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夏目漱石《行人》- この世でたった一つ(愚かにも盲目になれるほど)信じられるものがあったなら|日本の近代文学

 

 

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書籍:

行人(著:夏目漱石 / 新潮文庫)

ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー

 

 

《行人》で描かれている苦悩

「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか。僕の前途にはこの三つのものしかない」
兄さんは果してこう云い出しました。その時兄さんの顔は、寧ろ絶望の谷に赴く人の様に見えました。

 

(新潮文庫「行人」(1952) 著:夏目漱石 p.427)

 

 人間存在は突き詰めてしまえば限りなく虚無だ。

 そんな生物が生存を続けるうえで、「真摯な思考」よりも「盲目的な崇拝」の方が実は幸福に近い状態だという事実は、あまりに苦しすぎる。また大抵の場合、崇拝は無意識に行われていて、信念や希望という概念がそもそも何かに目を瞑ることで成り立っている事実には、ほとんど言及されない。

 いっそひと思いに狂った方がマシなのではないかと感じるくらいに、それはつらいことだ。

 少なくとも、目の前にあるものと向き合い、真面目に思考することを尊いと感じられるだけの神経を持ち合わせた人間にとっては。

 私が「行人」を読んでいて、最も胸に迫ってくるのが上記の問題。

 それから、苦悩する一郎と、苦悩している一郎を取り巻く人たちの苦悩が。

 

  • 「本物」を探している一郎

 純粋のもの、自然が醸すもの、神聖なもの。

 本文中の言葉を借りるなら、それらが一郎にとっての本物だ。

 決していいかげんな挨拶の類ではなく、世間の手前や義理に隠されない本音とか、頭で考えるよりも雄弁に、心が語るものとか。彼はそれらに触れたいと思っている。「本当のこと」を知りたがっている。

 

「噫々女も気狂にして見なくっちゃ、本体は到底解らないのかな」

 

(新潮文庫「行人」(1952) 著:夏目漱石 p.125)

 

 社会的な理由とか、正当性とか、道徳とか、後付けの要素ではないもの、自然に湧き上がってくる感情、また、為される行動。

 触れたいし、知りたいのだ。それらを。この世の中で、どこか信じるに値するように思える、数少ないものだから。

 

「人間の作った夫婦という関係よりも、自然が醸した恋愛の方が、実際神聖だから、それで時を経るに従がって、狭い社会の作った窮屈な道徳を脱ぎ棄てて、大きな自然の法則を賛美する声だけが、我々の耳を刺激するように残るのではなかろうか。
(中略)
あとへ残るのはどうしても青天と白日、即ちパオロとフランチェスカさ」

 

新潮文庫「行人」(1952) 著:夏目漱石 p.291-292)

 

 けれど理性を越えて有るその領域に近付くことは、容易ではない。

 何よりも彼自身が己に、また他人にも、思考の放棄を許さないだろう。それは理想的な態度ではない、と判断しているから。

 

 そんな彼の持つ性質は、たとえば何かに深く耽溺したり、陶酔したり……いわゆる多くの人間がそうすることで、ままならない人生をどうにかして送ろうとする行為に身をやつすことを是としないし、できない。

 思考することが全ての基盤になっている。

 それゆえ聡明で、だからこそ、ひどく苦しむ。

 

「ああ己はどうしても信じられない。どうしても信じられない。ただ考えて、考えて、考えるだけだ。二郎、どうか己を信じられる様にして呉れ」

 

(新潮文庫「行人」(1952) 著:夏目漱石 p.149)

 

 信じるというのは、何かに対してとある面で盲目になるということ。

 一郎は(そして読者である私も)どうしてもその行為や感覚に身をゆだねられない。なぜなら、思考を放棄するのは、ひどく愚かな者がすることの筆頭に思えているから。

 

「それを超越するのが宗教なんじゃありますまいか。僕なんぞは馬鹿だから仕方がないが、兄さんは何でも能く考える性質だから……」
「考えるだけで誰が宗教心に近づける。宗教は考えるものじゃない、信じるものだ」

 

(新潮文庫「行人」(1952) 著:夏目漱石 p.149)

 

 もしも、理屈を超えてなりふり構わず信じられる対象が彼の眼前に出現したならば、それこそが「本物」であり、邂逅は一郎の苦悩の終焉を意味する。

 彼は自分の妻である直と己との関係性がそうであったなら良かったのにと願い、また、もしかしたら本当にそうかもしれないという一縷の望みを捨てられず、弟の二郎にも協力を仰いで色々なことを「確かめよう」とするのだ。

 けれどその研鑽的態度は、信仰・崇拝(すなわち盲目や幸福)からはほど遠い。

 決して開き直らず自分を肯定しない誠実さ、真面目に何かを知ろうとする態度と根本的な性質こそが、一郎を苦しめ続ける。

 

 

 

 

  • 鋭敏な感覚を持つ難儀さについて

 本物を探している彼は、本物ではないもの、すなわち偽物の存在が許せない。

 自分自身ですらその範疇に入れられている節がある。

 

「自分に誠実でないものは、決して他人に誠実であり得ない」

 

(新潮文庫「行人」(1952) 著:夏目漱石 p.421)

 

 とか、以下の家族に対する評にも滲み出ている孤独、痛ましさ。

 

兄さんの眼には御父さんも御母さんも偽の器なのです。細君は殊にそう見えるらしいのです。

 

(新潮文庫「行人」(1952) 著:夏目漱石 p.423)

 

 元々の、本物に出会いたいという強い想いが、もはや本物でなくては全てが虚しいだけで、何の価値も無いものだとでも判断するところまで到達してしまっている。

 そうして、一郎の基準に合致しないものはすべて「偽」なのだとされる。特筆すべきは、彼はきちんと周囲のあらゆる要素を加味し、じっくり考えたうえでこの結論に至っており、理由を尋ねればその筋は通っているという部分。理屈の上では……。

 そして問題は、人間や他の生き物は、単純に理屈の上だけに存在しているわけではない、の一点に集約される。

 だから突き詰めてしまえば説明も解決もできないのに、一郎は、本文中の言葉を借りるなら「天賦の能力と教養の工夫とで」鋭い視点を持ち、物事を深く思考することができてしまうから、こんなにも苦しまなくてはならない。

 この世に、人間社会に、ただ存在しているだけで。

 

兄さんは鋭敏な人です。美的にも倫理的にも、智的にも鋭敏過ぎて、つまり自分を苦しめに生れて来たような結果に陥っています。兄さんには甲でも乙でも構わないという鈍な所がありません。
(中略)
従って兄さんは美的にも智的にも乃至倫理的にも自分程進んでいない世の中を忌むのです。だから唯の我儘とは違うでしょう。

 

(新潮文庫「行人」(1952) 著:夏目漱石 p.426)

 

 一郎の友人であるHさんいわく、何という窮屈なことだろう、できることならその苦しみから救い出したい、とすら表現される彼。

 繊細で尊い人、その性質。

 

 

 

 

  • この世で信じられるものの不在

 一郎は「考える」ことができる側の人間だ。つまり、思考をやめて馬鹿になることができない。盲目に何かを信じることができない。

 皮肉なことに、そうすると永劫に心は休まらないのだった。人にはどうやら、心を空にして過ごす時間というのが絶対に必要らしいから。幸福になるためには、幸福について考えるのではなく、何も考えないことで初めてそこに近づける。

 客観的事実や状況でなく、肝心なのは主観なのだ。己が幸福であるという実感さえあれば。

 けれど、彼は何も考えていない人間の醜さが嫌いだし、もしも自分がそうなってしまうことを想像すると、とても耐えられないのだろう。 

 

昔から内省の力に勝っていた兄さんは、あまり考えた結果として、今はこの力の威圧に苦しみ出しているのです。兄さんは自分の心がどんな状態にあろうとも、一応それを振り返って吟味した上でないと、決して前へ進めなくなっています。
(中略)
食事中一分毎に電話口へ呼び出されるのと同じ事で、苦しいに違ありません。

 

(新潮文庫「行人」(1952) 著:夏目漱石 p.428)

 

 そしてHさんによる、核心をつく一文が手紙に記される。

 

兄さんは詰まる所二つの心に支配されていて、その二つの心が嫁と姑の様に朝から晩まで責めたり、責められたりしているために、寸時の安心も得られないのです。

 

(新潮文庫「行人」(1952) 著:夏目漱石 p.428-429)

 

 こんなにも苦しいことってあるだろうか?

 一人の自分が何かをすれば、必ずもう一人の自分がそれを観察していて、逐一何らかの評価を下したり見解を述べたりする。無心になるということができない。つらすぎる。

 この世において、ひたすら深く耽溺するように、陶酔するようにして、のめり込める対象……すなわち絶対的に信じられるものを、一つも持ち得ないとはこういうことだ。だから、周囲の人間にこう願われる。

 

私は天下にありとあらゆる芸術品、高山大河、もしくは美人、何でも構わないから、兄さんの心を悉皆奪い尽して、少しの研究的態度も萌し得ない程なものを、兄さんに与えたいのです。そうして約一年ばかり、寸時の間断なく、その全勢力の支配を受けさせたいのです。
(中略)
神を信じない兄さんは、其処に至って始めて世の中に落ち着けるのでしょう。

 

(夏目漱石「行人」(2011) 新潮文庫 p.454)

 

 これが大正時代初期に新聞上で連載されていたのだから、恐れ入る。

 この令和の世、多くの人が一郎に共通する苦悩を抱えながら生きているのだろう。もちろん、私もそのうちの一人だ。

 

ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー

 

 パブリックドメイン作品なので、以下のリンクから全文が読めます。

行人 - 夏目漱石|青空文庫

 

 紙の書籍はこちら:

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他の漱石作品:

 

 

 

 

 

 

太宰治《斜陽》- 過渡期の犠牲者・直治と彼の遺書、母のような「ほんものの貴族」への憧憬|日本の近代文学

 

 

 

とにかくね、生きているのだからね、インチキをやっているに違いないのさ。

 

(太宰治「斜陽」(2003) 新潮文庫 p.72)

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 人生(あるいは人間存在)に対して自分を偽らず、誠実に、まっすぐに、真面目に向き合おうとすればするほど首の締まる世の中である。

 

 その渦中にあって正気を保ち続けていられるのは、意志や外的要因によって少なからず「何か」を看過しているからだし、強く前向きに……という安い言葉には、前述の意味で必ず欺瞞が付きまとう。

 死なずに生きている時点ですっかり汚れているのだともいえる。

 よりにもよって「斜陽」というタイトルを冠した小説の結末でかず子が「太陽のように生きるつもりです」と明言するのだが、彼女は生きることの浅ましさを知っている。

 

お母さまのいよいよ亡くなるという事がきまると、私のロマンチシズムや感傷が次第に消えて、何か自分が油断のならぬ悪がしこい生きものに変って行くような気分になった。

 

(太宰治「斜陽」(2003) 新潮文庫 p.126)

 

 同時にその胸には弟・直治の存在があること、いまの世の中で一番美しいのは犠牲者であるとした上で、彼女は彼を「小さな犠牲者」と呼ぶ。いわゆる思考停止の果てに生きることを選ぶのではなく、その醜さや汚さを認識しながらも生きること、すなわち戦うことを選択したかず子。

 私はその背中を見つめずにはいられない。

 これほど切ないのに読後感が不快でなく、不本意にも勇気づけられるような気すらしてしまうのが、太宰治の「斜陽」。これを最近読み返した。直治を思い切り抱きしめたくなった。

「斜陽」は、ロシアの小説家アントン・チェーホフの「桜の園」に着想を得て、作者である太宰が自らを多面的な鏡に映したような登場人物を用意し、戦後の時代に書き上げられたものである。

 

書籍・参考サイト:

斜陽(著:太宰治 / 筑摩書房)

桜の園(著:アントン・チェーホフ / 岩波文庫)

太宰ミュージアム公式サイト

 

 

《斜陽》あらすじ

 明治のはじめに誕生し、昭和22年に廃止された華族制度。

 新たな時代の到来を前にして、かず子とその母である夫人は大黒柱たる当主の不在のもと、終戦後の急速に変化する日本に生きていた。

 

お父上がお亡くなりになってから、私たちの家の経済は、お母さまの弟で、そうしていまではお母さまのたった一人の肉親でいらっしゃる和田の叔父さまが、全部お世話して下さっていたのだが、戦争が終わって世の中が変り、和田の叔父さまが、もう駄目だ、家を売るより他は無い、女中にも皆ひまを出して、親子二人で、どこか田舎の小綺麗な家を買い、気ままに暮したほうがいい、とお母さまにお言い渡しになった様子で、……(後略)

 

(太宰治「斜陽」(2003) 新潮文庫 p.18~19)

 

 静岡の別荘に引っ越してからなんとか維持している生活と、二人の周囲に暮らす村人、世間との軋轢。そして……戦争に行っていたかず子の弟、直治の帰還。

 

 肩書きが変わっても美しいままに、病に蝕まれ衰えていく母。

 かず子はその近くにいて、悲しむと同時に、胸の深いところに不思議な(彼女いわく醜い、蝮みたいにごろごろした蛇のような)衝動が育っていくのを感じる。

 一方の直治は、もはや貴族(華族)でなくなった身分と、それでも育った環境に由来する気質の差、世間とは馴染めない自分に苦しみながら、己の母に「この国で最後の本物の貴族」の面影を見出していた。

 

 迫りくる「終わり」を予感させる様々な出来事に直面しながら、ついに母は倒れ、直治も遺書を残して破滅に身を投じる。やがて。

 

戦闘、開始。
いつまでも、悲しみに沈んでもおられなかった。私には、是非とも、戦いとらなければならぬものがあった。新しい倫理。いいえ、そう言っても偽善めく。恋。それだけだ。

 

(太宰治「斜陽」(2003) 新潮文庫 p.130)

 

 二人の死のあとかず子は、直治が傾倒していた上原という妻子ある作家との「恋」と子供を身のうちに抱いて、古い慣習や世間に対する、己の道徳革命を完遂しようと足を踏み出す。

 生まれてくる子とともに、これから先、何度でも戦っていくという決意のもと。

 

 

 

 

ほんものの貴族

 母とかず子と直治。

 太陽が傾いていくような運命を背負った三者三様の元華族のなかで、私が最も心を寄せずにはいられないのが直治である。そもそも、冒頭の台詞からして切れ味が強すぎるのだ。

 

「爵位があるから、貴族だというわけにはいかないんだぜ。爵位が無くても、天爵というものを持っている立派な貴族のひともあるし、おれたちのように爵位だけは持っていても、貴族どころか、賤民にちかいのもいる。
(中略)
おれたちの一族でも、ほんものの貴族は、まあ、ママくらいのものだろう。あれは、ほんものだよ。かなわねえところがある」

 

(太宰治「斜陽」(2003) 新潮文庫 p.5~6)

 

 言及されているかず子と直治の母は、たとえば食事の際に正式な礼法に則らなかったり、振る舞いにも形式ばったりしない自由なところがあるが、だからといってそれが周囲に下卑た印象を与えることがない。普通であれば眉をひそめられてしまうようなことでも、どういうわけか様になってしまうのだ。

 本人が欠片も意図していなくても。

 それが、作中で彼女が「ほんものの貴族」と呼ばれる由縁。理屈ではなく、決して真似できない、魂からしてそのように生まれついたとしか思えない人だった。二人の母は。

 

 かず子は「お母さまの真似は困難で、絶望みたいなものをさえ感じる事がある」と独白するし、弟の直治も、それと比べて自分たちが持つ性質の卑しさを実感している。所詮は貴族など、母のような「ほんもの」でなければ肩書きだけなのだと。

 しかし問題は、だからといっていきなり一般庶民の中に放り出されても、華族らしい環境に生まれ育ったことで形成されたものを捨て去ることができるわけではない……という絶望だった。

 名目上はもはや身分制度の存在しなくなった世の中で、なお。

 

僕は下品になりました。下品な言葉づかいをするようになりました。けれども、それは半分は、いや、六十パーセントは、哀れな附け焼刃でした。へたな小細工でした。民衆にとって、僕はやはり、キザったらしく乙にすました気づまりの男でした。彼等は僕と、しんから打ち解けて遊んでくれはしないのです。しかし、また、いまさら捨てたサロンに帰ることも出来ません。

 

(太宰治「斜陽」(2003) 新潮文庫 p.155)

 

 芯からの、ほんものの貴族ではない。かといって普通の庶民にも馴染めない。

 作中の彼らが感じているのはもっと切実な思いだが、現代の私達も、自分よりも恵まれない環境で育った誰かと会話するとき、著しく不便と恐縮をおぼえることがあるだろう。自分は相手の苦労を決して知り得ないことに、そして、どうしても気質や話を合わせられないことに。

 社会において人は同じでも平等でもないはずなのに、いや平等である、という主張は残酷に全てを壊していく。

 

いったい、僕たちに罪があるのでしょうか。貴族に生れたのは、僕たちの罪でしょうか。ただ、その家に生れただけに、僕たちは、永遠に、たとえばユダの身内の者みたいに、恐縮し、謝罪し、はにかんで生きていなければならない。

 

(太宰治「斜陽」(2003) 新潮文庫 p.158)

 

 個々の抱えた実情や性質は何も変わらないのに、これまで日本の世の中にあった身分という概念、外側の殻だけがが消えていく。その過渡期の犠牲になった直治の遺書に綴られているのは、特別なものではなくとても普遍的なものだ。

 特に、公立の学校に通ったことがある人間なら身に沁みていると思う。

 育った環境があまりにも違う誰かに、同じ教室の中で出会ったとき。

 あるいは、たまたま自分は金銭的に不自由の少ない家庭に生まれ育ったおかげで、その点では図ることのできない苦労を重ねてきた人間を、近くに見つけたとき。

 

僕には、所謂、生活能力が無いんです。お金の事で、人と争う力が無いんです。僕は、人にたかる事さえ出来ないんです。
(中略)
僕たちは、貧乏になってしまいました。生きて在るうちは、ひとにごちそうしたいと思っていたのに、もう、ひとのごちそうにならなければ生きて行けなくなりました。

 

(太宰治「斜陽」(2003) 新潮文庫 p.159~160)

 

 二人の母は最期まで「ほんものの貴族」のまま、美しいままに亡くなった。変化に適応してなお生きていくような人ではないのだ。

 直治は下品になりきれず、世相に適応できずに死を選ぶ。心根まで卑しくなることはできなかった。

 かず子は、たとえ汚れても生きることを選んだ。

 

 三者ともに美しく、生き様には胸が震える。

 そうして、決して美しくはあれない上原のような人間の姿にも、やはり哀愁がただよう。彼だって望んでそんな風に生まれてきたわけではないのだから。

 酒に浸り、無為な遊興に身をやつさずにはいられない、生きることの無意味さと悲しみに対する彼なりの(かず子に言わせるならば)立派な「闘争」なのである。

 

 そうして四人の登場人物に反映され、描き出された作者の葛藤に、私は万感とともに何度でもページをめくるのだった。

 

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「斜陽」はパブリックドメイン作品で、以下のリンクから全文が読めるので、興味をそそられた方はぜひ。

太宰治 - 斜陽 全文|青空文庫

 

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近代文学関連記事:

 

 

 

知らないはずの物事をなぜか懐かしく思う者 - 中島敦《木乃伊》連作短編「古譚」より|日本の近代文学

 

 

 

 以下のふたつの記事の続きになります。

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書籍:

中島敦 (ちくま日本文学 12) (著:中島敦 / 筑摩書房)

 

 

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 まったく馴染みのない風景を前にして、あるいは初めて聴く音楽に触れて、どうやら自分は以前からそれを知っているのではないか……と感じたことはあるだろうか。

 一体いつ、どこで体験したのかは思い出せない。それでも確かに頭の隅にあり、ふとした瞬間に浮かび上がってくる泡、もしくは絡まって解けない糸のようなもの。そんな感覚を抱いていた一人の男が登場する物語が、日本の近代文学作品の中にある。

 中島敦の手がけた「木乃伊(ミイラ)」という短編。

 「山月記」をはじめ「狐憑」「文字禍」など《古譚》と題された連作を構成する四編のうちのひとつで、長さでいうと最も短いのだが、著者の巧みな文章表現によってとりわけ奇怪かつ幻想的な印象を読者の胸に残していく作品だった。

 

目次:

 

《木乃伊》あらすじ

 物語のはじまりは古代、アケメネス朝ペルシア。カンビュセス2世の時代のこと。

 ペルシア軍の部将にパリスカスという男がいた。

 地方の出身で周囲にあまりなじめず、どこか夢想的な(この部分はどことなく『狐憑』のシャクを連想させられる)人間で、それゆえ地位があるのにもかかわらず、他人からはどうも軽んじられる傾向にあった。

 

父祖は、ずっと東方のバクトリヤ辺から来たものらしく、いつまでたっても都の風になじまぬすこぶる陰鬱な田舎者である。

 

(筑摩書房「中島敦 (ちくま日本文学 12)」(2008) 著:中島敦 p.180)

 

 そんな彼らの軍が、侵略のためエジプトへと足を踏み入れたとき。

 パリスカスはいつにも増して落ち着きのない振る舞いを見せていた。というのも、エジプトの風物や、現地で使われている言語に触れるたび、「何かを思い出そうとして思い出せず苛立っている」ような様子なのだった。

 彼はエジプト人捕虜の話す言葉を聞いて、実際に自分がそれを使うことはできないが、確かに話されている意味だけは理解できるような気がしていた。不可解にも、心の底からそう感じていたのである。

 

彼は今までに一度も埃及(エジプト)に足を踏入れたこともなく、埃及人と交際をもったこともなかったのである。激しい戦の最中にあっても、彼は、なお、ぼんやりと考えこんでいた。

 

(筑摩書房「中島敦 (ちくま日本文学 12)」(2008) 著:中島敦 p.181)

 

 奇妙な感覚は、古都メンフィスの城の門をくぐる時点でさらに強くなっていた。

 現地のオベリスクを前にして、パリスカスは表面に書かれた文字(内容はどうやらこのオベリスクを建てた王に関する記述らしかった)をじっと見つめ、さらには同僚たちの前でそれを読み上げ始めた。

 皆も、またパリスカス自身でさえ、彼がエジプトの言語を操れるなどとはまったく知らなかったのにもかかわらず。一体、どうしたというのだろうか。

 

 過去に一度も足を踏み入れたことのない「はずの」場所。また、少しもなじみのないはずの物事に対する、異様な既視感……。

 

心の中に、何か、ある、解けそうで解けないものが引掛っているような風である。

 

(筑摩書房「中島敦 (ちくま日本文学 12)」(2008) 著:中島敦 p.183)

 

 そんな状態の続いたある午後、ペルシア軍はカンビュセス王の命で、エジプトの先王アメシスの墓を暴き辱めるために捜索を行っていた。

 パリスカスは常のようにぼんやりしていたところで、ふと古い墓の中、うす暗い場所に一人で立っていることに気が付く。あたりを見回すと彫像や壁画があり、略奪の際に壊れたウシャブティの首なども転がっていて、彼は魅入られるようにしてどんどん奥へと進んだ。

 そこで、一体の平凡な木乃伊(ミイラ)に遭遇する。

 彼はその顔から目を逸らせずに硬直し、やがてエジプトの地に足を踏み入れてからの奇妙な感覚、その根幹をなす疑問が、徐々に氷解していくのを確かに感じていた。

 

朝になって思出そうとする昨夜の夢のように、解りそうでいて、どうしても思出せなかったことが、今は実に、はっきり判るのである。なんだ。こんな事だったのか。彼は思わず声に出して言った。
「俺は、もと、この木乃伊だったんだよ。たしかに。」

 

(筑摩書房「中島敦 (ちくま日本文学 12)」(2008) 著:中島敦 p.185)

 

 この木乃伊が前世の己であったという確信を得て、次の瞬間、パリスカスの胸には遠い過去の世——すなわち、前世の、前々世の、そして前々々世の記憶までもが次々と子細に蘇り、めまぐるしく展開し始めた。

 眼前の闇には過去に自分が経験してきた物事のすべてが横たわり、それに向かってさらに目を凝らすと、また何かが見えてくる。

 それは数ある前世のどこかに存在していた彼の姿で、ペルシア軍に所属している現在の自分自身に酷似しており、うす暗い墓所に一人で立っているところまでまったく一致していた。

 

 前世のパリスカスは一体の木乃伊と向き合い、今と同じように、過去の出来事を思い出している。その木乃伊が、前世(それを眺めている現世のパリスカスにとっては前々世)の自分の身体であることを認識しながら。

 すると、その視界の中にはさらに前世のパリスカスがいて、彼も過去の出来事を垣間見、その中にもさらに「前世の前世の彼」が存在していて……と、無限に続く紋様を描いている……。

 彼はそれらを前にして逃げ出すこともできず、ただ凍り付いたようにして立ちすくんでいた。

 

翌日、他の部隊の波斯(ペルシア)兵がパリスカスを発見した時、彼は固く木乃伊を抱いたまま、古墳の地下室に倒れていた。介抱されてようやく息をふき返しはしたが、もはや、明らかな狂気の徴候を見せて、あらぬ譫言をしゃべり出した。その言葉も、波斯語ではなくて、みんな埃及語だったということである。

 

(筑摩書房「中島敦 (ちくま日本文学 12)」(2008) 著:中島敦 p.189)

 

 

 

 

物語の面白さと好きな部分

  • 生活の中の既視感(デジャヴュ)

 改めてあらすじを振り返りながら、パリスカスだけでなく私まで混乱してきたし狂うかと思った。

 

 既視感、デジャヴュという言葉が一般的に使われるようになって、もう久しい。

 普段から「ぜんぜん知らないはずの物事なのに、確かにどこかで見た/聞いた/経験したことがある」ような感覚にとらわれたとき、私たちはデジャヴュを感じる、と口にする。

 この「木乃伊」に登場するパリスカスの場合は、それが常人よりもだいぶ強く、周囲から訝しがられるほどで、さらに既視感の根幹に触れる機会(王命によるエジプトの侵略)を偶然にも得たことから、最後に正気を失ってしまった。

 文中の言葉をそのまま用いるなら「合せ鏡のように、無限に内に畳まれて行く不気味な記憶の連続」によって精神に異常をきたし、この世界に生きたままで、別の世の幻影をずっと見続けることになってしまったのだ。

 

彼はぞっとした。一体どうしたことだ。この恐ろしい一致は。怯れずになお仔細に観るならば、前世に喚起した、その前々世の記憶の中に、恐らくは、前々々世の己の同じ姿を見るのではなかろうか。

 

(筑摩書房「中島敦 (ちくま日本文学 12)」(2008) 著:中島敦 p.188)

 

 人間の心は、私たち自身が意識せずとも己を守ろうとしてさまざまな働きを見せる。

 彼がずっと何かを思い出そうとして思い出せなかったのも、一種の防衛反応なのかもしれない。思い出してしまったら最後、元に戻れなくなってしまうから、しっかりと鍵をかけて記憶の奥底にしまってある。

 五感から得られる情報もきっとそう。取捨選択を行わずにすべてを認識していたら、人間にとっては狂気に繋がるのだ。

 たとえば、麻酔なしで大掛かりな手術を行うことを想像してみてほしい。あまりに凄惨すぎると思う。だから痛みを鈍らせるように、思い出さなくてもよい事柄は、できるだけ思い出せないようになっている。普通に生活を送るために。

 

 物語の中では、パリスカスの既視感は前世の経験からもたらされたとされているが、私たちが生活の中でしばしば感じる既視感は、果たしてどこからくるものなのだろう。

 ひょっとしたらそれも、むやみに思い出さない方がいい「何か」なのかもしれない。

 

  • 文章表現、描写の妙

 中島敦の作品の大きな魅力は、その題材や鋭い着眼点、人間というものの分析もさることながら、整然としていながら抒情性を失わない文章そのものにこそ詰まっていると個人的に思う。

 特に、パリスカスが前世の己の記憶を再生していたとき、どんな風にそれが展開していたのかに注目してほしい。

 少し長くなるが以下に引用してみる。

 

ふと、自分が神前に捧げた犠牲の牡牛の、もの悲しい眼が、浮かんで来た。誰か、自分のよく知っている人間の眼に似ているなと思う。そうだ。確かに、あの女だ。
たちまち、一人の女の眼が、孔雀石の粉を薄くつけた顔が、ほっそりした身体つきが、彼に馴染のしぐさと共に懐かしい体臭まで伴って眼前に現れて来た。ああ懐かしい、と思う。それにしても夕暮の湖の紅鶴のような、何と寂しい女だろう。それは疑いもなく、彼の妻だった女である。

 

(筑摩書房「中島敦 (ちくま日本文学 12)」(2008) 著:中島敦 p.186)

 

 未だぼんやりとして曖昧な記憶の底から連想を広げ、最後に何か特定の物事を思い浮かべる際の描写で、これほどまでに美しく的確な表現があるだろうか。

 生贄に捧げた雄牛の目を「もの悲しい」とするのも、どこか言葉にできない切なさを印象に残すようで大好きだ。

 それに「夕暮の湖の紅鶴のような、何と寂しい女」という一節なんて、本当にどこから浮かんでくるのか分からない。これはもう言葉でしか表現できない、小説ならではの視覚表現で、素晴らしいと思う。

 だから何度でも読み返したくなる。

 

「木乃伊」はパブリックドメイン作品で、以下のリンクから全文が読めるので、興味をそそられた方はぜひ。

中島敦 - 木乃伊 全文|青空文庫

 

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シャーリイ・ジャクスン《The Haunting of Hill House (丘の屋敷)》「誰かにとっての現実」を前にして、真実の存在は霞にも等しい

 

 

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書籍:

The Haunting of Hill House (English Edition)(Shirley Jackson / Penguin Classics|Kindle版)

丘の屋敷(著:シャーリイ ジャクスン / 訳:渡辺 庸子 / 創元推理文庫)

 

 

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 この前、スティーヴン・キングの「シャイニング」にも大きな影響を与えた小説、「ザ・ホーンティング・オブ・ヒルハウス (The Haunting of Hill House)」を原文で読んだ。1959年に米国で出版されたもので、ゴシック・ホラーやサイコ・ホラーの枠に分類されることが多い。

 著者はサンフランシスコ生まれの女性、シャーリイ・ジャクスン。

 日本語版だと「山荘綺談」や「たたり」、また「丘の屋敷」のタイトルでひろく知られている。

 

 個人的に、シャーリイ・ジャクスンの著作に触れるのはこれが三作目。以前に読んだふたつの物語の感想は以下のブログ記事に綴った。

 いずれも面白かったし、自分の嗜好にとても合致していて、お気に入りの小説になった:

 

 

 今回も原文の方に触れての感想になるが、人名以外の一部の名詞の表記に関しては、創元推理文庫から発刊されている渡辺庸子・訳の「丘の屋敷」に準じることにした。

 読解や解釈に迷った際にはよく参照し、助けられた。やはり並べて比較することで理解の幅が大きく広がる。

 

 

 本編の話を始めよう。

 私は「丘の屋敷」のページを開いてまず冒頭の二文に引き込まれ、また、読み終わった後にその内容を痛いほど噛み締めた。この本を手に取ってほんとうに良かったと思えた。

 

No live organism can continue for long to exist sanely under conditions of absolute reality; even larks and katydids are supposed, by some, to dream.

Hill House, not sane, stood by itself against its hills, holding darkness within; it had stood so for eighty years and might stand for eighty more.

 

(Jackson, Shirley. The Haunting of Hill House. Kindle版)

 

「どんな生物であっても、絶対的な現実のもとでは長く正気を保ち続けていられない。人間以外の、例えばヒバリやキリギリスでさえ、夢を見ると示唆されることがあるくらいなのだから。

 この『丘の屋敷』もまた正気ではなく、己の内側に闇を抱いて、幾つも重なるようにしてそびえる丘の上に建っていた——80年の間。そしてまた、これから先の80年も変わらずに存在し続けるのだろう。」

 

 ……魅力的な導入であるだけでなく、この部分が物語の主軸を簡潔に説明しきっているといっても過言ではない。

「丘の屋敷」は上の引用の後に続く一文も含めて、最後のページでも全く同じ事柄が繰り返され、すべての幕が閉じるのだ。

 

 事の発端は、哲学博士の肩書きを持つ(だが実際の関心の所在からして「心霊学者」と言っていい)モンタギュー博士が計画した、幽霊屋敷——すなわち丘の屋敷の調査。彼は超常現象を科学的に研究する手掛かりを求め、最適な場所を探していた。

 それが、呪われているとまことしやかに噂される「丘の屋敷」だったというわけ。

 これに伴って博士のほか、3名の人間が助手として館に招かれ、その謎と闇多き場所でしばらくの時間を共に過ごすことになる。

 

 うちの1人は屋敷の所有者であるサンダースン夫人の要望で、一族の縁者から選ばれた若者・ルーク。夫人の甥だ。名目上、滞在者を迎えるホストの役割を果たしている。

 もう1人は、幼少期に「家の天井から大量の石が降ってくる」ポルターガイスト現象を経験しており、故にモンタギュー博士の探し当てた記録に残っていた女性・エレナ(和訳では「エレーナ―」「エレノア」とされることが多いが、今記事では実際の発音に近い方で表記する)。

 長年にわたる母親の介護を終え、生活に疲れ切り、心の底で何か新しい物との出会いを求めている控えめな人物。

 最後は「裏返したカードの図柄を高い確率で当てられる」ことで、透視能力を持つと推測され、これも某研究所の記録に残っていたセオドラ。自由に生きている明るい女性で、普段は内装を好きなように変えたアパートメントにて、ルームメイトと一緒に暮らしている。

 

"...Hill House, whatever the cause, has been unfit for human habitation for upwards of twenty years.

What it was like before then, whether its personality was molded by the people who lived here, or the things they did, or whether it was evil from its start are all questions I cannot answer. ..."

 

(Jackson, Shirley. The Haunting of Hill House. Kindle版) 

 

 

 

 

 

 彼らが丘の屋敷で経験する奇怪な現象には明確な名前が与えられないし、いわゆる幽霊的な何かの怨念によるものなのか、もっと別のものなのか、調査をした結果に根本原因を特定することもできない。

 本文ではただ(客観的にそれが本当に起こっていたことなのか、錯覚なのかは明言されず)誰が何を見て、何を経験したのかが淡々と丁寧に描写されていて、この上なく恐ろしい。

 単純な安い演出ではとても表現できない恐怖がそこにある。

 

 壁や床の微妙な傾き、歪み、平衡感覚や判断力を少しずつ鈍らせるつくり。

 全体的な構造や意匠からして「邪悪な性質」と表現される丘の屋敷は、明らかに滞在者の精神に悪影響を及ぼしているし、固定せず開け放しておいた扉が勝手に閉まるのも一応その奇妙な傾きのせいだと示唆されてはいる。だから、すべては錯覚なのかもしれない。

 だが……。

 

"We were chasing a dog," Luke said.

"At least, some animal like a dog." He stopped, and then went on reluctantly. "We followed it outside."

Theodora stared, and Eleanor said, "You mean it was inside?"

 

(Jackson, Shirley. The Haunting of Hill House. Kindle版) 

 

 博士とルークが追いかけていた黒い犬のような謎の影。

 そして、エレナとセオドラが聞いた扉を叩く音、笑い声。

 誰か一人だけが遭遇した現象なら気のせいだと笑い飛ばすことも可能だが、複数の人間が同時に体験しているものを、単なる錯覚だと判断するのは難しい。

 あるときは血のような液体で文字の書き散らされた部屋を4人全員が目の当たりにしたが、しばらくして合流したモンタギュー夫人達と共にそこの鍵を開けると、中は特に変哲のない綺麗な状態の部屋だったのだ。何が、彼らにその光景を見せていたのか。

 

 実際に誰かの眼前に広がっているものは、どんなに突拍子のないものであっても、観察している当事者にとっては「現実」に他ならない。機材では観測できない、再現したり証明したりもできない。また、部外者にはいかなる異常も認められない……。

 客観的な真実が一体なんであれ、ある人間が知覚したものが、その人間にとっては紛れもない真実となる。

 

 そうして4人の現実は徐々に侵食されていき、邪悪なものからの決定的な介入を受けたように見えるのはエレナだった。

 これは特に本編を実際に読んで確かめてほしい部分。 

 一行が図書館を探索していたとき「ここには入れない」とエレナに口走らせたものは、あるいは屋敷中を駆け回って最後には塔に登ろうとした彼女を掻き立てたものは、果たして丘の屋敷に掬う邪悪な魂なのか。

 それとも、母を死なせたのは自分かもしれないという負い目があるだけでなく、不安と空想に満ちたエレナの心と精神状態に、決定的な破壊を加えたのが屋敷の構造や雰囲気だったのか。 

 

... "I am really doing it, I am doing this all by myself, now, at last;

this is me, I am really really really doing it by myself."

 

(Jackson, Shirley. The Haunting of Hill House. Kindle版) 

 

 どちらにせよ、物語の終幕に伴って彼女の旅も終わった。

 しかし、それが作中で何度も言及されているような、「愛するものとの出逢いで終わる旅」であったのかどうかは、誰にも知る由がない。

 

 

 

 

 

 

 

今週のお題「読書の秋」

「願望の成就」と「幸福」の一筋縄ではいかない関係《幸福の長靴》ハンス・クリスチャン・アンデルセン - 近代の童話

 

 

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書籍:

完訳 アンデルセン童話集(一)(著:ハンス・クリスチャン・アンデルセン / 訳:大畑末吉 / 岩波文庫)

 

ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー

 

 この世界で、全てにおいて心から満足している誰かがいたとすれば、その人間は「幸福とは何か」を考える必要性には迫られない。また「理想」について、あえて言葉で語ることすらないだろう。言うまでもなく、現状こそがそのまま完璧を体現しているに等しいから。

 けれど私も、そして他の多くの人達も、日々の生活の中でよりよい何かを求めて生きている。もう少しこうだったら良い、という望みが滾々と湧いてきて、時にそれが「願い」と呼ばれる。

 では運よくその願いを成就させたとき、人は本当の意味で幸福になれるのか、否か。

 

 ……アンデルセンの著したお話のうちのひとつ《幸福の長靴》には、不思議な力を持つ長靴が登場する。履くと、その人間の一番望んでいる場所や時代へ、瞬時に連れて行ってくれる。時と場所に関することならどんな願いでも叶えられるという。

 この物語の中では、現状に不満を持つ5人の人物が実際に幸福の長靴を履き、結果的にどうなったかの顛末が語られる。

 

「おまえさんが、そう思いなさるのは勝手だけどね。」と《悲しみ》は言いました。「その人はきっと、幸福どころか不幸になって、長靴のぬげた時をありがたく思うようになりますよ。」

 

(岩波文庫「完訳 アンデルセン童話集(一)」(2020) 著:ハンス・クリスチャン・アンデルセン 訳:大畑末吉 p.169)

 

 彼らを通して描き出されているのは、私達が何かを願うとき、実は自分自身でもその本質に思い至らないことがある……という興味深い事実とその難しさだ。

 法律顧問官、夜警、病院勤務の助手、書記、そして学生。

 このように社会的立場も年代も大きく異なる人々が、各々の願望を持ち、それを叶えてくれる幸福の長靴を手に入れる。けれど、魔法の力で願いを成就させたというのに、そのあと残ったのは「こんなはずではなかった」という気持ちばかりだった。

 

 例として、法律顧問官の場合を挙げてみよう。

 

 クナップ法律顧問官は、自分の生まれた時代よりも中世の方がはるかに優れていて、幸福な時代だと信じていた。とりわけ、ハンス王の治世だった15~16世紀の一時期が。

 彼は宴会場から去るときに、はずみで幸福の長靴を履いてしまう。すると、たちまち魔法の力が働き、法律顧問官がちょうど考えていた幸福の場所へと彼を連れて行ってしまったのだった。

 つまり、ほんとうのハンス王が生きていた頃のコペンハーゲンに。

 

 こんな時代に生まれていたら良かったのに、と日頃から思っていた法律顧問官は、その結果どうなっただろうか。

 15世紀後半の世界で幸福に暮らせたのだろうか?

 読者にも予想できるように、もちろん違う。

 

 まず、彼は舗装されていない当時の道のぬかるみに辟易した。なにせ数百年前のことだから、見慣れた街灯もなく、暗い通りには辻馬車の一台も走っていない。また橋も少ないから、川の対岸へ渡るにはわざわざ渡し守のいる小舟を拾わなくてはならない。

 立ち並ぶ家々の様子もどこかみすぼらしく映った。

 やがて飛び込んだ酒場での会話も、その混乱を加速させる。

 幸福の長靴によっていわゆるタイムトラベルを行った彼だが、そこでは現代からみると学問の進み具合も大きく違う。あらゆる常識が異なるために誰とも話が合わず、今では迷信だとされている現象が、事実だと思い込んでいる人間の数も多かった。

 

顧問官はいままで、こんな野蛮な無学な者どもの仲間になったことは、一度もありませんでした。
(中略)
「こんな恐ろしい目にあうのは生まれて初めてだ!」と思いました。

 

(岩波文庫「完訳 アンデルセン童話集(一)」(2020) 著:ハンス・クリスチャン・アンデルセン 訳:大畑末吉 p.178)

 

 

 

 

 

 彼はすっかり恐ろしくなってしまい、酒場から逃げ出そうとする過程で運よく幸福の長靴を脱ぐことができた。おかげで現代(私達からすれば近代)のコペンハーゲンに戻ってこられたのだ。

 この章は、現状の幸福をありがたがる法律顧問官の様子でしめくくられる。

「あんな時代に暮らせたらどんなにか幸福だったろう」という願望を普段から抱いていても、実際にそれが成就してみると、それはそれで多くの弊害に悩まされることになるのだった。

 ままならないものである。

 

「幸福の長靴」の物語は他の章も全体的にこんな調子で進む。

 

 そうして最後、とある学生が願った事柄ともたらされた状況は、話を締めくくるのと同時にかなり象徴的かつ皮肉な演出をする役割を果たしていた。

 個人的に彼は、その設定や描写から、作者であるアンデルセン自身の想いが強めに反映されている人物なのだろうと感じる。信仰に篤い牧師志願で、旅をこよなく愛し、そして「至上の幸福」を求めている——。

 

 私達の生きている地上において、果たして至上の幸福とは何だろうか。一体、どんな状態を意味しているのだろうか。

 学生は長靴を履いて、以下のように望んだ。

 

「ただ、このからださえなかったらなあ。肉体はこの地に休んでいて、その間に魂だけが飛びまわるんだ。
どこへ行っても、僕の心を押えつける不満があるばかりだ。その場限りのはかないものではなく、それ以上のものを僕は求めているのだ。そうだ、よりよいもの、いや、一番よいものをだ!
だが、それはいったいどこに? そして、どういうものだろう? いや、僕にだって、それが何だかはわかっている。僕は幸福を求めているのだ。すべてのものの中で一番の幸福を!」

 

(岩波文庫「完訳 アンデルセン童話集(一)」(2020) 著:ハンス・クリスチャン・アンデルセン 訳:大畑末吉 p.213-214)

 

 私は初めて読んだとき、あまりにもこの望みに賛同できるのでむしろ苦しくなった。

 何にも左右されないゆるぎない幸せ、ほんの一時の儚いものではなく、正真正銘の「本当の幸福」を得たい。

 そう……ただ表面をなぞるような幸せでは駄目なのである。

 しかしこれを考える際、人間の抱く幸福という感覚は、結局どこまでも主観的なものであるということを忘れてはならない。そもそも絶対的ではなく、揺らぐ性質のものなのだ、という事実を。

 

 学生は長靴の魔力によって、いまの彼が最も望んでいる幸福な状態へと導かれた。

 すなわち「死」へ。

 身体から離れて魂となった彼は、もう俗世のつまらない有象無象に心を悩まされることはない。静かな永遠の眠り。それが、学生の切実な願望を受けて、長靴がもたらしたものであった。

 

 

 ちなみにこの後、お話の最後に交わされる、ふたりの仙女の会話が非常に重要なものとなっている。

 他の読者の皆さんはどんな感想をお持ちになるだろう。

 

アンデルセン - 幸福のうわおいぐつ 全文|青空文庫

 引用元の書籍はこちら:

 

 

 

中島敦の《狐憑》に描かれる詩人(作家)の姿 - 連作短編「古譚」より|日本の近代文学

 

 

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 古の時代、この世界のどこかで起こっていた出来事……という体裁を借りて、人間の直面する普遍的な疑問の数々を扱う、中島敦の連作「古譚(こたん)」。大昔の中国、ペルシャ、アッシリアなど、その着想の源泉は多岐にわたる。

「木乃伊」「文字禍」「狐憑」に、現代文の授業でよく取り上げられるおなじみの「山月記」を含めて四つの短編で構成されており、いずれも20世紀の中頃に著された。

 

 そのうちの「文字禍」については過去に以下のブログ記事でも紹介したことがある。

 

 

 文字とはそもそも何なのか。そして普段、私達の意識にどのような影響を及ぼしている存在なのか。

「文字禍」は巧みな舞台設定と語り口で、ともすれば途中で考えを放棄してしまいそうになる主題をとても平易に変換して読者に提示する、優れた小説。まず単純に物語自体が面白いので誰にでもおすすめできる。

 

ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー

 

 これから興味深い点や感想について綴りたい短編は、「狐憑(きつねつき)」というタイトルのもの。

 かつて中央アジアに国家を形成していた遊牧騎馬民族、スキタイ(スキュティア)人のとある部族に生まれた一人の男と、彼の辿った運命の物語。

 それが、人間社会のなかに存在する芸術家(作中では「詩人」と表される)の役割と性質を浮き彫りにする。

 

目次:

 

書籍:

中島敦 (ちくま日本文学 12) (著:中島敦 / 筑摩書房)

 

 

《狐憑》あらすじ

 湖の上に家を建てて暮らす、スキタイ人のネウリ部落に生まれた一人の男がいた。

 その名をシャクという。

 彼には空想をしがちな傾向以外に特徴がなく、実に平凡な人間だったのだが、弟のデックが侵略者のウグリ族に殺されてからというもの様子がすっかり変わってしまった。なんでも、ときどき妙なうわ言を口走るようになったらしい。

 周囲の人々はそれを見て、シャクは何かに憑かれているのだと噂した。狩りで皮を剥がれた狼や、獺などの霊か、あるいは……死んだ弟のデックが彼にのり移って、このように奇怪な言葉を吐かせているのではないか、と。

 実際にシャクは頭と右手を失った弟の遺体を前にして、何やら死を悼むのとは異なる風に、それをじっと見ていたからである。

 

武運拙く戦場に斃れた顛末から、死後、虚空の大霊に頸筋を掴まれ無限の闇黒の彼方へ投げやられる次第を哀しげに語るのは、明らかに弟デックその人と、誰もが合点した。シャクが弟の屍体の傍に茫然と立っていた時、秘かにデックの魂が兄の中に忍び入ったのだと人々は考えた。

 

(筑摩書房「中島敦 (ちくま日本文学 12)」(2008) 著:中島敦 p.171)

 

 ところが、そのうちにシャクは弟らしきものだけでなく、彼とまったく無関係に思えるような人間や動物の言葉までもをその身に宿すようになった。

 たとえば水中の鯉に、空を駆ける隼、また冬の牝狼が両目を通して眺めた光景が、鮮やかに彼の口から語られる。いわゆるイタコのように、別の魂を降ろして自身に憑依させ、聞き手の眼前に雄大な風景を描き出しているかのごとく。

 

 

 

 

 

 その手腕から、人々は考え始めた。もしかしたらシャクの「語り」は憑き物ではなく、彼自身が脳内に構築した(すなわち空想した)事柄を流暢に喋っているものなのではないかと。

 憑き物にしては狂気じみたところがなく、話の内容もあまりに整然としているからだ。

 

シャク自身にしても、自分の近頃している事柄の意味を知ってはいない。もちろん、普通のいわゆる憑きものと違うらしいことは、シャクも気がついている。しかし、なぜ自分はこんな奇妙な仕草を幾月にも亘って続けて、なお、倦まないのか、自分でも解らぬ故、やはりこれは一種の憑きもののせいと考えていいのではないかと思っている。

 

(筑摩書房「中島敦 (ちくま日本文学 12)」(2008) 著:中島敦 p.173)

