珈琲王城は、昭和50(1975)年に創業した喫茶店。
本来は決まった形というのを持たない液体が、器に注がれることで初めて丸くなったり、四角くなったり、三角形になったりするのがいつも新鮮におもしろく感じられる。
それが半透明の飲み物で、底が深く奥行きのあるグラスに注がれれば、色は濃く。反対に浅めのグラスに注がれれば、淡い感じの色合いに変わり、印象も異なって見えるのだろう。同じものでも。
そんな風にもの自体が同じでも、磨き方や削り方によって大きく見え方の変わるものとしては、やはり伝統的なところだと宝石を思い浮かべる。カットの種類がそれは多岐にわたっていて、どれも宝石の色や性質ごとに、最大限の輝きを引き出すため考案されている。丈夫なショーケースの内側や、向かいに座る誰かの指、あるいは首元にある石の粒。眺めているだけで心躍る存在。
資生堂の洗顔石鹼で「ホネケーキ」というシリーズが確かあったけれど、あの宝石みたいな石鹸を洗面台に置きたい、また実際に使って顔を洗いたい気持ちも、実によくわかる。
上野の喫茶店、王城で提供されるメロンクリームソーダを構成する要素のうち、本体のソーダ水の部分……丸みを帯びたグラスの、輪郭の内側を見ていた。つるりとした曲線と色合いがカボションカットの翡翠を連想させるのだが、同時に水中で浮かぶいくつもの角ばった氷が光を屈折させて、ファセットの面のような趣を加えている。例えるのならオーバルカット。名前は卵、を意味しているのだそう。
卵といえばバニラアイスの主となる材料である。そこに牛乳、砂糖などを混ぜ合わせて、冷やし固めて作る。掬ってソーダ水に浮かべれば、こうしてクリームソーダになる。
その体積のほとんどを美しい緑色の液体に沈ませて、アイスもさくらんぼの実も、うっとりとまどろんでいた。なんだか幼く。周りの白い泡はおくるみか、ゆりかごみたい。硬質な銀色のスプーンで泡を軽くかき混ぜ、時折ストローでソーダ水を吸えば、徐々に彼らの寝床は減っていく。たまにアイスは頭から削られる。さくらんぼも、皮を歯で破られかじられる。
ふと考えてみると、このクリームソーダの構成要素はだいたいみんな、どことなくまあるい輪郭をしていた。氷以外。あやしい緑色の、甘く淡いまどろみ。けれど存外に深いそれから目覚めないまま、人間にすべて食われてしまったものたちは消えて、グラスには最後、つめたく角ばった氷だけが残っている。
向かいに座った友人は飢えた私と対照的に満腹らしく、一緒にここで過ごすあいだ、私は一人だけ甘いものと塩気のあるものとを贅沢に並べ欲張って味わっていた。お腹が空いていると元気がなくなるか、胸に飼っている動物らしい一面が顔を覗かせて、攻撃的になる。だから食事は重要で。
しかし、それにしても、と、立て続けに届いた皿を眺めて思った。どれもこれもなんとなく「まあるい」感じがするではないか。香り高くコクのあるバターがのったパンケーキも、ミニピザも、果てはカップに注がれた艶やかなコーヒーの水面も、まあるい。一体どうしたことだろう。
いいえ。どうしたも何も、それらは単にそうあるべき形に収まっているだけなのであって、今更私ごときに形状だの何だのと言われる筋合いは無論、ない。ないはず。
そもそも食べ物の土台となる白い皿からして丸いのだ。カップの下敷きになっているソーサーも同じく。当たり前の、安心を誘うようにどこにでもある、見慣れた喫茶店の食器。すべてを視界の端に、私はもっと、違うことを考えようと試みていた。そう、実際に交わされている会話の内容とか。あとはテーブルの表面、うす緑色の大理石風の模様が美しいな、とか……。
何か、が気になってしまったら最後、そこに囚われて、しばらく抜け出せない。
とにかく王城には、まあるいものがあった。設けられたお茶会の席はいつも語っているとおりに「真実の行為」であり、この日の魂は、無事に救われた。椅子から立ち上がる頃にはグラスの氷もすべて、すっかり溶けていたのは言うまでもない。