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太宰治《斜陽》- 過渡期の犠牲者・直治と彼の遺書、母のような「ほんものの貴族」への憧憬|日本の近代文学

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とにかくね、生きているのだからね、インチキをやっているに違いないのさ。

 

(太宰治「斜陽」(2003) 新潮文庫 p.72)

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 人生(あるいは人間存在)に対して自分を偽らず、誠実に、まっすぐに、真面目に向き合おうとすればするほど首の締まる世の中である。

 

 その渦中にあって正気を保ち続けていられるのは、意志や外的要因によって少なからず「何か」を看過しているからだし、強く前向きに……という安い言葉には、前述の意味で必ず欺瞞が付きまとう。

 死なずに生きている時点ですっかり汚れているのだともいえる。

 よりにもよって「斜陽」というタイトルを冠した小説の結末でかず子が「太陽のように生きるつもりです」と明言するのだが、彼女は生きることの浅ましさを知っている。

 

お母さまのいよいよ亡くなるという事がきまると、私のロマンチシズムや感傷が次第に消えて、何か自分が油断のならぬ悪がしこい生きものに変って行くような気分になった。

 

(太宰治「斜陽」(2003) 新潮文庫 p.126)

 

 同時にその胸には弟・直治の存在があること、いまの世の中で一番美しいのは犠牲者であるとした上で、彼女は彼を「小さな犠牲者」と呼ぶ。いわゆる思考停止の果てに生きることを選ぶのではなく、その醜さや汚さを認識しながらも生きること、すなわち戦うことを選択したかず子。

 私はその背中を見つめずにはいられない。

 これほど切ないのに読後感が不快でなく、不本意にも勇気づけられるような気すらしてしまうのが、太宰治の「斜陽」。これを最近読み返した。直治を思い切り抱きしめたくなった。

「斜陽」は、ロシアの小説家アントン・チェーホフの「桜の園」に着想を得て、作者である太宰が自らを多面的な鏡に映したような登場人物を用意し、戦後の時代に書き上げられたものである。

 

書籍・参考サイト:

斜陽(著:太宰治 / 筑摩書房)

桜の園(著:アントン・チェーホフ / 岩波文庫)

太宰ミュージアム公式サイト

 

 

《斜陽》あらすじ

 明治のはじめに誕生し、昭和22年に廃止された華族制度。

 新たな時代の到来を前にして、かず子とその母である夫人は大黒柱たる当主の不在のもと、終戦後の急速に変化する日本に生きていた。

 

お父上がお亡くなりになってから、私たちの家の経済は、お母さまの弟で、そうしていまではお母さまのたった一人の肉親でいらっしゃる和田の叔父さまが、全部お世話して下さっていたのだが、戦争が終わって世の中が変り、和田の叔父さまが、もう駄目だ、家を売るより他は無い、女中にも皆ひまを出して、親子二人で、どこか田舎の小綺麗な家を買い、気ままに暮したほうがいい、とお母さまにお言い渡しになった様子で、……(後略)

 

(太宰治「斜陽」(2003) 新潮文庫 p.18~19)

 

 静岡の別荘に引っ越してからなんとか維持している生活と、二人の周囲に暮らす村人、世間との軋轢。そして……戦争に行っていたかず子の弟、直治の帰還。

 

 肩書きが変わっても美しいままに、病に蝕まれ衰えていく母。

 かず子はその近くにいて、悲しむと同時に、胸の深いところに不思議な(彼女いわく醜い、蝮みたいにごろごろした蛇のような)衝動が育っていくのを感じる。

 一方の直治は、もはや貴族(華族)でなくなった身分と、それでも育った環境に由来する気質の差、世間とは馴染めない自分に苦しみながら、己の母に「この国で最後の本物の貴族」の面影を見出していた。

 

 迫りくる「終わり」を予感させる様々な出来事に直面しながら、ついに母は倒れ、直治も遺書を残して破滅に身を投じる。やがて。

 

戦闘、開始。
いつまでも、悲しみに沈んでもおられなかった。私には、是非とも、戦いとらなければならぬものがあった。新しい倫理。いいえ、そう言っても偽善めく。恋。それだけだ。

 

(太宰治「斜陽」(2003) 新潮文庫 p.130)

 

 二人の死のあとかず子は、直治が傾倒していた上原という妻子ある作家との「恋」と子供を身のうちに抱いて、古い慣習や世間に対する、己の道徳革命を完遂しようと足を踏み出す。

 生まれてくる子とともに、これから先、何度でも戦っていくという決意のもと。

 

 

 

 

ほんものの貴族

 母とかず子と直治。

 太陽が傾いていくような運命を背負った三者三様の元華族のなかで、私が最も心を寄せずにはいられないのが直治である。そもそも、冒頭の台詞からして切れ味が強すぎるのだ。

 

「爵位があるから、貴族だというわけにはいかないんだぜ。爵位が無くても、天爵というものを持っている立派な貴族のひともあるし、おれたちのように爵位だけは持っていても、貴族どころか、賤民にちかいのもいる。
(中略)
おれたちの一族でも、ほんものの貴族は、まあ、ママくらいのものだろう。あれは、ほんものだよ。かなわねえところがある」

 

(太宰治「斜陽」(2003) 新潮文庫 p.5~6)

 

 言及されているかず子と直治の母は、たとえば食事の際に正式な礼法に則らなかったり、振る舞いにも形式ばったりしない自由なところがあるが、だからといってそれが周囲に下卑た印象を与えることがない。普通であれば眉をひそめられてしまうようなことでも、どういうわけか様になってしまうのだ。

 本人が欠片も意図していなくても。

 それが、作中で彼女が「ほんものの貴族」と呼ばれる由縁。理屈ではなく、決して真似できない、魂からしてそのように生まれついたとしか思えない人だった。二人の母は。

 

 かず子は「お母さまの真似は困難で、絶望みたいなものをさえ感じる事がある」と独白するし、弟の直治も、それと比べて自分たちが持つ性質の卑しさを実感している。所詮は貴族など、母のような「ほんもの」でなければ肩書きだけなのだと。

 しかし問題は、だからといっていきなり一般庶民の中に放り出されても、華族らしい環境に生まれ育ったことで形成されたものを捨て去ることができるわけではない……という絶望だった。

 名目上はもはや身分制度の存在しなくなった世の中で、なお。

 

僕は下品になりました。下品な言葉づかいをするようになりました。けれども、それは半分は、いや、六十パーセントは、哀れな附け焼刃でした。へたな小細工でした。民衆にとって、僕はやはり、キザったらしく乙にすました気づまりの男でした。彼等は僕と、しんから打ち解けて遊んでくれはしないのです。しかし、また、いまさら捨てたサロンに帰ることも出来ません。

 

(太宰治「斜陽」(2003) 新潮文庫 p.155)

 

 芯からの、ほんものの貴族ではない。かといって普通の庶民にも馴染めない。

 作中の彼らが感じているのはもっと切実な思いだが、現代の私達も、自分よりも恵まれない環境で育った誰かと会話するとき、著しく不便と恐縮をおぼえることがあるだろう。自分は相手の苦労を決して知り得ないことに、そして、どうしても気質や話を合わせられないことに。

 社会において人は同じでも平等でもないはずなのに、いや平等である、という主張は残酷に全てを壊していく。

 

いったい、僕たちに罪があるのでしょうか。貴族に生れたのは、僕たちの罪でしょうか。ただ、その家に生れただけに、僕たちは、永遠に、たとえばユダの身内の者みたいに、恐縮し、謝罪し、はにかんで生きていなければならない。

 

(太宰治「斜陽」(2003) 新潮文庫 p.158)

 

 個々の抱えた実情や性質は何も変わらないのに、これまで日本の世の中にあった身分という概念、外側の殻だけがが消えていく。その過渡期の犠牲になった直治の遺書に綴られているのは、特別なものではなくとても普遍的なものだ。

 特に、公立の学校に通ったことがある人間なら身に沁みていると思う。

 育った環境があまりにも違う誰かに、同じ教室の中で出会ったとき。

 あるいは、たまたま自分は金銭的に不自由の少ない家庭に生まれ育ったおかげで、その点では図ることのできない苦労を重ねてきた人間を、近くに見つけたとき。

 

僕には、所謂、生活能力が無いんです。お金の事で、人と争う力が無いんです。僕は、人にたかる事さえ出来ないんです。
(中略)
僕たちは、貧乏になってしまいました。生きて在るうちは、ひとにごちそうしたいと思っていたのに、もう、ひとのごちそうにならなければ生きて行けなくなりました。

 

(太宰治「斜陽」(2003) 新潮文庫 p.159~160)

 

 二人の母は最期まで「ほんものの貴族」のまま、美しいままに亡くなった。変化に適応してなお生きていくような人ではないのだ。

 直治は下品になりきれず、世相に適応できずに死を選ぶ。心根まで卑しくなることはできなかった。

 かず子は、たとえ汚れても生きることを選んだ。

 

 三者ともに美しく、生き様には胸が震える。

 そうして、決して美しくはあれない上原のような人間の姿にも、やはり哀愁がただよう。彼だって望んでそんな風に生まれてきたわけではないのだから。

 酒に浸り、無為な遊興に身をやつさずにはいられない、生きることの無意味さと悲しみに対する彼なりの(かず子に言わせるならば)立派な「闘争」なのである。

 

 そうして四人の登場人物に反映され、描き出された作者の葛藤に、私は万感とともに何度でもページをめくるのだった。

 

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「斜陽」はパブリックドメイン作品で、以下のリンクから全文が読めるので、興味をそそられた方はぜひ。

太宰治 - 斜陽 全文|青空文庫

 

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