 

 部落の人間はその後もシャクの話を面白がり、積極的に聞きに来るようになった。

 彼の話の源泉が何であれ、時間を忘れて聞き入ってしまうほど心躍るものであることには疑いがなく、ときには日々の仕事の手を休めてまでシャクを囲み「物語」の続きをねだったのだ。

 

 そうした状況に眉をひそめたのが部落の長老である。

 働くよりも空想物語にうつつを抜かす若者たちや、前代未聞と言える奇妙なふるまいに危機感を抱き、何か不吉な出来事の予兆としてシャクを排斥しようと画策するようになった。その決め手となったのが、以下。

 

シャクの物語は、周囲の人間社会に材料を採ることが次第に多くなった。いつまでも鷹や牡牛の話では聴衆が満足しなくなって来たからである。
(中略)
脱毛期の禿鷹のような頭をしているくせに若い者と美しい娘を張合って惨めに敗れた老人の話をした時、聴衆がドッと笑った。余り笑うのでその訳を訊ねると、シャクの排斥を発議した例の長老が最近それと同じような惨めな経験をしたという評判だからだ、と言った。

 

(筑摩書房「中島敦 (ちくま日本文学 12)」(2008) 著:中島敦 p.175-176)

 

 いよいよこの状況を腹に据えかねた長老一派はついにこう喧伝し始めた。いわく「シャクは部落の民としての義務を果たしていない」と。

 確かに彼はうわ言を口にするようになってから、食料を調達するための釣りや狩りに出たり、木材を調達したりしていない。家畜の世話もしない。それでも問題なく生活ができていたのは、シャクの物語に心を惹かれた他の者たちが、必要なものを分け与えていたからだ。

 それでも厳しい冬が訪れると、不平等感は顕著になる。

 

 やがて新たな春が巡り、人々はシャクが、これまでのような語りを展開できなくなったことに気がついた。文字通り「憑き物が落ちた」かのごとく。言葉は精彩を欠き、前の話の焼き直しをすることしかできない。

 もはや彼の内側から物語は湧き上がってこないのだ。

 おまけに、部落の中での仕事もろくにこなさないとくれば、導かれる結論は決まっていた。

 人々は思う。どうして自分たちは今まで、こんな男に貴重な食料を分けてやったのだろう? 奴の物語は面白かったからだ。だが、今となってはそれもなくなった。自分たちの持つ食べ物や資材は有限であり、無償でひとりの人間を養ってやる余裕も、義理もない。

 

 かくしてシャクは部落のしきたりのもと、仕組まれた雷雨季の占いの結果によって処刑され、皆にその肉体を喰われてしまったのだった。

 大鍋の中では、ぶつ切りにされた彼の肉体が静かに煮えていた。

 

ホメロスと呼ばれた盲人のマエオニデェスが、あの美しい歌どもを唱い出すよりずっと以前に、こうして一人の詩人が喰われてしまったことを、誰も知らない。

 

(筑摩書房「中島敦 (ちくま日本文学 12)」(2008) 著:中島敦 p.179)

 

 

 

 

描かれているもの

  • 詩人(作家)の性質

 本文で描写されているように、シャクは後の世(または別の場所)であれば、周囲から詩人や作家などと呼ばれるタイプの人間であった。身の回りのものから着想を得て、あるいは遠いどこかの世界を脳裏に思い浮かべ、その「おはなし」を語る。

 もとより内省的で空想しがちな性格だった彼は、肉親の遺体を目にするという衝撃的な経験をきっかけにして感覚を刺激され、豊かな創造性を開花させた。

 

初めは確かに、弟の死を悲しみ、その首や手の行方を憤ろしく思い画いている中に、つい、妙なことを口走ってしまったのだ。これは彼の作為でないと言える。しかし、これが元来空想的な傾向を有つシャクに、自己の想像をもって自分以外のものに乗り移ることの面白さを教えた。

 

(筑摩書房「中島敦 (ちくま日本文学 12)」(2008) 著:中島敦 p.173)

 

 シャクは創作することを知ったのだ。

 物語の構成や描写の腕を磨くにつれて、彼の熱心な聞き手——いわばファンの数も増え、日ごとに新しい話をせがまれる。またシャク自身も、これまでより多くの人間に対して己の言葉を届けたい、と望むようになる。

 

 あるときから自然や動物だけでなく、部落など自分たちをとりまく「社会」の出来事を題材に話を作り始めたシャクは、図らずも「寓意」や「風刺」といった要素を創作の中に組み込んでいた。

 そう、これこそが長老の不興を買う最大の原因となる。

 けれど、この小説の最後で彼があんな運命を辿ってしまった理由は、決して一つではない。

 

  • 共同体・社会の中での立ち位置

 そもそも人間にとって、詩人・シャクの生み出していたような種類の「物語」……創作物とはいったい何だろうか。

 私はごく個人的に物語を愛していて、日々になくてはならないものであり、それなしでは生きていけないものだと思っている。しかしヒトという生物の、生存と存続のみに焦点を当てたとき、物語の優先順位はぐっと下がってしまうはず。

 食料や衣服や寝床。これの上に物語が位置するという状況は、特に小説内で描かれたシャクの生きた時代や部落では、なかなか考え難い。

 それゆえ社会の中での詩人の地位は必然的に低くなる。近年、あまり良くない文脈で流行した「生産性」という言葉が脳裏をよぎるが、まさにそれだ。

 

人々は、なるほどそうだと思った。実際、シャクは何もしなかったから。冬籠りに必要な品々を頒け合う時になって、人々は特に、はっきりと、それを感じた。最も熱心なシャクの聞き手までが。それでも、人々はシャクの話の面白さに惹かれていたので、働かないシャクにも不承無承冬の食物を頒け与えた。

 

(筑摩書房「中島敦 (ちくま日本文学 12)」(2008) 著:中島敦 p.176)

 

 それでもシャクは、生み出す物語の面白さを対価に捧げて、周囲から食べ物などを与えてもらっていた。労働の代わりに。周囲も彼の創作にそれだけの価値を感じていたからこそ、関係性は成り立っていたわけ。

 当然ながら、その価値はシャクが創作をできなくなった瞬間に失われる。

 詩を生み出せない詩人など不要、他に何もせずぼうっとしているだけの人間を部落内にとどめておくわけにはいかない。皆はそう判断した。長老たちも、彼の物語によって自身の欠点や問題点を浮き彫りにされる機会を消せるとほくそ笑み、処刑は決行された。

 

 つまりこの「狐憑」は、ある共同体、すなわち社会にひとりの作家が生まれ、最後には排除される過程を描いた短編なのである。

 

 パブリックドメイン作品で、以下のリンクから全文が読めるので、興味をそそられた方はぜひ。

中島敦 - 狐憑 全文|青空文庫

 

 紙媒体の購入はこちら。

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関連記事:

 

 

 

 

 

「規則的な現象」としてはたらく幽霊の要素:小野不由美《営繕かるかや怪異譚》

 

 

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書籍:

営繕かるかや怪異譚(著:小野不由美 / 角川文庫)

営繕かるかや怪異譚 その弐(著:小野不由美 / KADOKAWA)

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 今年も、精霊馬が町の路地を飾るお盆の期間が過ぎた。

 

 私は幼いころから「怖い話寄りの不思議な話」が好きだった。

 それらの何に惹かれるのか改めて考えてみると、例えば発生する(遭遇する)怪異の怖さ・奇妙さそのものとか、あるいは祟りの発端、根本原因を探る面白さとかが挙げられるけれど、一番はお話に登場する怪異のシステムやレギュラリティの部分なのだと思う。

 つまり「一定の条件を満たすと起こる何か」としての怪奇現象。

 多分、それに興味がある。

 

 そして重要なことに、この性質は町や道路、家など、ヒトの手による建造物......またはそれに付随するものとの相性がとてもいい。ものすごく、いい。土地に何かを建てるという行為、意図、規則性を見出しやすい構造に外観……すべてが幽霊的なものと絶妙に絡み合わさって怪談を完成させる。

 だから建物好き、かつ怖い話好きの自分の心に、同系列の物語は深く食い込んでくるのであった。

 

 上を踏まえたうえで、最近読んだ小説の中でもとりわけ良かったのが「営繕かるかや怪異譚」

 かの「十二国記」や「ゴーストハント」などのシリーズを手掛けた小説家・小野不由美の作品で、作者自身も建築物に大きな関心を持っていると明らかにされているように、本文を目で追っていると著者の関心が如実に伝わってくる。

 日頃から家屋や邸宅の類に鋭い観察眼を向けていなければ、決して出てこない描写だろう、とわかる部分が端々にあるから楽しい。

 そんな「営繕かるかや怪異譚」の物語は各話の世界が繋がった連作短編の形式で進む。建物にまつわる怪奇現象に悩む住民たちに対し、営繕の仕事をしている尾端(おばな)という青年が実際の現場を調べ、それぞれの対処法を提案する、という流れだ。

 

 ここで重要なのは、依頼者へと提示されるのが事件の「解決」ではなくて、あくまでも「対処法」なのだという点である。

 作中に登場する怪異には、私の興味を引いてやまない、規則的な現象としてはたらく幽霊……その動き方に強く関係する要素がたくさん内包されていた。

 

 

 

 2021年8月現在、「営繕かるかや怪異譚」は単行本が第2巻まで、そして第1巻に関しては文庫版が刊行されている。

 

 

 

 

  • 家々で起こる怪奇現象と対処法

 

 営繕屋の尾端は、俗に言う霊感のある人間ではない。けれど、どういうわけか不可解な現象に関連する依頼を受ける機会が多いのだ、と語る。

 この部分からも全編を通してぶれない傾向が浮き彫りになっている。何らかの能力を用いて怪異の内情を推し量るのではなく、外から観察し、規則性を見つけ、どうすれば家の住民が再びつつがなく生活を送れるようになるのかを考えて方法を探す……。

 どうしてそれが起こるのか、の根本的な原因をすべて詳らかにはできない。霊的なものが何かをしていたとして、消し去ったり、いわゆる成仏をさせたりすることもできない。彼の役割は違うものなのだ。

 

「籠が壊れて、箱が壊れても、天井があって瓦が屋根裏にある間は大丈夫だった。それが何を意味しているのかは分かりませんが、大丈夫だったのだから、同じ状態に戻したほうがいいです」
「それで……妙なことは治まるのかな。たったそれだけのことで?」

 

(角川文庫「営繕かるかや怪異譚」(2018) 著:小野不由美 p.81)

 

 尾端はただ、怪奇現象や幽霊の発現と、それを引き起こしている現状がどのようなものかを見極めて、家に適切な処置を施す。

 そもそも「営繕」とは、建物を造ったり直したりすることを意味する言葉だ。

 

「あの女は何なんでしょう?」
「分かりません」と、尾端は言う。
「女が来ると死人が出るのね?」
「お聞きした限りでは、そのようです。ただ、死人が出るから女が来るのか、それとも女が来るから死人が出るのか、それは分かりません。いずれにしても魔ではあるんでしょう」

 

角川文庫「営繕かるかや怪異譚」(2018) 著:小野不由美 p.123)

 

 謎の現象が発生するのは、雨の日か、晴れの日か。時間帯はいつか。

 また、出現した幽霊的な何かは、どんな「法則」に従って動いているようだと判断できるか。

 たとえば舞台となる古い城下町の、道に沿って直進する魔(理由はともあれ、結果的に害をもたらす何か)がいたとして、その突き当りに家の門があると侵入されてしまう可能性が高い。ではどうするのかというと、営繕を行い、門の位置を少しずらしてみる、などの対策をしてみる。

 重要なのはそこに至るまでの過程、考え方だ。この小説のなかでは怪異をシステムとレギュラリティの観点からとらえ、家での安全な生活に支障をきたしている住民を助ける。

 

「……祠を壊したことと関係があると思います?」
「壊す以前にはなかったことなら、無関係ではないんじゃないかな」

 

角川文庫「営繕かるかや怪異譚」(2018) 著:小野不由美 p.214)

 

 なんとなく……ではなく、実際に現場で見たものと営繕屋としての知識から、総合的に現象を判断する彼の一貫した姿勢。

 本文からいくつかの台詞を引用させてもらったが、これらを読めば、ああこの小説ではそういう傾向の怪談話が展開されるんだな、と分かってもらえると思う。

 続刊を楽しみにしている、建物と怪談好きにとてもおすすめの物語。

 

 

 

 作者の小野不由美は、他にも建物にまつわる傑作ホラー小説「残穢」を生み出している。

 あの展開が面白くて興味を持ったという人も、ぜひ上作品を手に取ってみては。

 

 

 

 

シャーリイ・ジャクスンの小説《くじ (The Lottery)》を読んで映画《ミッドサマー》を思い出したこと

 

 

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書籍:

The Lottery and Other Stories (English Edition)(Shirley Jackson / Kindle版)

くじ(著:シャーリイ ジャクスン / 訳:深町 眞理子 / ハヤカワ・ミステリ文庫)

 

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※物語の核心や結末への言及を含む、ネタバレありの感想記事です。

 

 

 

“It isn’t fair,” she said. A stone hit her on the side of the head.

 

(Jackson, Shirley. The Lottery and Other Stories (p.211). Kindle版)

 

 夏至から1週間ほど経った時期。

 草花の映える、その美しく晴れた日に、ある村で行われる「伝統的な」風習。

 ……特に、流血と死をともなうもの。

 

 これらの要素を含む物語の中でも、わずか数ページに収まる量の文章で、読後に長く残る余韻を読者のなかに残していくのがシャーリイ・ジャクスンの短編小説「くじ」だ。

 先日、同作者の《We Have Always Lived in the Castle (ずっとお城で暮らしてる)》を手に取り、嗜好に合ったのでこちらも英語版を紐解いてみた。

「くじ」の原題は "The Lotrery" で、そのままくじ引きや抽選を意味する言葉。

 重要なのはそれが一体どのようなくじなのか、序盤で提示されることのないまま(しかし、さまざまな実態の片鱗を確実にのぞかせながら)話が進み、終盤ではっきりと明かされる部分。

 

 本を閉じてから、アリ・アスター監督の手による映画「ミッドサマー(2019)」(→鑑賞メモ)が脳裏に浮かんだので、検索してみるとインタビューの中でシャーリイ・ジャクスンの名前が言及されていた。

 彼の映画では、ホルガ村にダニーたち一行が訪問者として入り込んだ(むしろ連れて来られた)が、くじの舞台となる村には外部の人間が誰も訪れない。また仮に訪れていたとしても、例の「伝統的な行事」にはおそらく何の影響も及ぼさない。

 ここが一番の違いである気がする。

 それ以外でも、ミッドサマーとくじでは物語の主題も描かれているものも大きく異なるし、どのような形で監督が影響を受けたのかを窺い知れる部分はないが、きっと各要素の持つ性質はどこかに継承されているのだと感じた。

 興味のある人がいればぜひ両方の作品に触れてみてほしい。

 

 

 私たちも普段の生活のなかでよく目にしているような、とても平凡な日常的風景や人々の振る舞い、何の変哲もないような事実の記述が、実はとある出来事に起因するものだったのだとわかる瞬間。しかも、不穏な方の。

「くじ」という小説にはその面白さがある。

 たとえば、丸くてすべすべとした石を選んで集めたり、広場の片隅に石の塔を作って遊んだりする少年たちの姿は、実にありふれたものだ。のどかでほほえましいとも言っていい。しかし、彼らが「何のために」石を手にしていたのか理解した読者にとって、もはやそれは見えているままの情景ではありえない。

 夏空の下、より小さな子供が土ぼこりを立てて転がっているのも必要以上に牧歌的な描写で、物語の怖ろしさとおかしさを一層引き立てる。

 

 

 

 

 

 そもそも、くじの風習は村の設立当初からあった風に叙述されているものの、もともと使われていた箱は遠い昔に失われており、より重要なことには「そもそもこの催し自体の本当の内容と意義がすっかり忘れ去られている」可能性が示唆されるのがかなり不気味。

 伝えられている儀式の細部は曖昧だ。「6月にくじ引きをすれば、とうもろこしの実がじき重くなる」といった豊作にまつわることわざですらも。

 しかもワーナー爺さんがそう解説しているだけなので、以前から実際にそのように言われていたのかは、どうも判然としない。

 くじにまつわる一連の儀式は長い年月のなかで手順の簡略化も進んでいて、その過程で消えていったものが多くあるのだと本文から伺える。私は、ここが一番ひっかかるし怖い。

 

Although the villagers had forgotten the ritual and lost the original black box, they still remembered to use stones.

