お盆の風習のひとつに精霊馬(しょうりょううま)というものがある。
キュウリやナスに木の棒の足を刺して、動物の牛と馬をかたどった、一種の供物。
私の住んでいる場所では比較的多く見られ、幼い頃から自然とその存在を認識していたからか、日本国内でも地域や宗派によって作ったり作らなかったりするのだと最近知り、ずいぶん驚いた。
精霊馬は仏壇や専用の棚に飾るのが一般的であるらしいのだが、お盆の時期に近所を歩いていると、外の玄関先や家の角、門の前のところへ出している家によく遭遇し、精霊馬のある風景が見る者に季節を感じさせる。これも、習俗の地域差だと捉えてもいいのだろうか。
どうやら、精霊馬を砂の台(これを砂盛り、辻、あるいは塚などと呼ぶ)に乗せて家の外に設置するのは一部地域の風習で、その例の多くが、特に私の住んでいる神奈川県で確認できるものらしかった。
全国的だと思っていた精霊馬の飾り方が、珍しいものだったと知ったのは最近のことだ。何にせよ面白いものである。
キュウリで作られた精霊馬は、足の速い馬。
そしてナスで作られた方は、歩みの遅い牛に見立てて置かれるのだという。
その用途はいわば霊魂の乗り物。お盆の時期に彼らが此岸と彼岸を往復するのを助け、私たちが故人へ捧げた、他の供物を持ち帰る際にも役立つようにとの願いが込められている。
ちなみに、精霊馬に使用した野菜は下げた後も食べない。
仏壇や墓前に供えられる食べ物とはまた扱いが異なるようだ。いや、そもそも乗り物なのだから、胃に収めたら無くなってしまって使えずに困るため、当然なのかもしれないが。
こんなことを思い立って書いているのは、実は少し前からナスを育て始めたからである。
まだ夜がだいぶ冷え込む日も多いので、部屋に引き入れて換気をよくし、昼間は暖かな陽が当たる窓際に置いた鉢の、中央で伸びる茎を眺めながら精霊馬の牛を想う。
黒く艶やかな、まるいナスの実がなる苗。
要するに、やがてそこから牛の生まれてくる可能性のある苗。今それを飼っている。
そうは言うものの、住んでいる地域の特色はともかく私個人の家では精霊馬を作らないから、お盆においてもナスは牛になる前に調理され、食される。育てているのは乗り物の方ではなく、調理するためのナスというわけだ。
そもそもこれといった共通点を持たないはずのその二つ。ナスは外部から木の棒の足を加えられることで、牛という動物と形の上だけで結びつき、見立てられ、盆の習俗を通せば同じ性質を持つものとして扱われるのだから、人の認識は不思議なもの。
そういえば、人間に対して使われる罵倒語にもボケナスというものがあった。
もうカタカナの字面と、音からしてとても酷い感じが伝わってくるし、できることなら生涯で一度も使う機会に恵まれない方が良さそうだが、響きだけは少しばかり笑いを誘う。……ボケナス。
ボケナス、である。
語源は定かではないが、色艶の褪せて印象のぱっとしないナスの状態を指し、そこから転じて、ぼんやりしている人間を罵る言葉とされているらしい。
また、良好に過ぎる環境で栽培されたナスが実をつけなくなる場合があることから、いくばくかの悪意を持って、温室育ちの人間を揶揄する際にも使われているようだ。なんだかその例え自体がかなり不毛である気がするのだが、しかし悪口というのはそういうものなのだろう。
部屋で育てている苗からいずれなる実が、ボケナスにならないことを祈りながら手入れをする。これまでの様子を見るかぎりでは、とても健康そうでなにより。
そんなナスの観察をした。
細くとも強靭な茎は黒にも近い濃い紫で、根元から先端にかけて、徐々に色が薄くなる。どうしてそんな風に見えるのかと目を凝らせば、そっと撫でると柔らかに皮膚を押し返してくる、短い産毛のためだった。これで覆われている部分が、眼には白っぽく映るのだ。
調べると、植物の産毛にはトライコーム、訳して毛状突起という名称があるらしい。
生えたばかりのナスの葉もこの毛を表面に持っている。天の方角に向けて、まるで人が両の手のひらを合わせたような様子の若い葉は、そのぴしりと揃えた指と産毛で中の何かを守っている風にも見える。どこか、高貴な人の御座にも思えなくはない。
合わさった二枚の葉は徐々に手を開いて内側を空にさらす。面白いのは、いちどふわりと開いた葉も、毎日夜になるとそれを閉じて眠る部分だ。実際に育てて眺めていると気が付く。
加えて葉の裏側、手でいうと甲の部分の中心を貫く葉脈から突き出ているトゲが、守護者のような印象をさらに強める。いたずらに握りつぶされることを潔しとしない意思は、指の腹をそこへ垂直に押し付けると、ぷつりと膜を突き破って赤い点を肌の上に残した。
このトゲは、あるいは金属に匹敵するくらいに硬そうだ。
今度はこの苗に実がなったら、それを眺めた所感を書こうかな。
外に出ないで家の中、もっと言えば狭い自分の部屋にとどまり、机ごしにナスを眺めているだけでもこれだけいろいろ書くことがあって退屈はしない。それでもたまに会いたい人には会いたい。もちろん、今は無理なのだが。
もしもナスが収穫できたら、ひき肉と一緒に甘辛く炒めたやつを作って食べたいのだと友人にLINEを飛ばす。送信のマークをタップすれば即座に相手へ送られるから、この短いメッセージを背負って窓の外へと駆け去ったのは、きっとナスの牛ではなくて、足の速いキュウリの馬の方だろう。
するとしばらくしてから、ナスは生姜で焼くのも良いんだぞと返ってきた。なるほど、確かに美味しそうだ。
にわかにお腹が空いてきて、強めの念を込めた視線をナスの苗に向けてはみたが、そんなことをしてもすぐに実がなるものではない。当のナスの側からも、時期が来るまで気長に待て、とあきれ半分に窘められるのは分かっている。
それでも今、食べたくなったのだ。ナス料理が。今すぐに。
人の魂や供物を背負った牛のように、ゆっくりと忍耐強く、辛抱しながら着実に歩みを進めるのは、気持ちの落ち着かない私にはまだ難しそうだった。
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これは葱(ネギ)の話: