁じた木曽五木の採取について言及したのだが、この下嵯峨屋にはヒノキの柱が使われている。当時、一般の町屋にはその使用が認められていなかったにもかかわらず。

 どうやらこの木賃宿を建てるのに利用した、前の建物の建材を転用しているためにそうなっているらしい。建材の転用……というと脳裏に浮かぶ印象的な小説がある。小野不由美作品の残穢とか、残穢とか、あと残穢とか。

 

福澤氏は奥山家の建物は「解体され売却された」と言った。これは、建物を移築するか、部材として売却されたということではないだろうか。昔の建築物ではないことではない。
良い材料は使い廻すのが普通だった。

 

(新潮文庫「残穢」(2015) 小野不由美 p.296)

 

 一度は形成された建物が、極小の単位になるまでばらされ、ふたたび建物の形をとる。今記事のはじめの方で増築や改築の話をしたが、解体の後にまったく違う建物に生まれ変わる、というのも、面白い変化の形の一つだ。生物の成長というよりかは文字通りの転生みたいな感じ。なんだか生々しくてどきどきしてくる。

 下嵯峨屋からまたしばらく歩くと別の看板に遭遇した。

 これは「旅館 いこまや」と表記してあるもの。カタカナの「ホ」にみえるのは「こ」、現在は屋号以外に使われている場面がほとんどなくなった変体仮名である。昭和23年に戸籍法が施行される以前は人名にも少なからず見られた文字。

 

 

 おや、ここには張り出したうだつがある。撫でまわしたくなってしまう。

 防火や防風、あるいは単純に装飾のため設けられるうだつにも色々種類があり、上の写真の場合は「本うだつ」に分類されるものだろうか。切妻屋根が持ち上がり、さらにその下の、斜めに張り出している部分が袖壁となる。澄んだ空の下でまばゆい白壁を仰いでいると清々しい気分になった。

 こうして北端から南の方まで歩くうち、大勢の観光客を目撃する機会もなく、現地は閑散としていた。気温は高いし、平日だし。結果的に静かな宿場町を散策できたので嬉しく思っている。

 本陣や脇本陣など、宿場の機能と歴史を語る上で欠かせない設備の見学記録はまた別途、次に更新する記事に残しておく。

 とりあえず、今回は散策のみの記録にて。

 

 あとは栗きんとん。

 

 

 滋味豊か、かつなめらかでとってもおいしい。そして、食べると口の中の水分が一瞬にして奪われ、全てがパサパサになる。感じる圧倒的な喉の渇き。

 じっくり味わうなら、ぜひお茶などと一緒に。