 

(Jackson, Shirley. The Lottery and Other Stories (p.211). Kindle版)

 

 風習は忘れられ、オリジナルの黒い箱も失われたけれど、村人たちは石を使うのだということをまだ覚えていた。

 石を、使う。具体的に「投げる」とか、それを使って誰かを「殴る」とは書かれていない。くじ引きと石を使って行われていた催しは、もしかしたら村が開かれた当初、現在とはまったく違うものだったのかもしれない。

 入植から月日を経て、その起源も詳細もぼんやりしてしまった謎の儀式。村で彼らが守っているのは、本当に「伝統」なのだろうか?

 

 しかも、くじの風習を撤廃するべきではないと強く主張するお年寄りで、この77年間、毎年必ずくじ引きに参加していたワーナー爺さんがこんなことを言うのだ。

 

“It’s not the way it used to be,”
Old Man Warner said clearly.
“People ain’t the way they used to be.”

 

(Jackson, Shirley. The Lottery and Other Stories (pp.210-211). Kindle版)

 

 昔はこんなやり方はしなかったものだし、人々もこんな風ではなかった。

 後者に関しては、単純に世相の変化や若者に対する愚痴であり、別の村ではくじの風習を撤廃している……とアダムス夫人から聞いた事柄への抗議ともとれるが、前者はどうだろう。

 当選者を示す黒丸を描いたくじは木片から紙に変わったが、それ以外にも儀式は年を経るにつれて形を変えているのだ。ワーナー爺さんはその70年以上の変遷を目の当たりにしてきたからこそ、今と比べて「昔はこんなやり方はしなかった」と明言するのだろう。

 では昔は一体どんな風にやっていたのかと肩をゆすぶって尋ねたいところだが、作中では特に記述されない。

 

 そして現在、くじ引きの運営を担当しているサマーズ氏。

 Summersという姓に、夏や盛りの時、あるいは青春をあらわす単語 "summer" が含まれているところからも、美しく晴れた空のもとで淡々と展開する、胸の悪くなるような光景の不快さがじわじわと増していく。

 シャーリイ・ジャクスンの短編「くじ (The Lottery)」は、良質な短編小説だ。

 

 

  

 

 

 

 

シャーリイ・ジャクスン《We Have Always Lived in the Castle (ずっとお城で暮らしてる)》より:私もずっと「そこ」にいる

 

 

 

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書籍:

We Have Always Lived in the Castle (English Edition)(Shirley Jackson / Kindle版)

ずっとお城で暮らしてる(著:シャーリイ ジャクスン / 訳:市田泉 / 創元推理文庫)

 

 

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 何も予定のない休日の朝に起きて、まずやることといえば、玄関の扉がきちんと施錠されているかの確認だろう。

 もちろん前日の夜、就寝前にしっかり鍵はかけている。それでも念には念を入れて、間違いなく家の安全が保障されているかどうかを確認してようやく、身を脅かされる心配から解放されのびのびと一日を過ごすことができるわけだ。昔からそう。

 実際に置かれた状況こそ大きく異なるものの、自分がしている行動は、シャーリイ・ジャクスン著「ずっとお城で暮らしてる」に登場するメアリ・キャサリン・ブラックウッドと変わらない。

 

 最近、その本を原文で読んだ。

 

In the mornings when I awakened I would go at once down the hall to make sure the front door was locked.

 

(Jackson, Shirley. We Have Always Lived in the Castle (p.127). Kindle版)

 

 ある村の古い屋敷で、6年前に起こった一家毒殺事件。砂糖壺の中に混入されていたヒ素が原因となって、晩餐の席についていたブラックウッド家の人間のうち、4人がこの世を去った。

 生き残ったのは3人。長女コンスタンス、その妹メアリ(愛称・メリキャット)、彼女らのおじであるジュリアン。

 コンスタンスは事件発生時、デザートのブラックベリーに砂糖をかけなかったため、無事だった。メアリは何かの罰として夕飯を抜かれていたので、こちらにも影響はなし。ジュリアンに関してはヒ素を口にしたものの辛うじて命を取り留めた。

 そして彼は現在、車椅子にて生活をしている。とりつかれたように「その晩」の出来事を回想し、執拗に記録しながら。

 

 3人は事件後も村の屋敷に住み続け、世俗から隔絶された毎日を送っており、物語ではその様子がメアリの視点から語られるわけなのだが……。

 明かされることと明かされないこと、またひとりの人間の眼を通して視る世界の歪みと真実とが錯綜し、作品の本文全体が終始なんとも言えない不気味さを醸し出している。

 悪意の込められた村人の視線、言葉に行為、屋敷で暮らす彼女らに干渉しようと試みる他の人間。誰がどんな意図をもって一体なにをしているのか、実際のところはわからない。読者が窺い知れるのは、メアリから得られる情報のみなのだから。

 

Without looking I could see the grinning and the gesturing; I wished they were all dead and I was walking on their bodies.

 

(Jackson, Shirley. We Have Always Lived in the Castle (p.11). Kindle版)

 

 自分たちに迫る変化の兆候や、向けられる害意に対して敏感に反応するメアリ。

 彼女に過剰な共感を抱いてしまうのは、その奇妙な魅力を帯びた語り口ゆえなのか、あるいは私も心から「自宅の不変」を愛する引きこもりであるからなのか。気がつくと、ブラックウッドの屋敷に流れる時間がずっと止まっていて欲しい、と願ってしまっている。それが世間から見て、どれほど不健全なものであってもだ。

 

 何か怖いもの、恐ろしいものから常に遠ざかっていたい。

 己にとって好ましい秩序で支配された世界を、失いたくない。絶対に。

 

 部屋の窓から外を眺めてそう思う機会はことのほか多い。

 自分の穏やかな生活を守るために習慣としている事柄は、そのままメアリの振る舞いに重ねられる。私も、地面になにかを埋めるような気分で靴を履いたり、木になにかを打ち付けて護符にするように腕時計をつけたりする。たまに、特別な効果を持つ言葉を頭のなかで繰り返しもする。いくつかの点で同じなのだ。

 都市部から離れた場所に建つ大きなお屋敷と潤沢な財産、この二つがあれば、ずっとお城で暮らしているような気分で日々を過ごせるかもしれない。有害なものに触れる危険があるときは、出ていかずに家にこもっていればいいと。

 そんな均衡を欠いた「安全」な楽園は、やはり危険であるがゆえに、ひどく魅力的でもある。

 

“I had three magic words,” I said, holding the sweater. “Their names were MELODY GLOUCESTER PEGASUS, and we were safe until they were said out loud.”

 

(Jackson, Shirley. We Have Always Lived in the Castle (p.57). Kindle版)

 

 小説の筋の話に戻ろう。

 この物語の終盤、屋敷に火の手が上がってから一気に湧き出してくる「気味の悪さ」は特筆すべきものだと思う。前半の比ではない。炎の引き起こした混乱に乗じて村人が行った仕打ちも、その後の対応も、板や布で塞いだ建物の隙間から外を覗くメアリとコンスタンスの笑みも。

 私がいちばん面白いと感じたのは村人たちと屋敷の関係性の変化だ。これまで蔑視の対象だったブラックウッド家の生き残りが、まるで、触れたり邪険にしたりすると祟るかのような存在として扱われるようになる。陽が落ちてから玄関先に置かれるバスケット、失礼な子供の振る舞いを謝罪するメモ。

 すべてが、さながら祭壇へのお供え物かなにか。火事の前後で確実に変質した彼女らの存在は、村にとって一体なんなのだろう。荒くれる神か。

 

That night we found on the doorsill a basket of fresh eggs and a note reading, “He didn’t mean it, please.”
(中略)

“Poor strangers,” I said. “They have so much to be afraid of.”
“Well,” Constance said, “I am afraid of spiders.”

 

(Jackson, Shirley. We Have Always Lived in the Castle (p.140-141). Kindle版)

 

 勧善懲悪も問題解決もここにはない。

 中毒性のあるメアリの語りと、著者シャーリイ・ジャクスンの筆運び、そして世界観が、何度も読者をはじめの地点に戻して再びページをめくらせようとしてくる。

 

 砂糖壺に蜘蛛がいたの、と呟くコンスタンスが果たしてどんな表情を浮かべていたのか、私は、間近で実際に見てみたくてしょうがない。従兄弟チャールズの影響を受けて、いちどは外に出ようとした彼女。

 きっと、いまも変わらず可愛いメリキャットと一緒に食卓についている彼女……。

 

 

 

 

 

 

エミリー・ブロンテ《嵐が丘》Ⅰ - この世で魂の半身に出会うことは幸運か、それとも悲運か|19世紀イギリスの文学

 

 

 

 

 エリス・ベル名義で「嵐が丘」が発表された直後の批評のなかに、「主人公ふたりの愛はあまりに抽象的で、肉体を欠いている」……というものがあったそうだ。

 それが「ある種のリアリティの欠如」や「どこか人間離れしたもの」という意味で使われていた言葉なら、確かに頷けるところもあるかもしれない。ただ、単純に性的描写の欠落という意味であれば、私は「肉体を介在した愛の存在しかこの世界では認められないのか?」という疑問を呈さざるをえない。

 ヴァージニア・ウルフは作品の内容に対して、ある見解を述べている。

 

「『嵐が丘』には“わたし”というものが存在しないのだ。主従関係もないし、愛はあっても男女の愛ではない。エミリーはもっと大きな観念にインスパイアされて書いたのであり、彼女を創造へとかりたてるのは、私的な過去の痛みだの傷だのではない……」

 

(新潮文庫「嵐が丘」(2003) 著:エミリー・ブロンテ 訳:鴻巣友季子 p.697)

 

訪れたヨークシャーの風景

書籍:

嵐が丘(著:エミリー・ブロンテ / 訳:鴻巣友季子 / 新潮文庫)

 

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 イングランド北部、ヨークシャーの荒野に古い屋敷が建っている。その「ワザリング・ハイツ(嵐が丘)」に暮らすのは、アーンショウ家の当主と、息子と娘。加えて数少ない使用人。

 ある日、彼らの世界に思いもかけない《異物》が入り込んでくる……。

 そうして娘と「父なし子」は出会ってしまい、いつの間にやら近郊の「スラッシュクロス・グレインジ(鶫の辻)」に暮らす一家も巻き込んで、とんでもない舞台の幕は上がってしまうのだ。

 

「ここよ、それから、ここ!」
 キャサリンはそう云いながら、片手でひたいを叩き、もう片方の手で胸を叩きました。
「魂はどっちに住まうものか知らないけれど、魂のなかでは、心のなかでは、これは絶対にいけないことだとわかってるの!」

 

(新潮文庫「嵐が丘」(2003) 著:エミリー・ブロンテ 訳:鴻巣友季子 p.165)

 

 

 己の半身。

 あるいは魂の片割れ、とも呼べる「なにか」。

 

 果たしてそんなものが、本当にこの世界に存在するのかどうか。実際に確かめるすべなどない。だからその判断は個々の意識にのみ委ねられている。問題は、当事者であるふたりが周囲の目にどう映るかではなく、ふたりのなかで互いがどのような場所を占めているのかだけなのだ。

 相手の魂と自分の魂が、本質的な共通点を持っていると感じられること。

 惹かれ、時には反発し合い、肉体の側がどこでなにをしていようと、精神的には絶対に無関係ではいられない。

 

 生きているあいだ、そういう人間に出会える(むしろ「出会ってしまう」?)ことは、幸福であり災厄でもあるのだろう。

 邂逅してしまった以上、もう二度とそこからは逃れられず、人生を通して相手の存在が心のなかの一部屋を占めることになるから。

 

「どうして愛しているかというと、ハンサムだからじゃなくてね、ネリー、あの子がわたし以上にわたしだからよ。人間の魂がなにでできていようと、ヒースクリフとわたしの魂はおなじもの」

 

(新潮文庫「嵐が丘」(2003) 著:エミリー・ブロンテ 訳:鴻巣友季子 p.168-169)

 

 19世紀のイギリスで発表され、多くの議論を巻き起こしたエミリー・ブロンテ(出版に際し、はじめはエリス・ベルという男性名を用いた)の著作「嵐が丘」は、今よりもずっと幼かった私の胸にそれを深く刻み付けた本だった。

 

 復讐劇、悲劇、恋愛譚。ミステリーにサイコ。その他。

 数あるジャンル名のどれもが「嵐が丘」という小説にふさわしく思えるし、反対に、どれかひとつだけを選んで当てはめるのも適当ではない気がする。どんな物語なのか? と聞かれれば誰もが答えに窮するだろうが、私なら、この世界における人間の「魂と魂の繋がり」が描かれているものだと主張する。

 すべての出来事、キャサリンとヒースクリフの邂逅を含めた一連の嵐が、読者の眼前を吹き抜けて、余計なものはことごとくさらって行ってしまう。

 最後に残るのは抽象的かつ純粋なものだけ。

 わたしはあなた、あなたはわたし。

 相似な図形のように、拡大しても縮小してもぴたりと合う形。もしくは、もともとひとつだったものをふたつに割った破片、その対となる関係性。なにが起こっても変わらない絶対的なもの、それを確信させる存在。

 

 

 

 

「キャサリン・アーンショウ、俺が生きているうちは、汝が決して安らかに眠らないことを! お前は俺に殺されたと云ったな――なら、この俺にとり憑いてみろ!
(中略)
いつでもそばにいてくれ――どんな姿でもいい――俺をいっそ狂わせてくれ! お前の姿の見えないこんなどん底にだけは残していかないでくれ! ちくしょう! どう云えばいいんだ! 自分の命なしには生きていけない! 自分の魂なしに生きていけるわけがないんだ!」

 

(新潮文庫「嵐が丘」(2003) 著:エミリー・ブロンテ 訳:鴻巣友季子 p.349)

 

 

 中盤から次々と起こり錯綜する事件に、整理されていない時系列。加えて不実で、知識や正しさに欠ける登場人物たちや、全員の口の悪さに負けないよう読み進める。

 そうすると、この一編の物語をつらぬくひとつの軸が見えてくる。

 

 描かれているのはとても普遍的なテーマだ。

 それはきっと、作中のあまりに閉鎖的かつ特殊な舞台を借りてしか、紙上に再現することのできなかった図式。19世紀どころかいまの21世紀に至っても、一部の人間からは眉をひそめられるような描き方。

 現世で魂の半身に出会うのは、まぎれもない僥倖。

 だが、同時にとんでもない悲劇でもある。

 このふたつは両立する。それこそが、表面ではなく本質で繋がる人間関係の、恐ろしくも美しい部分。

 魂の邂逅は、肉体とそれを取り巻く環境にいつだって阻まれている。時には結ばれず別れなければならない。そもそもキャサリンとヒースクリフの間には、根本的なすれ違いがあった。

 

「この世は丸ごと、あいつが生きていたことを、俺がそれを失ったことを記す、膨大なメモみたいなものなんだ!」

 

(新潮文庫「嵐が丘」(2003) 著:エミリー・ブロンテ 訳:鴻巣友季子 p.666-667)

 

 どこにいようと、誰となにをしていようと、あるのは「相手こそが自分の命であり魂である」という確信だけ。たとえそれが錯覚であったとしても、本人のなかに確固たる感覚があるかぎり、それは真実にほかならない。誰にも否定できない。

 片割れを見つけてしまったがゆえの歓喜と苦悩。

 

 一生のうちで、これほどまでに想いを捧げられる存在に出会えたら、それだけで己の人生に価値があったといえるだろう。たとえそのせいで、どれほど黒い苦しみの炎に焼かれることになろうとも。

 愛の定義は人それぞれだ。そして私は、仮にも愛というからには、これほどの強さがなければ本物とは呼べないと思っている。ほかはすべて偽物だ。表面だけ、言葉だけの虚しいもの。

 けれど人間は常にそれらに縛られている。悲しいことに。だからだろうか。作者も自身が生まれ育ったヨークシャーの荒野に立って、地平線を見つめ一心に願っていた。すなわち「生も死も雄々しく耐える縛られない魂」を求めて。

 ゆえに、時に死は救いかもしれない。

 かけがえのない者との邂逅と喪失を嘆く者にとっては。

 

「もうちょっとで『俺の天国』に手が届きそうなんだ。だいたい、他人の天国じゃ俺にはなんの有り難みもないし、行きたくもないからな!」

 

(新潮文庫「嵐が丘」(2003) 著:エミリー・ブロンテ 訳:鴻巣友季子 p.686)

 

 

 キャサリンとヒースクリフはロックウッド氏が最後、皮肉交じりに言い残したように、静かな大地に休らい寄り添ってじっと眠っているのだろうか。

 時々、彼らはきっと煩わしいものをすべて捨てて檻から抜け出したあと、むき出しの魂となり、自由に荒野を駆け廻っているのだろうと想像してしまう。あるべきところに填められたパズルのピースのように、それによって、ばらばらになった絵柄が過不足なく完成するみたいに。

 ふたりにとっては、物理的な身体に縛られ、お互いが一時的に離ればなれになっていた状態こそが、なにかの間違いだったのだから。

 

書籍: 

 

 小説「嵐が丘」のなかには、人間同士の本物の関係性がある。その一端、ひとつの側面だけを取り上げて、いわゆる「恋愛もの」……と称するのは正しくない気がした。

 これは魂を描いた、魂の物語だもの。

 

 

関連記事:

 

 

 

サム・ロイド著《The Rising Tide(満ち潮)》嵐が訪れて始まる悲劇の連鎖、幸せだった家族に迫る不穏な過去の波

 

 

 

 同じ著者による前作品の感想:

 

 書籍:

The Rising Tide (English Edition, Kindle)(Sam Lloyd / Transworld Digital)

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Her worst nightmare is about to wash ashore.

  ―― 表紙より

 

 イギリス、サリー州在住の小説家、サム・ロイドの新刊《The Rising Tide》が2021年7月8日に発売された。

 正式な日本語訳版がまだ出ていないので、ここではタイトルを「満ち潮」と訳することにしてみる。

 前作《The Memory Wood》に引き続き、今作も物語の開始地点から後半にかけて緊張感がどんどん高まっていく、サスペンス&サイコ・スリラー要素の強い小説だった。個人的には前の作品の方により好きな成分が詰まっているのだが、こちらも総合的にはとても楽しめたし満足。

 

 事件の舞台は、鬱蒼とした森から茫漠たる海へと移される。

 

目次:

 

概要・あらすじ

 

The news doesn’t strike cleanly, like a guillotine’s blade. There’s no quick severing. Nothing so merciful. This news is a slovenly traveller, dragging its feet, gradually revealing its horrors.

 

(Lloyd, Sam. The Rising Tide (p.5). Transworld. Kindle版)

 


 海辺の田舎町、スケントル(Skentel)。その片隅、海原と砂浜を見下ろせる場所に建つ古い家の扉を、誰かが叩いた。

 

 夫のダニエル、娘のビリー、そしてまだ小さな息子のフィンと一緒に暮らしている女性、ルーシー・ロック(Lucy Locke)は凝視していたパソコン画面から顔を上げる。

 尋ねてきたのはビーという友人だった。なんでも、ルーシー一家の所有している船「レイジー・スーザン号」がなぜか沖で発見された、というのだ。ぷかぷかと波間に浮かんでいたのだと。

 係留のロープが外れたか、切れたかして流されたのか。それとも盗難か。

 詳細を知るために王立救命艇協会(ボランティア組織、通称RNLI)の拠点へと向かったルーシーは、そこで思いもかけない事実を聞かされることになる。

 

 レイジー・スーザン号を港から発進させたのは、朝、いつものように職場へ向かったはずの彼女の夫ダニエル(Daniel Locke)で、彼は船上から無線で救難信号を発していた。

 それを受け取ったRNLIが現場に急行すると、そこにはひとつの人影もなく、ただ船だけがあったのだ。

 

‘The hatch was unlocked?’
‘Unlocked and wide open. That boat was a modern-day Mary Celeste.‘

 

(Lloyd, Sam. The Rising Tide (p.206). Transworld. Kindle版)

 

 後に救命胴衣をまとって海上で救助されたダニエルは、以前と比べてまるで人が変わったようになっていた。さながら、中身の人格をそっくり入れ替えてしまったかのごとく。

 彼は自分とルーシーの子供たち、ビリーとフィンを連れ出して海に突き落とし、殺害したのだと供述するが、発言は一貫性と整合性に欠けている。また、家族にいったい何が起こったのか探ろうとするルーシーの方も、どうやら周囲に隠していることがあるようだ……。

 

 スケントルに派遣された警察のふたり、エイブラハム・ローズ(DI Abraham Rose)とクーパー(DS Cooper)が、この事件の解決に向けて奔走する。

 

 

周囲で起こる全てが怪しい

 

 読み進めていくうちに、私たちは誰に対しても疑いの目を向けることになる。

 当然だけれど、それぞれの人物がそれぞれの主観で語る物事に耳を傾けていると、見えている景色の違いにただ驚かされるばかりだ。

 

 家族が失踪してたったひとりで戦わなくてはならなくなったルーシー、彼女は無垢な被害者であると本人も友人たちも信じているが、もちろんそうは思わない人間もいる。特に、彼女の若い頃の「悪い傾向」を知っている人間であればなおさら。

 どうやら、以前はかなり節操のない性的関係を複数の男性と築いていたようだ。ダニエルと結婚した現在とは違って。

 

’Nobody seems to know. Lived here till she was eighteen, shagged half the town before she left. Buggered off to London and turned up six years later with a kid.’

 

(Lloyd, Sam. The Rising Tide (p.208). Transworld. Kindle版)

 

 スケントルで生まれ育ってロンドンで美術大学に通い、さらに誰が父親なのかも分からず生まれた娘ビリーと共に、他国を放浪していたルーシー。彼女はその数年間で何を経験したのだろうか。

 もしかしたら、それは現在起こっている恐ろしい事件と何か関連があるのかもしれない。

 

 また、一見すると順風満帆に思えた一家は実のところ内部に大きな問題を抱えていたし、外部のいろいろな要因にも平和な生活を脅かされていたのだ。

 ダニエルは親友のニック(Nick Povey)と共に会社を設立し軌道に乗せたものの、ある日裏切りとも呼べる行為に直面し、今後の展望を持てないでいた。ビリーは海を愛する心からシー・シェパードに傾倒する言動を見せ、海洋生物保護のためなら暴力的で危険な行為も辞さないと考える。

 そして、フィン。彼は学校でいじめに遭っていた。クラスメイトが自分を無視し、まるでそこに存在していないかのように振る舞うという。いじめの主犯格であるエリオットはベスという女性の息子で、さらにベスはルーシーを好いていない。

 警察署での供述でもそれが明かされる。

 

'That chick has a temper. I’ve seen a side of her she tries to keep hidden. Ugly, it is. Frightening.'

 

(Lloyd, Sam. The Rising Tide (p.208). Transworld. Kindle版)

 

 ルーシーは「自己暗示」に長けていた。

 困難な状況が起こっても絶対に大丈夫だと自身に言い聞かせる。加えて、もしも現実が理想から離れていたならば、行動を起こす。すると結果的に彼女の周囲の全ては望むように保たれる、といった具合に。

 

 だが、そのような振る舞いは、すべからく何かの犠牲に成り立つものではないだろうか?

 そう読者が抱く疑問は、結末が迫るにつれて徐々に氷解していくことになるだろう。

 

 

 

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 現時点(2021年7月13日)で日本語訳版は出版されていないので、購入は原語版のペーパーバックか電子書籍のKindleで。

 

 以下が個人的な読後の語りでネタバレ要素あり。

 サスペンス要素の強い作品なので、 何よりも先に本編を読むのがおすすめ。よければ最後のページを閉じてから感想を共有してくださると嬉しいです。

 

 

 

 

 

ネタバレあり感想

  

 前作に引き続き、人称や視点によって見えているものが全く異なる面白さと、はじめは些末だと看過していた数々の要素の点が後になって線で結ばれる感覚がある。

 そこに登場人物それぞれの魅力が絡んできて、さらに物語は明確な結末へと向かう。だが全ての問題が都合よく解決されるわけではない。

 

 読み終わったあと、個人的に作中での犯人の描かれ方、また扱われ方が改めて興味深いと思った。逃亡を許さず、被害者の手で直接相手を倒す部分にはある種の爽快感が伴っている。

 特にルーシーの場合は全く接点のない他人ではなく、己が過去に関わった人間に執着されているという点で、過去に終止符を打って先へ進む様子が間接的に表現されているのだった。

 ビリーを失った悲しみが永遠に失われず、昔の恋人ジェイクへの借りを返すのが限りなく困難であっても。彼、あまりにも良い人だ……。

 

 それから、犯人の動機。

 The Memory Wood(チェス盤の少女)におけるマジック・アニーは決して派手ではないものの、現代の魔女としての人物造形がリアルだと感心した。今回の方はルシアンの側が「ルーシーの黒魔術に翻弄された」と脅迫的に思い込んで凶行に及ぶが、実際、両者ともそのへんに居そうな感じがする。イカれてはいるが分からなくはない。

 そのわりに同情の余地があるかと言われればあまりなく、犯罪者を特別扱いしてかばったり、あれはやむを得ない行為だったと言ったりはしない作者の姿勢が見える。

 

 ところで、イリサとイライジャ、またルーシーとルシアンという名前の類似したふたりの組み合わせが象徴的に出てくる部分が気になるのだが、どのような意図をもってそうしているのかなんとなく知りたいところ。

 童話や伝説、聖書の引用をよくする作者なので何かこだわりがありそう。モーティス・ポイント(Mortis Point)の名前の由来とか、舞台設定にもゴシック風の雰囲気を組み込んでくるのが好き。

 

 エイブラハム・ローズ氏に関してはもう愛さずにはいられなくなってしまったし、正直、彼とビビおばあちゃんが会話しているシーンを延々と読んでいたかった。最期の選択も決して「良かった」とは言えないものだけれど、彼の出した答えとしては、非常にそれらしいと納得させられる。

 

According to the note he left, he’d been too frightened to seek treatment or even confirm a diagnosis. The post-mortem found a serious but treatable lung condition – Abraham Rose was cancer-free.

 

(Lloyd, Sam. The Rising Tide (p.388). Transworld. Kindle版)

 

 ビビおばあちゃんだけでなく、ルーシーも彼のことを生涯忘れないだろう。

 

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 今作、前作ともにおすすめできるスリラー小説です。

 

 

 

 

 

 

《木の精のドリアーデ》より -「憧れ」の感情へ注がれる著者の優しいまなざしと近代文明批評|ハンス・クリスチャン・アンデルセンの童話

 

 

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書籍:

マッチ売りの少女/人魚姫:アンデルセン傑作集(著:ハンス・クリスチャン・アンデルセン / 訳:天沼春樹 / 新潮文庫)

 

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 アンデルセンの紡いだ数々の作品は、いわゆる「昔話」と呼ばれる童話(ここではヨーロッパのものを指している)の形式や、特色とはまた違った種類の魅力……すなわち「近代の童話」としての良さをたくさん持っている。

 

 登場する人物の繊細な感情の動きに、宗教的な信心の要素、そしてめまぐるしく変化を続けていた当時の社会へ向ける目……いずれも彼の生きた19世紀らしさを反映し、それでいて古い伝説や神話の源泉から巧みに材料が調達されている。

 また、アンデルセン自身の人生経験からも。

 独特だけれど単純に癖が強いというだけでなく、本当に卓越した目と手を持った作家だと思う。本文の描写を見てもそれがよく分かった。

 

 ここで紹介するお話「木の精のドリアーデ」には、その発表の前年である1867年に開催された、パリ万国博覧会の壮麗な風景が登場する。

 外界に強い憧れを抱く木の精の願いはどこか同作者の「人魚姫」も彷彿とさせ、しかしまったく別の結末を迎える部分も興味深い。

 もっとひろく知られて欲しい短編のうちのひとつ。

 

目次:

 

「木の精のドリアーデ」あらすじ

  • 森にいた木の精

 郊外の森に生えていた木が切られ、やがて人間たちのいるところへ運ばれていくという点で、この話は同作者による「もみの木」にも似ている。そちらは人間たちによってクリスマスツリーとして利用され、最後には火で燃やされてしまう大木の、切ないお話だったが……。

 

 童話「木の精のドリアーデ」は、フランスのどこかにある田舎の森の場面から始まる。

 若いマロニエに宿った木の精。

 植物や虫、動物に人間などの言葉を解せる彼女は、自分では行くことのできない場所の話を他の皆から聞くのが大好きだった。たまに年取った神父がやって来て、マロニエの周囲に集まった子供たちへ歴史や偉人の講釈をするのも楽しみにしていた。

 依代となる木を離れては動けない彼女。その外界への憧れは、日に日に強くなる。

 まだ見たことのない景色、聴いたことのない歌。誰もが憧れる、奇跡か魔法のようなものがあるという場所、首都のパリ。

 

子どもは絵本に手をのばす。木の精も、雲の世界を、彼女の思い描く都の描かれた本をほしがっていたのだ。

 

(新潮文庫「マッチ売りの少女/人魚姫:アンデルセン傑作集」(2015) 著:ハンス・クリスチャン・アンデルセン 訳:天沼春樹 p.304)

 

 そんなあるとき、彼女の宿っていたマロニエの木はやってきた何人もの人間により根っこから掘り返されて、馬車ではるばるパリへと運ばれることになった。向かう先で、通りに並ぶ街路樹のうちの一本として使われるためにだ。

 それは、木の精の念願が成就することも意味する。つまりは都に行けるのだから。

 木をのせた馬車が進むにつれて建物がどんどん増え、人通りも多くなり、賑わいが増していくのを感じて彼女は高揚した。やがて所定の場所に植えられたマロニエの傍らで、溢れんばかりの色彩と光に目を焼き、自分は幸せだと叫ぶ。本当に街に来られたのだと。

 

 一方、彼女がここに来る前に同じ場所へ立っていた木はすっかり都会の空気に枯れて、引き抜かれたあと、入れ替わるようにどこかへ運ばれていった。おそらくは、冒頭で紹介した「もみの木」と類似の末路を辿ったのだろう。

 つまりは廃棄場行きか、暖炉の薪になって燃やされるかだ。

 

  • 首都で人の姿を得る

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 はじめは何もかもに感動していた木の精だが、数日をパリの中心部で過ごすうち、やはり「木のある場所から動けない」ことを苦悩するようになった。

 

 せっかく街へ来たというのに少しも枝葉のそばから離れられず、代わり映えのしない無機質な壁や、貼られた広告ばかりが目につく。すべてを記憶し飽きてしまうほどに。ここからでは、うわさに聞く凱旋門というものも、かの「万博の奇跡」も視界に映せないのだ。

 夢にまで見た憧れの先には、一体何があるのだろう? 目抜き通りの向こう側には?

 

 彼女は「人のような幸福」を渇望し、虚空に向かってひたすらに祈った。

 

わたしの寿命がうばわれてもかまいません。そして、あのカゲロウの命の半分ほどの命さえ与えてくれれば。わたしを、この牢獄のようなところから救いだしてください! 人間の命を、人間が味わう幸福をお与えください。ほんの一瞬でもかまいません。

 

(新潮文庫「マッチ売りの少女/人魚姫:アンデルセン傑作集」(2015) 著:ハンス・クリスチャン・アンデルセン 訳:天沼春樹 p.319)

 

 果たしてその願いは叶えられ、一陣の風が梢を吹き抜けたかと思えば、マロニエの枝の真下にはひとりの若く美しい女が現れた。髪に一輪の花を挿している。それは、他ならぬ木の精の姿だった。

 夜明けになれば儚く露と消え去ってしまう宿命を背負って、彼女はガス灯が照らす夜のパリを駆け抜けていく。本文曰く「休むことなど知らない、飛び続けるのが宿命のカゲロウ」のごとく。

 

 打ち上がる花火。刺激的なダンス。カフェやレストランの明かり、万博会場の庭園とアクアリウム、あるいは地下水道。

 絶え間ない未知の奔流。

 木の精は本当に数えきれないものを見て、聞いて、体験もした。すべてを己のうちに取り込むかのように。だがそうしているあいだにも、生命の終焉は刻々と迫ってくる。寿命と引き換えにした幸福なのだから。

 本当にこれで良かったのだろうか。そんな念さえ頭をよぎり、疲れ切った身体を噴水のそばに横たえた彼女へ、風がそっと囁きかけるのだった。

 

「そうしたら、あなたも死者の仲間になって、ここにある立派な物たちが一年たたぬうちに消え去るように、あなたも消えてしまいますよ。
(中略)
塵になるんです。すべてが塵にすぎないんです」

 

(新潮文庫「マッチ売りの少女/人魚姫:アンデルセン傑作集」(2015) 著:ハンス・クリスチャン・アンデルセン 訳:天沼春樹 p.319)

 

 言葉のはっきりとした意味は分からずとも、それはどこか恐ろしいことのような気がした。やがて、うつろに立ち上がり彷徨っていた木の精は、最後に小さな教会の前に辿り着き倒れ込んだ。

 

  • 夜明けに潰える命

 教会の入口からは、パイプオルガンの荘厳な音色が響いている。彼女はそこに、むかし故郷の森でいつも耳にしていた、あの懐かしい神父の声を聞いた気がした。

 古い樫の木が葉を揺らすざわめきに似たものも。

 そのうちに雲間から徐々に朝の陽が差して、はじめに約束されていたように、短い寿命を迎えた木の精を消し去っていく。

 

汝のあこがれと願いが、神が汝に与えたもうた場所から汝をそっくり引き抜いてしまった。それが、汝の破滅となろう。あわれな木の精よ!

 

(新潮文庫「マッチ売りの少女/人魚姫:アンデルセン傑作集」(2015) 著:ハンス・クリスチャン・アンデルセン 訳:天沼春樹 p.340)

 

 太陽がすっかり天球の頂上にのぼる頃には、かつてこの木の精が宿っていたマロニエはすっかり枯れてしまっていた。彼女がもういないからだ。

 しおれて散ったその花を、往来の人々はただ踏みつけて通り過ぎる。

 

 この物語が「人魚姫」に類似していて、けれど決定的に異なっているのは、人魚は結末で神の試練(人々のために良いおこないを数百年間し続ける)に身を捧げたが、木の精はついにキリスト教的な信仰の念を持つには至らなかった部分だろう。

 絢爛なパリの街の路地をぬって歩く際中、彼女はいちど聖マドレーヌ教会の前を通りかかったが、その厳かな感じに怯えて「わたしは入ってはならないところかもしれない」と考える。

 夢に見た憧れの場所とは明らかに異なる、沈黙に包まれた懺悔と祈りの空気に背を向けた木の精。ここもやはり、最後に彼女が直面する運命を示唆していたのだろうと感じた。

 

 

 

 

物語の魅力

  • パリ万国博覧会の描写・文明批評

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 近代化の甚だしい19世紀を「メルヘンのような偉大な驚くべき進歩の時代」「夢の時代」と繰り返し表現するのは確かに皮肉っぽい感じがするが、このお話の中で描写されるパリ万博の情景はそれだけではない。

 アンデルセンが実際に現地へ赴き、滞在中に触れたものや展開されていた光景に対して抱いた、新鮮な驚きや感動が《木の精のドリアーデ》にはきちんと取り入れられている。

 どんどん先へと向かう時代、技術の華やかさと、その影で犠牲になったり取り残されたりする何か。どちらか一辺倒になることなく、両方の要素に同じくらい気を配り描き出しているのが物語の最大の魅力だと思った。

 

さて、ぼくたちは、パリの博覧会に行くことにしよう。
さあ、もう着いてしまった! あっという間にひとっとびだ。なにも魔法を使っているわけではない。蒸気の力で、海と陸とを移動してきたのだ。

 

(新潮文庫「マッチ売りの少女/人魚姫:アンデルセン傑作集」(2015) 著:ハンス・クリスチャン・アンデルセン 訳:天沼春樹 p.299)

 

 万博の栄華の裏にあるものとして、煤煙で汚れた空気などの環境に殺されてしまう木や、もとの住処から追いやられてしまうネズミたちが象徴的に登場した。それから、この賑わいも永遠には続かず、時期が来れば跡形もなく消え去ってしまうのだと示す言葉も。

 社会の止まらない前進、絶え間ない文明の発展を前提にして築かれた輝きはもろいものだ。

 また、木の精がたびたび耳にする「あの街(パリ)はお前の身を破滅させる」という警告が印象的だが、これは彼女が自然界に生きる者でありながら暮らしに適した場所を離れることと、眩しさに目がくらんで別の大切な事柄を見失ってしまうこと、その二つに対して投げかけられていると分かる。

 

芸術と工業の華やかな花が、練兵場の不毛な砂の上に咲いた!
(中略)
秋嵐が吹きすぎる頃にはしかし、根も葉もなにひとつ残らないだろう。

 

(新潮文庫「マッチ売りの少女/人魚姫:アンデルセン傑作集」(2015) 著:ハンス・クリスチャン・アンデルセン 訳:天沼春樹 p.306-307)

 

 お話を読んでいるだけで、心だけ当時に飛んで行ってみたくなる。万国博覧会の開催されていた1867年のパリへと。

 

  • 胸に強い羨望を抱く存在への慈愛

 木の精はパリに行き、そこで人の身を得てから、森にいれば永らえたはずの命を一夜にして散らしてしまった。

 とても切なく悲しいことだ。

 それでもこの物語は、単に彼女の選択を間違っていたと断じるだけの論調にはなっていない。

「人魚姫」で末の姫に対して注がれていたような著者の優しいまなざしが、はじめから終わりまで、変わらず感じられるようになっている。ほとんど慈しみともいえる柔らかさで。

 

 知らない世界を知りたい、見てみたい、という強い憧れ。

 それは、まるで旅をするように生きていた作者アンデルセン自身が、いつでも胸に抱いていた想いと非常に似てはいなかっただろうか。

 

これから目のまえに現れるすばらしく、そして新しいことを、すでに知ってはいたけれど、そのことだけを木の精は思い描いては夢を見ていた。
このとき、パリへむかった旅立つ木の精には、どんな無邪気な子どもの心でも、どんな情熱にうかされ、血をたぎらせた若者であっても、そのめくるめく思いはきっとかなわなかったろう。

 

(新潮文庫「マッチ売りの少女/人魚姫:アンデルセン傑作集」(2015) 著:ハンス・クリスチャン・アンデルセン 訳:天沼春樹 p.313)

 

 たとえそれが己を滅ぼしてしまうと言われても、対象を求めずにはいられない感情。

 そんなものを覚えずに慎ましく暮らしていくのがあるいは正解かもしれない。また、特にアンデルセンの場合、自らの信心に対する想いが作品から透けているのも無視できない。敬虔にキリスト教の神に仕えて正しい行いをすること。それこそが、真実の救いへの道なのだと幾度も説く。

 けれど彼は信仰を持ちつつ、本当に信仰のみを抱いて生きていくのは何より難しい行為だとも理解しているのだ。だからこそ「赤い靴」や「雪の女王」が書けたのだろう。

 

 他ならぬ著者こそが常に迷いを心に飼っていたし、好奇心で胸が沸き立つ瞬間や、未知のものに遭遇して高揚する感覚を知っていた。だから木の精などの登場人物に向けられるまなざしは、どこまでも優しい。

 ……そんな風に、アンデルセン自身にも直接繋がる要素が盛り込まれているだけあって、背負った何らかの罪に対して与えられる「罰」の描写もなかなか苛烈であるのだが、その話はまた別の作品の紹介でしようと思う。

 

 

 

 

 

夏目漱石の《坑夫》暗い銅山で青年が邂逅したもの・絶え間なく移ろう人の心|日本の近代文学

 

 

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書籍:

坑夫(著:夏目漱石 / 新潮文庫)

 

 

「働いても、いいですが、全体どんな事をするんですか」
と自分はここで再び聞き直してみた。
「大変儲かるんだが、やってみる気はあるかい。儲かる事は受合なんだ」
 どてらは上機嫌の体で、にこにこ笑いながら、自分の返事を待っている。

 

(新潮文庫「坑夫」(2004) 著:夏目漱石 p.15)

 

 夏目漱石の作品のなかでも、現代文の教科書でよく取り上げられる「こころ」や「草枕」に比べると、話題にのぼる機会が驚くほど少ない「坑夫」という小説。

 私はこれがとても好きなのだ。物語全体の流れも、内容も本当に面白いから。

 

 著者が「坑夫」を執筆するきっかけとなったちょっと奇怪な出来事は、夏目鏡子氏の述懐による「漱石の思い出」でも詳しく語られているので、今記事では割愛する。

 いわく、書生風の青年が夏目家に押しかけ、己の体験をもとに小説を書いてくれと求めた謎の事件があったのだが(しかもしばらく居候したり子供の遊び相手になったりしていた)、目的はただ金銭を受け取ることだけだったのだろうか?

 要領を得ない態度が目立ったらしく、なんとも不気味な男である。

 

 それはさておき、文学作品としての「坑夫」の魅力に注目したい。

 

目次:

 

小説「坑夫」あらすじ

 

 物語は家出をしたらしい青年の一人称で進む。

 

 それなりの名家に生まれ、学校教育も受けて不自由のない暮らしをしていたが、なんでもとある人間関係の問題に嫌気がさして飛び出して来たようだ。

 本文からはいわゆる男女の三角関係が発端であると推察できるが、そこに家柄ゆえか、個人を超えて親族や世間が介入してくるのを重荷に感じ、ならばいっそ自分ひとりを「煙にして」……要するに姿をくらましてしまおうと決めたらしい。

 一思いに死んでしまう勇気はもとよりなく、かといってどこまでも逃げ続けるだけでは金も体力も尽きる。そうして苦しむ。などと考えながら重い足を引きずる彼を、ある人間の視線が捉えた。

 どてらを着た、男。

 

 汚い掛茶屋の軒先にいたその男が、

 

「御前さん、働く了簡はないかね」

 

(新潮文庫「坑夫」(2004) 著:夏目漱石 p.13)

 

 と青年に問う。あまりにも唐突に。

 

 只者ではない風のすごみを帯びた視線にさらされて、けれどもそれに気圧されたわけではなく、さっきまでとは打って変わって人間の世界に戻りたくなった彼は「働いてもいい」と答えていた。

 死ぬ勇気が湧かないのならば人里離れた場所へゆきたい。しかし、これからどんな場所で暮らすにしろ、金は要ると考えて。

 

 それが地獄の穴への第一歩。

 青年に声をかけてきた男は長蔵といい、目を付けた人間を言葉巧みに銅山へと連れていって坑夫の仕事を斡旋する、いわゆるポン引きだったのだ。

 彼は青年を引率して汽車に乗り、降りた先でもうひとりの男性と、さらに山でひとりの子供を労働者候補に加え、鉱山のふもとの街へと向かう。そこに広がっていたのは、青年の今までの人生ではまったく見たことも聞いたこともない、想像をはるかにこえる世界だった。

 

 

 

 

面白い・良いと感じるところ

 

 以下、個人的な感想になるので、話の展開や結末のネタバレを避けたい方は先に本文を読んでみるのがおすすめ。

 

  • (1) 物語の構成と展開

 

 まず、どこへゆくとも知れなかった青年を長蔵というポン引きが捕まえ、ぐいぐい緑深き山の向こうへと連れて行く、という図がとても良い。

 

 自分の確固たる意思というよりは、何かに魅入られるか、あるいは単に成り行きで「異なる世界」へと導かれる彼。

 途中で合流する妙な赤毛布をまとった男や、通りがかった子供の登場も、いよいよ大多数の人間たちが属する場所を離れて得体のしれない場所へ向かう印象と想像を掻き立てる。

 

 彼らは山道を登り、滔々と流れる青い川という「境界」を越えて別世界に入り、そして青年はさらにそのあと坑道へ続く穴を下ってまた別の世界へと……どんどん深い場所へと、入り込んでいく。さながら冥界下りのように。

 ちなみに、ふもとの町へ入る直前にも橋があって下に川が流れている。そこから先へ行ってしまったら、戻るのは決して簡単ではない。

 作中でも暗い鉱山が「人間の墓所」や「地獄」などといった言葉で直接的に表現されている。要するに大多数の、普通に生きている人間がおいそれと覗ける場所ではないということだ。

 

 銅山へ到着してからは意地悪な他の坑夫たちに苛められるだけでなく、親切な飯場の頭(原さん)からも「君には適性がなさそうだから」東京へ帰れと言われる青年だが、ここまで来たからには何とか働かなければとても帰れないと訴え、ついに案内をつけてお試しで坑道に下りることになる。

 

「どうだ此処が地獄の入口だ。這入るか」

 

(新潮文庫「坑夫」(2004) 著:夏目漱石 p.172)

 

 装備を整えてカンテラを引っ提げ、とても現実とは思えないような闇のなかを行く。時折低く鼓膜と身体を震わすのはダイナマイトだ。また、横のくず穴へとあらがねを落とす、カラララン、カカラアンという冴えた音。

 その復路で青年は迷子になり、真っ暗闇のなかで、ある一人の男に出会った。

 

 導かれた先の異界で何か印象的なものに邂逅する。ここにも確かな面白さがある。

 

 男ははじめ邪魔な場所にいた青年をどやすようにしたが、新入りだというとにわかに態度を軟化させ、どうしてこんなところへ来たんだと穏やかに問う。

 その喋り方や用いる語彙の豊かさからして、青年と同じく、高等の学校教育を受けたことのある人間だろうと推測できた。話を聞いていると、どうやら彼はかつて社会で何らかの罪を犯してしまったがために娑婆にいられず、この坑道に流れ着いたようなのだ。

 

「六年此処に住んでいるうちに人間の汚ない所は大抵見悉くした。でも出る気にならない。いくら腹が立っても、いくら嘔吐を催しそうでも、出る気にならない。然し社会には、——日の当る社会には――此処よりまだ苦しい所がある」

 

(新潮文庫「坑夫」(2004) 著:夏目漱石 p.15)

 

 男(名前を安さんといった)は青年に、この場所は人間が生きて葬られる場所であること、いちど本当に入り込んでしまえば決して出られないことを語り、取り返しのつかないことをしたのでないなら帰ってまっとうに生きろ、諭した。

 その言葉が、確かに青年の心を打つ。

 

 いわゆる冒険譚とはまったく性質を異にするが、この「坑夫」という小説も広義の「往きて還りし物語」といっても過言ではない気がする。

 彼は暗い世界へと導かれ、彷徨い、結果的に何かを得て地上に戻った。

 この物語の構成と展開にいつも私は強く惹きつけられる。

 

  • (2) 人心のあてにならなさ

 

 作品の中で青年が一貫して考えているのは、人間の心には真実一貫としたものなどなく、性格など状況によって如何様にも変わるのだということである。

 自殺の選択肢も脳裏をよぎりながら、どこへ行っていいのかも分からない、しまいにはポン引きに鉱山まで連れて行かれるかなり異様な状況の中で、その曖昧さと複雑さが浮き彫りになる。

 

人間のうちで纏ったものは身体だけである。体が纏ってるもんだから、心も同様に片付いたものだと思って、昨日と今日とまるで反対の事をしながらも、やはり故の通りの自分だと平気で済ましているものが大分ある。

 

(新潮文庫「坑夫」(2004) 著:夏目漱石 p.28)

 

 その時はそうだと思ったことが、後になってそうは思えなくなってくる。当時考え、感じていたことはしっかり記憶に残っているにもかかわらず、どうしてそう判断したのかはさっぱり分からない。そんな瞬間は往々にしてある。

 ふわふわとした不定な意思、あるいは魂。決心も約束もずいぶんと儚い。

 要するに、「過去の自分」というのは畢竟、「他人」のことなのである。

 

 ぐるぐると巡る意識の描写は物語の後半でその骨頂を迎える。坑道の穴の下で前述した安さんに出会う直前、これから長い梯子を上るのに際して、ぼうっと休憩していた最中の場面だ。

 

動いて来た。油の尽きかかったランプの灯の様に動いて来た。意識を数字であらわすと、平生十のものが、今は五になって留まっていた。それがしばらくすると四になる。三になる。推して行けばいつか一度は零にならなければならない。

(中略)

ところが段々と競り卸して来て、愈(いよいよ)零に近くなった時、突然として暗中から躍り出した。こいつは死ぬぞという考えが躍り出した。すぐに続いて、死んじゃ大変だという考えが躍り出した。
自分は同時に、豁と眼を開いた。

 

(新潮文庫「坑夫」(2004) 著:夏目漱石 p.216)

 

 こんな風に表現できる漱石の筆力には、本当に感服するほかない。

 

 また青年はこのすぐ後に、登っていた梯子にしがみついたまま、長い自己問答と思考を始める。このまま力を振り絞って登り切るべきか。それとも、一思いに両手を離して縦穴に落下してしまおうか……。ここで、人生を終わりにしようか。

 前方か背後、どちらかにしか進めない一本道という状況に人物を置くことで、現実である物理的な世界が彼の意識の縮図、あるいは投影、具現に形をなすように工夫された「小説的な」場面。

 しかし「坑夫」は青年の一人称、彼が自分の体験した事実をつらつら語っている、という体裁で一切が進む物語だから、結びの言葉は「その証拠には小説になっていないんでも分る」となるわけだ。

 

 

 初めて読み終わった時に思った。このお話は、ものすごーく面白い。

 長編になるとどうしても冗長な感じが滲んでくるのが特徴の漱石の作品だが(それがまた持ち味でもある)、「文鳥」のような他の優れた短編と同じように、この「坑夫」という作品は実に美しくまとまり、洗練されている。

 

 

 パブリックドメイン作品なので、以下のリンクから全文が読めます。

坑夫 - 夏目漱石|青空文庫

 紙の書籍はこちら:

 

ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー

 

 次に「坑夫」ではなく「坑主」の物語はいかがでしょうか?

 

 

他の漱石作品:

 

 

 

 

アンデルセンのおはなし《ある母親の物語》から - 死神の館の温室には、生命の植物が集められている

 

 

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書籍:

マッチ売りの少女/人魚姫:アンデルセン傑作集(著:ハンス・クリスチャン・アンデルセン / 訳:天沼春樹 / 新潮文庫)

 

ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー

 

目次:

 

植物園の温室に惹かれる

 

 温室というのは実によいものだ。

 けれど、その良さをつぶさに説明してみなさいと言われると、少し困ってしまう。

 

 四方を囲む、陽光を濾過する壁が透けていること、いちどに色々な地域の植物がみられること、また年間を通してほとんど変わらない特殊な環境など……こんな風に要素を挙げるだけなら簡単だが、「なぜそれらに魅力を感じるのか」を筋道立てて述べるのは難しい。

 それなら別にわざわざ説明しなくても構わないではないかと思うものの、性格上の問題からか、自分が抱いている感覚を表すのに最適な語句をつい探し回ってしまう。

 

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 ああそうだ。温室の植物の、人間の作為を感じられる配置が好きだ。

 設けられた通り道。偽物の岩場や水辺。自然に発生したものではなく、何らかの意図をもって集められているという、あの感じ。本来はまったく別の場所に育っているはずの草木、花が、どういうわけか一堂に会している状況そのもの。

 誰かの本棚にも似ている。板と板で区切られた空間に、外から束ねられた紙が持ち込まれ、並べられて根を張る。大型の書店や図書館などとはまた様子が違い、持ち主の趣味が比較的はっきりと反映される。

 

 とはいえ大抵の植物園や温室の場合は(権力者の城や富豪の邸宅に属しているのでなければ)観賞の楽しみと何かの研究、二つの目的を兼ねているものだと思うので、個人の好みというよりもその施設の目的によって集められる植物が限定されるだろう。

 特に以前訪れた「東京都薬用植物園」はその名のとおり、行政の一環で、薬効のある種類の植物に焦点を当てて収集・管理されていたのがおもしろかった。閑話休題。

 

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 温室と言えば、折に触れて脳裏に浮かぶ童話がある。

「ある母親の物語」といって、近代のデンマークを代表する作家、ハンス・クリスチャン・アンデルセンが手掛けた短いお話だ。

 彼にとっての主要なテーマだといえるキリスト教的な信仰や、もっと普遍的な「運命」という概念、けっして私達の思い通りにならないものに対峙したときの人間の苦悩が、悲しいほど的確かつ細やかに描かれている。

 

 

 

 

「ある母親の物語」あらすじ

 

 老人の姿をした死神が管理する、広大で不思議な館の温室。

 彼はそこで人間の生命の植物を育てている。世界中のあらゆる地域に暮らす、外見も性格も異なった、さまざまな人間の性質を体現した草木や花の数々を。

 ガラスのドームの中にはひ弱そうな花も、丈夫な大木も、あるいはミズヘビやカニの絡んだ水草も入り交じり、絡み合って生えている。めいめいにその生命の持ち主である人間の名前がついていて、引き抜いてしまえば彼らの寿命も尽きるというわけだ。

 

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 ある寒い冬の夜。どこかの国でひとりの子供が病に倒れ、ついに死神に手を引かれて家を去ってしまった。

 母親はたいそう嘆き悲しみ、後を追いかけて我が子を連れ戻そうと試みる。

 

 彼女は死神の館に向かう道中で出会った存在に、援助の対価として、合計四つのものを捧げた。

 

 黒服の女の姿をした《夜》には歌を。

 凍えるイバラの藪には血のぬくもりを。

 大きな湖には真珠のような両目を。

 最後に、老婆の姿をした墓守には豊かな黒髪を。

 

 そうして彼らの助けで死神の温室に入り込んだ母親は、ついに我が子だと確信できる青いクロッカスを見つけた。これもきっと「自分たちを哀れんだ神さまのおぼしめし」だと信じ、彼女は死神に子供を返してくれるよう嘆願する。

 でなければ、ここにあるすべての生命の植物を抜いてしまうぞ、と脅して。

 

「あなたの花を根こそぎぬいてしまいます。わたしには、もうなんの希望もないのですから!」
「ふれてはいかん!」死神はいった。
「おまえは、自分こそ不幸だといっているが、こんどは、ほかの母親までおなじように不幸にしてしまうのだぞ!」

 

(新潮文庫「マッチ売りの少女/人魚姫:アンデルセン傑作集」(2015) 著:ハンス・クリスチャン・アンデルセン 訳:天沼春樹 p.118)

 

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 だが、もとよりこの死神こそ、他ならぬ天上の神の御心にそってはたらく、忠実なしもべだったのだ。

 

 子供の死は、そもそも神によってもたらされたものだった。

 

 一体どういうことなのかと取り乱す母親へ、死神はある二人の人間の一生を井戸の中に映してみせた。

 そのうちひとつは喜びに満ち溢れた人生で、もうひとつは不安や苦しみ、恐れに満ちた人生。そのどちらもが神のおぼしめしによって決定されており、しかも片方は、お前自身の子供の未来なのだと彼は告げる。

 そのうえ、果たしてどちらが「幸福な花」で、どちらが「不幸な花」なのかは教えてもらえない。

 

 なんという宣告だろうか?

 真摯に祈りさえすれば必ず救ってくださる、と信じた、情け深いはずの神の意思がそんなものだというのか。

 

 どうして苦しみがあるのだろう、死があるのだろう、神がいるならば。なぜ過酷な目に遭う人間とそうでない人間がいるのか。一体なぜ、我が子は、こんなにも幼くして死ななければならなかったのだろう。

 

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 井戸で二つの人生を覗いた母親の叫びは、あまりに切実だ。

 

「どちらが私の子どもなのか、教えてください! 罪のない子どもを助けてください! 私の子どもを不幸からお救いください! いっそのこと、連れていってくださいませ! 神さまのもとへ連れていってあげてください! わたしの願いや、わたしのいったこともしたことも、どうぞみんなお忘れくださいますよう!」

 

(新潮文庫「マッチ売りの少女/人魚姫:アンデルセン傑作集」(2015) 著:ハンス・クリスチャン・アンデルセン 訳:天沼春樹 p. 119)

 

 彼女の言っていることはもはや支離滅裂だと死神は顔をしかめた。

 だが何よりも愛した人間の、若すぎる不慮の死を前にして、冷静でいられる者の数などけっして多くはないだろう。

 

 最後に、それではもうすべて神さまの意のままに、もしも私が間違っているのならこの願いをしりぞけ、どうぞ御心にかなうようにしてください、と頭を垂れた母親の前から、死神は去っていった。

 彼女の子供の手を引いて。

 

ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー

 

 これを童話(つまりは子供たちに語り聞かせるもの)として著したアンデルセンのことが恐ろしくもあり、また、誰より優しい人なのだとも思う。

 私が昔も今も敬愛している、偉大な作家なのだった。

 

 

 

 

《Kの昇天》や《泥濘》などから感じられる梶井基次郎の視点 - 分裂する意識、分身への興味|日本の近代文学

 

 

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書籍:

短編集「檸檬」(著:梶井基次郎 / 新潮文庫)

 

ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー

 

「視ること、それはもうすでに なにか なのだ。
 自分の魂の一部分或いは全部がそれに乗り移ることなのだ」

 ————短編『ある心の風景』より

 

(新潮文庫 改版「檸檬」(2003) 著:梶井基次郎 p.144)

 

 この部分を読んだとき、高校現代文の授業で「Kの昇天 - 或はKの溺死」が取り上げられた際にはうまく呑み込めなかったある種の感覚に、少しだけれど近付けたような気がした。

 何かを見る自分、そして、そんな自分をまた見られることに対する、一種の執着であり興味。

 自我と引き離しては語れない視点そのものの面白さが、梶井基次郎作品の根幹にはあるのだと、短編集を再読して感じたのだ。

 

目次:

 

梶井基次郎(1901~1932)概要

 

 明治34年に生まれ、昭和7年に31歳という若さでこの世を去った梶井基次郎。

 

 彼は中学校卒業後、第一志望だった大阪高等工業学校の受験に失敗したのち、第三高等学校の理科甲類に進学した。はじめは電気技術者を志していたが、徐々に哲学や文学への興味を高め、特に夏目漱石や谷崎潤一郎を熱心に読んでいたという。

 高校入学の翌年には肋膜炎を発症し、落第。熊野での療養生活を経て、大阪に帰還してからは軽度の肺尖カタルであると診断され、最終的な死因も肺結核となる。

 そんな短い生涯の大半を病と向き合い続けて過ごした彼の精神性は、残された数少ない作品の中に刻み込まれるようにして残っている。

 

 夭折しているがゆえに、梶井基次郎が生涯で手掛けた小説は、短編集を一冊読むとそのほとんどを網羅してしまえる。

 だからこそ、複数の作品を通して繰り返し形を変え、何度も登場する主題や概念がいっそう明確に表れていて、与えられた年月がもっと長ければどんな風に昇華されたのかと想像するのを止められない。

 余命を意識した倦怠とか、闇とか……あるいは清澄さと穢れの対比、相反する二つに抱く印象とか、気になる要素はいくつもあるが、今は彼の「視点」や「分裂する意識と分身への興味」に注目してみたい。

 

 

 

 

興味深いテーマ「視ること」

  • 自我の分裂、もう一人の自分 -「泥濘」の圭吉

 

 梶井基次郎の作品には、

 ○対象を想像することで頭の中に次々生み出されていく分身

○何かをじっと見つめることによって徐々にずれていく認識

○見ている対象に意識が乗り移ってひとりでに動き出すもの

 ……などがよく登場する。

 

 特に前の二つは文中で、半透明のセロファンに描いた絵を重ねたり、動かしたりするような層状の描写(作品にのめりこんでいると読者も酔いそうになる)が特徴的だが、最後のひとつはかなり不気味さと異様さが際立っている。

 夜中に水を飲もうと起き出して台所まで行く途中、ふと視線をやった鏡の中の自分がぬっと手を伸ばしてきたかのような戦慄を感じるのだ。

 

 短編「泥濘」の主人公・圭吉は、不活発な精神状態と鬱屈の中で、自分が退廃的なものに惹かれる傾向があるのだと認める。たとえば部屋の換えていない花瓶の水が不愉快なのにそのままにしておく気分は、どちらかというと億劫よりも、何かに魅入られている状態であるのだと。

「檸檬」の中の言葉を借りるならば "見すぼらしくて美しいもの" にひきつけられていることを指しているのだろう。

 圭吉は夜中の鏡に映った自分の顔を「醜悪な伎楽の面」と称して、一種の恐れを感じながら、それと戯れたい気持ちにも駆られている。

 

見た夢と現実とが時どき分明しなくなる悪く疲れた午後の日中があった。自分は何時か自分の経験している世界を怪しいと感じる瞬間を持つようになって行った。

 

(新潮文庫 改版「檸檬」(2003) 著:梶井基次郎 p.66)

 

 彼は歩きながら、以前ひどく酔ったときのことを思いだしている。

 ある日、帰宅した先で母親に醜態を叱られた圭吉は、近くに立ってそれを見ていた友人に母の声真似をされた。再現された「圭吉!」という声音はあまりにもそっくりで真に迫り、今度は彼がひとりで、友人の声真似の真似をするのだ。

 すなわち、模倣の連鎖。何かを模倣するには対象をよく観察しなければならず、これも見ること、そして見られることに深くかかわってくる行為にほかならない。

 

 圭吉は月に照らされて歩を進める。すると意識が自らの落とした影に移り、じっと眺めているうちに、影だと思っていたものが「生なましい自分」であることに気が付く。

 

自分が歩いてゆく!
そしてこちらの自分は月のような位置からその自分を眺めている。地面はなにか玻璃を張ったような透明で、自分は軽い眩暈を感じる。

 

(新潮文庫 改版「檸檬」(2003) 著:梶井基次郎 p.74)

 

 自分の影だったはずのものが、自分そのものになってしまう逆転現象。「視る」ことで対象に意識が乗り移る。そして、今度は影の方が意思をもって勝手にどこかへ去っていく。それを見ている自分……。

 この短編を踏まえたうえで「Kの昇天」に改めて触れると、初読時とは印象がまた変わった。

 

 

 

 

  • 書簡体の小説「Kの昇天」- Kと私

 

 作中に登場するシューベルトの音楽「ドッペルゲンゲル」や、ロスタンの著作「シラノ・ド・ベルジュラック」との関係に言及するのも楽しいが、この記事では上に挙げた短編「泥濘」を踏まえた感想を述べるにとどめておく。

 

「Kの昇天」が書簡体、要するに手紙の形式をとっている意味と、その効果について考えることがいろいろある。

 個人的に、作中のKと私という二人の人間そのものが、影に魅入られたひとりの意識が分裂した状態を示唆しているような印象を受けるのだ。もちろん、物語の中ではきちんと別の人格を持つまったくの別人であるものの、あくまでも要素として、「Kの昇天」の語り手(私)とKはほとんど同一人物のようなものだと思う。

 Kの方は、魅入られて影に乗り移った方の意識。そして、私の方はそれを少し離れたところから見ている側なのである。さながら「泥濘」の圭吉と同じように。

 

 それをいっそう感じるのが、後半に出てくる対比だ。

 

その一と月程の間に私が稍々健康を取戻し、此方へ帰る決心が出来るようになったのに反し、K君の病気は徐々に進んでいたように思われます。

 

(新潮文庫 改版「檸檬」(2003) 著:梶井基次郎 p.158)

 

「私」が回復していくに従ってKの病気は重くなる。まるで、影と実体が逆転していく様子を別の形で表しているかのようだ。

 そして手紙の書き手はKの最期をまるで見てきたように語る。

 彼の担っている役割には、月へと飛翔し去る自分を少し離れた場所から(比喩として)眺めていたはずのK自身を示唆し、象徴的に表現することも含まれているのだと思った。

 

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 高校時代にはどこか退屈だと感じていた梶井基次郎の作品は、改めてきちんと世界に入り込むとこんなにも面白いのだと気付く。もっと違う着眼点から語りたいことも沢山あるので、また気が向いたら書きに来ようと思った。

 

 彼の作品はほとんどがパブリックドメインなので、以下のリンクから色々な短編が読めます。

梶井 基次郎|青空文庫

 紙の書籍はこちら:

 

他にも近代文学いろいろ: